〔2〕
そんな言葉を、早坂暁(あきら)はしみじみと噛みしめていた。23年生きてきて、ここまで驚いたことなどそうそうなかった気がする。 いつもと変わらぬ平日の夕刻、客から預かっていた中型バイクの整備を終えて、今日はこのへんにしておくかと思いながらガレージから住居である棟に戻ったとたん、通りかかった母親から茶の載った盆を託され、店舗兼事務所へとやってきたところで、もう二度と会うこともないだろうと思っていた相手と再会を果たしてしまったのだから。 「あ…あなた……!」 「あんた…昨日の…?」 自分の顔を見るなり、露骨に眉をひそめる相手にムッときて、こちらも思わず顔をしかめてしまう。そもそも、暁は見ず知らずの彼女を強引なナンパから救ったというのに、謝意のひとつも表さず、勝手な先入観を抱いて罵倒の言葉を投げかけられて、更には反論の余地も与えられずに去られてしまったのだ。これで、彼女に好意を抱けというほうが無理な相談だろう。 「あんだよ、おめえこっちの娘さんを知ってんのか?」 まだ茫然としている暁の手から盆を受け取った父親が、驚きに軽く目をみはって問いかけてくる。父親と相対して話していたらしいところを見ると、父親と知り合いなのか、まさかの客なのかのどちらかなのだろう。 「昨日、ちょっと…な」 彼女にされたことを、改めて口に出すのも腹立たしい。 「夕映、暁さんのこと知ってるの?」 彼女の隣に座っていた貴絵が声をかけているのを見て、おやと思う。貴絵のほうは、父親の古い友人の息子さんの恋人ということで、最近その彼と共に店に訪れていたから、暁とも顔見知りなのだが、貴絵の友人だったとは思いもよらなかった。こう言うのも何だが、二人はかなりタイプが違うように思えたから。 「昨日…強引なナンパから助けてもらったんだけど……」 「へえっ そんなことがあったの? ならこれから仲良くなっちゃえば? 夕映、男友達少ないんだし、ちょうどいいじゃん」 「で、でも…暴走族の人となんて、仲良くしたくないわよっ」 やっぱりまだ誤解しているか。「夕映」と呼ばれた女性は、ほとんど吐き捨てるように言い切る。 「ちょっ 夕映、何言ってるのよっ!?」 それを聞いた父親は、実の息子への暴言を怒る訳でもなく、むしろ楽しそうな表情を浮かべながら、隣の椅子にどっかと腰を下ろした暁を見やってくる。 「…何だよ」 不機嫌な顔を隠しもしない暁には、まるでお構いなしだ。 「ほれ見ろ。バイクやメットにあんなもん貼ってるから、善良なお嬢さんに誤解されんじゃねえか。普段の行いが悪いからそうなんだよ、少しは反省しろ」 「何で俺が反省しなきゃなんねーんだよっ!! あのステッカーは、ただのバイク仲間で作ったツーリングチームのグッズのひとつだぞ!? 『他人に迷惑をかけない』ってのを全員一致で第一信条に掲げて、交通違反だってひとつも犯しちゃいねえってのに、何で俺が族なんぞと一緒にされなきゃならねえんだよっ!?」 堪えきれなくなって、目の前にいるのが女性だということも忘れ、怒りのままに言いたいことを全部吐き出してしまっていた。普段から、自身の容姿とあいまって誤解されることが多くて、鬱憤が溜まりまくっていたのだ。目の前の夕映が驚愕のためか目をみはっているが、そんなこと知ったことか。どうせ自分に対する印象は既に最悪なんだろうから、いまさらそれが更に悪化しようが、暁にはもう知ったことではない。 そもそも、暁は暴走族というものにいい印象を抱いてはいない。暁はただ、バイクに乗って走るのが好きなだけで、意味のない暴走など何が楽しいのかわからない。あの風を切る感覚や大気と一体になったかのような感覚が好きなだけなのに、わざわざ改造してよけいなオプションをつけたり騒音をまき散らす行為や、縄張り意識にとらわれてよそと抗争まで起こす心理はまったく理解できないものだ。 ケンカが嫌いかと言われればそりゃあ決して嫌いなほうではないが、それでも意味もなくケンカを売ることもしないし、するとしたら向こうから売ってきた時や他の弱い人間を相手にいちゃもんなどをつけているのを見かけた時ぐらいで、暁自身気が弱いとか長いとは決して言わないが、自分からふっかけるような真似はほとんどしない。 なのに、世間の人間は、暁の容貌やバイクやヘルメットを見ただけで先の夕映のように勝手に誤解し、嫌悪の情をあらわにする。