〔6〕





 予想外、としか言いようがなかった。



「いらっしゃい、リビングの適当なところに座って待っててくださいね」

 キッチンでせわしなく動き回って告げる相手の足元に何気なく視線を落とした瞬間、暁は我が目を疑った。いままで見せたことのないジーンズ姿を、相手が披露していたから。

 恐らくは、先日暁がほとんど無意識に言った「綺麗な脚だ」発言を意識してのことだろうが、夕映には悪いが、残念ながら暁は女性の脚が好きなだけでなく、腰から尻にかけてのラインも別の意味で大好物であったりするのだ。なかなか好みの脚だと思った相手が、そんな服装をして目の前でくるくると動き回って、時にはしゃがみ込んだりして、存分にそのラインを暁の目の前で披露してくれているのだ、目を離すことなど誰ができようか。

 ああ、いかんいかん、このままじっと見ててバレでもしたら、今度こそ変態の称号を戴くことになるぞ、俺。

 いつまでも見つめていたい衝動を抑え、できる限り表情に出さないようにして達が先に座っているソファへと向かう。

「…ただ待ってるだけってのも手持無沙汰ですね」

 ついさっき手伝いの申し出を断られたばかりの達が、何だか申し訳なさそうに呟くので、仕事などの時には汚れものを入れるために持ち歩いているボディバッグを開けて、朝コンビニで買ったスポーツ新聞を取り出す。

「読むか? 俺もう読み終わったし」

「あ、じゃあ…」

 真面目な秀才でもやはりスポーツに興味のある普通の男の子だなと思いつつ、自分はリビングのテーブルの上にあった新聞に手を伸ばす。が、仕事場でつけっ放しのラジオのニュースで流れていたこととほとんど同じことばかり載っているので、あっという間に読み終わってしまった。

 そのうちに、キッチンのほうからはいい匂いが漂い始めてきて……暁と達の嗅覚と腹の虫を刺激し始める。成人した年に、「お前ももう大人なんだし、歳の離れた妹に悪影響を与えないうちに出ていけ」と言われて半ば強制的に一人暮らしを始めざるを得なくなった身にとっては、こういう温かな家庭の空気は、何よりのご馳走だ。そりゃあ実家も帰ればいつでも温かく迎えてくれるだろうが、やはり独り立ちした身としてはそうちょくちょく帰る訳にもいかない。その上、可愛らしい女の子たちの賑わいもオプションとしてついてくるとあっては────たとえそれが自分の恋人でも想い人でもない相手であったとしても────年頃の男としてはこちらのほうにより魅力を感じるというもので。「幸せって何だっけ」などと懐かしいテレビCMのようなことを思ってしまったとしても何ら不思議はない。

 そんな時だった。

「ゆ…ゆゆゆゆゆっ」

「お、落ち着くのよ、貴絵っ 警察学校で習ったじゃない、人質をとってる犯人の対処法っ あ、あれと同じよっ」

 それまではきゃっきゃっと楽しそうにしていた二人の声が、とても同一人物のそれとは思えない響きを宿して、こちらに届いたのは。

いったい何事が、と思いながら立ち上がってそちらに歩いていくと、ちょうど夕映がこちらを見ずにじりじりと後退してくるところだった。「危ないぞ」と言う暇もなく、暁の胸のあたりにぶつかってきた瞬間、夕映の肩がぎくりと強張ったような気がしたが、彼女は振り返ることなく前を見据えたままだ。何が起こったのかと思いながら彼女の肩越しに向こうを見やった瞬間、まるでオイルで磨かれた部品のような黒光りするソレが、こちらに向かって動き出したのが見えた。ソレについては、暁も実家やアパートでたまに見かけるものだったので、正体についてはすぐわかったが、驚いたのは夕映の反応だった。

「やだうそ、こっちこないでよ、ばかーっ!」

 普段の強気な態度はどこへやら、黄色い声と表現してもいいような甲高い声を上げ、半ばパニック状態に陥ったような様子で、暁の胸や肩に手を当てて押し退けようとするが、女の子、しかもそんな状態の相手に簡単に退かされるほど暁もひ弱ではなかったので、とくに他意もなくそのままでいたのだが……それは、夕映にとっては最悪の事態であったらしい。

