〔22〕
「─────夕映」 「『ユエ』とは、中国語で『月』を意味する言葉らしい」と暁に語ったのは、かつて暁と彼女を競い合った恋敵の青年。その時は、単に「似合うな」と思っただけだったが、こうして月光の中でかつてない美しさを見せる彼女は、その言葉通り、普通の人間とは思えないほど…月の精霊だといっても過言ではないぐらい清廉な美しさを放っていて。自分ごときが触れていいものかと、暁の心に迷いさえ生じさせる。ここで、こうして彼と過ごすことを、彼女自身が望んだと解っていてもだ。 「暁、さん……」 月光を音にしたらこんな風ではないのだろうかと思えるほどに高く澄んだ声が、彼女の唇から紡がれる。みずからの名を呼ぶその声に勇気を得て、ゆっくりとその頬に片手を伸ばす。 「ほんとうに…後悔しないか……?」 自信がない心そのものの声で問いかける暁の前で、彼女はこくりと頷いて……みずからの着ていた、ゆったりとしたデザインのワンピース────薄手のものであるが故に、月光がその中の身体のラインをくっきりと浮かび上がらせ、かえってその身の細さを際立たせている────の胸元のボタンを細い指先で外し始める。それと同時に、服で隠れていた部分の白い肌が目に飛び込んできて、自制心などどこかへ吹き飛んでしまった。 「夕映!」 その細い手首をつかんで引き寄せて、強く強く抱き締める。もう、我慢はできなかった。愛の言葉をささやくことももどかしく、まるで貪るかのようにその唇を奪った瞬間、暁は異様な感覚に襲われた。いままで、幾度も口づけを交わした彼女の唇の感触が、これまでとはまるで違うものに激変したからだ。滑らかな質感だったはずの唇は、日向の匂いのする毛足の長い毛布のようなそれに────両腕で抱き締めたやはり同じような質感のはずの肌も、似たような感触に。一瞬にして変わっていたのだ。 「!?」 驚きのあまり、唇を離して目を開けた暁の視界に飛び込んできたのは、見慣れた艶やかな黒髪ではなく、見覚えはあるがそれほど馴染みのないやわらかそうな茶色の毛並み。それが、実に嬉しそうに尻尾を振って────彼女にはあるはずのないものだ────いまや暁にのしかからんほどに迫っている。その口元からは長い舌がせわしなく出入りしていて、暁の顔中を舐めまくり、その喉からは元気のいい鳴き声が響き渡った…………。 「わああっ! ラ、ラルフっ!?」 「ゆ、め……」 起き上がりながら、目覚まし時計を見ると、それが鳴りだす時間まではあと10分ほど早い時間だった。それから、すぐそばの壁にかけられたカレンダーを見ると、赤い丸に囲まれた今日の日付が目に入った。いくら、心待ちにしていたからといって、あんな夢を見てしまうとは……自分はどれほど欲求不満なのかと情けなくなってくる。しかも、オチにはラルフのご登場とは…。よほど、邪魔をされたのが悔しかったのか。 恥ずかしくて火照ってくる顔を冷ますのも兼ねて、洗面所に行って顔を洗う。まだ水が冷たい時期だが、いまの自分には心地よい。着替えを済ませて、部屋のあちこちの片付けを始める。もともと今日は、いつもより少し早めに起きて部屋の中を小奇麗にしておくつもりだったのだ。いくら独身男の一人暮らしといっても、大切な彼女を初めて上げるのに、汚いままでいられるはずもない─────いままでは、自分の理性が決壊することを恐れて、ここには絶対入れないようにしていたのだ。こんな、他の誰の邪魔も入らないようなところに彼女を招き入れたら、自分は絶対押し倒すに違いないから。彼女の決心が固まっていないであろううちに、そんなことにはさせたくなかったのだ。 けれど、今夜は違う。何せ彼女のほうから、「泊まりに来てよいか」と問うてくれたのだ。それの意味するところは、ただひとつしかなくて…………。 落ち着けよ、俺。