〔26〕





 翌日の晩、暁はなかなか寝付かれなかった。

 自室のあちらこちらに、数時間前に帰ったばかりの愛しい恋人の痕跡が残っていたからだ。昨夜一緒に眠った布団や枕、今日の昼間、寄り添って寛いだ長座布団、洗面所のタオルに至るまで、夕映の使っているシャンプーの香りが残っていて、それを意識するたびに瞬時にふたりで過ごした時間を鮮明に思い出してしまうのだ。

 昨夜この部屋に入って以来、ずっと緊張して可哀想なぐらいだったけれど……この布団に横たえて、初めてその肌に触れた夕映は、いままでのどんな時よりも可愛らしく、いままでのどんな時よりも清廉な色香を醸しだしていて─────戸惑い恥じらいながらも、暁の与える愛撫に応えて、いままで他の誰にも見せたことのない「女」の部分を開花させていくさまは、予想もできなかったほどに艶めかしく、暁の脳裏にしかと刻み込まれて、もう一生忘れられそうにないほどだった。

 朝になって、シーツに残っていたみずからの初めての証しに気付いて恥ずかしがるさまも、もちろんインプット済みだ。その証しは既に夕映本人の手によって洗われてしまって、現在はもうどこにも存在しないが、それによって暁がどれほど嬉しかったか────それは、何よりも雄弁な、夕映が昨日まで誰のものにもなっていなかったという証明だったから────夕映は知らないだろう。

 あ、やべ。自分で寝た子を起こしちまった。

 昨夜から今日にかけての夕映のことを思い出すだけで、身体の一部が非常に元気になってしまったことを自覚して、暁は思わず枕を抱きかかえてしまう。夕映の髪の匂いがより残っているそれを抱き締めることは、いまの暁には逆効果でしかなかったけれど。

 案の定、脳裏を占めるのは夕映のことばかり。恥じらう表情や笑顔、初めて見て触れた、白い裸体に、そして……いままで知る由もなかった、その背に刻まれた大きく痛々しい傷跡──────。

 その傷跡も、初めは驚いたけれど、いまとなってはただひたすら愛しい。それさえも、いまの夕映を形成している一部だと思えるから。逆にいえば、その過去がなかったら、いまの夕映はまるで違う人間となって、暁とただすれ違うのみだったかも知れない。そう思うと、彼女の過去の何もかもが愛しく思えてくる。


 翌日。隠そうとしても隠しきれないぐらいに上機嫌だったおかげで、父親や母親にさんざん詮索されたりからかわれたりしたが、すべて「ノーコメント」で通した。まあ暁が何も言わなくても、人生の先輩である両親にはとっくの昔にお見通しだっただろうけど。

 その夜、部屋で寛いでいるであろう時間を見計らってかけた電話に出た夕映は、顔こそ見えないものの照れまくっているのは確認しなくてもわかることで、ささいなことで返答に詰まったり言い淀んだりして、可愛らしいことこの上なかった。いま、目の前にいなくてよかったと思う。もしいま手の届く範囲にいたなら、押し倒さずにいられる自信がまるでなかったから。

「身体…大丈夫か? 俺ら男には、女の子の初めての時の辛さは、わかってやれないからさー」

『だ…大丈夫、です。貴絵にはさすがにバレちゃってましたけど……今日は内勤でなくてパトロールの日だったので、運転や手間のかかる作業はほとんど貴絵がやってくれたし…他の署員にもそんなに会うこともなかったので、誰にも何も言われなくて済みました』

 恥ずかしいのか、敬語に戻ってしまっているのは、夕映も恐らく無意識だろう。

「ならよかったけど。まあ、貴絵ちゃんには隠してもしょうがないよなあ。何しろお膳立てしてくれた当人だし。そのうちメシでも奢らせてもらうか、トオルくんも一緒に」

『…そうですね』

 夕映が辛い思いや恥ずかしい思いをしないで済んだのなら、それに越したことはないが。

『それで……』

「ん?」

 自分の考えに耽っていた暁は、耳元で聞こえる夕映の声にハッとする。

『次、というかこれからのお約束なんですけど……これからは、お店のほうで待ち合わせをするんじゃなくて、ファミレスとかにも行かないで、私が暁さんのアパートのほうに直接行って、夕ご飯を作る…というのは、ダメ、ですか──────?』