「ちょ、何よこれ、邪魔よ…」

 ほとんど泣きだしそうな声を聞いた瞬間、身体が勝手に動いて、夕映の細腰をしっかりとつかんで、ひょいと持ち上げていた。暁自身、腕力もそれなりにあると自負しているが────何せ仕事は肉体労働だし、学生時代からさんざん手伝わされてもいたので────初めて抱え上げた夕映の身体は、予想以上に軽かった。まだ中学生の自分の妹とそんなに変わらないのではないかと思うほどに。けれどやわらかさは未だ成長中の妹とはやはり格段に違っていて、彼女は間違いなく成人している女性なのだということを暁に知らしめる。まだ完全ではないにしろ、成熟し始めた女性特有の匂いとでもいうのか、とにかくそんなものを存分にまき散らして、暁の感覚のすべてを刺激してくれているのだから。

 ああ、こんなことを考えている場合じゃなかったか。

 黒い物体が自分の脚の間を通り過ぎていくのを見届けるのと同時に、背後にいる達に向かって叫ぶ。

「まかせた!」

 自分の脚で踏んづけてもよかったのだが、一応ここは他人さまの家で、履いているスリッパも他人さまの家のそれだ。勝手にそんなことをして、結果使い物にならなくなるようなことにする訳にもいかない。だから達にまかせたのだが、達は首尾よく標的を仕留めてくれたようで、軽快な音が背後で鳴り響いた。いい音がしたなーと思う一方で、ふと別に思った言葉が口をつく。

「……しっかし軽いなー。ちゃんとメシ食ってんのか? 警察官なんて特に体力勝負の職業だろ?」

 それは、社交辞令などではなく本心からの言葉。いままでにも何人かの女性を抱え上げたことがあるが────恋人といえる存在のみならず、相手が貧血で倒れたなど、不可抗力でそうなった場合ももちろんある────夕映は、その中の誰よりも軽いと暁は思った。確かに見た目からして細いほうだとは思ったが……。

「………………」

 宙で絡み合う、視線と視線。いつものように気の強さを前面に出したそれでなく、穏やかな湖の水面を思わせる、深い色の瞳が……暁の姿を映し出していて。暁自身、自分が何を考えているのかわからない状況を自覚したその時。先に冷静に戻ったらしい夕映の悲鳴が響き渡ったので、耳が一瞬役に立たなくなってしまった。

「ひとの耳元でいきなりんなデカい声出すなっ! 下ろしゃいいんだろっ」

 いくら苛ついたとはいえ、ここで乱暴に放り出すほど暁も人非人でもない。できるだけ丁寧に夕映の身体を床に下ろしてから、みずからの耳に指を差し込む。難聴にでもなったらどうしてくれると思いながら。だから、いつものように憎まれ口をたたき合っているとばかり思っていた夕映の、それまでとは打って変わって小さくなった声に、気付くのが遅れた。

「でも……助けてくれて、ありがとうございました…………」

 さすがに恥ずかしかったのか、夕映は暁のほうを振り向きもしないで、再び貴絵のいる流しのほうへとせわしなく走っていく。だから、いま言われたのは幻聴かと暁は思ってしまったほどだったのだが。

「……よかったですね。ちゃんと感謝してくれてるみたいですよ」

 丸めた何枚ものティッシュを手にした達が、楽しそうに笑んでみせるのを見た瞬間、暁はいまのはちゃんと現実だったと認識した。

「べ、別にあれくらい何てことねーよっ それより、その諸悪の根源をとっとと処分して、手ぇ洗ってこいよっ」

「はいはい」

 達はそれ以上何も言わずに、ゴミ箱と洗面所のあるほうに行ってしまったので、暁はホッとして再びソファに戻って腰を下ろした。

 そうだよ……あれくらい、何だってんだよ。たかだか、初めて礼を言われたって程度で──────。

 そうは思うけれど、つい赤くなってしまう頬は止められなくて。達が戻ってくるまでに平常の状態に戻すのに、暁はえらく苦労を強いられてしまった。笑顔すらろくに見たことのない相手の、素直な一面を目にしてしまったからだろうか。