相手は初心者だぞ。自分の欲望のままに突っ走ったりするんじゃねえ。 そう繰り返し自分に言い聞かせながら、ある程度納得できるほどに部屋を片付けてから、朝食を食べて家を出る。今日の終業後は、いつものように暁の職場兼実家ではなく、こちらに直接彼女が訪れることになっている。さすがにその後のことを考えると、暁の家族に会うのは恥ずかしかったのだろう。彼女のそんなところも可愛くて、もうどうしようもない。 さすがに布団はそのままというのも気がひけたので、出がけにベランダ────と呼べるほど上等なものでもないが────の手すり部分に干して、昼休みにあたる時間に適当な理由をつけて取り込みに来る予定だ。何しろ職場兼実家はアパートから10分ほどしかかからない距離だし、今日は一日快晴だと天気予報も言っていたので。 ともすれば浮かれまくりそうになる気持ちを懸命に平静に保って、いつものように仕事をこなし、夕刻やはりいつものようにアパートへと戻る。あらかじめ伝えておいた駐輪場の端で、先に着いていたらしい夕映が、暁の姿を認めて不安そうだった瞳と表情を明らかに安堵の色に塗り替えた。そんなささいなことさえ嬉しくて、口元に笑みを浮かべてヘルメットを外した。 「とりあえず、荷物を部屋に置いてからメシ食いに行こうぜ」 「あ、はい……」 敬語がとれてからしばらく経つというのに、それでもまだ自然と出てしまうのは、やはり彼女も緊張をしているのだろう。暁とて、それなりに経験があるとはいえ緊張しているのだ、初めてのこと、それも受け身でしかない女の子の心情は、暁には想像すらできない。見ていて可哀想なぐらいガチガチになってしまっている彼女に、痛々しさすら覚えるが、そもそも自分が初めての相手だという女性と付き合ったことがない暁には、何をどうしてやればいいのかなど見当もつかなくて、とにかくいつも以上に丁重に、優しく接してやることしかできない。 「あれ? それだけでいいのか?」 いつものファミレスで、いつもより明らかに少なめな量の料理を選ぶ夕映に、驚きを隠せない。 「え、ええ…今日は、そんなにお腹がすいてなくて」 一日働いてきて、そんなはずはないだろうにそうとしか答えない夕映のために、暁は一度閉じたメニューを開き直して、最後のほうのページで紹介されているデザートを見やる。 「あー何か俺、今日は甘いもの食いてえなあ。でもひとつ丸々までは要らねえんだよな。夕映、半分食べてくんねえ?」 「えっ」 「それくらいなら、メシの後でも入るだろ?」 そうでもしないと、夕映は自分で頼んだものすらろくに食べられないかも知れないと思ったからこその、ささやかな嘘。そんな暁の思いが通じたのか、夕映は小さな声で「じゃ、じゃあ半分だけなら…」と答えた。呼び出しボタンを押して呼んだウェイトレスに注文を告げ、出来てきた順番から適当に食べ始めるが、やはり今夜の夕映は口数が少なく、どちらかというと暁の話の聞き役になっていることが多い。 こんなにも緊張して、可哀想にと思う反面、ここまで来て逃がしてなるものかとさえ思ってしまう自分に、嫌気が差してくる。けれど、夕映の性格からして、このまま普通に帰らせてしまったら、自分に何か落ち度があったのかとよけいに気に病みそうな気がしないでもないので、自分の中の罪悪感はこの際甘んじて受けとめることにして、予定通り進めることにする。 何とか夕映にデザートの半分を食べさせることに成功して、再び自分の二輪にふたりで乗ってアパートへと戻る。テレビをつけて、明るい笑い声の絶えないバラエティ番組をあえて流しながら、風呂を沸かし始め、その間に今日持って帰ってきた洗濯物を洗濯機に放り込んで────作業着は、「父親の物のついでに洗うから」と言う母親に従っていつも置いてきているので、中に着ていたTシャツやタオル類だが────洗剤と一緒に回し始める。