〔25〕
やわらかな陽射しの中、瑞々しく茂った草原で座り込んでいる夢を。周囲には他に誰もいないけれど、あちらこちらから鳥の声や小動物が動き回るような音がしていて、不思議と淋しさは感じない。自分はどうしてこんなところにいるのだろうと考えながら、ゆっくりと立ち上がったところで、背後の樹から感じる、誰かの気配。 『…誰?』 不審に思う気持ちは芽生えなかった。相手から、何ら嫌な気配を感じなかったからだろうか。人外であるかとかそういうことではなく、自分に対しての相手の視線や空気に不快なものを一切感じなかったから。 くすくすくす。笑い声は聞こえるものの、相手の姿は大きな幹が邪魔をして見えない。その笑い声には、何となく覚えがあるような気がして、夕映は懸命に記憶をさらう。やがて、相手が初めて声を発した。 『よかったね、夕映ちゃん』 『!!』 それはもう、遠い記憶の中に沈みつつあった……生まれた頃から、ずっと聞いていた声。 『はる…!』 名前を呼ぼうとするのを遮るように、再びかけられる声。 『わたしね。ずっと夕映ちゃんのそばにいたんだよ?』 くすくす笑いを交えたその声は、涙が出るほど懐かしい…そのひとの声。 『これからもずっと、そばにいるから……だから、時々でいいから、思い出してね。わたしはずっとずっと、夕映ちゃんとその大事なひとのそばにいるから───────』 相変わらず、姿は見えないけれど。優しいその声は、昔と何ら変わらなくて…………。 『待っ…て、は…!』 消えそうになる気配を追いかけて、大木の幹を回り込もうとするけれども、突然吹きだした風のせいでそれもままならない。 『大好きだよ。夕映ちゃん』 『はる…っ!』 徐々に上空へと向かって吹き始めると同時に、姿の見えない声も、空へと上がっていって……やがて、風の音しか聞こえなくなる中、夕映は懸命に上へ上へと手を伸ばす。 「陽香ちゃんっ!」 ようやくその名を呼べたその時、手を伸ばした先に見えたのは……見覚えのない、天井。一瞬、まだ夢の続きを見ているのかと思って、混乱しかけた夕映にかけられたのは、やはり聞き慣れた声─────もっともそれは、現在に限ったことだったけれど。 「……どうした? 夢でも見たのか?」 隣に目をやると、まだ眠そうな顔をした暁が優しい瞳でこちらを見ていた。 「う、ん…そう……夢、だったんだわ……」 ようやく夢と現実の区別がついたとたん、夕映の瞳から一筋の涙がこぼれた。どうしてかは、自分でもわからない。悲しくなんか、ないのに。 「…悲しい夢だったのか?」 労わるような、暁の声。 「ううん…そうじゃなくて……嬉しい、夢」 そうだ。自分は嬉しかったのだ。もしかしたら、自分の願望が見せた夢かも知れないけれど……一度だけでいいから、再び逢いたいと思っていた陽香に逢えて。そして、そばにいると言ってもらえて。自分が選んだひとを、認めてもらえて──────。 「そ、か。よかったな……まだ、朝になるまでは時間があるから…もう少し、寝てな」 自分のほうこそ安眠を妨害されて眠そうなのに、ひとこともそれにはふれずに自分のことばかり労わってくれる暁の優しさが嬉しくて。そっと、その胸に頬をすり寄せる。とたんに、全身を引き寄せられて、驚いてしまったけれど。 「あんまり可愛いことすると……寝た子が起きちまっても知らねえぞ?」 それが何を意味するのか、経験の少ない夕映にもさすがにわかって、思わず顔を赤らめてしまう。 「ね、寝ますっ」 「よーし…いい子だ……」 やがて耳に届く、規則正しい寝息。静かな暗闇の中に響くそれを聞きながら、夕映ももう一度、眠りに就いた……。 「あ…暁、さん…っ」 どうやらそれは無意識の行動だったようで、名を呼ばれて初めて自分の行動に気づいたらしい暁は、とたんにばつの悪そうな顔を見せた。 「わ、わり……あんまり嬉し過ぎて、調子に乗っちまった…」 その、叱られた子どものような表情があまりに可愛過ぎて、今度は夕映のほうが無意識に、暁の胸に頬を寄せていた。 