〔16〕





 その晩、暁はなかなか寝付かれなかった。

気温がだいぶ上がってきてそろそろ寝苦しくなってきたということもあるが────まあそれは扇風機をタイマーでかけるなりすればさして問題になり得ないが────一番の原因は、ほんの数時間前に聞いた話だった。

 数日ぶりに暁の前に現れた夕映が、手脚のあちこちに絆創膏や湿布を貼っているのを見た時は、驚いて彼女に詰め寄ってしまった。暁の剣幕に少々落ち着かない様子で夕映が語った内容は、暁にとっては二重の意味で衝撃的なもので。彼女ともう一人に大事なかったことを喜ぶ反面、恐らくは彼女の中での比重が更に大きくなったであろう相手に対して焦りを覚え、そしてそんな自分の狭量さに嫌気がさすようなものだった。

 畜生……夕映ちゃんをほとんど守りきったことに感謝したり安心したのも事実だってのに、悔しくて仕方ないのもまた事実なんだよな…。俺だって、その場にいたなら絶対てめーがどうなっても彼女を守りきったってのに。

 結局は、嫉妬なのである。夕映と同じ職場で、そばにいられることの多い市原に対しての。自分の仕事は好きだし誇りも持っているが、夕映に関することとなると話は違ってくる。貴絵や達、そして市原以外の人間にとっては、自分は夕映の恋人ということになっているが、実際はそうでないことは自分が誰よりも一番よく知っている。その上で、市原のような油断のならない────この場合女に手が早いとかそういう意味ではなく────相手が彼女のそばにいるのでは、気が気ではない。

市原がいい奴だということもわかっている。もしも彼が夕映を手に入れたなら、たとえ自分自身の何を犠牲にしたとしても、誰からも何からも彼女を守りきるであろうことがわかるほど……他の誰よりも安心して彼女を託せる相手だということは。けれど、それとこれとは話は別だ。誰よりも彼女のそばにあって────身体は物理的に不可能であっても、心だけは……否、それと身体の深いところ、だ────彼女の想いを一身に受けるのは、自分でなければ嫌だ。たとえ相手がどれほど人間的にできた存在であっても、彼女のすべてを手に入れるのは自分でなければ嫌だと。彼女が他の男に向かって微笑みかけるのを見るのさえ嫌だと思う自分が、暁の中には確かに存在していて。彼女が他の誰かの腕に包まれているのを想像するだけで、もう胸が張り裂けそうだった。

隠すつもりもないが、これまでだって何度か恋もして、他の誰かと付き合った経験だってそれなりにある。けれど、いままでのその誰とも、彼女に対する気持ちは違うのだ。これまで付き合った女性の誰にだって、ここまで他の男との仲を嫉妬したこともなかったし、過去にこだわったこともなかった。夕映の場合は過去に他の男と付き合ったことがないという事実がわかっているから嫉妬こそはしないが、その反動かこれから自分を蹴落として彼女を手に入れる可能性のある市原には尋常ではない嫉妬心を抱いてしまっている。いったいいつから自分はこんな風になってしまったのか? それとも、相手が夕映だからなのか? それは暁にもわからない。

 そんなことばかり考えていたから、昼間の仕事の間中も夕映のことが頭から離れなくて、少しでも夕映を連想させるものに過剰に反応してしまっていたものだから、雇い主でもある自分の父親に感付かれて、やたらその手の単語を口にされて、そのたびにいちいち反応して────頭ではわかっているものの、身体が勝手に反応してしまうのだ────醜態を晒しまくってしまった。当の父親のほうは「面白いオモチャが手に入った」と言わんばかりの態度なのが更に気に障る。

 そんな日中を過ごして職場兼実家を出ても、とてもまっすぐ帰る気にはなれず、気が付いたら夕映の職場である天原署のそばに来ていた。約束もしていないし、彼女の勤務時間はとうに終わっているはずの時間で、逢えるはずもないことはよくわかっているのに。

 何やってんだよ、俺……ストーカーを取り締まるべき施設の前で、そこの職員をストーキングか? 職質されても文句は言えねえぞ。

 さすがに真近くで愛車を停めることは憚られて、少し離れた場所から正面玄関をぼんやりと眺めるに留めていたが、信じられない出来事が起きたのは、その数分後のこと。見覚えのあるヘルメットをかぶり、やはり見覚えのあるスクーターに乗った女性が、左右の安全を確認してからひょっこりと姿を現したのだ。もしも自分自身もヘルメットをかぶっていなかったら、己の頬をひっぱたくぐらいはやっていたかも知れないぐらい暁が驚いたことは、言うまでもない。

