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 少しずつ、暖かさを増していく春のある日。


「お久しぶりです、暁さん」

 実家でもある二輪車専門店のガレージで客の二輪の整備をしていた暁は、唐突にかけられた声に思わず顔を上げる。そこに立っていたのは、やわらかそうな茶色の髪の、眼鏡がよく似合うインテリ風の青年だった。見覚えは、これ以上ないというほどある。

「あれ、トオルくんじゃんっ 珍しいな、こっちに来るなんて」

 父の友人の息子であるトオルこと志野田達(しのだとおる)は、暁より二歳ほど歳が下で、妹しかいない暁にとってはまるで弟のような存在だった。二輪に乗らないために店のほうには滅多にやってこないというのに、珍しく顔を出した弟分に、暁の表情も自然にほころぶ。高校を卒業してからほとんどすぐ整備工に就職した暁と違い、検事か弁護士になるためにそこそこのレベルの大学に入学した達は、見た目と等しく中身もなかなかの秀才だが、暁とは昔から何故だかウマが合うのだ。

「いや、最近貴絵がお世話になったと聞いたもんで」

「あー、貴絵ちゃんな、売上にご協力いただいてあざーすっ」

 達が高校時代から付き合っている彼女だという貴絵は、暁と性格的にタイプが似ているらしく、初めて会った頃から意気投合してしまって、達を驚かせたこともある。

「しっかし、貴絵はともかく、夕映ちゃんまで買うと思ってなかったんで、話を聞いた時には驚きましたよ」

 夕映、という名を聞いて、暁の眉が一瞬ぴくりと動いてしまう。確かに彼女にも商品をお買い上げいただいたが、いかんせん第一印象が最悪過ぎた。その後、暁の内面を知ってちゃんと謝ってはくれたものの……どうも貴絵の時のように、打ち解けられないのだ。悪いコではないとは思うのだけど。

「ああ、彼女との出会いの話も聞きましたよ。なかなかユニークな出会いだったようで」

「…思い出させねーでくれや、いまでも腹立つんだから」

「でも、彼女も一見とっつきにくそうに見えて根はいいコだから、仲良くなれそうでしょ?」

「あー……」

 他人事だと思ってのん気なことを言ってくれると、暁はそっと思う。

「そういやあ……トオルくんも彼女と知り合いなのか? 貴絵ちゃんとは同僚だって聞いてるけど」

「中学・高校と一緒だったんですよ。親しくなったのは、高校に入ってからですけど」

「へえ…彼女さ、昔からああいう性格なんか?」

「と、言いますと?」

「いや…族と聞いたらすんげー勢いで罵倒するような、さ」

 いくら交通課の婦警で真面目な性格といっても、あれはちょっと行き過ぎではないかと思うのだ。

「ああ……彼女は、二輪…というか暴走族にトラウマを持っているから…………」

 トラウマ? 偏見とかでなくて? それ以上は自分が言うべきことではないとでも思っているのか、達はその先を語ることは決してなかった。

 ちょうど整備が一段落ついたこともあって、「茶でも入れようか」と言いながら暁が立ち上がりかけたところで、脇からかけられる声。

「もしかしたら、ふたつ追加かも知んねえぞ」

 机に向かって書類整理をしていた父親だった。

「え?」

 自分の背後を顎で示す父親の視線を追って、振り返った暁の視界に飛び込んできたのは、店の駐車場に乗り入れてくるミニパト。運転をしているのは、いままさに噂に出ていた貴絵で……その助手席に乗っている夕映は、厳しい表情で何ごとかを貴絵に訴えているようだったが、貴絵は涼しい顔でそのまま駐車場にミニパトを停車させて、シートベルトを外して運転席から降りてくる。

「どおもーっ ちょうど通りかかったらトオルの姿も見えたから、ついつい寄っちゃいましたー」

 けろっとして言う貴絵は、きちんと警察官の制服を着ているにも関わらず、現役警察官には見えづらい。身も蓋もない言い方をすれば、まるで婦警のコスプレをしている一般女性のようだ。

「貴絵! いまはまだ勤務中なんだから、ダメだって言ってるでしょう!?

