〔17〕
暁と市原という、二人の青年。性格こそ正反対といえるかも知れないが、根が優しいところは共通していて……そして、その二人ともが、真剣な瞳で、言葉で、自分を好きだと伝えてくれている─────二人とも、「答えは急がない」と言ってくれているが、だからといってそれに甘えていつまでも二人を縛り付けている訳にはいかない。二人には、自分には想像もつかないような素晴らしい未来が待っているのかも知れないのだから。そして自分がいつまでも答えを出さなかったせいで、二人の大事なそれが失われでもしたらと思うと……のんびり構えている気にもなれない。 そしていま、夕映の心の中では、二人の比重が同じくらいのものとなって、その許容量をいっぱいに占めている。どちらかを選べと言われても、とても選べないほど、ほぼ同じくらいの容量だ。こんな中で、どうやって二人のどちらかを選べばいいのだ? 夕映にはわからない。 「ただいま戻りましたー」 だから、パートナーの貴絵と共に警羅から戻ってきた時、見慣れたオフィスの中に市原の姿がないことを確認してホッとする。別に顔を合わせたからといって、市原も暁も性急に答えを求めてくる訳でもないが、顔を見るとほとんど無意識に焦ってしまうのだ。それは決して二人のせいではないので、申し訳なく思う気持ちも存在するのだけど。 そうして、今日の警羅の時に生じた書類整理を行っていたところで、廊下から賑やかな声が聞こえてきたのでどきりとする。賑やかといっても、楽しそうなそれでなく、誰か特定の相手を叱咤するようなそれだ。 「騒がしいわね。いったい何事よ?」 オフィスの出入り口付近でコピーをとっていた先輩の女性署員が声をかけると、共にいた相手を叱咤していたやはり先輩の男性署員が憤慨したように声を上げた。 「こいつ……市原の奴よー、一度とっ捕まえたものの、車から降りないで逃げようとした違反者の真ん前に、身一つで飛び出したんだぜ!? 相手がビビって急ハンドル切ってなかったら、もう確実にはねられてたっての!」 「な…何やって…!」 先輩の女性が怒りもあらわに声を上げかけた瞬間、それより段違いに大きい声がその場に響き渡った。 「何やってるのよ!?」 少し離れた席で聞くともなしに聞いていた夕映だった。 「あ…有川…?」 「いったい何考えてそんなことしたのよ!?」 状況も忘れ────つい先日から必要以上に市原を意識していたことも含めて、だ────ツカツカと市原に詰め寄っていって、その眼前に人差し指を突きつける。 「あ、いや、だって、ここで逃げられたらマズいと思ったら、身体が勝手に……」 「そこでどうして、もう一瞬でも考えられないの!? 突発的事故に弱い一般人じゃないのよ!? どんな状況でも想定しておくのが、私たちの仕事じゃないの!?」 夕映は怒りのあまり気付かなかったが、市原はしゅん…とうな垂れて、まるで母親に叱られた子ども状態になってしまっている。 「だいたい、市原くん本人にだって、ご家族やお友達がいるんでしょ、市原くんに何かあったら、その人たちが悲しむのよ?」 もちろん、同僚の私たちだってそうよ。 そう続けたとたん、市原の瞳がそれまでとは別人のようにとたんに輝いて。ほんとうに嬉しそうな表情で、逆に夕映に詰め寄ってきたので、今度は夕映が思わず後ずさりしてしまう番だった。 「マジで!? 俺に何かあったら、有川も悲しんでくれんの!?」 「そ、そりゃあ…同僚で同期ですもの。市原くんに限らず、他の人だって…たとえば貴絵だったとしてもそうよ。あっ だからといって、故意に危ない目に遭おうなんて考えてるんじゃないでしょうね!?」 「そんなこと考えちゃいないけどさ…有川が悲しむってんなら、これからは自重する」 「そ、それならいいんだけど……」 何だか、立場が逆になってしまったようで、妙に居心地が悪い。そんな時に、自分たちを少々遠巻きにして見ていた先輩や同僚たちが話していた内容を知ったら、夕映は今度こそパニックを起こして何も考えられなくなっただろう。 「…あいつ、ほとんど同じ内容言ってんのに有川が言ったら素直に聞くんだな」 「あら、わかりやすくて可愛いじゃない♪」 「これから、あいつを叱る役は有川にやってもらうか、手っ取り早いし」 などという会話が交わされていたことを、ふたりは知らない…………。 