夕映はその背後で、持ってきた荷物の整理をしているようだった。暁にも年頃の妹がいるからわかるが、女の子とは泊まりの際には何かと荷物が多くなるものらしい。 「風呂、そろそろ沸くけど、先入るか?」 その声に、夕映が目に見えてぴくりと反応する。 「あ…私、多分時間かかっちゃうと思うので、お先にどうぞ」 「そか? じゃあ、遠慮なく…」 あまりにも、緊張しまくっている夕映の様子に、もう少しリラックスさせられる方法はないものかと、湯船に浸かりながらぼんやりと考える。けれど、いい方法は思いつかない。ペットでもいれば場が和むのかも知れないけれど、ここはペット禁止のアパートである。やはり、とことん優しく接してやるしかないかと思いながら、暁は湯から上がった。 夕映が風呂から上がって身支度を整え終える頃には、十分夜も更けてきていて。ぼんやりと眺めていただけで内容などろくに頭に入っていなかったテレビを消すと、何となく気まずい静寂に包まれる。 「おいで」 そう優しく声をかけながら手を差し伸べると、新品のものらしいパジャマに身を包んだ夕映がゆっくりと歩み寄ってきて、ちょこんと暁の隣に座った。肩に手を回すと、先ほどの比ではないほどに大きく身を震わせたので、さすがに可哀想になってきて小さく息をついた。すると、そんな暁に気付いたのか、夕映が勢いよく顔を上げて、訴えるような眼差しを向けてきた。 「あっ あの…っ」 「ん?」 「わ、私、ほんとに何も知らない臆病者ですけど…っ 決して暁さんのことが嫌いとかそういうことじゃありませんからっ むしろ、誰よりもす……」 そこまで言いかけて、冷静になったのか夕映が言い淀む。 「ん? 『す…』なんだって?」 にやにやと笑みを浮かべながら肩を抱き寄せると、夕映の頬に朱が散って、更に口ごもってしまった。 「なあ。教えてくれよ。『す…』なんだって?」 「い…意地悪……」 あまりにも可愛いことを、拗ねたような可愛い表情付きで言われてしまって、暁はもう限界寸前だ。その細い身体を引き寄せて、もう片手を彼女の膝の裏に回して抱き上げて、事前に敷いておいた布団の上にそっと横たえる。枕の上に、彼女の肩の上で切り揃えたまっすぐな黒髪が散って……初めて見る光景に、胸が一瞬高鳴る。その髪に指を絡めながら、優しい声と口調を崩さずに問いかけた。 「……俺が、怖い─────?」 間髪入れずに、返る声。 「こ、怖くないですっ!」 無理しているのが丸わかりな声と、いまにも泣き出しそうな表情に、胸が激しく高鳴る。 おいおいおい。何だってんだよ、可愛過ぎだろっ!! 「大好きだよ。夕映──────」 優しくささやきながら、その頬に手をあててゆっくり唇を寄せる。 やがて、唇をその細い首筋に移して、小さく音を立てて口づけてから舌を這わせると、彼女が大きく身を震わせた。恐らくは初めて味わうであろう感覚に戸惑っているのだろう。その隙に手触りのいいパジャマのボタンを手早く外し、中に着ていたらしいキャミソールをあらわにする。パジャマ同様、淡い水色が彼女には似合っていて、可愛らしい。その下にきちんと下着を着込んでいるところもまた彼女らしくて、思わず口元に笑みを浮かべながらその背中に手を回してホックを外そうとした、その時。彼女のその滑らかな肌には似つかわしくない感触を指先に感じて、驚いてしまう。 「!?」 暁の変化に気付いた彼女が、それまでの夢見心地のようだった表情から、とたんに泣き出しそうな…申し訳なさそうな、何と形容していいのかわからないような表情に変わった。 「ご…ごめんなさい……っ わ、私…どうしても言えなくて…………」 いまにも大粒の涙をこぼしそうな彼女をそっとうつ伏せにさせて、パジャマの上衣を丁寧に脱がせてキャミソールをたくし上げると、外れたホックの下に、30cmほどの長さの幅は数cmはある引きつれたような傷跡が目に入った。