暁でなくても、辟易するというものだ。 「ふんっ」 言いたいことを一気に言ってやったせいで、少しは気がまぎれたので、椅子に横向きに座り直して、夕映から顔をそむける。もう、どう思われようが知ったことか。勝手に誤解して他人を罵倒する相手となど、初めから仲良くするつもりもない。 「…夕映?」 貴絵の、非難を多分に含んだような声が、暁の耳に届く。その数秒後に、意外な人物の声がその場に響いたので、予想もしていなかった暁は驚いて、ほとんど無意識にそちらを向いてしまった。更に驚いたことに、視線の先で本気で恥じ入っているように顔を赤くしている夕映がそこにいた。 「私……すごい誤解をしちゃったみたいで…………」 夕映はもう、表情などほとんど見えないぐらいに俯いている。暁の言葉に、もしかして心の底から反省して、申し訳なく思っているのだろうか? 「ご…ごめんなさい──────」 まさか、そんな素直に謝ってくれるなんて思わなかったので、これには暁のほうが毒気を抜かれてしまって、先刻までの滾るような怒りさえあっという間にどこかへ行ってしまったようだ。 「あ…いや、わかってくれたんなら、俺はもう全然気にしないけど……」 自分でも気が抜けているのがありありとわかるような声で、答えてしまう。 「そういえば、助けてもらったお礼もちゃんと言ってなくて……そもそもそれを伝えるために後を追ったっていうのに。頭に血が上っちゃったせいで、何も考えられなくなっちゃって…助けてくださって、ありがとうございました」 めちゃくちゃ恥ずかしそうにだったが、夕映はそれでも顔を上げて、真っ赤になってしまっている顔を隠すこともせずに暁をまっすぐに見やって言葉を紡いだ。その様子があまりにも愛らしかったので、暁の胸が一瞬高鳴り……どう応じていいのかわからなくて、ほとんど無意識に答えを返していた。 「あ、いや…別に礼が欲しくて助けた訳じゃないし。単に二対一で嫌がってる女を無理に誘うような奴らが許せなかっただけで……」 それは、ほんとう。自他共に認める単純な性格をしている暁には、そんなに深く考えて行動することなどできないのだ。成人した身でそれもどうかとも思うが、嬉しければ素直に笑い、腹が立てばまずいと思いつつもつい顔に出してしまう。客商売をする身としても、かなりよろしくないことはわかっているのだが────本人としても一応努力はしているのだが、無理に不機嫌なのを隠そうとすると、より怖い表情になってしまうらしく、結局努力が水泡に帰したことも一度や二度ではない。 「誤解も解けて、和解もできたところで」 それまで黙ってふたりを見守っていた貴絵が、実に楽しそうに口を開いた。 「この際だし、お詫びも兼ねて、夕映もスクーター買わない?」 「だから、どうしてそういう話になるの!? そもそも、貴絵は何で買おうと思ったのよ!? 家だって職場からそんなに遠くないじゃないっ」 「だーって、トオルが『就職してそれなりに経つし、そろそろ自分で買えるぐらいの資金は溜まっただろ。帰りが遅くなる時とか心配だから、そういうので通勤してくれないか』って言ってくるんだもん」 『トオル』とは、暁の父の友人の息子で、貴絵の恋人である青年だ。歳が微妙に違うので、親友というほどではないが、それなりに親しい相手だった。それはともかくとして、確かに自分の彼女が夜道を独りで歩くことを想像したら、彼の危惧ももっともなことといえよう。しかし。 「けどよー、貴絵ちゃんはともかく、こっちの彼女? ホントに大丈夫なんか? 言っちゃ悪いと思うけど、昨日のナンパを断れないトロさとか見たら、ちゃんと乗れるのかって心配になってくんだけど」 バイク屋としてせっかく売った新品のものをさっそく傷付けられるのも嫌だし、何より若い女の子に怪我をさせるのも嫌だったので、思わずぽろりと本音をこぼしてしまった。 すると、とたんに夕映が先刻までとはまるで違う険しい表情────昨日の別れ際ほどのものではないにしても、明らかに気分を害したとわかるようなキツい表情をして見せた。 「それって、あんまりにも失礼じゃないですか!? 私のことなんてなんにも知らないくせにっ」 これにはさすがに暁もムッときて、つい言い返してしまう。 