やっばーいっ! 暁さんには、あのこと何にも言ってなかったんだったーっ!! いまさら焦っても、あとのまつり。暁の、ほんの少しの嘘も見逃さないぞと言わんばかりの鋭い眼光に、夕映はしどろもどろになりながら説明を余儀なくさせられてしまった。その後の暁の表情の複雑さといったら…とても口では言い表せないほどだった。けれど最後には、いくばくかの複雑さを感じさせるものの、いつもとそれほど変わらない笑顔を見せてくれたので、夕映はようやくホッとする。 「……ま。希くんが夕映ちゃんを守ってくれたおかげで、夕映ちゃんはそれくらいの軽傷で済んだんだから、感謝しないとな」 「でもそのせいで市原くんは頭を打ってしまって……」 そのあたりについてはやっぱり申し訳ない気持ちになってしまう夕映の頭を、立ち上がって軍手を外した暁の大きな手がわしゃわしゃと勢いよく撫でてくれる。 「でも医者は『大丈夫』って言ったんだろ? なら心配ねえよ。階段落ちくらい、俺も昔は何度もやったしよ。痛え思いしたってのに、親父にゃ『頭打って、バカな頭がよりよくなりゃもうけもんだ』なんて言われるし、さんざんだったぜ。それに比べりゃ、惚れた女に心配してもらえるなんて、男にとっちゃご褒美もいいとこだよ」 そういう…ものなのだろうか。夕映にも一応兄はいるが、そんな話────恋愛に関しての話だ────などしたことはなかったから、よくわからない。 「そんな気にすんなって。夕映ちゃんにあんまり気に病まれると、せっかく守ったってのに希くんのほうが落ち込んじまうぞ? 見えないところではともかく、希くんの前では普通に笑っててやんな。男としては、そっちのほうが嬉しいってもんだ」 「そういう…ものなんですか……?」 「そ。男なんてそういうもんなんだよ」 市原とはライバル関係のはずの暁にまでそう言われてしまっては、夕映としてはもう何も言えない。それならば、せめて市原の前では普通に過ごそうと……見えない所で労わってあげようと、そう決めた。 暁の内心など、何も知らないままで…………。 それでも、今日は陽香の月命日でもあるし、昨日せっかく乗って帰ってきた愛車もあるし────普段とくに予定がなければ、暁と食事などに行く時は暁の後ろに乗せてもらって、自分のスクーターは暁の職場に置いていくのが常だったのだ────とくに今回は陽香に聞いてもらいたい話もあるしで、予定を変更して終業後にまっすぐ帰る気にもなれず、予定通り陽香の墓参りに向かった。その陰、自分の知らない所で、どんなことが起こっていたか、まるで知らないままで。真相を知ったのは、家に帰って夕食を終えた頃だった。 「夕映、電話ー。お寺の奥さんから」 家の電話を受けた姉に受話器を渡されて、部屋でくつろいでいた夕映は驚いてしまった。お寺には今日の帰りに行ったばかりだが…住職夫人とは顔を合わせることもなかったのに、自分は何か忘れ物か落とし物でもしたのだろうか? 「もしもし、お待たせしました、夕映です」 『あ、夕映さん? 突然電話しちゃってごめんなさいね、こんばんは』 「こんばんは、いえ、どうぞお気になさらないでください。どうかされたんですか?」 『あ、あのね、ちょっと確認したいんだけど、夕映さん、今日の夜七時前後にうちにお墓参りにいらした?』 「あ、はい、うかがいました。陽香ちゃんの月命日だったので。残業があって遅くなったので、あまり長い間はいませんでしたけど」 『あらやっぱりそうだったのねー。唐突だけど、うちの息子、次男のほう覚えてる?』 「えっと、確か今年高校に入学なさった方ですよね?」 『そう。その息子が言ってたんだけど……あっとその前に、夕映さん、肩まで髪を伸ばして目つきの鋭い男の人、お知り合いにいないかしら。背はわりと高かったらしいんだけど』 その特徴を聞いて思い浮かぶのは、たったひとりしかいない。 「友人にひとりそういう人がいますけど……その人がどうかしました?」 『いえ、それがね……』 そうして、相手が語った内容は、夕映にとってはかなりの衝撃をその心に与えるもので。