〔27〕





 夕映が誰にも言えない悩みを抱えていたニ日後の夕刻。

暁の実家兼職場では、十数人の面子が集まっていた。その中心で座っていたのは、夕映と暁。周囲をとり囲むのは、つい先日会った二、三人を含む暁の友人たちだ。「紹介しろとあまりにもうるさい友人たちを黙らせるために」暁が設けた席だった。さすがに人数が人数なので、今日は貴絵と達は遠慮している。

「だいたい揃ったかー? ほんじゃ紹介するけど、有川夕映。21歳で、そこの天原署の交通課の婦警やってる。いくら俺のダチだからって、違反したら速攻捕まるからな、そのへんちゃんと覚えとけよ?」

「あ、有川夕映です。至らないところもあるでしょうけど、これからどうぞよろしくお願いしますっ」

 できるだけ丁寧に挨拶をすると、彼らの間からどっと笑いが起こった。けれど決して不快に感じるものではなく、どことなくあたたかいものを感じるそれだったので、ホッとする。

「えーっと、ユエちゃん? ここにいる連中は、暁同様細かいことは気にしない連中ばっかだから、そんなにかしこまんなくっても平気だぜ?」

「いやー、ほんと真面目な婦警さんなんだなあ。暁のいままでの彼女とは大違い」

 その言葉に、暁の片眉がぴくりと上がり、発言者を普段以上に威嚇を込めた目つきで睨みつける。

「これからこいつの前でその手の話題を出した奴は、半殺しな。ついでに言うと、こいつによけいなちょっかいかけたら、その場で全殺し決定な」

「やだなあ、暁ちゃんてばマジになっちゃってー」

「それだけこの彼女には真剣ってことなんだろ、察してやれよ」

 などと談笑していたところで、新たに誰かが出入り口から入ってくる気配。

「おっ 夏美じゃん、遅かったな」

「ちょっと、仕事が長引いちゃってね」

 他の相手と軽い挨拶を交わしながらこちらに向かって歩いてくるのは、かつて夕映と激しい舌戦その他を繰り広げた夏美。いまでこそ本物の恋人同士になった夕映と暁だが、あの時は違う。その後ろめたさも手伝って、夏美をまっすぐ見るのには少々覚悟が要ったが、そっと握られた暁の手の温もりと力強さが、夕映の心に勇気を与えてくれる。

「あ、あの…その節は、大変失礼なことを……」

 謝ろうと、意を決して口を開いた夕映を制したのは、意外にも夏美本人だった。

「ああ、その件についてはお互いさまってことで。もう忘れてちょうだい、いまとなっては私も恥ずかしいことこの上ないんだから」

「何だ夏美、もう会ってたのか?」

「まあ、ちょっとね…それよか、つい最近聞いた付き合い始めた時期が以前と辻褄が合わないけど、その理由は何となく想像がつくから、何も聞かないでおくわ」

 そういえば、夏美には以前会った時にはもう付き合っていることにしていたのだった。

「でもまあ。おさまるべきところにおさまったようだし、いまなら素直におめでとうと言えるわ」

「あ…ありがとうございますっ」

「ところで…奴は、まだ来てないわね? 来た早々で悪いんだけど、私、奴が来ないうちに退散させていただきたいのよ」

 奴、とは、いったい誰のことだろう? 思わず首を傾げた夕映の隣で暁が小さく吹き出したのと、出入り口が再び音を立てたのはほぼ同時であった。

「げっ!」

 振り返った夏美の表情が、露骨に嫌そうなそれに変わる。

「夏美! ちゃんと昨日『一緒に行こう』って言っといただろ? どうして一人でさっさと来ちゃうんだよっ」

 そこにいたのは、やはり見覚えのある慎二だった。けれど、何となく以前とは違うものを彼から感じるのは……果たして夕映の気のせいであろうか。

「あたしは了承してないわよっ 彼氏でもないくせに、勝手に決めないでよね! じゃ、あたしはこれで。夕映さん、今度じっくり女同士の話をしましょうねーっっ」

 言うだけ言って、夏美は慎二の入ってきた出入り口ではなくガレージに続く扉を通って、外へと走り出してしまった。

「夏美っ! あっ 暁、夕映さん、このたびはどうもおめでとうございます。来たばっかりで申し訳ないんだけど、ゆっくり話すのはまた今度ということで…。僕もこれで!」

 言うが早いか、慎二は夏美を追って、再び外へと走りだしてしまった。夕映には、もう何が何だかわからない。茫然としている夕映に説明をしてくれたのは、可笑しくて仕方がないと言いたげな暁だった。

「…あの後な。慎二の奴、夏美に真っ向から告白したんだと。だけど夏美のほうは全っ然気がついてなくて、ただの幼なじみのつもりだったから速攻断ったんだけど、その後の慎二の粘り強さっていったらもうすごかったらしいぜ? 普段穏やかな奴がマジになるとすげーんだな、いまではあの夏美があんなザマだよ」

