〔21〕





 平日の、非番前日深夜。

 夕映は、明日共に非番の貴絵の家に泊まりに来ていた。ちなみに夕食は本日の仕事の後に暁と済ませ、現在は入浴もしてパジャマ姿で貴絵の部屋で二人きりである。少し前まで騒がしかった貴絵の兄弟たちも、既に眠りに就いたのか家の中は静まり返っている。

「ね、貴絵…?」

 貴絵の部屋のクッションを抱き締めながら、夕映はそっと切り出す。

「なーにー?」

 次に聴くCDを物色していたらしい貴絵が、振り返らないままで答える。

「あ、の…すごく恥ずかしいことだとわかってるんだけど、他に訊ける人がいないから、正直に言っちゃうわね。貴絵って、トオルくんと付き合い始めて、どのくらい経ってから……なことに行きついたの…?」

「え? トオルと何だって?」

「だからあ、恋人同士がする…そういう、こと」

「キス? それはその当時にこっそり話したじゃない」

「じゃなくて。その…もっと、進んだ段階のことっ」

「あ、もしかして初えっちのこと?」

「声が大きいわよっ」

 貴絵にはもう遠い青春の思い出の一ページかも知れないが、夕映はまだまだこれからなのだ、そこまであっけらかんと話せる内容ではない。

「初えっちかあ、もうずいぶん昔のことのような気がするなあ。実際はまだ数年くらいしか経ってないのにねー」

 貴絵の顔は、すっかり懐かしいものを思い出すそれになっている。

「付き合って、一年経った夏の日だったなあ。午後の授業がない日にトオルの部屋に寄って、そのまま…ね。えっ なに、夕映ついに暁さんと…!?

「だから、声が大きいってばっ ……『退院祝いに何が欲しい?』って訊いたら…」

「『夕映が欲しい』って? さーすが暁さん、ストレートーっ」

 貴絵はすっかり楽しそうだ。が、すぐに怪訝そうな表情に変わる。

「ちょっと待ってよ。暁さんが退院したのって、もう一ヶ月近く前じゃない。じゃあ何? 暁さん、それからいままでおあずけ状態!? かーわいそーっ」

「だ、だって、なかなか勇気が出せなくて…っ だから、貴絵に訊きたかったのっ 貴絵の時は、どんな感じだったのかなって」

「えー、あたしの時ー? んー…ぶっちゃけて言っちゃうと……」

 ごくり、と夕映は息をのんで、貴絵の答えを待つ。

「──────若さゆえの勢いってヤツ?」

 もっとちゃんとした答えを期待していた夕映は、コントのごとくガクリと体勢を崩してしまう。

「だってしょうがないじゃん。血気盛んな高校生男子と、シャワールームもベッドも完備で、母屋からも独立してて鍵もかかる密室の中でふたりきりよ? トオルってば、いつそうなってもいいように、ちゃっかり避妊具まで常備してるんだもの、頭のいい男ってみんなああ抜け目がないのかしらね?」

「…っ」

 夕映の中の達像が、音を立てて崩れていくような気がする。あのいつも理性的な達が、そんなそこらの鼻息荒い青少年たちのようなことをするとは考えたくなかったのだ。

「みんな、トオルのこと誤解してるわよねー。いつでもクールで理知的で…なーんてイメージ持ってるみたいだけど、そっちのことに関してはそこらのスケベ親父に負けないくらい……」

「も、やめて…私の中のトオルくん像をこれ以上崩壊させないで……」

 夕映はもはや、息も絶え絶えだ。

「…ま、いいか。トオルも、他の人はともかく夕映に幻滅されるのは遠慮したいだろうし。じゃあ、暁さんの話聞かせてよ〜。暁さんはどうなのよ? 見た目通りワイルドで積極的なの? それとも壊れ物でも扱うように、これ以上ないくらいに優しく丁重に扱ってくれるとか?」

「積極的といえば積極的というか…考えるより先に身体が動いちゃうタイプみたいだけど、全然強引でもなくて、女の子の扱いには慣れてる感じっていうか……」

「そっかあ、わかる気がするなあ。経験、それなりにありそうだもん。で、どこまで行ったの? まさか、キスぐらいはしたんでしょ? いくら入院してたって、最初の頃は個室だったし、でなくてもベッドの周りのカーテン引くとか、人目を避けてそれぐらいはできたでしょ〜?」

「そ、それは確かにそうなんだけど……『独りで夜を過ごすのは淋しい』って、まるで捨てられた子犬のような目ですがりついてくるから、入院中は一日一度はノルマで……」

「夕映の、弱いものを見捨てられない部分を突いてきたか……やるわね、暁さん」

 貴絵はすっかり感心している様子で、顎に手をやった。

「で、キスは唇が触れるだけのヤツ? それとももう少し進んだヤツもしてるの?」

「こ…この間の快気祝いの時に、初めて舌が入ってきて……わ、私、そんなキスがあるなんてよく知らなくて、もうびっくりしちゃって……暁さんもすごい謝ってくれて」

「何だ、まだそんなレベルだったのかあ。暁さん、よく我慢してくれてるわね〜。もっと自分本位な奴だったら、相手が泣こうが嫌がろうがガンガン行っちゃうわよ?」

「そ…そんなものなの…っ!?