 それにしても、何故? 彼女の終業時刻はとうに過ぎているはずだ。もしかして、それまでに終わらせることのできない仕事でも抱えていたのだろうか。彼女が間違いなく一人であることを確認してから、偶然を装って声をかけてみようかと思ったが、彼女がその自宅とはまるで反対の方向にハンドルを向けたことが気になって、結局声をかけることができなくなってしまった。時刻は既に七時近くを差している。買い物にしては、少々遅い時間のような気がするが……何となく気になって、気がついた時には暁も同じ方向に向かって走り出していた────さすがに近過ぎると彼女に気付かれて不審がられる可能性が高いので、かなり離れてからだが。視力には自信があるので、多少離れたところで彼女を見失うことはない。

 そして暁が思った通り、途中で一度個人営業のものらしい生花店に彼女は立ち寄ったが、鮮やかな色の花が数輪包まれた花束を買っただけで、明確な目的地があるように迷いなく走り続けた。そうしてたどり着いた場所は、暁もよく知っている場所で────ある目的のために何度か訪れたことのある場所だったのだ────駐輪場になっている場所でスクーターを駐めてヘルメットを外し、小さいバッグと先ほど買った花束を持って夕映は奥へと進んでいった。その先は、墓地ぐらいしかない場所だというのに。

 誰かの…墓参り、か? まだ盆でもないのに……命日なのかな。

 そんなことを考えていたのも束の間、ヘルメットを外したとたん耳に飛び込んできた会話のおかげで、そんな考えは暁の頭の中から綺麗に吹っ飛んでしまったのだけど。

「なあなあ、いまあっち行った女、結構いい感じじゃなかったか?」

「あ、やっぱそう思うか? なかなかいい脚と尻してたよなあ」

「俺らも行って声かけてみっか? なあに、こんな時間じゃ他に誰もいねえしよ、邪魔は入らねえよ」

 下卑た笑い声を上げる、制服を着た中学生らしき少年たち三人だった。その会話の裏の意味も理解した暁は、怒りが込み上げてくるのを堪えることはできなかった。自分のバイクをその場に駐め、シートの上にヘルメットを置いてから大股で歩き始める。

 そして、夕映の向かった方向へ歩み始めた三人の内二人のシャツの襟を両手でひっつかんで、怒りを隠そうともしないままに声をかけた。

「─────おいこら、クソガキども。いっちょ前に色気づいてんじゃねえぞ?」

 最近ではそうそう出すこともなかった、やんちゃ現役時代の眼力をフルに発揮して、驚いたように振り返ってきた少年たちをねめつける。

「な…何だよ、てめえっ」

 この年頃の少年らしくいかにもイキがっているような声を上げるが、思春期のそんな頃の心理を知り尽くしている暁には脅威にすらなり得ない。

「誰だって関係ねーだろ。だけどこれだけは言っておく。てめえらみてえなションベン臭えガキどもが近付いていい女じゃねえんだよ、あいつは」

 掴んだままだった襟首を、力任せに反対側に向かって放ってやると、少年たちはよろめきながらも何とか体勢を立て直して、怒りに燃える瞳で暁を睨み返してきた。が、そんなものでいまさら気圧されるような暁ではない。こんな悪童どもが経験してきたであろう何倍もの修羅場をいままでくぐり抜けてきたのだ、相手が何人だろうが負ける気はしなかった。けれど、さすがに怪我をさせてはマズいなと思い、不本意ながら手加減をしてやることにする。

「えらそうに…何様のつもりだよ!」

「つもりも何も、てめえらよりよっぽど場数踏んでる先輩様だよ。いいから、やる気ならさっさとかかってこいよ。世の中ってもんを教えてやっからよ」

 それは、挑発。こんな少年たちなら、深く考えずに頭にカッと血が上って殴りかかってくるであろう、安っぽいそれだ。案の定、学校や家庭という狭い世界でしか生きてこなかった少年たちは、あっけないほど簡単に挑発に乗り、叫び声を上げながら暁に襲いかかってきた。思った通りだ。動きが単調で、パターンが読みやすいことこの上ない。

 難なくかわし続けて、その合間に少年たちの頭をべしべしっとたたく。こんな愛の鞭程度のものでも最近では「体罰だ」と非難されるのだろうから、学校の先生も大変だなと暁はふと思う。自分がこんな歳の頃は、それこそ鼻血や生傷が絶えないほどの「躾」を父親から受けていたというのに。そんなことを考えていたから、目の前にいた少年たちがいつの間にか三人から二人に減っていたことに気付くのが遅れた。気付いたのは、不覚にも背後から鋭い痛みを頭頂部に感じた時だった。

「痛て…っ!」

 振り返ると、そこいらに落ちていたらしい棒きれを握った少年の一人が、勝ち誇ったような、けれど多少の怯えを含んだ色の瞳で立っていた。

「てんめ…多勢に無勢、その上凶器攻撃か!? ケンカなめてんじゃねえぞ、おらあっ!!

