〔20〕





 二月下旬。バレンタインの喧騒もすっかり静まって、今度は卒業ムードに世間が包まれ始めた頃。傷がほとんど治癒した暁は、病院を退院した。

「いやあ、やっぱシャバの空気は美味いなあっ」

 まだ通院する必要はあるが、とりあえず自由の身になれたという開放感に、久々に外を歩ける私服に身を包んだ暁は、空に向かって大きく伸びをした。入院した頃は夏真っ盛りで────夕映の水着姿を妄想したぐらいだから、忘れるはずもない────病院内は空調が完璧に整っていて、外は季節も半周して一年で一番寒さが厳しい時期だが、思いきり深呼吸した空気は冷たいけれど新鮮で気持ちがいい。

「暁さんっ 人聞きの悪いことを言わないでくださいっ」

 職業柄か、たしなめるような言葉を発するのは夕映。だいぶ敬語はとれてきたものの、とっさの時にはまだ出てしまうらしい。暁の退院日が決まると同時に、わざわざ非番をとってまで来てくれたのだ。両親が来てくれるし、心配はないとも言ったのだが、「自分が来たいから」とまで言って、当日やってきてくれたのだ。両親がいなかったら、嬉しくて抱き締めるぐらいのことはしてしまっていたかも知れない。

「だって嬉しいんだもんよ。やっと、制限なく好きなところに行けるんだから」

「気持ちはわかるけど、しばらくは家で大人しくしてなさいよ。でないと、さっさと働かせるからねっ」

 背後から厳しい口調で言うのは母親。暁が一人暮らししていたアパートの部屋を、時折掃除に行ったり家賃も払ったりして維持してくれていたそうだが、少しの間────とりあえず、自分の身の回りのことがちゃんと元通りできるようになるまでは、実家に滞在しろと言い渡されている。

「わかってるよー。夕映が来てくれるなら、いっくらだって大人しくしてるって」

 退院する少し前にそうしてから、すっかり敬称なしで呼ぶようになった彼女の名だが、夕映自身はまだ人前でそう呼ばれることに慣れていないらしく、顔が真っ赤だ。

「なあ、夕映ちゃん。これから予定は何も入れてないんだろ? うちのほうに、こいつの簡単な快気祝いの場を設けてあるから、寄っていきな。母ちゃんが作ったご馳走もあるし、トオルくんや貴絵ちゃんも後から来るって言ってたから」

 笑顔で告げる父親に、夕映は顔を真っ赤にしたまま答える。

「ご、御迷惑でなければ……」

「迷惑なんてこと、ある訳ないだろ。こいつが病院で大人しくしてられたのも、夕映ちゃんがしっかり見張っててくれたおかげだしな」

「そうよー。夕映ちゃんがいてくれなかったら、絶対もっと退院が延びてたに違いないんだからっ 大人しくベッドで寝てるなんて、できない性分なんだから」

 それは、子どもの頃風邪で熱を出した時に大人しくしていなかったことを思い出しての言葉だろう。母親のため息に、暁は何となくいたたまれない気分になってしまう。

「ま、まあっ 無事退院できたんだから、もういいじゃんっっ」

 ごまかすように言うと、両親はすぐに気持ちを切り替えたようで、「車はあっちに駐めてあるから」と答えた。

「でもほんとうに……無事に退院できて、よかった──────」

 小さな声でささやく夕映の声に、一歩先を行きかけていた暁はふと振り返る。夕映の瞳は、暁の姿を映してはおらず、どこか遠いところを見つめているように見えた。もしかしたら、遠い昔に喪ったという幼なじみの少女のことを思い出しているのかも知れない。

 安心しろ。俺は絶対、お前のそばからいなくなったりしないから。他の男に目を向ける暇すらないぐらい、他の男から手を出される隙すら与えないぐらい、ずっとずっとお前を束縛し続けてやるから。覚悟しろよ?

 視線に気付いた夕映が、暁が何を考えているのか知らぬままにっこり微笑んでくるのを見て、暁も笑う。

 そう。ようやく手に入れられた愛しい存在を、誰が他の奴に渡すものか。誓いも新たに、暁は夕映の手を握り締めて、ゆっくりと歩きだした…………。

 快気祝いは、父親が言うほど簡単な規模のものでもなく、ご近所の皆も巻き込んでの賑やかな席となった。幼い頃から住んでいた土地だけあって、昔馴染みたちからもらう快気祝いの数も多く、誰に何をもらったか忘れてしまいそうなほどだった。それでも、一番大切な存在からのそれは、絶対忘れないだろうと暁は思った。以前本人に語った通り、一番欲しいものは夕映そのものだが、夕映自身がそれを了承してくれるかわからないから、彼女が何をくれるつもりなのかはまったくわからないけれど。

