〔15〕





 終業後、帰り支度を済ませた夕映は、駐輪場に向かう貴絵に付き合ってそちらへと共に歩いていった。

「今日はトオルくんと会うの?」

「うん。貴重なバイト休みの日だもん♪ 満喫しなきゃ」

「勉強も忙しそうだものねえ。やっぱり検事や弁護士になるのって大変なのね」

「んー、でも、昔からの夢だっていうし。頑張ってる人見るとやっぱり応援したくなっちゃうじゃない?」

「それはわかる気がするわ。よろしく言っておいてね」

「うん。夕映も、今日は暁さんのとこ寄ってくの?」

「うん。またスクーター置いていっちゃったし、取りに行かなきゃ…って、何よ、その顔はっ」

 貴絵はまたしても意味深なニマニマ顔だ。

「えー? そっちも仲良くやってるんだなあって思っただけよー」

「それだけじゃないでしょっ 何か別のことも考えてたでしょっ」

「別に考えてないわよう、夕映ったら、何考えたのよー?」

 今度は、夕映が言葉に詰まる番だった。やはり、恋愛方面では貴絵には敵わない。

「何も考えてないわよっ ほら、トオルくん待ってるんでしょ、さっさと行ったげなさいよっっ」

「はいはーい、そっちこそ暁さんによろしくねー♪」

 楽しそうに言いながら、貴絵は早々に去っていってしまった。見送った体勢のままバッグから携帯を出して、もう何度もやりとりをしている相手のメールアドレスを呼び出して、簡潔にメールを打つ。

『仕事が終わりましたので、これからそちらに向かいます。夕映』

 さて、と小さく呟きながら携帯をしまって歩きだしたところで、マナーモードにしたままだった携帯がブルブルと震えたので、驚いてしまった。いままで、こんな時に返事が来たことなどなかったのに。受信メールを開いてみると、自分に負けないほど簡潔な返事。

『了解。気をつけて来いな』

 正直、10分か15分の道のりでは、気をつける間もなく着いてしまう気もするのだが……深く気にしないことにして、再び歩きだそうとした、まさにその瞬間。

「有川、今日はあの店に寄ってくのか?」

 すぐ後ろから聞こえてきた声に、驚いて身を震わせてしまう。まさか、そんな真後ろに誰かが来ているとは思わなかったのだ。

「あ…ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど。山下との会話で、あの人の名前が出てたから」

 振り返ると、そこに立っていたのはヘルメットをかぶった市原。そういえば、市原も暁とは一応面識があったのだとすぐに思い出す。

「あ、うん…」

「そ、か。『暁さん』によろしくな」

「え…?」

 夕映が聞き返す間もなく、市原はエンジンをかけておいたらしい自分の二輪にまたがって、軽く手を振ってから去っていってしまった。残された夕映の頭の中でぐるぐると回るのは、「どうして?」という疑問符の嵐。何ゆえ市原までも暁に「よろしく」する必要があるのだ? 市原からしたら、暁は夕映を縛り付けている諸悪の根源ではなかったのだろうか。

 首を傾げながら歩いているうちに、あっという間に暁の職場兼実家に着いてしまった。店舗の中をちらと見ても、中に誰かが居る気配はない────店舗の入り口にはセンサーが付いているから、誰かが店内に入れば奥にいてもわかるようになっているので、短時間なら席を外しても大丈夫と以前聞いたことがあるのだ。となると、暁が居るのはガレージだろうか? そのまま歩みを止めず、ガレージまで直行する。

「こんにちはー…」

 言いながら、勝手知ったる様子で中へと入っていく。すると、腰を下ろして見慣れたスクーターをいじっていたらしい暁が、ふと顔を上げた。

「よっ らっしゃい」

「なに…してるんですか?」

「ん? ちょっと手が空いてたから、簡単に点検をな。んでもほとんど異常なかったから安心したよ。外側も綺麗なまんまだし、大事に乗ってくれてるんだな、サンキュ」

「な…何言ってるんですか。買う前は、さんざん人のことを『トロそう』とか言ってくれたくせに」

 忘れたとは言わせない。夕映にとっては、結構傷つく言葉の羅列だったのだ。

「悪かったと思ってるよ。初めはまさか、あんなアクティブなコだとは思ってなかったからさ。そもそも最初の出逢いだって、ナンパにつかまってるとこだったし」

「あ、あれは…!」

「しかも、助けたのに『サイテー』呼ばわりだもんなー。俺さまの小鳥のようなハートはズタズタだぜ」

 まるで傷ついてもいないような笑顔で、暁はみずからの胸に軍手を外した両手を当てる。

「だ…誰が小鳥ですか、図々しい。私だって、あの時は悪いことをしたと思ってるんですからっ」

「それが、トオルくんの彼女の友達だったなんてなー。世の中狭いよな」

「ホントに…」

 それは、確かにそうだ。夕映だって、貴絵に強引に連れてこられなかったら、一生暁と和解できなかったかも知れない。そう思うと、ほんとうによかったと思う。お互いに誤解したまま、一生を終えなくて済んで。