 言うが早いか、その棒きれの反対の端をつかみ、力ずくで奪ってから遠くに放ってみせる。スポーツや格闘技にちゃんとルールがあるように、一見無法地帯に見えるケンカにも、決して破ってはいけないルールというものがあるのだ。人生の先輩としては、そのことも教えてやらなければいけない。

「う…っ」

 さすがに本気で怒った暁の気迫に圧倒されたらしい少年たちが、じりじりと後退していく。現役時代は、もっととんでもない状況でも切り抜けてきたのだ、いまさらこれぐらいのことで気合いの上でも負けるつもりもない。自分たちのほうが数では勝ってはいても、経験も気合いも実力すらも、完全に暁のほうが上だと頭ではなく本能で理解したらしい少年たちは、情けない声を出してきびすを返して走り出した。

「次にイキがってんの見かけたら、今度はマジで潰すからな! 二度とナメた真似すんじゃねえぞ!」

 少年たちの姿が見えなくなるまで逃げ去るのを確認してから、暁は痛む頭頂部をそっと撫でながら回れ右をする。血も出ていないし、これくらいの痛みなら後でコブができるくらいで済むだろう。経験上、そう判断を下して、ゆっくりと夕映のいるであろう方向に向かって歩き始める。万が一夕映がこちらの騒ぎに気付いて戻ってきたら、彼女に姿を見られないうちにすぐにでも逃げるつもりで、ゆっくりと慎重に歩を進める。いくら何でもこんな時間────夏場とはいえ陽は既に沈みかけて、辺りは少しずつ薄暗くなり始めていた────にこんなところで偶然会うなんて、あり得るはずもなかったから。それもすべて、自分の行動が招いたことであるから、疚しいことこの上ないのだ。

 幸い、夕映のいた位置は自分たちの喧騒からはそう近くはなかったようで、墓地の奥のほうの墓前でしゃがみ込んでいた夕映の姿を見つけはしたものの、向こうはまるでこちらには気付いていない様子だった。余所の家の墓石の陰に身を隠しながら、少しずつ近付いていって、ぎりぎり声が聞こえる辺りでそっと歩みを止める。

「……ちょっと聞いてもらいたかっただけなんだけど、何だか一緒に悩ませるみたいなことになっちゃって、ごめんなさいね。結局は、自分自身で結論を出すしかないのにね」

 夕映の、自嘲的にも聞こえる声。いったい、誰に対して話しかけているのだろう? そっと窺い見ると、先ほど買った花が花立てに差し入れられているのがわかった。やはり、その墓の主のために買ったものだったらしい。わずかな間をおいて、よいしょ、と呟くように言いながら、彼女が立ち上がる気配。暁も慌てて再び身を隠す。

「次に来る時は……きっと、結果を報告できるようになってると思うから…どうか、それまで見守っていてね、陽香ちゃん」

 …「はるか」? いままで夕映の近辺では聞いたことのない名前に、暁は思わず小首を傾げる。ふと脳裏をよぎるのは、以前夕映の家を訪れた時に見かけたフォトフレームで、幼い頃の夕映と共に映っていた同年代の少女の姿。二人で写っているその前までの写真は他にもあったのに、一番目立つ所にあった例のもの以降に撮ったらしいものがなかったことに、いまさらながらに思い当たる。

 あれはもしかして……あれが二人で撮った、最後の写真だったってことか…?