「お、おい…そんなことされたら、襲っちまうぞ……まだ痛いんだろ」 確かに普段使わないところだからか、身体のあちこちの筋肉は痛いし、どこよりも一番痛みを訴えている箇所もあるが────どこがなんて、とても言えない────それよりも、もう少しで暁と別れなければならないという現実のほうが辛かった。 「か、身体よりも……またしばらく、こうしてゆっくり一緒に過ごせないことのほうが…淋しい、です…………」 恥ずかしくて、暁の顔を見られなくて俯いたままで言うことしかできなかったけれど。暁の耳にはちゃんと届いたようで、しまりのない顔をして夕映の耳元に唇を寄せてくる。 「ゆっくり一緒に過ごせなくて…何だって?」 ちゃんと聞こえていただろうに、わざわざもう一度言わせようというところが、底意地が悪い。そう思い通りになってやるものかと、夕映はふいとそっぽを向いた。が、暁のほうが一枚上手だったようだ。隙だらけになった夕映の首筋に、わざと大きな音を立てて口づけてくる。 「ん…!」 「まったく……無意識に男を煽るのがうまいお嬢さんだよな」 「あ、煽ってなんか…!」 思わず振り返ったところで、待ち受けていた唇に唇を塞がれて、何も言えなくなってしまう。 「無意識だから、よりタチが悪いんだよ……頼むから、俺以外の男にそんなこと言ってくれるなよな」 「い、言う訳ないじゃないですか……あっ」 今度は胸元に伸ばされた手に、思わず声が洩れる。 「寝た子を起こしてくれた責任は…ちゃんと、とってくれよな?」 夕映の胸元のボタンを外すと同時に、顔を潜り込ませていき、また新たに付けられていく紅い印。自然に呼吸が乱れていく夕映を、長座布団の上に横たえて、覆いかぶさるようにして暁は再び優しいキスを落とす。それと同時に、夕映のスカートの中の脚に伸ばされる片手。 「あ…あき、らさん……」 「ん?」 「す、き…です……」 「俺も。誰よりも、好きだよ……」 夕映は、この時のことを一生忘れないと思った。たとえ何があっても、きっと一生忘れないと……思った──────。 けれど、それは決して夢ではない。 「……っ」 歩いたり姿勢を変えるたび痛むそこに、夕映は下腹部をおさえながら思わず座り込みたくなってしまう。けれど、これからすぐに公私ともに大事な相棒である貴絵と共に、パトロールに行かなければならないのだ。 「夕映、大丈夫?」 パトロールに必要な装備を取ってきてくれた貴絵が、自分たちに割り当てられているパトカーの脇でしゃがみ込んでいる夕映に声をかけてきた。 「あ、大丈夫大丈夫」 ほんとうは、大丈夫ではないのだけれど────だって今日の自分ときたら、下腹部以外にも脚の付け根他あちこちの筋肉も痛いし、ほんとうなら今日は休んでしまいたいぐらいだった。さすがに非番明けでそれはできないことだったけれど。 「無理しなくていいわよ。程度の差はあれど、その気持ちはすごくわかるから。運転とか報告はみんなあたしがやるし、今日は駐禁の取り締まりだから夕映はチョークで書き込みだけしてくれればいいから」 「ご、ごめん……」 こんな時は、親友とはありがたいと思ったのも、束の間。 「その代わり、後でどんな風だったか教えてね♪ あたしも自分の時のこと教えるからさ〜」 ……やはり貴絵は貴絵であった。 気を取り直した夕映は、助手席へと座り、貴絵の運転で署を出発したのだが。 「で、今日のルートなんだけど……」 助手席で書類を見ながら、変更事項を伝えようとした夕映だったが、その後の貴絵の言葉によって頭の中が真っ白になってしまった。 「ところでさあ、やっぱり脚の間に何か挟まってる気ぃする?」 「!!」 夕映はこの時、ハンドルを握っているのが自分ではなくてよかったと心底思った。 「アソコに残ってる異物感もだけどさあ、あの感覚のせいで、ちゃんと両脚閉じててもまだガニ股になってるみたいな変な感じするのよねー」 けたけたけた。