 あまりにも予想外の言葉を言われて、暁の思考が停止する。

「え…っ」

『あっ 図々し過ぎますよね、いまのは忘れてください、ごめんなさいっっ』

「ち、ちが…っ そうじゃなくてっ それじゃ、夕映のほうに負担がかかり過ぎるんじゃないのか? だって、俺らが逢うのって夕映が次の日休みじゃない日もあるじゃん。なのに、一日働いてきてその上夕飯作りまでって、あんまりにも不公平じゃ…」

『べ、別にご飯を作ること自体は苦じゃないんです。家でもよく手伝ったりするし、母がパートで遅い時は代わりに作ったりもするし』

「でも……」

『それに…そうすれば、暁さんの栄養管理も少しは手伝ってあげられるかなって……自分じゃ簡単なものしか作れないって言ってたし、いつもコンビニのお弁当とかじゃ味気ないとも…言っていたでしょ』

 自分の…ため? てっきり、夕映自身もいつまでも人目のあるところでは寛げない、ということもあるのかと思っていたのに。暁が思っていたよりずっと、暁のことを考えてくれていたのかと思うと、勝手な憶測ばかりしていた自分が恥ずかしくなってくる。

「ありがとう……すげー、嬉しい…………」

 素直に、胸の内を吐露していた。

「なら俺、手伝う。買い出しとかも前の日のうちに済ませといて、夕映の負担が少しでも軽くなるよう…洗い物でも、材料切りでも何でも手伝う。だから……うちで、ゆっくりふたりで過ごしたい…………」

『そんなに喜んでもらえるなんて思ってなかったから、私もすごく嬉しい……ずっと、夢だったの。好きなひとのために、ご飯とかお弁当とか作るの。暁さんはお昼はお母さまの作ったご飯を食べるって言ってたから、お弁当は無理だなって思ってて…。貴絵がね、昔から料理は好きじゃないって言ってたのに、高校時代トオルくんのために時々頑張ってお弁当を作ってきてるの見てたから、すごく羨ましくて。いつか私もそんな風にできたらいいなって、ずっと夢見てて…』

 何と可愛らしいことを言ってくれるのだ、自分の恋人は! 愛しい彼女の手料理。それは、男の夢のひとつに決まっているではないか。いまここにいない達が、無性に羨ましくなってくる。この時、達が別の場所でくしゃみをしたかはさだかではないが。

「それに…」

『?』

「うちで過ごせば、これ以上あのラルフに邪魔されないで済むしな。あの犬、絶対わざと俺らの邪魔しに来てるんだぜ、そうとしか思えねえっ」

 憎々しい思いを隠しもせずに言うと、携帯の向こうで夕映がくすくすと笑う気配。そんな声すら耳にくすぐったくて、いま彼女がそばにいないことがとてつもなく淋しい。

『やあだ、暁さんてば、そんなこと考えてたの? 偶然に決まってるじゃない、気にし過ぎよ』

 夕映には例の夢の話はしていないので────代の思春期の少年でもあるまいに、夕映との初めての夜を心待ちにするあまりあんな夢を見てしまったなんて、恥ずかしくてとても言えなかったのだ────何も知らない夕映はコロコロと鈴を転がすような声で笑う。そんな彼女の様子を耳で聞いて姿を想像するだけで、この上なく幸せな気分になれるから恋とは偉大だ。

「でも…いいのか?」

『え?』

 笑いをおさめた夕映が聞き返してくる。

「俺の部屋になんて来たら…次の日仕事だろうが何だろうが、押し倒さない自信、俺にはないぜ?」

『!』

 そのとたん夕映が黙り込んだのは、携帯を手にしたまま真っ赤な顔で固まってしまったからだろうと、暁は見もしないのに確信していた。

『あ……』

 やがて、夕映がおずおずと言葉を発した。

『暁さんが望むなら…わ、私はいつでも……』

 わずかに声を震わせながら言う彼女の、何といじらしいことか。

「ばっか。俺だけが突っ走ったって意味ないだろ。心も身体も全部ひっくるめてこその夕映が欲しいんだから。夕映が『俺を欲しい』って思ってくれない限り、俺だけの勝手で暴走する気はねえよ」