にわかには信じ難かったが、暁を知るはずのない相手が語った内容と、実際に目の当たりにして認識していた暁の性格と言動とは、寸分の違いもなく一致するもので。信じられないと思う一方、暁なら恐らくそういうことをしてもおかしくないと納得するには十分なものだった。 電話を切ってベッドに横たわった後、脳裏によみがえるのは、つい昨日聞いた暁の声。 『惚れた女に心配してもらえるなんて、男にとっちゃご褒美もいいとこだよ』 『希くんの前では普通に笑っててやんな。男としては、そっちのほうが嬉しいってもんだ』 ……なんて言っていたのに。暁自身のとった行動は、それとはまったく真逆のことではないか。 「ほんと…見た目と全然違って、お人好しもいいとこなんだから───────」 口ではそんなことを呟いていても、胸に満ちるのはあたたかい何か。あんなにも口が悪くて、一見粗野で乱暴に見えるのに、心の中は誰よりも大らかで…優しい。そんなことを言ったら、彼はきっと、「そんなことねえよ、そっちの勘違いだろ」なんて照れ隠しでぶっきらぼうに答えるに決まっている。そんな姿すら、目に浮かぶようで。考えるだけで、夕映の心はあたたかい想いで満たされていく。その感情の名を、夕映は知らないけれど。初めて感じる感情だったけれど、名前すら知らなくてもその感情の意味はわかる気がした。それを認めるのは、何となく怖さをも伴っていたけれど────けれどそれは決して恐怖ではなく、未知の場所に踏み込む感情と似ている気がした。 「よっ どした? 今日は別に約束はしてなかったよな?」 やはり、いつもと変わらない笑顔。いつもと違う様子なんて、微塵も感じさせない。だから、遠回しに質問をぶつけてみたのだけど、敵?もさるもので、なかなか尻尾をつかませはしない。だから、行動に出てみた。自分より20cm近く高い暁の頭頂部に、精いっぱい背伸びをしながら手を伸ばして触れてみる。後ろからだったから顔は見えなかったけれど、暁は明らかに身を震わせて、痛みを感じていると思わせるような短い声を発した。やはり。暁で間違いなかったらしい。 「…コブ、できてますね。やっぱり…暁さん、だったんですね」 「な、何の話かなっ?」 確信を持って告げているのに、暁は往生際が悪く、まだとぼけている。仕方がないので、ここで種明かしをすることにした。寺の住職の息子が、学校帰りに偶然通りかかって騒動を目撃して、のっぴきならない事態になった場合にはすぐに家人たちを呼ぶつもりで、陰から見守っていたこと。そして、息子からその話を聞いた住職夫人が、夕映の知り合いかと思ってわざわざ電話してきてくれて、顛末を話してくれたこと……すべてを話し終えた時、暁はもうこれ以上ないというほどに顔を赤くして、身体ごと向こう側を向いてしまった。もしも誰も見ていなかったら、そして、当の夕映の耳に入ることがなかったら。暁はきっとすべてを自分の胸の中にしまって、他の誰にも真相を明かさなかったのだろう。たかだか数ヶ月のつきあいだけれど、夕映には暁の性格のほとんどが把握できている気がした。暁はきっと、そうするだろうと…何の疑いもなく、確信できてしまったのだ。 だから、バッグを脇に置いてから暁のすぐ背後に歩み寄って、その背に頬の片側と両手のひらを当てて、寄り添った。言葉だけでは、この気持ちのすべては表現しきれない気がしたから。 「おおおお、おいっ せっかくの綺麗な顔と手が、汚れちまうぞっ」 いつもとは真逆に、暁のほうが慌てているのが、楽しくて嬉しくて。 「構いません」 ほとんど無意識に、そう答えていた。 「守ってくださって……ありがとうございます──────」 万感の想いを込めてそう伝えると、暁の羞恥心のメーターは振り切れてしまったのか、応える声はまるで返ってこない。不思議な静寂がその場を支配するけれど、それは決して不快でも気まずいものでもなく、むしろとても落ち着く空間となって、ふたりを包み込んだ。いつまでもこうしていたくて、夕映はずっと暁の温もりに黙ったまま────むしろ言葉が邪魔になるような気がしたのだ────寄り添っていた…………。 「そういえば…私、何でこんなに上機嫌が持続してるのかしら?」 