白昼堂々、お天道様の下だというのに、下品極まりないことを口にする貴絵に、夕映は真剣に頭を抱えたくなった。自分を労わってくれたのももちろん本心だろうが、この手の話題を振りたいがために運転をかって出たのだなと確信する。 「もーっ! そういう話は、プライベートの時にしてちょうだいっ いまは仕事中よっっ」 「何だ、つまんない。せっかく邪魔が入らない密室で二人きりなのにー」 不満そうに唇を尖らせた貴絵だったが、すぐに何か思いついたような表情になり、そのまま人の悪い笑みを浮かべてこちらを向いた。 「…仕事中じゃなきゃいいのね〜?」 「そ…そうよ?」 「じゃあこの続きは終業後にね。今日は暁さんと約束ないって言ってたもんね、楽しみにしてるわ♪」 「っ!」 ほんの数十分前に、訊かれて素直に答えてしまった自分の迂闊さがいまはただ呪わしい。けれどさすがに勤務中にそんな会話を続ける訳にもいかなかったので、どうしようもないのだが、夕映はもういまさらではあるが、グレたくなってしまった…………。 とまあ、そんなやりとりがあったがために、その晩電話をしていた時、自分の身体を気遣ってくれた暁に、 『ならよかったけど。まあ、貴絵ちゃんには隠してもしょうがないよなあ。何しろお膳立てしてくれた当人だし。そのうちメシでも奢らせてもらうか、トオルくんも一緒に』 と言われた時には、微妙な反応しか返せなかった。 直接逢っている時でなくてよかったと、夕映はしみじみと思う。もし直接顔を見られていたら、きっと自分は挙動不審になっていたと思うから。 「それで……」 『ん?』 「次、というかこれからのお約束なんですけど……これからは、お店のほうで待ち合わせをするんじゃなくて、ファミレスとかにも行かないで、私が暁さんのアパートのほうに直接行って、夕ご飯を作る…というのは、ダメ、ですか─────?」 『え…っ』 「あっ 図々し過ぎますよね、いまのは忘れてください、ごめんなさいっっ」 いくら恋人として一歩進めたからといって、いきなりこんなことを言うのはやはり図々しかったかと、自己嫌悪に陥りかけたその時、慌てたように暁が声を張り上げてきたので、驚いてしまう。 『ち、ちが…っ そうじゃなくてっ それじゃ、夕映のほうに負担がかかり過ぎるんじゃないのか? だって、俺らが逢うのって夕映が次の日休みじゃない日もあるじゃん。なのに、一日働いてきてその上夕飯作りまでって、あんまりにも不公平じゃ…』 「べ、別にご飯を作ること自体は苦じゃないんです。家でもよく手伝ったりするし、母がパートで遅い時は代わりに作ったりもするし」 『でも……』 「それに…そうすれば、暁さんの栄養管理も少しは手伝ってあげられるかなって……自分じゃ簡単なものしか作れないって言ってたし、いつもコンビニのお弁当とかじゃ味気ないとも…言っていたでしょ」 『ありがとう……すげー、嬉しい…………。なら俺、手伝う。買い出しとかも前の日のうちに済ませといて、夕映の負担が少しでも軽くなるよう…洗い物でも、材料切りでも何でも手伝う。だから……うちで、ゆっくりふたりで過ごしたい…………』 それほど喜んでくれるとは思っていなかっただけに、こちらもより嬉しくなったのもまた事実で。正直に、胸の内を吐露していた。 「そんなに喜んでもらえるなんて思ってなかったから、私もすごく嬉しい……ずっと、夢だったの。好きなひとのために、ご飯とかお弁当とか作るの。暁さんはお昼はお母さまの作ったご飯を食べるって言ってたから、お弁当は無理だなって思ってて…。貴絵がね、昔から料理は好きじゃないって言ってたのに、高校時代トオルくんのために時々頑張ってお弁当を作ってきてるの見てたから、すごく羨ましくて。いつか私もそんな風にできたらいいなって、ずっと夢見てて…」 それもほんとう。貴絵はとくに手先が不器用ということもないのに、何故か料理だけは不得手に近かったのだ。 