 その後は、何とか普段の自分に戻れたと思っていたのに……不覚にも、彼女に初めて名前────といっても名字だが────を呼ばれた時には、再びどんな顔をしていいのかわからなくなって、心底困ってしまった。いったい何だというのだ、初心な少年でもあるまいに、これくらいのことで……。

 だから、その後の貴絵の提案には、今度こそどんな反応を返していいのかわからなくて……断るのも変だし、かといって貴絵が言うように呼ぶのにも抵抗があって────女の子を名前で呼ぶのなんて、初めてな訳でもないのに、言葉が喉の奥に張り付いてしまったかのように、なかなかその名が出てこない。

「ほんじゃあ……『夕映、ちゃん』って呼べばいいのかな──────?」

 ああ、何たる有様だ。昔からの友人たち────達とは別ベクトルの、学生時代からの友人たちのことだ────がいまの自分を見たら、何を言われるかわからないなと暁は思った。たかだか知り合いの女の子ひとりを名前で呼ぶことに、こんなに苦労しているなんて、自分が一番驚いている状態なのだから。

 自分でもわからないけれど、彼女を前にすると、いろんな意味でどうも調子が狂う。恐らくは、お互いに────確認したことはないが、彼女にとっても自分はそういうタイプに違いないと、暁は根拠もなく確信していた────周囲にいなかったタイプだからだろうと思っていた、この時までは。




        *       *     *




 だから。

 それから三週間ほど経った、仕事終了間際の頃。

「暁。そろそろ仕事終わりでしょ? 一緒にご飯食べに行こうよ」

招かれざる客と会ってしまって、どうしたものかと思っていたその時、ほんとうにたまたまやってきた夕映────正確には貴絵も一緒だったのだが────を見て、天の助けとまで思ってしまった。

「こんにちはー。点検をお願いに来たんですけど……あ、もしかして先客さんですか?」

 それには答えず、即座に立ち上がって、暁は夕映の前へと足早に歩み寄る。

「いや、そんなんじゃないから、気にしないでいい。それより、今日点検終わってからは暇か?」

「暇…ですけど?」

 その答えを聞いて、暁はしめたと思った。先日の夕食時に聞いた話がほんとうなら、夕映には誤解されて困るような相手はとりあえずいないことになる。この困った現状を打破するには、まさに適役といえる存在だろう。

「それが何か…」

「夕映」

 予告も何もなしに名前を呼び捨てにしたとたん、夕映が目を丸くして、貴絵が歓喜の叫びでも上げそうな表情を浮かべるが、何とか自分の身体を盾にして、先に来ていた女性からは見えないようにする。

「もう少ししたら、仕事終わるからよ。そしたらメシ食いに行こうぜ。ここんとこ、ほとんど一緒に出かけられなかっただろ。次の休みは合わせて、どっかツーリングにでも行くか」

 口を挟む暇もなく言い切ると、背後にいた相手が走り去る音が聞こえた。思わずホッと息をついた瞬間、夕映が初めて見せるような満面の笑顔でにっこりと笑って。

「……暁さん」

「あ?」

「まだ夕方は寒いし、とりあえず中に入ってお話しません?」

 と言ったので、簡単に返事をして三人で中に入ったのだけど。よもやまさか、一言の言い訳もさせてもらえずに竹刀で一発食らおうとは、夢にも思っていなかった……。

「……どういうことですか」

 先刻までの笑顔はどこへやら、いまの夕映はすさまじい権幕だ。

「あれじゃまるで、私と暁さんが付き合ってるみたいな言い草じゃないですかっ 何で私がそんな扱いを受けなければならないんですかっ!?