 たしなめるような口調と表情で助手席から降りてくる夕映も、もちろん制服を着用しているが、こちらはその全身から醸しだす雰囲気その他からかちゃんと婦警に見える。というより、二人の制服姿を見たのはこれが初めてであったことに、暁はいまさらながらに気付く。

 ああ、そういえば……あっちのコはともかく、貴絵ちゃんのも見たことなかったなあ。みんな同じ制服だってのに、スタイルがいいからかなあ、グラビアアイドルかなんかみてーだ。んでも……。

「まあまあ、夕映。後は署に戻るだけだし、ちょっとぐらいいいじゃない」

「そういう『ちょっとぐらい』なんて意識がエスカレートして、不祥事に結びついちゃったりするのよっ」

「まあまあ、夕映ちゃん落ち着いて。こいつには俺からもよく言っとくから」

「あーっ トオルの裏切り者ーっ」

 そんな三人のやりとりをじっと見ていた暁は、ちょうど目の高さにあったそれを見つめながら、ぽつりと呟く。

「……キレーな脚してんなあ」

 ほとんど無意識に呟いた言葉に、目前の三人の動きが止まった。

 いままでは、長いスカートを穿いているところしか見たことがなかったから、今日初めてほぼ膝丈のスカートを穿いているのを見たら何だか珍しくなって────しかもご丁寧に脚がよく見えるような肌色のストッキングを穿いているしで、ついしげしげと見つめてしまっていたのだ。ちょうど暁の目の高さにあったせいもあるが、実は暁は女性の胸の次に脚が好きという嗜好の持ち主だったので、つい熱心に視線を注いでしまったということも否定できない。

「な…いきなり何言い出すんですか、セクハラですよ、セクハラっ!!

 明らかに、先刻までとは違う様子で────ハッキリ言ってしまえば、羞恥心全開で顔を真っ赤にして、両手で脚を隠すようにして夕映が叫ぶ。

「んなこと言ったって、しょーがねーじゃん。ちょうど目の高さにあるし、俺がすすんでスカートをめくったりした訳でもなくて、自分でんな丈のスカート穿いてんだから、見てくれと言わんばかりじゃねーかっ」

「好きで穿いてる訳じゃありませんっ 制服なんだから、仕方ないじゃないですかっ」

「だーかーらー、こっちも仕方ねえって言ってんだろー。だいたい、もともとこのポーズでいる俺の目の前にやってきたのはそっちじゃねーか。俺が文句言われる筋合いはねーな」

「お、思うのは勝手だけど、それを本人の前で口にするのが問題なんですっっ」

 口調は厳しいままだが、夕映の顔はもう噴火寸前というほどに真っ赤に染まっていて、もしかしてこのコはあまり男慣れしていないのかもな、などと暁は思った。

「べっつにいいじゃん、夕映。けなされてる訳でもなく、褒められてるんだし。実際、夕映の脚ってすごい綺麗だとあたしも思うわよ? 私服でももっと脚を見せるような服を着ればいいのに」

「……っ!」

 暁に続いた貴絵の言葉に、夕映はもう絶句寸前だ。

「わ…わたし、もう署に戻りますっ 貴絵、いい加減にしないと置いていくわよ!」

 それだけ言い置いて、夕映は慌ただしくミニパトの運転席へと駆け込んでいく。

「あっ 待ってよ、夕映ーっ という訳で、みんなまたねっっ」

 置いていかれちゃたまらんとばかりに、貴絵はその後を追いかけて助手席に乗り込んで手をひらひらと振っている。そのとたん、ミニパトが急発進したので、シートベルトをまだしていなかった貴絵の身体が、座席の上で豪快に体勢を崩したので、その場に残された三人は思いきり笑ってしまった。

「……ほら、ね? 案外可愛いところもあるでしょう?」

 達が誰を指して言っているのかは、暁にも訊かずともわかった。確かに、可愛いといえば可愛いし、あれだけ初心(ウブ)なら異性としてちょっかいでもかけてみたらどんな反応が返るのか楽しみなような気もする。そこまで考えて、暁はハッとする。