「夕映ちゃんと初めて逢ったのが三月で、四、五、六……ちょうど三ヵ月半か? 早いよなあ」

 暁が何を言いたいのか、微妙にわからなくて夕映が首を傾げた瞬間、あちらを向いていた暁がゆっくりとこちらを振り返った。そのどことなく真剣な眼差しに、夕映の胸が一瞬高鳴る。

「……その間にいろいろとあってさ。ふりだけど、彼氏彼女の関係にまでなっちまってさ。初めて逢った頃の俺らが見たら、目ぇむくんじゃね?」

 ほんとうに楽しそうに笑う暁につられて笑ってしまうけれど、やはり暁の言いたいことはわからない。

「俺、さ。最近ずっと考えてたんだよな、その…例のふり。いつやめようかなって」

「え……」

 それは、暁自身がもうやめたいと思っているということだろうか。暁がそう言うならそれでもいいかなと思ったところで、ふと感じる一抹の寂しさ。たとえ偽りのものとはいえ、彼氏がいるという状況が意外に心地よかったということだろうか。それとも…相手が暁だったから? 考えてもわからない。

「希くん…あ、市原くんのことな」

 『希くん』? 市原といい暁といい、いったいいつの間にそんなに仲良くなったのだろう?

「彼にも言われたんだよな、『いつまで彼女の優しさにつけ込んでるつもりだ』って」

 夕映自身はそんな風に思ったことはなかったけれど……その後の暁の「まあ彼の場合は、わかりやすい嫉妬心ってのが裏にあったからなんだけどな」という言葉に、夕映の頬がかあっと熱くなる。そうだ。市原には以前告白されていたのだった。昨日の一件────言わずと知れた、暁とのキス未遂事件だが────のおかげですっかり忘れていたけれど。

「でもって、俺の出した結論だけど。夕映ちゃん?」

「は、はいっ!?

 突然名を呼ばれて、驚いて素っ頓狂な声を出してしまって、よけい恥ずかしくなってしまう。

「俺は、絶対に『別れよう』とは言わねえから。夕映ちゃんが本気で付き合うのに俺みたいのはパスってんなら、男らしく諦めるけど……もしそうでなかったら。諺にもあるだろ、嘘から出た真って。できたらそうしたいと…俺は思ってる」

「え?」

 言っている意味がよくわからなくて、夕映は思いきり首を傾げてしまった。すると暁は、「あー、そうだよなー」とみずからの頭をぽりぽりとかいた。

「希くんは同じ立場だから、すぐわかったんだな。しくじったなー」

「え? え? え?」

 ますます意味がわからない。すると暁は、夕映に向かってずずいと歩を進めてきたので、驚いて後ずさりしてしまうが、そうするとその分暁も近付いてくるので、ついに壁にぶつかってしまった夕映の首の両脇に伸ばされる、暁の腕。壁につかれたその手に、逃げ場を失ったことを悟った夕映の眼前に、またしても迫ってくる暁の真剣な顔。

「あ、あのっ」

 昨夜の出来事が脳裏にフラッシュバックして、頬がこれ以上ないというほどに熱くなっていく。まさか、こんなところでこんな明るいうちに行動に出てこられるなんて、思ってもみなかったのだ。両手が震えて、胸元で抱えていたバッグが落ちる。夕映の内心は、もうこれ以上ないというほどにパニック状態だ。いくら武道の有段者とはいえ、純粋に力の強さでいったら男に敵うはずもないし、何よりこの至近距離だ、仮に暁が実力行使に出たとしたら、逃げ切れるかどうか自信がない。本能的に、恐怖心が芽生え始める。

 そんな夕映に気付いたのか、暁の表情がふ…っと和らいで。どことなく自嘲的に見える笑みを浮かべてから、優しく微笑んでみせた。

「んなビビんなくたっていいって。何もしねーから。希くんとも約束しちまったしな」

「え……」

「ホントに男に免疫ないんだなー。何となくわかってたけど」

「な…っ」

 からかわれたのかと思った瞬間、夕映の頭にかっと血が上りかけた。

「──────好きだ」

 まっすぐに夕映の瞳を見つめて、はっきりと告げる声。一瞬、何を言われたのかわからなかった。いま…暁は何と言った?