 暁に対してのこの仕打ちも相当なものだと思うが、とりあえず暁も空気を読んで、そのことについてはふれないでおく。

「ま、まあ待て、俺の話を聞け」

「何ですか」

 さすがに有段者だけあって、夕映の気迫は半端ない。だがしかし、暁とて簡単に引き下がれない理由があるのだ。

「さっき、すぐそこに女がいただろ。あいつは夏美っつって、もともと男も女もなく付き合ってたダチのひとりだったんだけど、先週急に告白されたんだ」

「わーお、暁さん、モテるんだあ」

 父親と一緒に茶を飲んでいた貴絵が茶化すが、暁はそれどころではない。

「さっきも言った通り、あいつ他数人とは性別なんか関係ないダチ関係やっていて、女として見たことなんかなくて、告白なんかされたところで困るだけなんだよ」

「ならちゃんとそう言って断ったらいいじゃありませんか」

「断ったさ、何度も! そういう風になんか見たことないって。だけど、『ならこれからそういう風に見て』ってあいつも聞かないんだよ」

「なら前向きに検討したら……」

「できないんだよ」

 そこで暁は、海より深いため息をついた。

「あいつには、ずっと昔からそばにいてあいつだけを見てきた幼なじみの慎二って奴がいて……俺は夏美より慎二のほうがよっぽど付き合いが長いから、あいつがどれだけマジで夏美だけを見てきたかよく知ってるんだよ。そんな奴がいるのに、元から好きだった訳でもない夏美をいまさらそういう風になんか見れっかよ!?

 そう。暁にとっては、慎二のほうがよっぽど付き合いも長く、気持ちもわかり過ぎるほどにわかるのだ。だけど、それを夏美に伝えることはできない。これまで黙って夏美だけを想ってきた慎二に対しても失礼だし、真剣に気持ちを伝えてきた夏美に対しても失礼だから。だから、どうにか当たり障りがなくて確実な断り方はないかと考え続けていたのだ。

そんな時に、夕映がやってきたものだから────性格的にはこういうことは貴絵のほうが向いていると思うが、達のこともある。達を裏切るような真似はできないし、万が一真実がバレでもしたら、目もあてられない────渡りに船とばかりについ頼ってしまったのだ。

「そ…それは確かにそうですけど……」

「だから頼む! 夏美が諦めるまででいいから、俺の恋人役やってくんねえかっ!?

 夏美が慎二の気持ちに気付かなかったとしても。それは、慎二自身の問題だから、暁にはもう手の出しようがない。だから、いまはとにかく夏美が暁を諦めてくれれば、それだけでいいのだ。その後、いままでと同じように慰め役に徹しようが告白しようが、あとは慎二自身が決めることだから。

「とにかく俺は、夏美を女として見ることはできないし、これからも見る気はない。あとのことはあいつらふたりの問題だからいいにしても、いまこのままでいられちゃ困るんだよ」

 夏美も慎二も、できることならこの先も友人としてずっと付き合っていきたい。だから、いまここで下手にこじらせる訳にはいかないのだ。

「おめーにしちゃ、ずいぶんマジで考えてるじゃねえか」

 父親が、少々驚いたような顔で茶々を入れてくる。

「たりめーだろ、大事なダチのことなんだから」

 そんな暁の真剣な気持ちが通じたのか、夕映の全身から少しずつ怒気が消えて……真剣に考えているような表情に変わったので、ホッとする。ここで夕映に断られてしまったら困るからだ。

「─────その…夏美さんという方が、暁さんを諦めるまででいいんですか?」

「あ? ああ……」

「暁さんのほうからは、その…慎二さんという方の気持ちもご自分の本心も、おふたりには伝える気はないと。そういうことなんですね?」

「まあな。それは、あいつらの問題だと思ってるから」

 それは暁がやるべきことではないと思っているし、そこまで世話してやるほど暁もおせっかいではない。

「……のなら」

 それまでのはきはきした声はどこへやら、とたんにか細い語尾だけが聞こえてきたので、暁は思わず耳を寄せる。

「え?」

「私で……いいのならって言ったんですっ 恥ずかしいんですから、何度も言わせないでくださいっ!」

 夕映の顔は、もう真っ赤だ。それだけで、夕映がどれだけ男性に免疫がないかわかるというものである。それを見たとたん、暁は何だか嬉しくなって、ほとんど無意識に笑みを浮かべていた。何故なのかは、自分でもわからないのに。

「……ああ。よろしくな、『彼女』ちゃん♪」

 夕映の持っていた湯呑みに、みずからの湯呑みをコツン…とぶつけて、満面の笑みで笑って見せた…………。




    





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2013.1.6up

唐突の申し出は、夕映は元より暁にとっても予想外のものでした。
果たしてふたりはボロを出さずに任務(?)を遂行できるのか?

背景素材「空に咲く花」さま