 べ、別に俺は、ああいうタイプは好みじゃねえってのに、何考えてんだよっ 俺が好きなのは、もっとノリのいい大人の女だっつーのによ。

 誰に言うでもなく言い訳めいたことを考えながら立ち上がった暁は、その背後で達が意味深げな表情で自分を見つめていることにも、まったく気付けないままであった。



                    *     *




 それから二日ほど経ったある日。実家の近所にアパートを借りて一人暮らしをしている暁は、仕事の後夕飯の買い物をするべく帰る途中のスーパーへと立ち寄っていた。多少は料理も作れないことはないが、面倒だし弁当か惣菜でも買おうかなどと考えながら中を歩いていて、曲がりかけた通路の手前で、思わず驚いてしまう存在を発見して、つい足を止めてしまう。別に疚しいことなど何もないのに。

 それは、スーパーの備え付けのカゴを持った達と、貴絵ではなく夕映の姿。親しいとは聞いていたが、何だか珍しい組み合わせのような気がして、つい様子をうかがってしまう。二人は目前の調味料の棚を見ながら、ひとつふたつ商品を手にとって会話しているようだった。何を話しているのかまではわからないが、楽しそうなその様子が、暁の心を何となくざわめかせる。

 …何だよ。俺の前ではあんなキッツい顔しか見せねえくせに、他の男の前ではあんなに簡単に笑うのかよ。

 達とは中高生からの付き合いだというし、親友の彼氏ともなれば、つい最近最悪の出会いを果たした暁とではそりゃあ比較にならないのはわかっているが、それでも何となく面白くない。暁自身にも、理由はよくわかっていないのに。

 そんなことを考えていたから、背後から近付いてくる存在に、まるで気付かなかった。いつもなら、もっと早く気付くというのに。

「あーきらさんっ 何やってんの?」

 背後から突然肩を叩かれて、暁は不覚にも口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いてしまった。

「あ、ああ、貴絵ちゃんかっ」

「何見て……ああ」

 何も答えないのに、暁が見ていたものに気付いたらしい貴絵は、いつもと変わらない明るい笑顔で暁の手を引っ張りながら、二人のほうへと近付いていく。

「あれ? 暁さん?」

「いまそこで見つけちゃったから、連れて来ちゃったー♪」

「よ、よう…」

 疚しいことは何もないはずなのに、何となく居心地が悪い。

「暁さんも夕飯の買い物ですか? そういえば、この近所で一人暮らしされてるんですよね」

「えっ そうなの?」

 貴絵が、どんぐりまなこを更に丸くする。

「あっ じゃあさ、ねえ夕映、今夜は暁さんも招待しちゃえば? 三人分作るのも四人分作るのも大して変わんないでしょ?」

 いったい何の話だ?

「き、貴絵っ 急に失礼よっ こちらにだってご予定があるかも知れないのにっっ」

「暁さん、今日これから予定ある?」

「いや…メシ食って風呂入って適当にくつろぐくらいか」

 訳がわからないまま、素直に貴絵の問いに答えると、夕映の顔が目に見えて曇りだした。

「今日ねえ、夕映の家の人誰もいないって言うから、これから夕映の家に行って、ご飯作ってみんなで食べようって話してたんですよー。よかったら暁さんも来てくださいよー」

「き、貴絵っ」

 夕映の、たしなめるような声。その響きが、何となく暁の気に障った。

 何だよ。そんなに俺には来てほしくねーのかよ。

 そう思った瞬間、暁の唇が意図せず言葉を紡いでいた。

「構わないぜ、どうせ暇だし。手作りのメシを食わせてくれるってんなら、喜んでご相伴にあずかりたいところだな」

 そう答えたとたんに夕映の表情が焦り出したように見えたので、暁は何となく胸がすく思いを感じていた。そんなに自分のことが嫌なのなら、それを逆手にとってとことん嫌がらせをしてやろうではないかと。それは、小学生の男児が気になる女の子に抱く感情と何ら変わらないものだということに、暁自身まるで気付いていなかった。これまでそれなりに恋愛経験があるにも関わらず、だ。それまでの相手の中に、夕映のようなタイプがいなかったせいかも知れないが。

