〔5〕





 どうしてこんなことになったのだろう。

 以前思った疑問を、夕映は再び胸に思い浮かべる。「今晩は一人で夕食だ」と話したとたん、貴絵が「ならトオルも呼んで、みんなでご飯食べようよ」と言ってきたのに快諾したはいいが、先日最悪の出会いを果たしたばかりの相手までついてくるなんて、夢にも思っていなかったからだ。

 最初に抱いた嫌悪感は誤解とわかってからは既にないが、つい最近言われた言葉が夕映の羞恥心を刺激して、彼の前ではどんな顔をしていいかわからないのだ。

『……キレーな脚してんなあ』

 あんな言葉、男性に言われたのは初めてだった。同性には何度も言われたことはあるが、それは女の子同士の単なる社交辞令のようなものだと思っていたし、そもそも男性と友人以上の付き合いなどしたことのない夕映には、十分恋愛対象になり得る同年代の男性にそういうことを言われるのがこんなに恥ずかしいことだなんて、思ってもみなかったのだ────暁を恋愛対象として見られるかどうかは別として、だ。だから、暁や達より先に家に着いてから、貴絵と買ってきた食材をとりあえず袋から出して、「動きやすい服に着替えてくる」と言って自室に入った時には、脚が見える服を着るのが恥ずかしくて、迷わずジーンズを手に取っていた。普段はそんなに好んで着る訳でもないのに。だから。

「あれ、珍しいね、ジーンズなんて」

「う、うん、やっぱり動きやすいしね」

 貴絵に指摘された時も、曖昧に微笑んでごまかしてしまった。そういう貴絵も、下ろすと軽くウエーブのかかった風になる長い髪を軽く束ねていて、仕事中とは別人のようだ。

 下ごしらえを始めたところで、外から聞こえてくる、スクーターとはまるで違う排気音。暁たちが到着したのだろう。

「あ、トオルたちが着いたみたいね」

 いつも父親が車を駐めている場所が今日は空いているから、駐める場所には困らないはずだ。それでも一応出迎えには行かなければならないかと思ったが、先に貴絵が行ったので大丈夫だろう。そのまま夕映は下ごしらえを続け、三人がやってくるのを待つ。

「お邪魔しまーす」

 楽しそうに話しながら、低い声の主たちが入ってくるのを耳で聞きながら、振り返る。

「いらっしゃい、リビングの適当なところに座って待っててくださいね」

「何か手伝おうか?」

「大丈夫、女が二人もいるんだし」

 遠慮深げに提案してくる達に答えながらそちらを見ると、意外そうな表情を浮かべている暁とふと目が合って、何となく気まずさを覚えて視線をそらそうとしたところで、一瞬不可思議な表情をされて────驚いたような、怪訝そうな……? けれど、別に気分を害した訳でもないような、奇妙な表情だった。

 なに? なんなの? 私、何かした?

 そうは思っても、まさか暁本人に訊けるはずもなく、暁のほうに先に目をそらされてしまい、夕映はどうしていいのかわからなくなってしまった。

「夕映? どうしたの?」

 先にキッチンに戻っていたらしい貴絵に、背後から声をかけられてハッとする。

「あ…何でもないわ」

 いったい何がどうしたのかさっぱりわからないが……確かめようもないものは仕方なく、夕映も気を取り直して、調理の続きに戻ることにした。

「貴絵、もうお肉切った?」

「あ、いま切ってるー。夕映、スープの味見てくれない? あたしが作るとどうも大雑把な味になっちゃうらしくてさー、弟たちもトオルもうるさいのよねー」

「お前の味覚が大雑把なんだって」

 達も呆れ顔だが、何だかんだ言ってこのふたりも長く続いているのだから、波長が合っているのだろうなと夕映は思う。

「どれどれ」

 お玉から小皿にとって味を見てみるけれど、確かに大雑把な味わいだ。悪くはないけれど、何にでも大らかな貴絵の性格が表れている気がして、何となく笑えてくる。

「何笑ってんのよー」

「何でもないわよー。…もう少し塩胡椒を入れてみたらいいんじゃないかしら」

 言いながら腰を落として、流しの下の収納から塩胡椒の容器を取り出してから、再び立ち上がる。そのまま料理の話に夢中になってしまったから、そんな自分を背後から見つめている存在がいることになど、まったく気付かなかった。後でそれを知って、夕映本人はめちゃくちゃ恥ずかしい思いを味わうことになるのだが、それはまた別の話。