かなり古そうに見えることから、もしかしてという思いが脳裏をよぎる。 「これ…例の、事故の時の……!?」 その時の傷跡が、10年以上経った現在でも額に残っていることは知っていた。 「き、気持ち悪いわよね……黙っていて、ごめんなさい…っ」 暁が黙っている理由を、傷跡のことを隠していたがために怒っているのだと解釈したらしい夕映が、ともすれば涙声になってしまいそうな声で謝罪の言葉を口にする。そんなことなど、あるはずがないのに。ここでどんな言葉を口にしても、自分を傷つけないための方便ととりそうな夕映に、みずからの本心を正確に伝えるためにどうすればいいのかと考えた暁は、黙って行動に出ることにした。 「…あっ!」 暁がとった行動─────それは、何の躊躇いもなく夕映のその傷跡に、上から下まであますところなく口づけを贈ることだった。夕映が大きく身をよじって逃げようとするのも、両手で腰を強くつかんで逃がさないようにして、まるで神聖な儀式を行うような敬虔な気持ちで、それを行った。実際暁にとっては、それは夕映への想いのすべてを込めた神聖な行為そのものだった。 「あ…暁さ……っ」 何となく熱を帯びた夕映の声が耳をつくが、行為が終わるまでは何も言わず、暁はいままでに感じたことがないほどに敬虔な気持ちでそれを終えた。軽く息をついてから、再び口を開く。 「気持ち悪いなんて…思ったりする訳ないだろ。この傷と引き換えに、いま夕映が生きているんだと思ったら、どれだけ感謝しても足りないぐらいだ」 陽香のように即死には至らなかったものの、夕映もしばしの間生死の境を彷徨ったということも、聞いている。その時に死んでしまっていた場合を考えたら…たとえどんな傷跡が残ろうとも、いまこうして元気に生きていてくれることのほうが、暁にとってどれだけ嬉しいか。夕映は、きっとわかってはいない。 「暁さん……っ!!」 そんな暁に、瞳に涙をためた夕映が、起き上がって何の躊躇いもなく抱きついてくる。その細い身体を、折れんばかりに強く抱き締めて、あふれんばかりのこの想いを伝えたいと思うが、言葉でなどとても追いつかない。肌と肌を通じて、この想いをそのまま伝えられたらいいのにと、もどかしい思いを感じながら強く抱き締める。 「……好き。大好き──────」 滅多に想いを口にしてくれない夕映の言葉が嬉しくて、暁もほとんど無意識に口元に笑みを浮かべて、応えていた。 「俺も…好きだよ──────」 もう一度啄むような口づけを交わしてから、片手で彼女の身体を再び布団の上に横たえながら、もう片手を胸元へと伸ばす。 「あ…!」 手の中にぴたりとおさまるふくらみはとてつもなくやわらかく、ずっと触れていたい誘惑に駆られる。もう片手も使って優しくゆっくりともみしだくと、夕映の呼吸が明らかに乱れ始めて…聞いたこともないような甘い声が、その唇か洩れ始めた。 「あ…あ…っ や、あんっ」 「夕映、可愛い…」 「そ、んな恥ず…かしいこ、と言わないで……っ」 まだ誰も触れたことがないであろう果実はまだ成熟というには程遠いけれど、暁の手のひらや指先、唇や舌先に敏感に反応して、甘い香りを放つ。もちろんそこばかりでなく、全身をくまなく優しく撫で回し、彼女の反応を探る。 ふたりの夜は、まだ始まったばかりであった………………。 |
2013.2.6up
しつこく出します、ラルフくん(笑)
暁にとっては、さぞ悪夢だったことでしょう(大笑)
そして今度こそ、ついに甘い時間の始まりです。
張っておいた伏線もほぼ消化し終えたので、
ラストまで一気に走り抜ける所存です。
背景素材「空に咲く花」さま