「だから、『悪いと思うけど』って前置きしただろっ こっちだって客商売といえど、すぐにズタボロにしてくれそうな相手に売るのは、二輪を愛する者としてプライドが許さないんだよっ」 「実際、私の運動神経その他が鈍いかどうかも見たこともないくせに、よくもそこまで言えますねっ 先に予防線張っとけば何言ってもいいと思ってるんじゃないんですかっ!? 物を大切にするのはいいことだと思いますけど、それで他人を傷つけるようなことを平気で言うようじゃ、ついさっきまでの私のことをどうこう言う資格なんかないじゃないですかっ!」 …何て口の減らない女だと、暁は思った。ほんのつい先刻までは、暁に対して誤解していたことを、あんなに愛らしい様子で恥じていたというのに。あんな風にしつこくナンパされても仕方ないぐらい、確かに美人だとさえ─────ここだけの話、少々好みのタイプかも、などと思っていたというのに。 「…………」 ギリギリギリ…と歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほどに歯を食いしばって、ふたりは互いに相手の顔を睨みつけ合う。彼女の身長は、ほぼ180cmの暁より15cmは確実に低そうだというのに、一歩も退かなさそうな強い意思を宿す瞳は、まるでそらされる気配はない。 「おじさん、どうしましょー? 夕映って外見に似合わず、かなり強情なんですよー」 「こいつもなあ、頭に血が上ると女相手でも怒鳴りつけたりすっからなあ。まあ、手ぇ上げるようなら俺がただじゃ済まさねえけどよ」 茶をすすりながらのん気に会話を交わす貴絵と父親の声がその場に響くが、暁は元より夕映の耳にも入っていないようだ。何と表現していいのかわからない、一種不毛ともいえる空気が数秒ほど流れた直後、店の外────それも十数メートルほど離れているらしき場所から響き渡ったのは、絹を裂くような女性の悲鳴! 「!?」 それと同時に、近付いてくるのは原付バイクのものらしき排気音。「泥棒ーっ!!」「ひったくりよっ 誰かそいつら捕まえてーっ!」という大きな声が続けて響いた瞬間、貴絵と夕映が即座に動いた。貴絵は湯呑みを盆に戻すと同時に立ち上がり、夕映はそれまで睨み合っていた暁のことなど忘れたかのようにすぐに目線をそらし、近くに立てかけてあった竹刀────父親がたまに運動不足解消を目的に素振りをするために置いてあったものだ────を手に、「ちょっとお借りします!」と言い置いて、二人は無駄など一切ない動きで店の外へと駆けだしていく。それを茫然と見送っていた暁は、ようやくハッとして、父親の顔を一瞬見てから二人の後に続いた。 「おう暁、何する気だよ」 「決まってんだろ、ひったくりを捕まえんだよ。あのコら二人だけじゃ危ねえだろうがっ」 「ああ、そら無用な心配ってもんだ。まあ、黙って見てな」 「!?」 父親の言葉に疑問を抱きながらも、暁は数秒遅れで店の外へと飛び出していた。父親も緩慢な動作でその後に続く。そうして、二人に遅れて外に出た暁が見たものは。まるで臆することなく、自分の家の店の前で迫り来る原付バイクを待ち受けている二人の女性の姿だった! 「何やってんだ、危ねえっ!」 「おらどけよ、邪魔だ!!」 暁と、原付を運転している男が叫ぶのは、ほぼ同時だった。それでも退かず、むしろ意地でも通さないと言わんばかりに、両腕をめいっぱい広げて立ちはだかる二人に辟易してか、ほとんどギリギリでブレーキをかけて、男が原付を停める。二人を蹴散らしてすぐにまた逃げようと思っているらしく、エンジンはかけたままで、どう見ても女性が持つようなハンドバッグを手にその後ろに乗っていたもう一人の男と共に、凶悪な表情を張りつけたまま、二人に迫ってくる。 「よけいなことをすると痛い目に遭うってことを、教えてやるよ」 「世の中、大人しくしてたほうがいいってこともあるんだぜ〜?」 同じ男の暁から見ても、嫌悪感しかもよおさないような下卑た笑顔と声で、男たちが二人に襲いかかる! 「馬鹿、早く逃げろ!」 とっさに駆けだしかけた暁の肩を背後からつかんで、止める存在があった。誰でもない、自分の父親だ。 「黙って見てろって言ったろ」 「!?」 貴絵と夕映の表情は、冷静そのもの────恐怖のあまり固まっているのかとも思ったが、そういうことではないことは、すぐにわかった。何故なら、男の一人の片手に光るものを一瞥して、貴絵が落ち着きはらった声で夕映に対して言葉を発し、夕映も同じように落ち着きはらって答えたからだ。 