「そっち、どう?」

「んー、後はお皿に盛り付けるだけかな」

「そう、じゃあお皿出してくるわね……」

 言いながら、夕映がくるりと振り返って、歩きだそうとした瞬間。夕映の足元に目をやった貴絵の表情が一瞬にして凍りついた。それに気付いた夕映がどうしたのかと問いかけるより早く、貴絵が切羽詰まった声を上げた。

「ゆ…夕映っ あ…んたの、足元…っ」

「え?」

 夕映が履いている愛用のグリーンのスリッパのそばにあった────否、いたのは。一瞬ボタンかと見まがうような、黒光りする物体…………。

「ゆ…ゆゆゆゆゆっ」

「お、落ち着くのよ、貴絵っ 警察学校で習ったじゃない、人質をとってる犯人の対処法っ あ、あれと同じよっ」

 いくら武芸に秀でていて、多少のことでは動じない精神力を身につけたといっても、プライベートでは二人とも普通の女の子なのだ。突発的な、女の子が基本的に苦手としている弱点まで、克服しきれた訳でもない。それでも、何とか動揺を最低限に抑えて、できるだけ冷静に二人は会話を交わす。

「な、なるべく刺激しないように、できるだけ静かな動きと声音で行動する、だっけ」

「そ、そう。ちょっと…待ってて。いま、道具取ってくるから……」

 道具、とは蠅たたきのことだが、「武器」と言いたいところをそう呼んだのは、とにかく相手を刺激しないため、だ。ゆっくりと…そろりそろりと足を動かしながら、足元のソレから視線をそらさないようにして、後ずさるようにキッチンとリビングとの境目へと向かう。蠅たたきは、いつもそのへんに置いてあるのだ。

 少しずつ…ゆっくりと後ずさりながら、残りの距離を推測する。もう少し…もう少しだけ後ろに下がれば、蠅たたきのある場所にまでたどり着けるはずだ。そう思いながら、剣道で行うすり足のごとく進んでいた夕映の肩が、固い何かにぶつかってそれ以上進めなくなる。

!?

 えっ 何っ!? あたしまっすぐ下がってきたわよね、前に見える風景からしてこんなところに壁や家具はないはずだけどっ なのに何でこんなところに障害物があるの!?

 焦りを覚えながらも、何とか冷静に障害物の正体を見極めるために振り返りかけた夕映の目前で、先刻まで自分がいた位置のすぐそばにいたはずのソレが、こちらに向かって動き出し始めたのが見えたっ!

「やだうそ、こっちこないでよ、ばかーっ! ちょ、何よこれ、邪魔よ…」

 障害物の正体を確認するより早く、こちらに向かって迫ってくる黒い物体に、夕映はもうパニック寸前だ。普段の彼女からはめったに出ないであろう切羽詰まった悲鳴にも近い声を上げながら、後方の障害物を押して退かそうとするが、びくともしない。前方と後方と、どちらを見ていいかわからず、あたふたと焦り始めた夕映の身体が、ふいに宙に浮いて……何が起こったのかと思っているうちに、黒いソレはスリッパを履いた夕映のものではない別の誰かの足の間を通り抜けて、その後方へと走り抜ける。足の主はまるで動じていないのか、動く気配すら見せなくて。

 え…誰これ、もしかしてトオルくん? なら冷静なのも頷けるか、な……。

 夕映がそう思いながら、普段より高くなった視線の先、夕映を抱き上げているらしい誰かの肩越しにその背後を見やったとたん、夕映の腰をつかんでいる誰かが唐突に叫んだ。

「まかせた!」

「はいっ!!

 それと同時に、棒状に丸めた新聞紙で黒い物体を思いきり叩く、誰かの姿。その茶色い髪には、見覚えは山ほどあって……。夕映の視線に気付いたのか、夕映にとっての恐ろしい敵を仕留めてくれた相手が、笑顔で顔を上げる。

「あ、安心してくれ。コレは夕映ちゃんちの新聞じゃなくて、暁さんが読み終わったスポーツ新聞だから」

 夕映の言いたいことはそういうことではなくて…。達がそこにいるということは、自分を恐らく抱え上げているこの人物はいったい……?

「……しっかし軽いなー。ちゃんとメシ食ってんのか? 警察官なんて特に体力勝負の職業だろ?」

 眼下から聞こえてくる声に、思わず視線を落とすと。そちらからまっすぐこちらの顔を覗き込んでくるのは、鋭い双眸の男性で─────。

「………………」

 夕映の細腰に巻きつくように回されているのは、力強い二本の腕で。その腕が、夕映の身体全体を何の苦もなさそうに抱え上げて、床から10センチ以上離れている地点で留まっている。

 え……これって…どういう状況─────?