 自分の欲望だけで突っ走ってしまったら、それこそ夕映の憎んでいた暴走族と同じではないか。

『ほ、欲しいって…!』

 それは、まさに言葉通り。慣れない彼女に直接口にしろとは言わないが、少しでも意思表示をしてくれたなら、すぐにでも抱き締めたいと暁は思っていた。

「そんなストレートに言えなんて言わないから…その時は、何でもいいから態度とかで示してくれたら嬉しいんだけどな」

『ど、努力します……』

 ああもう。ほんとうに可愛くて仕方がない。いままで感じたことのない思いだ────まあ、いままでの彼女は暁と似たノリの女性が多かったからだが。夕映のような正反対のタイプはいままで敬遠していた節もあるが、いざ付き合ってみるとこんなに可愛いとは思わなかった。否、好きになったから、というのが正解か。食わず嫌いとは少々違うが、勝手に苦手意識を持っていた自分が恥ずかしくなってくる。後で聞いたところによると、夕映も同じような思いを抱いていたと聞いて、お互い苦笑いしてしまったのだが。

 そして、いつもと何ら変わりなく、夜は更けていく……。




       *           *     *




 「暁が可愛い婦警と付き合っているらしい」という噂は、慎二や夏美が絡んでいない友人たちにも自然と伝わってしまったようで、終業後、暁のアパートを訪れる友人たちの数が目に見えて増え始めた。

「ったく、毎日毎日メンツを変えて押しかけてきやがって…っ そういつもいつも来てるとは限らねえって言っただろっ!?

 玄関から中に押し入ってこようとする連中を何とか阻止して、ドアの前で仁王立ちになった暁が怒りを隠さずに言うと、半ば将棋倒し状態で倒れていたニ、三人の男たちが、口々に不満をぶつけてくる。

「だってよー、『入院中に付き合い始めたばっかで、恋人らしいことはまだろくにできてないから邪魔すんな』っつって、一向に俺らに紹介する気配ねえじゃんよー」

「そうだそうだっ 俺らだって、可愛い婦警さんに会いてえんだっ」

「それに、『真面目な女は苦手だ』って公言してた暁が惚れるような相手だぜ? やっぱ一度は顔を拝んでみてえじゃねえかー」

 そういえば、まだ友人たちに紹介していなかったことを、いまさらながらに思い出す。ゆえに、一瞬友情に絆されかけた…のだが。

「そしてあわよくば、同僚の婦警さんたちと合コンを!!

「…それが真の目的か」

 ああそうだった。こいつらはこういう奴らだったと、色々と過去を思い出していたその時。暁にとっては一番嬉しい、けれどある意味一番最悪のタイミングで新たな訪問者が現れてしまった。

「暁…さん? 何、やってるの…?」

「!」

 「ちょっと買い物があるから」と言って、少し来るのが遅れていた夕映だった。暁の前で横たわっていた連中がガバッ!と起き上がり、まずは夕映の顔、上半身、そして下半身に視線が移り、それからとたんに色めきたった。

「マジかよマジかよマジかよーっ マジで可愛いじゃんっ」

「しかもすげえ脚線美っ モデルみてえっっ」

「婦警さんの制服着てる時に、叱ってもらいてえっ」

 遠慮も何もなく好き勝手なことを言いまくる友人たちに、暁は思わず頭痛を覚え、夕映はどうしていいのかわからないような表情で、暁と友人たちを交互に見比べている。

「あー、うるせえうるせえっ 紹介は、そのうちみんな集めていっぺんにしてやるから、とにかくてめえら、今日はとっとと帰りやがれっ 近所迷惑もいいとこだっっ」

 興奮している友人たちを後ろからベシベシと叩きまくってから、その向こうで立ったまま固まってしまったらしい夕映の手をそっと握って、力強く引き寄せる。

「夕映、こいつらは気にしないでいいから、とにかく中入れ」

「あ、はい…」

「ひゅーっ 彼女は呼び捨てで自分は『さん』付けーっ?」

「暁ちゃん結構亭主関白ーっ!?