 当の夕映は、妹や貴絵と共に母親の手伝いをしていて、まるっきりそばにいてくれないのが淋しいけれど、それが彼女の性分なのだから、仕方ないかと思う。そういうところも含めた彼女の全部を好きになったのだから。


 そして。近所の皆が帰って、後片付けも済んだ頃。ガレージに置いていた愛車の元に向かう夕映の後について、暁もガレージへ。ちなみに貴絵と達は、暁の父親の古い友人である達の父親の車に乗って帰っていった────行きはともかく、帰りは達の運転だが。

 久しぶりのオイルや金属の匂いが懐かしい。やはり自分は、二輪が好きなのだなと再認識する。事故の時に大破した暁の愛車も、保険屋との話し合いが済んでから父親が修理してくれたそうで、ほぼ元の姿に戻ってそこにあった。カウルの部分が新しくなっていたため、元から貼ってあったステッカーはなかったが、それでも見慣れた愛車からは懐かしさしか感じない。あんなにひどい事故に遭ったというのに、恐怖心より早く乗りたいという気持ちのほうがより大きいあたり、懲りないなと自分でも思うけれど。

「……ごめんな。せっかくの祝いの席だってのに、雑用ばっかりやらせちまって」

「いいんで…いいのよ。暁さんは主役なんだし、できる者がお手伝いするのは当たり前よ」

 笑顔で言ってくれる夕映の気持ちが嬉しくて、思わず抱き締めていた。驚いたのか、夕映の持っていた小さなバッグが足元に落ちる音が、耳に届いた。少し力が入っていたのか固く感じる夕映の身体から、ふ…っと力が抜けたのに気付いて、そっとその顔を覗き込むと、いつもの優しい微笑みを浮かべていて……堪えきれなくて、即座に唇を寄せていた。

病院での時のように、常に人の目を気にしていなければならない時と違って、何という開放感だろう。気を利かせてくれているのか、他に誰も来る気配のないガレージの中で、角度を変え体勢を変え、心ゆくまで夕映の唇を堪能する。

 ずっと、夢見ていた────入院してからは、とくに────こうして、夕映と誰にも何にも気兼ねせず口付けを交わすことを。一度でいいから、少しの間でいいからと思っていたはずが、いざそうなると欲はいくらでもあふれんばかりに込み上げて来て、もっと、もっとと自分の身体に命じてとどまることを知らない。夕映が嫌がらないことをいいことに、唇のみならず舌まで自分の意思とは関係なく動き始め、夕映の唇の輪郭をそっとなぞる。その瞬間、夕映がかすかに反応した気がしたが、欲望はとどまることを知らず、その可愛い唇を舌先でそっとノックする。唇がわずかに開いた隙を突いてその中に入り込み、奥のほうで小さく縮こまっていた夕映の舌に触れては、その奥から誘いだそうと大胆に絡め始めた。夕映の全身が、一瞬にして固まったことに気付いたのは、その、次の瞬間のこと。

「あ……」

 ようやく理性が本能に打ち勝って、自分がいましていたことに気付いてハッとする。まだ、唇が触れるだけのキスしかしたことのないような女の子に、自分はいったい何をしていたのか。男の欲望をむき出しにして、彼女を怯えさせるようなことをして────事実、暁の腕の中の夕映は小刻みに震えていて、顔を上げようともしない────自分は何と最低なことをしてしまったのか。

「あ…ごめん。つい、止まらなくて…………」

 言い訳だ、と自分でも思う。確かに以前、「もう限界だ」とは言ったが、それは夕映の意思が固まってからでなくては意味がないのに。男の勝手な都合だけで、突っ走っていい訳がないのだ。いまだ震えている夕映の身体を抱き締めながら、愛しいと思う気持ちを込めて、その頭頂部に頬を寄せる。やわらかな髪から香る優しい香りが、鼻腔をくすぐった。

「…も……」

 腕の中から聞こえてくる、小さな声。

「ご、ごめんなさ…もう少しだけ……ほんとうにもう少しだけ…待ってて…………そしたらきっと…勇気が、出せるから………………」

 怒りもせず、か細い声で懸命に言い募ってくれる彼女の─────震えながらも暁の胸に縋りついてくる彼女の、何といじらしいことよ。それまで感じていた滾るような欲望はすっかりなりをひそめ、代わりに穏やかに凪いだ海のような愛情だけが心を満たしていく。

 ああ、こんなに健気な彼女に、自分はいったい何ということをしてしまったのか。後悔が、まるで津波のように心に押し寄せてくる。

「ごめん。ごめん。ごめん。夕映は何も悪くないよ。俺が自分の欲望に負けてひとりで勝手に突っ走っちまっただけなんだから。どれだけぶちのめされても文句なんか言えない。それだけひどいことを、夕映にしちまったんだから」