 確かに…以前会った時のあのふたりの関係は、いかにも気の強い夏美に何だかんだ言いながらも慎二が付き合っている感じだった。けれど、たったいま目にしたアレは……。

「もう、電話でもメールでも毎日欠かさずアプローチしてて、休みとなればもう夜討ち朝駆けの勢いらしいぜ? あの惚れっぽい夏美が、他の男と出会う暇もないぐらいだって愚痴ってたとか何とか」

 同じように慎二と夏美を知っているらしい面子が、皆必死に笑いをこらえながら言うのがまだ信じられない。あまりにも、以前のふたりと違い過ぎて。

 けれど。慎二の変わりようは、ある意味夕映に衝撃を与えた。最後に会った時、慎二は確かに「もう他の男に目を向ける隙なんか与えないぐらい、がんがん攻めていきます」とふたりに語った。けれどまさか、ほんとうにそうなるなんて…思ってもみなかったのだ。

ほんとうに欲しいものを手に入れるためには、なりふりなんて構っていてはいけないのかも知れないと…夕映は思う。自分の体裁ばかり考えているうちは、望むものは手に入らないと。慎二に教えられた気がした。

「───────」

 そのうちに、暁の友人たちもちらほらと帰り始め、夕映は暁と共に、暁の母親が作ってくれた夕飯をいただいてから帰ることになった。談笑をしながら、それぞれの愛車を駐めてある場所に歩いていく途中で、夕映はひとつの決意を固める。

「今日はホント、悪かったな。あいつら、彼女を紹介しろしろってうるせーからさ。帰ったらゆっくり休んで……」

「そ、それなんですけどっ ちょ、ちょっと待っててもらえますっ!?

「あ? ああ……」

 夕映の迫力に気圧された暁の前でくるりと背を向けて、夕映は携帯のアドレス帳に登録してあるかけ慣れた番号に電話をかける。ちょうど電話の近くにいたのか、相手はすぐに出た。

『はいはーい。夕映、どうしたの?』

 肉声でも電話越しでも、耳に馴染みまくった親友の声。

「き、貴絵、あのねっ 唐突で悪いんだけど、今夜私、貴絵の家に泊まることにしてもらってもいいかなっ もちろん明日の仕事はちゃんと行くから」

 それだけで、貴絵には夕映の言いたいことがすぐに通じたらしい。長い付き合いの親友とはありがたいものだと夕映は思う。

『オッケー。じゃあ、もし夕映の家から電話がかかってきたら、いまトイレとかお風呂って言ってうまくごまかせばいいのね、まかせといて』

「うん、ごめんね、お願い。うん…じゃ、また明日ね」

「お、おい、夕映…?」

 暁に口を挟む隙を与えず、今度は自分の家に電話をかける。

「あ、おねえ? 夕映だけど、私今夜は貴絵のところに泊まるから。お母さんたちに、何かあったら携帯のほうにかけてって言っておいて」

『わかったー。たまには、女同士で語りたい時もあるよね、できるだけメールで連絡するようにお母さんにも伝えとく』

 どこまでわかっているかはわからないが、気が利き過ぎているといっていいほどにやけに話が早い姉に、恥ずかしさを覚えながらも電話を切って、夕映は振り返る。その顔は、きっと真っ赤になっているだろうと確信しながら。

「……いいのか…?」

 まだ信じられないと言いたげな顔で問いかけてくる暁に、こくりと頷く。

「は、はい……」

 もう、後戻りはできない。みずから退路を断ったのは、夕映のほうなのだから。暁はまだ戸惑っているようだ。無理もないだろうが、夕映とてもう後にはひけない。不安に思う心が表面に表れていたのだろうか、暁が大きな手を伸ばしてきて、夕映の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「ばーっか、んな不安そうな顔すんなって。夕映がここまでしてくれてんのに、俺が断ったりする訳ないだろーっ!? ただ、びっくりしただけだよ、夕映がそんなにまで覚悟決めてくれるなんて思わなくて」

 やはり、夕映にはなかなか覚悟を決められないと思われていたのか。ということは、暁は再び長期戦に臨む決意だったということで…? そう思うと、自分の不甲斐なさがほんとうに情けなくなってくる。好きな人に、そんな思いをさせていたなんて……。

「し、慎二さんが教えてくれたようなものです…ほんとうに欲しいものを手に入れたければ、自分の体裁になんて構ってちゃダメだって」

「そ、か。迷惑をかけられたこともあったけど、慎二と夏美に感謝だな」

 そう言って暁はにかっと笑う。

「そ、それでですね…私、ちょっと買い物してから行きたいので、先にアパートに行っててもらいたいんです」

「ん。わかった」

 実は買いたいものは下着その他であったりするのだが、暁と一緒になんて買いに行けるはずもない。それを察したのか、暁は「また後でな」とだけ言って、自分の愛車に乗って先に行ってしまった。残された夕映も、あまり待たせてはいけないと思い、急いで自分のスクーターに乗って目的地へと向かった……。


 暁のアパートに着いた時には、当然のことながら暁は既に帰っていて、部屋の片付けも風呂の準備も完璧に終わっている状態だった。そんな中に入っていくのは、「どうぞ美味しくいただいてください」と言っているような気がして恥ずかしかったけれど、いまさらだと思えばある意味怖くはなかった。