 暁にも、交通事故で亡くなった友人がいたりするから、あり得ないことではないとすぐに思う。そして夕映の、あれほどに暴走族を憎む様子を合わせて考えると…結論は、ひとつしかないように思えた。もしかしたら夕映も…暁と似たような────もっとも暁の友人はごく一般的な交通事故が多いのだが────傷を抱えているのだろうか? そう思った瞬間、いままでよりぐっと夕映の心のごく近くに寄り添えた気がした。もしかしたら、暁の思い違いかも知れないけれど…………。

 そんな感慨に耽っていたので、夕映が歩きだしたことに気付くのが遅れ、慌てて身を隠しながらその場を小走りで立ち去る。夕映が墓地を出てくる前に寺の敷地内から出て、自分の愛車へと戻り、痛む頭頂部を堪えながらヘルメットをかぶってバイクごと身を隠す。間一髪、夕映がスクーターに戻った時には何とか彼女からは見えない位置に隠れられたので、ホッとする。そうして、夕映が無事帰途についたことを確認してから、自分もようやく家路についた。

 とにかく夕映に知られないように、という一点のみに気を配っていたので、その他の人間の目にはまるで無頓着だったことに暁が気付くのは、もう少しだけ後のこと…………。




                    *     *




 次の日の夕刻。いつも通りに一人ガレージで作業をしていた暁は、聞き覚えのある排気音に気付いて振り返った。そこにいたのは、彼女自身の愛車を適当な場所に駐めて歩み寄ってきた夕映。約束はしていなかったはずだが……どうしたのだろう?

「よっ どした? 今日は別に約束はしてなかったよな?」

 確認するように問いかけると、夕映はこっくりと頷いて挨拶の言葉を口にしてから、わずかに逡巡したような様子を見せてから、再び口を開いた。

「…暁さん、ちょっとお聞きしたいんですけど」

「んー?」

「昨日って、普通にお仕事されてました?」

「そうだよ。定休日でも何でもないしな。それがどうかしたのか?」

「昨日の夜七時ごろって……どちらにいらっしゃいました?」

 その言葉に、一瞬ぎくりと身を強張らせるが、夕映には気付かれなかったようだ。そのまま平静を装いながら、笑顔で振り返って見せる。内心は、暴風雨になりかけていたけれど。

「昨日の七時? んーと…ああ、その頃ならコンビニにいたな。夕飯買いと、いつも買ってるバイク雑誌が発売日だったから」

 それはほんとうのことなので、すらすらと口から出てくる。時間帯は、夕映に訊かれた頃とは少々違うけれど。

「そうですか……」

「それがどうかしたのか? 何かアリバイ訊かれてるみたいだなあ、俺何かの容疑者だったり?」

 話しているうちに何とか内心も平静を取り戻した暁は、いつものように軽口をたたいたのだが。夕映が背後からそっと手を伸ばしてきて────届かない分は精いっぱい爪先立ちをしてまでだ────暁の頭頂部を触ったので、予想もしていなかった行動と痛みに、思わず小さく声を上げてしまった。

「い…っ!」

「…コブ、できてますね。やっぱり…暁さん、だったんですね」

「な、何の話かなっ?」

 とっさに作り笑顔で対応するが、夕映はほんとうに嬉しそうな笑顔で微笑んでいたので、そのあまりの可愛らしさに不覚にも顔が紅潮してしまって、それを隠すように顔をそむけた。

「……お寺の住職さんの奥さまが、昨夜うちに電話をくださったんです。住職さんの息子さんが偶然通りかかって見ていたそうで…『どう見ても、不埒な連中から貴女を守っているようだったそうだ』と、奥さまが知っている人かとお電話をくださって……なのに、何も言わずに帰ってしまって。他の誰も気付かなかったら、ずっと黙っているつもりだったんでしょう?」

 暁さんて、そういう人ですものね。

 そう続けられてしまっては、もう顔が見られない。真っ赤な顔をどうすることもできず、振り返れない状態のままの暁の背に当たる、やわらかな何か。

!!

 着ているつなぎの作業着越しに感じるのは、心地よい温もり。思わず目だけを向けたそこにあったのは、暁の背に押しつけられている、夕映の片頬と両の手のひら。

「おおおお、おいっ せっかくの綺麗な顔と手が、汚れちまうぞっ」

「構いません」

 まるで動じていない……むしろ楽しそうにさえ聞こえるのは、暁の気のせいか。

「守ってくださって……ありがとうございます──────」

 恥ずかしくて。ほんとうに恥ずかしかったけれど、幸せを感じるのもまた事実で。暁は何も言えないまま、背に感じる愛しい温もりを、時間と現実が許す限り享受していた………………。


    





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2013.1.16up

ついに、夕映の心の傷について感付いた暁。
陰ながら守っていたつもりでしたが、バレバレでした(苦笑)
まあ、頑張ったご褒美と思えば恥ずかしさもまた幸せでしょう。
次回、クライマックスに向けて急展開?

背景素材「空に咲く花」さま