 夕映の知っている暁は、和解する前はともかく、友達になってからはちゃんと礼儀をわきまえて接してくれたし、晴れて恋人同士になってからは自分より夕映を優先して行動してくれて────まあ、「一日一度のキスのノルマ」などの件は置いておいて────そんな暁が、自分本位で行動して夕映を傷つける姿なんて、想像もつかない。

「そ、それで…一番訊きたかったことなんだけど、初めてって……やっぱり、痛い…の…?」

「それは正直、人によるとしか言えないけど…まあ、大半の人は痛いみたいね。実際あたしもそうだったし」

「やっぱり…そうよね……」

 以前学生時代────まあほとんどは高校時代から警察学校時代であるが────の同級生に聞いたり、雑誌などで見た通りのことを言われて、夕映の「勇気を出してみようか」という決意以前のまだ発芽したばかりの想いすら引っ込みそうになってしまう。

「……でもまあ。心身共に健康な若い男女が、『恋人として』これからも付き合っていくなら、避けては通れないことだと思うし、ここらで一発根性見せるしかないんじゃない? 不公平と思うかも知れないけど、男の人がその状態から先に進んでこないってことは、相当な忍耐力を強いられてると思うし。それでも夕映の覚悟が決まるまで待ってくれてるんでしょ?」

「…………」

 男の人の身体のメカニズムはさっぱりわからないけれど、それなりに経験のある貴絵が言うのなら、間違いないのだろうと思う。夕映としても、暁にいつまでもそんな辛い思いをさせるのは、申し訳ないと思うのだけれど。けれど、夕映のほうにも、何も考えずに暁の胸に飛び込んでいけない事情もあって…………。

「私だって、暁さんに悪いとは思ってるけど……それ以上に、怖いの─────」

「怖いって、そういうことをするのが?」

「そうじゃなくて……私の、背中の…」

 そこまで言ったところで、付き合いが長く深い貴絵には夕映の言いたいことがわかったらしい。ハッとしたように息をのむのが、気配でわかった。

「あ、あー……まだ、暁さんには話してなかったんだ」

「原因については全部話したけど…そっちについては、まだ全然……」

 そう。夕映が恐れているのは、みずからに起こり得る変化のことだけではない。まだ、暁に話していないことがあった。隠していた訳でもなく、ただ単に話す機会がなかった、と言ってみても、言い訳にしかならないことは、夕映自身が一番わかっている。

 私…怖かったんだ。あのことで、暁さんに驚かれることが。ううん、違う。私を選んだことを後悔されるのが、何よりも怖いんだ──────。

 いまにして思えば、市原と暁の両方から求められていたあの頃に、それを報せておけばよかったと思う。そうすれば二人とも、あんなに深入りすることもなく、自分から離れていってくれただろうから。

 それを口にしたとたん、貴絵からかなり手加減した空手チョップを頭にお見舞いされてしまったけれど。

「あんた、それは暁さんに対しても市原に対しても失礼千万! あの二人が、それくらいのことであれだけ惚れてたあんたに幻滅するとでも思う!? あの二人なら、たとえあんたがどんな状態だったとしても、あんたに望まれたら迷わずその手を取ったことでしょうよっ」

「で、でも…っ」

 夕映の瞳からは、もう涙がこぼれ落ちる寸前だ。

「……まあ、あんたの気持ちもわからなくもないんだけどさ。他人からしたら大したことなくても、本人からしたら大事ってこともあるし」

 夕映の秘密は「大したことない」といえるようなものではないと思うけれど、それを知っていてあえてそう言ってくれる貴絵の思いが嬉しかった。

「とりあえずさ。暁さん本人と話したり逢ったりしてみて、想いを抑えられないって思った時に、飛び込んでいけばいいと思うわよ。暁さんには悪いと思うけど、焦ることはないわよ」