 だんだんと冷静になった思考回路が再び働き始めて、夕映はいまになってようやく、自分が現在置かれている状況に気付いた。

「きゃああああっ! 下ろしてっ 下ろしてくださいっ!!

 自分でも、信じられないほどの声が出てしまった。

「ひとの耳元でいきなりんなデカい声出すなっ! 下ろしゃいいんだろっ」

 苛つきを多分に含んだ声の主が、口調とは裏腹に信じられないぐらいの丁重さで、夕映の身体をそっと下ろしてくれる。

「ゴキにビビるなんて女の子らしくて可愛いかと思いきや……あー、やっぱり可愛くねえ」

 これにはさすがに夕映もムッとした。

「可愛くなくてすみませんでしたねっ」

 が、ティッシュを何枚にも重ねて例のモノの後始末をしている達が視界の端に入ったとたん、一瞬冷静になる。

「でも……助けてくれて、ありがとうございました…………」

 さっきのいまでいきなり素直になるのは、何だか恥ずかし過ぎて、つい語尾を濁して言いながら背を向けてしまったから。その背後で、暁がどんな表情を浮かべているのかは、わからない。

「さ、さあ貴絵、残りを片付けちゃいましょっっ」

 言いながらパタパタと流しのほうへと戻って、調理の続きを再開する。貴絵はというと、何となく意味深な笑顔を浮かべているので、どうも居心地が悪い。

「…何よ」

「んー? べっつに〜♪」

 まったく、意味がわからない。

 それから間もなくして夕食も出来上がって、テーブルへと並べ始める。

「はい、できましたよ〜。集合集合っ」

 貴絵の声に反応してやってきた男どもが、テーブルの上で所狭しと並んだ料理を見て歓声を上げた。

「おーっ すげー、美味そうじゃん」

「さすがに夕映ちゃんと一緒に作れば、貴絵の料理も繊細に見えるな」

「ちょっとトオル、それどういう意味!?

 貴絵も自覚があるのか、顔と声は半ば笑っている。人数分のスープ皿を盆に載せて夕映がテーブルにやってきた時には、既に三人は席についていて、夕映が座る席は貴絵の隣…暁の真正面しかなく。さすがにさっきの出来事の直後では何となく気まずいが、他に空いていないのだから仕方がない。なるべく平静を装って、席につく。

「それでは。いっただきまーすっ」

 貴絵の声を号令にして、皆で食前の挨拶を述べてから食事を始める。男性陣はさすがに腹を空かせていたのか、スピードがこちらの二人とは段違いだったので、夕映は驚いてしまった。夕映にも兄はいるが、成長期の頃もここまで食欲旺盛でなかった気がする。

 そのうちに、かけられる声。

「これ美味いな。こんなん、初めて食ったよ」

 暁の声だった。

「ああそれ、夕映が作ったの。昔からの得意料理なのよねー」

 貴絵が答えると同時に暁がこちらを向いたので、一瞬どきりとしてしまう。

「へー。意外に料理上手いんだな、見直した」

「い、意外って何ですかっ」

「褒めてんだから、素直に受け取れよ。ったく……」

 先刻告げた礼が耳に届いていたのか、今度は暁も「可愛くない」とは言わなかった。その事実が、夕映の心をますます落ち着かなくさせる。何故なのかは、自分でもわからないのに。

 「可愛くない」なんて……いままでだって、さんざん言われてきた言葉なのに。何でこの人に言われると、いまさら胸が痛くなるんだろう──────。

 いままで言われたのは、ほとんどがプライベートの時ではないという事実に、夕映自身まだ気付いていなかった。もしこの時気付いていたとしても、やはり理由がわからなくて悶々とするのには間違いなかっただろうが……。

「そういやあ。家の人がいないって、ご両親はともかく、きょうだいとかもいないのか?」

 唐突に、普通の世間話を振られたので驚いてしまう。

「兄と姉がいるにはいるんですけど……兄のほうは就職してから一人暮らしを始めてて、姉はチャンスとばかりに彼氏の家に泊まりに行っちゃって」

「ならあんたも彼氏のとこにでも行っちゃえばよかったのに」

「そ…そんな真似、できますかっ」

「暁さん暁さん、夕映ってばフリーだから、そんな相手もいないんですよー」

 夕映はそういう意味で言ったのではないのだが……貴絵が見当違いなフォローを入れる。

「暁さんももしフリーだっってんなら、このコなんてどうです? すれてなくてお買い得ですよー」

 お…「お買い得」とは何たる言い草だ!