「ね? 夕映、暁さんもそう言ってるんだし、たまには一人暮らしの男性にあったかい家庭の味を味合わせてあげたいとか思わない?」

 貴絵の駄目押しが効いたのか、不承不承といった感じではあるが、夕映も最後には頷かざるを得なくなったようで、了承の言葉を返してきた。

「よかったねー、トオル♪ いくら親しいあたしたちだって、やっぱよく知ってる男友達も一緒のほうがいいでしょ?」

「まあ…な」

 本気で喜んでいる風の貴絵に対して、達は何か思うところがあるような表情だ。

 それから、好みなどを簡単に訊かれ、買い物を済ませてスーパーを後にする。

「じゃあ、買った物はあたしと夕映のメットインのところに入れて持っていくから、トオルは暁さんの後ろに乗っけてもらって、夕映の家までナビしてってあげてね」

 貴絵の提案に沿って、貴絵と夕映は先日買ったばかりのスクーターに乗って先に行ってしまった。世の中の他のスクーター乗りに比べて走る速度が遅い気もするが、そもそも原付は法定速度が時速30kmで、二人はそれを順守すべき交通課の婦警なのだからそれも納得のことといえよう。

「さて…俺らも行くか。あんまり速く走っても二人より先に着いちまうから、のんびり行こうぜ。そのほうがナビもしやすいだろ。よろしくな、トオルくん」

 いつも愛車に載せている予備のヘルメットを達に渡してから、暁はエンジンをかける。

「はい」

 メットをかぶって、後部座席に達がちゃんと乗り込んだのを確認してから、再び口を開く。

「で? 例の彼女の家はどのへんだって?」

「T町のほうですよ。ほら、最近新装開店したコンビニの近く」

「前は道の向かい側にあったヤツが移転したヤツか?」

「そうです、こっちから行ったら、あの新しいほうの手前で左に曲がってちょっとのとこですよ」

「ああ、わかった。あのへん住宅街だもんな」

 達に両腕でしっかり自分につかまらせてから、暁は愛車のアクセルをふかし、発進させる。頭の中には地図を思い描き、達が告げたあたりの風景を脳裏によみがえらせながら。

 あんまり先に着き過ぎても仕方ないし、交通課の現役婦警なら簡単に走行速度を割り出しそうな気もするので、いつもより少々大人しめのスピードで慎重に運転して────でなくても将来有望な検事か弁護士の卵を後ろに乗せているのだ、無茶な運転をして怪我などさせる訳にもいかない────進む暁の背後から、声が聞こえてきた気がした。

「あ? いま何か言ったか?」

 赤信号で止まった際に振り返って訊いてみたが、達は「何も言ってませんよ」と答えるだけだ。気のせいにしてはヤケにハッキリ聞こえた気がしたが────内容はさっぱりわからなかったが────達が言っていないというのならそうなのだろう。何となく納得のいかない思いを抱えながら、信号が青になるのを見届けてからアクセルをふかす。達がメットの中で再び呟いた言葉に、今度はまるっきり気付かぬままで。

「暁さんって。結構天の邪鬼ですよね」

 暁は、何も知らない───────。


 達に教えられてたどり着いた夕映の家は、予想通り立派な一戸建ての家で。いかにもごく普通の中流家庭の娘だということを、暁にしみじみと実感させた。

 あの性格からして、よっぽどお堅い家の娘かと思ってたぜ。

「はーい、いらっしゃーいっ 調理にはもう取りかかってるから、二人はそのへんに適当に座っててねー」

 貴絵に促されるまま上がって、リビングへと通される。

「貴絵、お前まるで自分ちみたいにふるまうなよ」

 苦笑いしながら言う達に、貴絵は「勝手知ったる他人の家よ」と素知らぬ顔だ。そんなふたりの会話も耳に入っていない暁の目に映ったのは、小学校中学年くらいの少女が二人並んで笑顔で写っている写真の入っているフォトフレーム。片方はいまも面影を残しているから夕映本人に間違いないが、もう一人はどう見ても知らない顔だった。貴絵とは似ても似つかない顔立ちをしているし、貴絵と夕映は中学からの仲だと聞いているから、貴絵ではないのだろうが……ほんのささやかな、何気ない日常の一部を映したらしい写真なのに。何故か暁の心にいつまでも残って、消えることはなかった──────。




    





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2013.1.4up

ようやく達(トオル)登場です(そこかい!(笑))
少しずつ近付いていく、暁と夕映の距離?
心の距離はまだまだ遠いようですけれど。

背景素材「空に咲く花」さま