「うん…そうね……」

 そこで貴絵は、調子をがらりと変えて明るい声で言い出した。

「でもあたしからしたら、夕映が羨ましいわ。暁さんてずいぶん夕映のことを大事にしてくれてるんだもん。こーんな何にも知らない初心(ウブ)なコ、やろうと思えばいつだって、うまいことだまくらかして自分の部屋やホテルに連れ込めると思うのに、『快気祝いに欲しい』って言って、いまだに待っててくれてるんでしょ? なかなかできるもんじゃないわよー。ほんと羨ましいぐらい。あたしなんか、その場の勢いでそういう雰囲気に持ってかれて、気付いたら逃げられないところまで来てて、そのまま最後まで…だもの。夢見てたロマンティックなシチュエーションなんて、いったいどこに?てなもんだったわよ。その上、いまでも逢えば逢ったで大抵押し倒されるし、『たまには健全に過ごしたい』って言えば、『もう俺のこと好きじゃなくなった?』とかって拗ねられるし、まったく面倒くさいったらないっての。あたしだって、たまには夕映たちみたいに普通にデートコースとか行ってみたいのよっ 何が悲しくて、こんな若いうちからベッドに籠もりっきりで過ごさなきゃなんないのよっっ」

 夕映たちの話から、自分たちの付き合い方の不満にまで思考がシフトしてしまったらしい。もはや怪獣と化した勢いの貴絵を、夕映は懸命になだめにかかる。

「お、落ち着いて、貴絵っっ」

 夕映の言葉にハッとしたらしい貴絵は、そばに置いてあった飲みかけの飲み物を一口飲んで、ほうと息をつく。

「と、とにかく」

 いまになって気まずくなってきたのか、わざとらしい咳払いをひとつしてから再び口を開く。

「まあ、あんまり深刻に考え過ぎないことよ。大丈夫よ、最高に痛いのなんて初めだけで、あとはだんだん慣れていって、最後には気持ちよさしかなくなるから。経験者が言うんだから、間違いないって」

 確かに、説得力は100%だ。そのうちに、貴絵の視線が夕映のお泊まり用バッグのポケットから落ちていた紙片に留まり、床の上から拾い上げる。

「何? これ」

「あ、今朝うちのお母さんからもらったヤツ…」

 今朝方、「今度お父さんと行ってくる、ツアー旅行の日程表のコピーだから」と言って渡されたのだ。出がけで急いでいたこともあって、バッグのポケットに入れたまま忘れていた。

「これって、来週の火・水・木じゃない……おじさんとおばさんふたりで行くの? じゃあ夕映とお姉さんはまたお留守番?」

「おねえは、また彼氏の家にお泊まりじゃないかしら」

 そう答えると、貴絵は少し考え込んで。

「ねえ夕映、あんたの明日のその次の非番って、来週の金曜じゃなかった?」

「そうだけど? それがどうかした?」

「あたしの次のって、確か水曜日なのよね……暁さんの家のお店も水曜日定休だったわよね。何だったら代わってあげるから、火曜日の勤務が終わったら、その足で暁さんのアパートにお泊まりに…行っちゃえば? アリバイ工作の必要もなくて、ラッキーじゃない」

 定番の「女友達の家に泊まる」なんて嘘、夕映にうまくつけるはずもないだろうし、おじさんやおばさんには絶対バレちゃうと思うのよね。

 そう続ける貴絵の表情は、まるで人間を唆す悪魔そのもののような笑顔で……。ついさっき、「焦ることはない」と言ったのは誰だったか…。

「なっ 何を言い出すのよ、貴絵っ」

 夕映の顔はもう噴火寸前だ。

「無理にとは言わないけどさあ。ここらでいい加減覚悟決めて行っちゃわないと……こんなチャンス、これから先なかなか訪れないと思うのよね。暁さんだって限界が近いと思うしさあ。心の準備も何もできてない状況で、理性が焼き切れた状態の暁さんに押し倒されないとも…限らないわよ? そうしたら、そのまま流されちゃうか、暁さんが病院に逆戻りになるか…どっちかしらねえ」

 その後、貴絵のベッドの隣に敷かれた布団で眠りに就いた夕映が見た夢は、出逢ってから暁が自分に見せてくれた、優しい笑顔や心にあたたかい何かを与えてくれたさまざまな行為の想い出であった…………。




         *     *     *




 その翌日から二日ほどは、とくに変わりのない日々が続いて。夕映はいつものように、職務に励んだり、暁と当たり障りのない電話やメールのやりとりを行っていた。

 しかし、ふいに気を抜くと脳裏によみがえるのは、つい先日の貴絵の言葉で……。何だか居ても立ってもいられなくて、約束はしていなかったけれど、仕事帰りに暁の職場兼実家へと向かっていた。既にアパートにも戻り、平常通りの日常に戻っていた暁が、驚きに目をみはった。

「夕映? どうしたんだよ、何かあったのか?」

 優しい笑顔は、いつもとまるで変わらなくて……静かに、夕映の次の言葉を待っている。

「あ、の……ちょっと、大事なお話があって…………」

「えっ まさか、『別れたい』なんて!?