「ううん、暁さんは悪くないの……どれだけ自分を抑えて私を大事にしてくれてるか、私、誰よりも一番知ってたのに…………」

 そのか細い指で暁の胸にしがみつきながら、顔を上げた夕映の瞳にはうっすらと涙の膜が張っていて……そのあまりの可愛さに、先ほど眠りについたはずの本能がまたも目を覚まそうとするのを懸命に堪える。

「嫌じゃ…ないのか? こんな俺で……」

 恐る恐る訊いた言葉に、腕の中の夕映がかぶりを振る。

「嫌なんかじゃ…ない……誰よりも、好きだから──────」

 だからもう少しだけ……決心が固まるまで待って。

 そう告げてくれる夕映が愛しくて…自分の欲望など、もうどうでもよくなってくる。こんな彼女がそばにいてくれるなら、自分はもう、何も望まない。彼女さえいてくれれば、他はもう何も要らないから。だから、ずっとそばにいてほしい。そうすれば、自分はもう何も怖くないから───────。

 愛しい想いのありったけを込めて、暁はいつまでも夕映をその胸の中に抱き締めていた………………。




         *     *     *





 「できたら、一緒に行ってもらいたいところがある」と夕映に言われたのは、それから三週間ほど経った、ホワイトデーも過ぎた頃。あいにくその日は午後から通院しなければならない日だったので────とりあえず仕事は少しずつ始めてはいたが、まだ一人暮らしのアパートに戻ることは許されないでいた────その後でならと快諾すると、夕映はそれで構わないと答えた。普段の彼女なら、暁の都合が合わない時は別の日に変えたりするのに、それでもこの日にこだわるということはこの日でなければいけない何かがあるということだ。だから、暁もそれ以上深く訊かず、その日の夕刻から約束をした。

 後で思い返すと、一年前のその日はちょうどふたりが初めて出逢った日だが、夕映の声や口調からしてそういう甘やかな理由からではないなとすぐに思い直す。付き合い始めた日ならともかく、出逢った日に彼女がそれほど重点を置いているとも思えなかったからだ。実際暁も、ちょっとしたことから思い出したぐらいだったし。

 夕刻からということもあり、夕映はその日は非番をとらず、普通に仕事を終えてから暁の家に現れた。その頃には暁の身体もずいぶん平常の状態に戻っていたが、心配性の母親に「もう少しだけ二輪は禁止」と言い渡されていたので、父親の車を借りて夕映と共に出かけた。夕映が指定したのは、以前それぞれ別々にだが訪れたことのある墓地で。やはり途中で花束を買ってから、覚えのある道を進む。

「……無理を言ってごめんなさい。今日は、陽香ちゃんの命日だったから…絶対に、暁さんと一緒に行きたかったの──────」

 その言葉に、暁はすべてを理解した気がした。夕映は、「単なる感傷に過ぎないだろうけど」と言っていたが、暁自身、あの事故の時目には見えない何かに護られていたような気がしていたので、該当する相手といったらいまは陽香しか思い浮かばなかった。だから、一度はきちんと陽香に礼を述べたかったので、運転の合間に助手席で俯く夕映の頭を優しく撫でてやる。自覚はなかったが、恐らくは口元には笑みも浮かんでいたことだろう。ホッとしたように夕映が息をついたのを、眼の端でとらえながら、運転を続けた。

 春先とはいえ、暗くなるのはやはり早く、寺の駐車場に着く頃にはさすがに他には誰もおらず、辺りもかなり暗くなっていた。夕映は何も気付いていないようだったが、以前出くわした悪ガキどももいなかったので、暁はそっと安堵の息をつく。病み上がりのような体調に加えて夕映も一緒のこの状態で、再びあんな立ち回りをやれと言われたら、うまくできるか自信がなかったから。

「陽香ちゃんのお墓は、奥のほうなんです」

 以前暁に見られていたことなど何も知らないであろう夕映が、墓地の奥を指差す。他の家の墓石に遮られて、当の墓石はほとんど見えなかったが、夕映は迷うことなく歩を進めていく。恐らくは目を瞑ってでも行けるほど頻繁に訪れていたのだろうと思うと、夕映の心の傷の深さが見える気がして、胸が痛くなる。生まれた頃からずっと一緒にいた幼なじみを喪った悲しみだけでなく、自分ひとりだけ助かってしまった罪悪感、それでも生きていかなければならないという辛さを抱えて、ずっと独りで耐えていたのか。それを思うと、いますぐにでも夕映を抱き締めてやりたくなるが、いまはとにかくお参りを済ませることが先だと思い、懸命に堪える。