と答えてしまい、貴絵に目を丸くされるという顛末までついて。 そんな楽しい気分も、ミニパトに装備されている無線から聞こえてきた業務連絡で、とたんに現実に引き戻されるのだけど。 『B本町交差点にて、車両事故発生。歩行者や走行中の二輪車も巻き込まれた模様。付近を走行中のパトカーは直ちに現場に向かってください』 「15号車了解、直ちに現場に急行します!」 助手席に座っていた夕映が応答すると同時に、付近の一般車両を目視してから貴絵がハンドルを切った。 「超特急で向かうよ、夕映、しっかりつかまってなさいよっ」 超特急、といっても交通法規を遵守する範囲内で、最短距離で駆けつけるという意味だが、二人の意識は既に現場へと飛んでいて、現場である交差点のつくりを頭に思い描いていた。 「あの交差点、結構交通量多いからね、事故多いよね」 「しかも歩行者や二輪まで巻き込むなんて…どちらか、もしくは両方で相当スピード出てたのかしら」 スピードの速さとぶつかった時の衝撃は、比例するといっていい。出会い頭の事故でも、衝突の衝撃で思いもよらぬところに弾き飛ばされて、偶然そこにいた歩行者を巻き込んだりなんて事故も、世の中にはたくさん存在するのだ。そして、車という固い鎧に守られている運転手や同乗者よりも、結果酷い怪我を負うのは、そんな不運な通行人のほうで……。 「まったく…そんな輩が多いから、あたしたちの仕事が減らないのよ」 ぶつぶつと貴絵が呟く「そんな輩」とは無意味にスピードを出す連中のことで、「仕事が減らない」とは言葉通り「仕事が増えて面倒」という意味ではなく、「罪のない被害者が増えて困る」の意だ。はたから聞いていたら誤解されそうだが、付き合いの長い夕映には、貴絵の真意はちゃんとわかっている。 やがて、二人の乗ったミニパトは現場に着いて、降りてみると既に到着していた同僚たちが交通整理を始めたところだった。 「事故の当事者の運転手と同乗者は比較的軽傷なんだけど、巻き込まれた歩行者が骨折の疑い、更に同じく巻き込まれた二輪車の運転手が車と車の間に挟まれてて、人力では救出不可能なのよ」 「レスキューは?」 夕映たちとタッチの差で現場に着いたらしい市原が、二人の背後から同僚に問いかける。 「こちらに向かってるらしいけど、まだ到着しなくて……」 焦りを表情ににじませた同僚の肩越しに現場を見やると、よほど派手に衝突したのか、いかにもな車────要は、走り屋連中が好みそうな車の意だ────の上に同じような車の前輪が乗り上げていて、件の二輪車の運転手はその隙間に挟まれているらしい。何ということだろうと、夕映は思った。恐らくは普通に走っていたであろう二輪車が、こんなことに巻き込まれるなんて。だから、暴走なんてする人間なんて嫌いなのだと夕映が思った瞬間、脇からかけられる声。 「ゆ、夕映っ あのバイクっ!!」 「駄目だ、有川見るなっ!!」 貴絵と市原の声はほぼ同時であった。だから、すかさず夕映の視線をみずからの手で遮ろうとした市原の手は一瞬遅く、夕映の目は貴絵が指差した方向に横たわっていた二輪の姿を、しっかりととらえてしまっていた。 それは、一台の中型二輪。車種自体は世間でありふれているものだが、持ち主の趣味によってカスタマイズされて、いくつかのステッカーが貼られているその二輪は、二輪に詳しくない夕映にも見覚えは山ほどあって────つい先日も、その後部シートに乗せてもらったばかりのそれで…………。 「あき…ら、さん……?」 脳裏によみがえるのは、ただひとりの男性の笑顔。 「あきら、さん…暁さん……暁さん…」 自分でも気付かないうちに、夕映の脚はふらふらと歩みだしていて……唇は、まるでうわごとのようにただひとりの名前を繰り返していた。 「ゆ、夕映っ!」 「有川っ!」 二人のなだめるような声も、耳に入らない。 「──────暁さんっ!!」 夕映の、悲痛な叫び声がその場に響き渡った………………。 |
2013.1.17up
夕映がやっと自分の気持ちに気付いたかと思った矢先に、
暁を襲う恐ろしい運命……。
暁の安否は? そして夕映の精神は耐えられるのか?
背景素材「空に咲く花」さま