『それに…』 ふいに続いた言葉に思わず首を傾げる。 『うちで過ごせば、これ以上あのラルフに邪魔されないで済むしな。あの犬、絶対わざと俺らの邪魔しに来てるんだぜ、そうとしか思えねえっ』 予想もしていなかった名前を出されて、夕映は思わず吹き出してしまった。 「やあだ、暁さんてば、そんなこと考えてたの? 偶然に決まってるじゃない、気にし過ぎよ」 『でも…いいのか?』 「え?」 『俺の部屋になんて来たら…次の日仕事だろうが何だろうが、押し倒さない自信、俺にはないぜ?』 その直前の話題とあまりに違ったので、驚きのあまり携帯を持つ手が震えるが、何とか平静を装って言葉を紡ぐ。 「あ……暁さんが望むなら…わ、私はいつでも……」 そのとたん、穏やかだけれど、まるでデコピンでもついてきそうな声が耳をついた。 『ばっか。俺だけが突っ走ったって意味ないだろ。心も身体も全部ひっくるめてこその夕映が欲しいんだから。夕映が『俺を欲しい』って思ってくれない限り、俺だけの勝手で暴走する気はねえよ』 「ほ、欲しいって…!」 『そんなストレートに言えなんて言わないから…その時は、何でもいいから態度とかで示してくれたら嬉しいんだけどな』 「ど、努力します……」 恥ずかしさのあまり、それだけ口にするのが精いっぱいだったけれど。その夜夕映は、とてつもなく幸せな気持ちで眠りに就いた……。 「夕映、こいつらは気にしないでいいから、とにかく中入れ」 「あ、はい…」 暁に手首をつかまれて引っ張られて、まるでその背に隠されるようにされた時には、何だか大事にされている気がして秘かに嬉しかった。いままで、誰かの「彼女」としてこんな風に扱われたことはなかったから。 「ひゅーっ 彼女は呼び捨てで自分は『さん』付けーっ?」 「暁ちゃん結構亭主関白ーっ!?」 その後の一足飛びの「亭主」「女房」扱いには、恥ずかしさしかなかったけれど。 「亭主」って、普通結婚してないと出ない言葉よね!? 冗談だとわかっているけど……何だか意識しちゃうじゃないーっっ その上、ふたりで夕飯なんて作っていたら、ますます夫婦にでもなったようで、照れを顔に出さないようにするのに非常に苦労を強いられてしまった。だから、暁までそうであったことに気付くこともなく、夕飯作りから食事、後片付けまで、とくに問題なく終わってしまった。 問題────というにはささいなことだが────がなかったといえば嘘になるが、それもあとは夕映の胸先ひとつというか…。食後、暁も手伝ってくれて後片付けを済ませた後、例の長座布団で暁のあぐらの上に座らせられて寛いでいたその時、暁のリクエストで穿いてきていた膝丈のスカートから伸びる夕映の両脚をまんべんなく撫で回されて、何というか気恥ずかしい。「やめてほしい」と訴えれば暁もすぐにやめてくれるだろうし、本人もそう明言していたが、夕映自身も恥ずかしさの中に間違いなく心地よさを感じていて、そんな自分に戸惑っている状態で。 その他は、キスくらいしかされなくて、夕映のために暁が耐えてくれているということは、これまでの経験からわかっている。けれど、どんな気持ちになった時が「暁が欲しい」と思っているという状態なのかわからなくて、結局何も言えなくなってしまうのだ。初めての晩────背中の傷跡に口づけを贈られたあの時は、あんなにもハッキリわかったというのに…………。だからといって、暁や貴絵に訊くことは恥ずかしくてたまらなくて、自分で考えてみようと思うのだが、結果堂々巡りになってしまってどうしようもないというのが現状だ。 どうしたらいいのかな……どうすれば、暁さんにこの気持ちを伝えられるのかな。 そんな、口に出せない夕映の想いは、夜の風に乗ってどこへともなく消えていった…………。 |
2013.2.17up
少しずつ、着実に段階を進んでいくふたり。
けれど夕映の前には、また高い壁が立ちはだかっていて…?
背景素材「空に咲く花」さま