 冷やかすような声に、夕映はもう顔を真っ赤にして爆発寸前だ。

「うるせえ、とっとと帰れっ」

 最後にもう一度一喝すると、「後で紹介する」という言葉が効いたのか、連中はぶちぶち文句を言いながらも帰っていったので、ホッとする。後には、玄関の内側に入ったまま立ちすくむ夕映と暁だけが残された。

「……ごめんな。あいつら、どっからか夕映のことを嗅ぎつけてきたみたいでさ。紹介しろって、ここんとこうるさいんだ。驚いたろ」

 暁とて、夕映を紹介するのは一向に構わない。むしろ、「俺の女だから手を出すな」と、夕映の周囲にいる男ども全員に釘をさして回りたいぐらいだ。けれど、少々人見知りする夕映には、あまり柄がいいとは言い切れない暁の友人たちはまだ厳しいかも知れないと思って────改めて考えてみると、自分の友人たちの中では達や慎二タイプのほうが珍しいのだと、今更ながらに再認識してしまった────ニの足を踏んでいたのだ。

「しかも、このキレーな脚見られちまったしな……いざ紹介となったら、スカートで行かないと奴ら文句たれまくりそうだな。できれば他の男にはあんま見せたくないけどよ」

 言いながら、膝丈のスカートから伸びる夕映の脚をそっと見つめる。

「あ…私が今日スカート穿いてきちゃったから……ごめんなさいっ」

「いや、夕映の脚が見たいって駄々こねたのは俺のほうなんだから気にすんな」

 完全に隠したままでは、我慢できなくなって押し倒してしまいそうだったからこその、苦肉の策だった。毎度押し倒していたのでは、「身体が目当てなのか」と思われそうで、嫌だったから。

「それよか、早く上がりな。疲れただろ」

「あ、はい」

 そう言うと、夕映はそっと靴を脱いで中に上がる。そのまま振り返って腰を落として、靴を揃えるさまを見ていると、ほんとうに普通に育てられてきた品のいいお嬢さんなんだなと実感する。貴絵や達がいなかったらほんとうに、知り合うことすらなかったかも知れない。

「暁さん?」

「あ、いや、何でもない。で、今日は何を作るんだったっけ?」

「好きだって言ってたから、とりあえずビーフシチューにしようかなって思うんだけど」

「いいねえ」

 思わず舌舐めずりをしながら、夕映の指示に従って、しまってあった材料を出し始める。その間に夕映はエプロンを掛け、邪魔にならないようにするためか肩の上で切り揃えた黒髪の一部をバレッタで留め、手や包丁、まな板を洗って準備を整える。

「私、お肉とか玉ねぎを切ってしまうから、暁さんはこのニンジンの皮をピーラーで剥いてくれる?」

「了解」

 テーブルの上に広告を敷いて、言われた通りのことをやり始めると、まな板の上から軽快な包丁の音が聞こえ始めてきた。あまりにリズミカルだったので、何となく鼻歌を口ずさみたくなってくるほどだ。

 ふと思う。友人の「亭主関白」発言に刺激された訳でもないけれど、いつか…いまはまだ早いけれど、夕映と結婚でもしたら、こんな風に一緒に夕飯を作ったりするのだろうかと。初めはふたりでのんびりかも知れないけど、そのうち子どもでもできたら、だんだん賑やかになっていって……。

「…さん。…きらさん。暁さん!」

 怪訝そうな夕映の声に、トリップしていた意識が現実へとたち戻ってきて、ハッとする。

「暁さん? どうしたの?」

「あっ いや、何でもないっ」

「大丈夫? やっぱり疲れてるんじゃ…」

「大丈夫大丈夫っ ただ、ぼーっとしてただけっ あ、これ皮剥けたぞー」

「ありがとう」

 笑顔で受け取る夕映を見て、ああやはり可愛いなあとぼんやりと思う。これでは、今度夕映を友人たちに紹介する時には、何を言われるかわからない。

「後は、炒めたり煮たりだから、一人でも大丈夫よ。のんびり座ってて」

「あ、うん…」

 その場で腰を下ろしたまま、手際よく動き回るエプロン姿の夕映の後ろ姿を、のんびりと見つめていた。こんなささいなことでも、幸せと感じられる幸運を、しみじみと噛みしめながら。

 やがて、ビーフシチューの美味しそうな匂いが、鼻腔をくすぐり始めた…………。



    





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2013.2.19up

少しずつ、お互いに足りないものを
補い合えるようになってきた感じでしょうか。

焦らずゆっくりとといきたいところですが、
それまで暁の忍耐力がもつかどうか(笑)

前回の暁視点のお話から加筆(移動?)してきた部分がありますので、
一部重読まれた覚えのある部分があると思います、どうぞご了承ください。

背景素材「空に咲く花」さま