「夕映、オモチャ持ってるほうはまかせるわ」 「了解」 男が持っていたもの────小型の折りたたみナイフを広げたものが夕映に向かって繰り出された瞬間、夕映の姿は一瞬にしてその場から消え失せ、男のナイフが空を切った。 「!?」 よく見ると夕映は消えたのではなく、最小限の動きでそれを避けただけの話で、右手に持った竹刀の持ち手にそっと左手を添え、すぐに姿勢を正してまっすぐに背を伸ばした。 「あんたたちの言葉、そのままそっくり返してやるわよ」 その声にハッとしてそちらを向くと、貴絵がいつもとはまるで違う、相手を小馬鹿にするような…まさに鼻で笑うとしか表現のしようのないような笑顔を浮かべ、そっとみずからの手を上げた。 「天原(あまはら)警察署巡査、山下貴絵!!」 そのまま自分に向かって伸ばされる男の腕を横から掴み、その勢いを利用して、みずからの背や身体全体を使って男の身体を投げ飛ばした。 「柔道二段!」 その叫びと同時に男の身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。男は派手な叫び声を上げた後、悶絶している。 「な…ポリ公だとっ!?」 「…っ!」 驚きを隠せない顔のままだった暁はハッとして、今度は声の聞こえてきた反対側の夕映を見やる。そこでは、夕映が無駄などまったく感じさせない動きで、何度も突き出されてくる男のナイフをかわしている光景が繰り広げられていた。 「同じく天原署巡査、有川夕映!!」 夕映が両手で握った竹刀がまるでそれ自身が意思を持っているかのように自由に動き、男の手首に振り下ろされて、その手からナイフを叩き落とした。 「剣道二段!」 いままで暁が見たこともないような凛とした表情で、夕映は告げる。痛むらしく、呻き声を上げながら手首をもう片方の手で押さえる男の前で、夕映は竹刀を手から放して。背後の貴絵を振り返り、ほとんどアイコンタクトで何かを伝え合ったようだった。 「特技その二!」 二人がほぼ同時にそれぞれの目の前の男の手首をつかみ、腕を閃かせる。そして、ほぼ同時に上がる声。 「合気道三段っ!!」 受け身をとる暇さえ与えずに男たちを地面に叩きつけ、そのままみずからの体重で抑え込むように片腕を自身の両腕でしっかりと掴んだまま、その身体に乗り上げる。 「おじさん、あたしのバッグから携帯取って!」 その言葉に従い、父親が貴絵のバッグの中から携帯を手にとって、「邪魔だ」と言いながら暁を押しのけて表に出て、貴絵に歩み寄っていく。「そしたら、『職場』って登録してあるところに電話かけて、あたしの顔に当てて」という貴絵の言葉に従い、その通りにしたようだった。 「あ、課長ですか? お疲れさまです、山下と有川ですが、たったいま窃盗犯二名確保しました。至急、応援を寄越していただけませんでしょうか。はい、場所は……」 貴絵が淡々と電話を続ける中、一部始終を目の当たりにしていた暁は、ただ茫然としていた。 ついさっきからいままで……俺の目の前で何が起こった? 昨日の失礼な女とまた出くわしたと思ったら、実は意外に素直で誠心誠意謝ってきて……その上トロくさそうなのに周りがスクーターになんぞ乗せようとしてるから、とっさに止めたらまた食ってかかってきて。やっぱり可愛くないかもなんて思っていたら……貴絵ちゃんと二人で? 全然ビビりもしねーでひったくり犯の男に向かっていって? 見事なお手並みでのしてみせて……しかも、剣道二段に合気道三段だと!? とどめに警察官だと!? うそ、だろう……誰か嘘だと言ってくれよ、頼むから! あまりにも信じられない出来事の連続で、暁のキャパシティはもう限界を超えてしまっていた。いままでは主に自分に向かって使っていた、「人はみかけによらない」という言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。 ふと目が合った夕映が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて。前述の言葉と共に、暁の心に、強く強く焼き付いてしまった──────。 |
2013.1.2up
今回は暁視点で暁の内面を語ってみました。
予想外だった夕映の真実の連続。
暁、限界を超えてしまったようです(笑)
背景素材「空に咲く花」さま