そうして、以前よりは寛いで過ごして────これは事前に夕飯デートを経ていた成果だろうか────暁の後に風呂に入ったのだが、入ってからも出てからも、夕映は非常に驚かされる結果になってしまった。何故なら、浴室の中に入れば夕映が使っているシャンプーとリンスその他が用意してあり、出た後に見た暁が貸してくれたパジャマは上衣しかないしで────これはまあ身長差もあるために脚が半分近く隠れるのでとりあえず問題はなかったが、恥ずかしいことには変わりがない。

「あ…暁、さん……」

 とりあえず、顔だけをのぞかせて声をかけると、「ん? どうした?」と言いながら非常に楽しそうに振り返ってきたので、ああこれはわかっててやっているなと確信する。何故なら、風呂に入る前には気付かなかったが、暁が穿いている下穿きが夕映の着ているそれと対になっているものだったから。上にはTシャツを着ているので、目のやり場に困ることはないが。

「な…何で上しか貸してくれないの…?」

「わかってねえな。同じ寝巻の上を彼女に着せて、自分は下を穿く。男のロマンってもんじゃねえかっっ」

 真顔で、拳を握り締めて力説されても…。

「わかる訳ないでしょうっ」

 「まったくもう…」と言いながら、思わず頭痛を覚えて人差し指を眉間にあてたところで、気配を感じて顔を上げると、暁が目前にやってきていて……驚きの声を上げる間もなく抱き上げられて、着ていたパジャマの上衣がずり上がるのを慌てておさえたせいで、文句をつけるタイミングすら逸してしまった。そのまま布団の上に寝かされて、爪先から太腿までまんべんなく撫でられて恥ずかしくなってくる。

「いや俺、いままでどっちかというと女は乳派だったんだけどさ。夕映と付き合い始めてから、脚とか尻もいいなあと思い始めてるんだよな」

「む、胸があまりなくてすみませんねっ」

 面白くなくてそっぽを向こうとしたその時、ふいに唇に落とされる口づけ。

「ばーか、夕映の身体ならどこも好きに決まってんだろ」

 舌を絡められるキスで存分に翻弄されてからふと気付くと、着ていたパジャマのボタンが全部外されていて、下半身どころか下着をつけていなかった上半身まで丸出しにされていた。いつの間に、と驚くけれど、暁は何も言わず、やはり楽しそうに笑っているだけだ。悔しいけれど、これが経験値の差というものか。

「せーっかく夕映のほうから意思表示してくれたんだから、存分にご奉仕させてもらわないとな♪」

 ああもう。どうしてこんなすけべな男を選んでしまったのだろうと思わなくもないが、好きになってしまったものは仕方がない。

 そうして、ふたりの夜は更けていく……。


 思えば、陽香という光を喪ってから、ずっと夕闇の中を彷徨っていた気がする。貴絵や達がいてくれたおかげで、完全な闇ではなかったけれど……それでも、ずっと朝の来ない夜を過ごしていたような、そんな気さえする。けれど、そんな夕映に突然差し込んできた光は強烈で。春の陽射しのようだった陽香と違い、まどろんでいた夕映を半ば強制的に叩き起こすような力に満ちていた。初めは腹立たしく思うことも多かったが、いつのまにかそれがあるのが日常になっていって……失いたくないと思い始めたのは、いったいいつのことだったか。

 陽香と一緒に死んでしまえばよかったかも知れないと、思ったこともあった。けれどいまは、生きていてよかったと……心から思う。

「…………」

「どうした? まだ痛むか?」

 それまで恥ずかしがりながらも声を上げていた夕映がふいに黙り込んだことに気付いて、わずかに呼吸を乱した暁が声をかけてくる。心配そうな暁に、夕映は即座にかぶりを振って…目元に涙をためながら、微笑んでみせる。

「ううん…暁さんと出逢えて、よかったなって…思って…………」

 暁はそれ以上は訊こうとはしなかったが、夕映の言いたいことが通じたらしい。そのまま無言で微笑んで、そっとキスを捧げてくれる。唇から、キス以外の何かが伝わってくる気がして、夕映はぎゅ…っと暁を抱き締めた。暁の手は夕映の背をまさぐり、そこにある傷跡を優しく、慈しむように撫でてくれる。そんなことさえ嬉しくて、夕映の瞳から一筋の涙がこぼれた。

「……夕映。愛してる──────」

「私も…………」




──────これから先、辛いこともあるだろう。死んでいたほうがマシだったと思うこともあるかも知れない。だけど、自分はきっと諦めることはないだろうと確信できる。どんなに辛いことがあったとしても、終わらない夜はないと知っているから。
 明日は必ずやってくると、誰でもないこのひとが教えてくれたから………………。



  





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2013.2.21up

ついに、最終回です。
夏美と慎二のその後のフォローを、と思ったら、
市原を入れられませんでした(苦笑)

そのうち番外編で幸せにしてあげようかなあ。
それでは、『それ朝』本編これにて終了です。
最後までお付き合いいただき、
ほんとうにありがとうございました。

背景素材「空に咲く花」さま