「何でそうなるんですかっ」

「…なんてな」

 などと冗談ぽく舌を出しながら笑う暁に、夕映は「もう…」と言いながら小さく息をつく。

「で、話って?」

「ちょっと……ここではしにくい話なので、場所を変えてもらってもいいですか?」

 夕映の要望に従い、普段着に着替えてきた暁は、以前のように夕映を愛車の後ろに乗せて、少しずつ暗くなり始めた例の河原へと連れて来てくれた。さすがにこの時間なら子どもも家に帰っているし、車などに乗っている人がほとんどではあるが、人目も多いしということで、恋人同士もそう訪れる場所ではない。現に、周囲には学校帰りらしい学生が歩いているぐらいで、少し経つとそんな彼らの姿もほとんど見えなくなってくる。

「んでどうしたって? 何か、話したいことがあるんだろ?」

 他人に話を聞かれる心配がほとんどなくなってから切り出してくれるあたり、やはり暁は優しいなと思う。

「あ、あの…ですね。来週の水曜なんですけど……私、非番じゃないって言ったでしょう? そしたら貴絵が、自分がその日非番だからって、交代してくれたんです…………」

「え、マジで? 貴絵ちゃん、優しいなあ。なら、前に話してた新しいショッピングモールにでも行くか? 買い物いっぱいできるように、俺親父に車借りられるか打診しとくからさ」

 あー、俺もいい加減車買おうかなあ。アパートの近所に空いてる駐車場あったかなあ。

 などと、何も気付いていない暁は、そんなのん気なことを呟いている。このままでは埒があかないと思った夕映は、勇気を出して、一、ニ歩足を踏み出して…暁の広い背中に、ぴたりと寄り添った。

「……夕映?」

「火曜の朝から木曜の晩まで……うちの両親、旅行でいないんです。だから…火曜の晩、暁さんの家に泊まりに行っても……いい、ですか──────?」

 それ以上は、恥ずかしくて言葉にできなかった。振り向きかけていた暁の身体が、硬くなった気がしたのは、果たして夕映の気のせいだろうか。

「それって……例の快気祝い、くれるってことだって思っても…いいのか……?」

 喉が渇いているのか、掠れたような声が暁の喉から絞り出されたと思った瞬間。予想もしていなかった声が、その場に響き渡った。

「わんっ!!

 聞いた覚えのある動物の声が聞こえた瞬間、暁が飛び上がらんばかりに驚いたらしいのがわかった。夕映からは、暁の身体がちょうど盾になって、向こう側が見えないのだが。

「こ、こら、ラルフっ 何いきなり興奮してんだよ、お前! すみません、驚いたでしょう、うちの犬がホントすみません」

 こちらは聞いたことのない男性の声。暁に向かって謝ると同時に、犬を促して去っていく足音だけが夕映の耳に届いた。姿は見ていないが、あの犬はもしかしなくても以前ここで出くわしたゴールデンレトリバーの「ラルフ」であろう。そしていま一緒にいた男性は、あの時ラルフを連れていた中年女性が語っていた、「いつも散歩に連れていっている息子」なのだろうなと、安易に想像がつく。

「い、一度ならず二度までも…っ 人をビビらせやがって、あの犬〜っ!」

 憎々しげに暁が言うのが可笑しくて、夕映は思わず吹きだして、そのまま笑い続けてしまった。気配に気付いて、ふと顔を上げると、いつの間にか振り返っていた暁が、真剣そのものの表情と瞳でこちらを見ていて……現状を思い出した夕映は、ハッとして笑いをおさめた。

「あ……」

 次の瞬間、暁の広い胸に抱き締められた夕映は、すっかりパニック状態だ。

「夢じゃ…ないんだよな? 全部俺のものになってくれるって思って…いいんだよな?」

 どことなく現実味を帯びていないような暁の声に、ほとんど反射的に夕映は返事をしていた。

「は、はい……お待たせして…ごめんなさい──────」

 夕映のか細い声が、川面を吹き抜ける風に乗って、消えていった………………。


    





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2013.2.2up

ガールズトークには、どんな恋バナも
話してしまいたくなる誘惑があると思います。
貴絵のおかげで、夕映もようやく覚悟を決められたかな?
でもまだ越えなくてはならない壁があるようで…?
そして作者さりげなくお気に入りのラルフくん、再登場です(笑)

背景素材「空に咲く花」さま