「え─────?」

 思考が止まり、ほとんど無意識に聞き返した夕映の耳に、再び届く凛とした声。

「もう一度言うぞ。好きだ」

 …好き? 誰が誰を?

「まだ通じてないのか? 俺は、夕映ちゃんが……」

「もももももも、もういです、わかりましたっ!!

 言葉の意味は通じたものの、今度は暁の心情が理解できない。いつから? 自分のどこを? そして何故、いまそれを告げる!?

「わはは、夕映ちゃん、顔真っ赤」

 楽しそうな、暁の声と表情。

「かっ からかったんですか!?

 すると暁は、心外だと言いたそうな顔で夕映をまっすぐに見つめてきた。

「いや? 俺はいつでもめちゃくちゃマジだけど? マジじゃなかったら、昨夜みたいにキスなんかしようと思わないって。まあぶっちゃけちまうと、自覚したのはあのキス未遂の直後だけどさ」

彼には「恥ずかしい」という感情は存在しないのか? まるで涼しい顔をして……夕映のほうは、もういまにもオーバーヒートしそうだというのに。

「きゃーっ きゃーっ もういいです、もう言わなくていいですっ!」

 両耳をふさいで、しゃがみ込む。とてもではないが、もう聞いていられなかったのだ。

「いやまさか俺も、こんなことになるとは思ってなかったんだけどさ。好きになっちまったもんは仕方ねえよなあ。てな訳で、俺からは絶対『別れよう』なんて言わねえから。たとえ偽装だって、恋人は恋人だもんな、他の男に渡したくねえし。夕映ちゃんがどうしても俺みたいのと付き合うのは嫌だってんなら、すっげー嫌だけど別れることに同意する。しつこくして友達ですらいられなくなるのはもっと嫌だし。希くんのが好きだってんなら、ホントはしたくねえけど、祝福もする。もっとも、どっちも嫌だって言われたら、俺ら二人とも立つ瀬がねえけどさー」

 夕映に合わせてしゃがみ込みながら、暁は「たはは…」と笑いながら告げる。その、いつもとは違う自信のなさげな表情と口調が、彼の言っていることが真実だと告げている気がして、夕映はいまさらながらにみずからの胸の鼓動がけたたましく自己主張し始めたことに気が付いた。

 暁さんが……私のことを好き? 嘘でしょう!? その前に市原くんもそんなこと言ってて……嘘よね!? 二人して共謀して、私のこと騙そうとしてるんだわ!!

 いままでまともに恋愛をしたことがない夕映には、当然の杞憂であった。

「あっ わかりましたっ 市原くんと結託して、私のことひっかけようとしてるんでしょっ エイプリルフールはとっくに過ぎましたよ、いくら私だって、そんなのにそうそうひっかかりませんからっっ」

 自分でもほとんど何を言っているのかわからなくなってきた頃、暁ががくんとうなだれて。力ない笑顔を浮かべて、夕映に向かってそっと腕を伸ばして……軽く引っ張られて、互いに両膝をついたまま、ぎゅ…っと抱き締められる。パニック状態再び、だ。

「…あのなあ。いくら俺だって、そこまで性格悪くねえぞ? こんなこと冗談で言えるかよ。抜け駆けなしって希くんと約束したけど、変に誤解されてるほうが彼も困るだろうから、許してくれるだろ」

「あああああのっ」

 慌てふためく夕映の耳元で、優しくささやかれる声。

「ほら。俺の胸、触って確認してみな? 惚れてもない女にこんなことして、こんなに鼓動が早くなると思うか?」

 強引に手を胸に持っていかれて、暁の心臓の鼓動を確認すると同時に、夕映の鼓動もまたもや早まって、パニックも既に飽和状態だ。

「わわわわわ、わかりましたっ もう疑いませんっっ」

 だから、その手を離して──────。

 ほとんど泣きそうな声になって懇願すると、ようやく暁は夕映を解放してくれて、ゆっくりと立ち上がる。夕映は、その場でへたり込んだままなかなか立てそうにない。身体からすっかり力が抜けて、しばらくは足を動かすこともできなさそうなのだ。

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫ですっっ」

 暁は手を貸してくれようとしたが、いまだにパニックから抜け出せなくて、ジーンズに包まれた腿の上でぎゅ…っと両手を握る。暁に触られたくないとかそういうことではなく、いまはとにかくそっとしておいてほしかったのだ。暁にもその思いは通じたのか、見守るように微笑みながら、近くの堅そうな箱に腰を下ろした。