 歩きだすと同時に、人の声が聞こえた気がしたが、こんな時間に誰かがいるはずもないと思って足を進める。が、目的の場所に近付くにつれて、誰かが会話しているような声がよりハッキリ聞こえてきて、やはり気のせいではなかったのかと気を引き締めた。以前の悪ガキどもかも知れないと思ったからだ。夕映も気付いたようで────夕映は例の悪ガキのことなどよく知らないだろうが────どこか不安げな目をして暁を振り返ってきた。そんな夕映の肩を力強く抱いて、迷いのない足どりで先を促した。

「おい、大丈夫かよ。だから、また別の機会にしたほうがいいって言ったろ」

「何を、言ってんだよ……お前、だって、わかってんだろ…今日で、なければ…何の、意味もない…んだってことは」

 そこにいたのは、暁や夕映よりはいくらか年長の…20代後半と思しき男性二人。片方はひどい風邪をひいているのか、マスクをしてかなり苦しそうに咳をしながら、もう一人の声に応えつつ、二人で懸命に陽香が眠っているという墓石を丁寧な手つきで磨き上げている。

「─────っ!!

 暁に肩を抱かれたまま、夕映が息をのんだのが気配でわかった。夕映は、彼らの正体に心当たりがあるのだろうか?

「あっ!」

 やがて、夕映に気付いた男性の片方が驚きの声を上げて。もう一人もそれにつられてこちらを向いて、驚愕の表情を見せた。

「夕映…さん──────?」

 何も言えないままらしい夕映の前で、彼らは持っていた掃除用具を放り出し、足がもつれんばかりの勢いで墓の前の通路に飛び出してきて、思わず身構えた暁と、固まったままの夕映の前で、地面に頭を擦り付けんばかりの勢いと素早さで頭を下げた。

「あ…謝って済む問題じゃないけれども……」

「ほんとうに……申し訳ありませんでした…っ」

 片方の男性は苦しそうに咳を繰り返しながらも、それだけは絶対に告げなければならないと言わんばかりに、言葉を紡いだ。辛そうなのは、決して咳のせいだけではないだろうと、暁は思った。

 二人の反応と、そして夕映のこの反応からして、この二人が約10年前、夕映と陽香をはねたという当事者の少年たちだということは、訊かなくてもわかる。夕映の胸中がわからない分、どんな反応を彼女が見せても対応できるように、夕映の肩に触れていた手に軽く力を込める。夕映は以前、「事故の後、目を覚ました時に会って以来、彼らとは一度も会っていない」と語った。そうすると、事故当時に顔を合わせて以来、いままで一度も会ったことがないということになる。そして、こうして顔を合わせてしまったいま……どんな想いが胸に去来しているのかは、夕映にしかわからない。

「…いままでも……こうして、人目を忍んで、お墓を綺麗にしてくれていたんでしょう…? 陽香ちゃんのご両親から、聞いています。いつもは、早朝誰よりも早く来て綺麗にしてくれていると」

 そうだったのか。今年に限ってこんな時間になってしまったのは、片方の男性が見るからに風邪で体調を崩しているからだろう。確認してはいないが、その顔の赤さからいって、彼が発熱しているであろうことも、訊かなくてもわかる気がした。それでも、今日のうちに自分のやるべきことを遂行するために、もう一人が止めるのも聞かずにここへやってきたのだろう。

 夕映の言葉に驚いたように、彼らが顔を上げる。

「正直…あなたたちを憎んだ時もありました。それに伴って、何の関係もない二輪さえも……。だけど、もういいんです」

 夕映の、穏やかな声。

「時が経つにつれて、私の中でも何かが変わって……あななたちもずっと苦しんできたのだろうなと思うことができるようになったんです。一生、陽香ちゃんのいなくなった分の心の穴を埋められないだろうと思っていた私にも、それを補って余りあるほど……大切なひとができたから。だからどうか、あなたたちも幸せになって──────」

 もう、許されてもいい頃だと夕映は語った。彼らの元に跪いて、顔は見えないままだったけれど。声だけで、夕映が本気でそう思っているらしいことが、暁にはわかった。腹芸など、できる女ではないことは、暁が一番よくわかっていたから……。

 誰からともなく発し始めたすすり泣きのような声を聞きながら、一人立ったまま────当事者でない自分に言えることなど何もないと、暁は思ったから────手を取り合って泣き続ける三人を、ただ黙って見守っていた………………。


    





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2013.1.20up

少しずつ、先に進んでいくふたり。
だけど、暁のレベルに夕映が追いつけるのは
もう少しかかるようです。
というか初心者に男の本音を
ぶっちゃけるんじゃありません(笑)
そして、夕映のトラウマの原点登場。
罪を許すのは、ほんとうに難しいことだと思います。
それでも、支えてくれる人がいるのなら…
きっと、乗り越えられるでしょう。

背景素材「空に咲く花」さま