「いやあ、やめとくわ。女の子としてはかなりいい線いってるとは思うけど、バイク乗るたびにスピードやら何やら監視されるのはちっと…なあ」

「あ、それはやりそう」

 けらけらけらと貴絵が笑う。

「おい貴絵、本人の意思を訊きもしないで話を進めるなっての。お前は見合いを仕切りたがる親戚のおばはんか」

「おばはんって何よーっ」

「そうにしか見えないっての」

 そのまま貴絵は達と軽口の応酬に入ってしまって、夕映たちのことをすっかり忘れてくれたようなので、夕映はほうと安堵の息をつく。

 陽香の両親と腹を割って話して、ようやく未来へと目を向けられるようになったのは、ほんのつい最近のことなのだ。そうすぐに頭を切り替えて考えられるものでもない。それは、誰が相手でも同じことだ。

「ところで貴絵、おかわりくれ」

 貴絵との軽口は慣れたものの達が、貴絵に向かって空になった茶碗を差し出している。それを見てハッとした夕映は、自分の目前に座る暁に向き直って口を開く。

「早…坂さん、おかわりは?」

「あ、ああ、俺ももらうかな……悪いな」

 驚いたような表情で暁がこちらを見たので、夕映のほうこそ驚いてしまう。そういえば、暁のことを名前でちゃんと呼んだのは、これが初めてだったことに気付き、更に驚きながらもなるべく顔に出さないようにして茶碗を受け取る。

「……ところでさ」

「え?」

 達の分をよそった貴絵からしゃもじを受け取りながらそちらを見ると、何となく言いづらそうな顔に見える暁が、やはり言いづらそうに言葉を紡ぐ。

「その…『早坂さん』ってのやめてくんないかな。親父と一緒に仕事してるせいで、そう呼ばれるとややこしくて仕方ねえんだよな」

「じゃあ…何と呼べばいいんですか?」

 まさか、「早坂ジュニア」などと呼べという訳ではないだろう。

「『暁』でいいよ。周りの奴らはみんなそう呼ぶし。名字で呼ばれるのなんて、銀行とか役所とか陸運支局ぐらいしかねえからさ、そう呼ばれるとまだ仕事してる気分なんだよな」

 それは……わかる気がする。夕映も、制服を着ている間は、たとえ定時を過ぎたとしても仕事が終わった気がしないから。

「じゃあ……『暁さん』、と呼ばせていただきますね」

 身内以外の男性を名前で呼ぶのなんて、達以外にはほとんどなかったから、何だか気後れしてしまう。

「ああ」

「それなら、暁さんも夕映のことを名前で呼べば?」

 貴絵がとんでもないことを言い出したので、夕映は危うく左手に持った茶碗を取り落とすところだった。

「何言い出すのよ、貴絵っ」

「だーって、夕映が名前で呼ぶのに暁さんは名字のままって、何か片手落ちじゃない。それとも年上の人にそうさせて、夕映は平気なの?」

「…っ」

 それを言われると、普段から礼儀を重んじる夕映としては弱い─────仮に警察官という職に就かなかったとしても、性格上そのへんの性質は変わらなかっただろうから。

「そ…それは確かにその通りだけど……」

「ね? だから暁さんも、夕映のこと名前で呼んでみて?」

 達も同じことを思っているのか、今度は何も言わない。

「貴絵ちゃんと同じように呼べばいいのか?」

「そうでーすっ だって夕映とあたしって暁さんからしたら似たような立場だし」

 頭では納得したらしいが、感情のほうがついていかないのだろう。暁も先刻よりもっと言いづらそうな表情で、思案に暮れているようだった。

「ほんじゃあ……『夕映、ちゃん』って呼べばいいのかな──────?」

 夕映に問いかけるというより、自分自身に確認しているような言い方だった。達以外の同年代の男性にそんな風に呼ばれたのはほとんど初めてなので、夕映の全身がとたんに緊張感に包まれる─────達については、そう呼ばれ出した頃は既に貴絵と付き合い始めていたから、意識することもまるでなかったので気楽なものだったが、暁は違う。何というのか……背中がむず痒いような、気恥ずかしいような、変な感覚だった。

「か…構いません。はい、おかわりです…」

 答えながら茶碗を渡すと、暁も何だか奇妙な表情を浮かべている。恐らく夕映と同じような感覚を味わっているのだろう。

「あ、サンキュ…」

「じゃ、それで締めってことで、皆さまお手を拝借」

「『伝七取物帳』かっての」

 達の素早いツッコミに、その場がどっとわいた。





    





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2013.1.5up

何だか丸々一話ご飯話で終わってしまったような…(笑)
『伝七取物帳』がわからない方は、
検索するか親御さんに訊いてみてください。
少しずつ暁と夕映の距離は近付いているのかな?
 まだまだ初心者?

背景素材「空に咲く花」さま