「……ま。返事は急がねえから、俺らのことマジで考えてみてくんねえかな。俺も希くんも、気長に待つ覚悟はできてるからさ」

 暁にそう言われたことは、夕映にとって幸運なことだった。もしも「いますぐ答えを出せ」なんて言われていたら、この時点で既に許容量をとうに超えていた夕映の頭は、完全にオーバーヒートを起こして発熱でもしかねないほどだったから。

 それから少ししてから、ようやく立ち上がれるようになった夕映は、簡単に挨拶を交わしてからゆっくりと帰途へとついた………。




                   *     *




 次の日の夕映は、もう散々だった。内勤であったがために、書類の処理や資料の整理、来客へのお茶出しなどを行っていたのだが、そのどれもがもうミスの連発で、見かねた先輩に他課へのお遣いに追いやられてしまった。

 いくら衝撃的な出来事があったからといって、仕事でミスをしていい理由にはならない。自分で自分が嫌になってしまって、お遣いの帰りに廊下を歩いていた夕映は、深い深いため息をついた。そんな時だった。

「いってーな、離せよ、てめっ!」

「いい加減に大人しくしろっ!」

 補導されてきたらしい少年たちが暴れるのを抑え込んでいる、少年課の署員たちとすれ違ったその瞬間、それは起こった。

「離せってんだよっ!!

 みずからの腕を掴んでいた相手の腕を振り払った少年の拳が、たまたますぐ脇にいた夕映の肩に思いきりぶつかったのだ。そして、バランスを崩した夕映のすぐそばにあったのは、階下へと続く十数段の階段で……。一瞬、自分の身に何が起こったのか理解しきれない夕映の耳に届くのは、近くにいた婦警の悲鳴や男性の怒号。何もかもがスローモーションのように感じる中、まるで無重力空間を漂うかのような感覚────実際に体験したことはないのだが────を味わいつつも確実に落下していく夕映の身体を包んだのは、大きく温かな何か。

 その直後、続いてその身を襲うのは、衝撃と派手な音。立て続けに起こるそれがようやくおさまった時、まず気がついたのは全身から訴えかけてくるわずかな痛み。

 え……どうして…? 私、結構な高さから落ちたわよね? それでどうしてこれくらいの痛みで済んでるの…?

 その謎は、すぐに解けた。夕映の身体をきつく締めつけていた何かの拘束が緩むと同時に、耳元で「痛てて…」と呟く声が聞こえてきたから。とっさに瞑ってしまっていた目を開けた夕映の瞳に飛び込んできたのは、恐らくは痛みのために表情を歪めている市原の顔で……。

「─────市原、くん…?」

 その声に気付いたらしい市原が、はじかれたように目を開けた。

「あっ 有川、大丈夫か!? どこか痛いところはないかっ!?

 慌てたように起き上がって市原が問うてくるのに、同じように起き上がった夕映は、首を横に振り続けることしかできない。

「わ、私は大丈夫……ところどころ、ちょっとだけ痛むだけ」

 それを聞いたとたん、市原の顔から完全に緊張感が消え去って、心の底から安心したような笑顔を見せた。

「なら、いいんだ……あー、よかった…」

「よくねーよ、馬鹿っ てめーが血ぃダラダラ流しながら笑ってんじゃねえっ!!

 駆けつけてきた先輩署員が市原に向かって怒鳴りつけるのを聞いた瞬間、夕映もようやく市原の額から流れる一筋の鮮血に気付いて……。

「市原くんっ 血、血が!」

「え? こんなの大したことねーよー」

「カッコつけてる場合か、馬鹿たれっ! 医者だ、医者!!

「有川さんも、念のため診てもらいましょ」

 先輩たちに促されて立ち上がった後────市原はさすがに男性署員二人に脇から抱え上げられての、いわゆる「捕まった宇宙人」状態での連行であるが────夕映と市原は病院へと連れていかれて、医師の診察を受けることとなった。

 夕映は市原が庇ってくれたおかげで軽い打撲と擦り傷程度で済んだのだが、さすがに頭を打ったらしい市原の検査や診察は長くかかり、備え付けのソファに付き添いの先輩と共に腰を下ろして待っていた夕映の思考を占めるのは、自分のことなど微塵も考えていないような、ほんとうに夕映のことだけを心配して、夕映の無事を喜んでくれた市原の笑顔。

やがてそれは、ふいによみがえってきた「返事は急がない」と告げた暁の笑顔と交互に脳裏をよぎって、夕映はもう、どうしていいかわからなくなってしまった………………。


    





誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はTOP返信欄にて





2013.1.15up

どんどんドツボにハマっていく夕映。
最後に勝つのは、さあどっちでしょう…。
…どっちも残らなかったりして(笑)

背景素材「空に咲く花」さま