〔1〕
カーテンから差し込んでくるのは、眩しい朝日。窓の外から聞こえてくるのは、小鳥のさえずり……先刻までの夢と季節こそ同じではあるものの、自分の中の時間だけが違っていて…あの頃は、もう還ってはこないのだと、夕映に現実を思い知らせる。 ベッドから下りて、机の上に置いてあった小さな手鏡を手にとって、そっと顔を映す。まっすぐにおろした前髪を上げると、目に入るのは斜め気味に横一文字に入った傷跡。彼女を喪った代わりに残った傷だった。この傷がある限り、彼女がいないいまが夢ではないことを、未だ認めたくない夕映に痛いほどに思い知らせ、その胸に耐えがたいほどの痛みを幾度も幾度も走らせる。胸をおさえ、無意識に荒くなる呼吸を整えながら、夕映はいま一度決意を新たにさせる。 陽香ちゃん……見ててね。あなたの未来を奪った奴ら全部、きっとこの世からなくしてやるから。私の一生を賭けてでも、きっときっと──────。 そんなことは、完全には不可能だと解っている自分もどこかにいるけれど。だけど、夕映はそうせずにはいられなかったのだ。そう誓わなければ、生きていけなかったのだ。あの、真っ白い部屋で目覚めた……彼女を永遠に喪失したことを知った、あの日から…………。 そういつものように誓いを新たにしたところで、今日は休みであったことを思い出し、夕映こと有川夕映は階下に下りていって、洗顔と食事を済ませてからまた部屋に戻って身支度を整える。肩の上で切り揃えたまっすぐな髪は、ブラシを通すとすぐにさらりと戻ってしまって、面白味がない。陽香や現在の親友である貴絵(きえ)くらいやわらかめな髪なら、いろいろとアレンジのしようもあっただろうと思うが、持って生まれた髪質ばかりは仕方がない。 貴絵こと山下貴絵も同じ職場ではあるが、夕映はある用事のためにわざわざ今日休みをとっていたので、貴絵は今日は出勤しているはずだ。午前中のうちにでかけて用事を済ませ、その足で街中に出て昼食を摂ってから気ままに店に入って、商品を見て回る。
学生たちがまだ春休みのためか、街中はそれなりに人出が多い。まだ21歳だというのに、若い女の子たちがはしゃぐさまを見ていると、かつて学生だった頃の自分と貴絵の姿がダブり、何だか懐かしくなってくる。そしてそれは、遠い昔に時間を止めてしまったかつての親友と自分の幻へと姿を変えて、一瞬涙がこぼれそうになる。 「おっ姉さーんっ どうしたの、失恋でもしちゃったの?」 「え?」 「隠さなくてもいいよ、あっちのカップルたち見て泣きそうな顔してたじゃん」 夕映が見ていたのは、その手前の少女たちのグループだったのだが……むしろカップルなど目に入っていなかったと言ってもいい。何か勘違いされていることに気付いて、慌てて顔の前で手のひらを振る。 「いえ、別にそんなんじゃないから」 「大丈夫だって、わかってるから♪」 「こんなキレーなお姉さん泣かす奴なんか、俺たちが忘れさせてやるからさあ」 「そうそう、遊びに行こうよ♪」 「…っ!」
ぐいっと腕を引っ張られて、思わず前のめりになってしまう。貴絵のようにメリハリの効いたスタイルでも人懐っこいタイプでもないのに、夕映は何故かよくこういう男たちに声をかけられる。そのたびに断るのだが、中にはこういう風にしつこいタイプもいて、逃げるのにかなりの苦労を強いられることもあるのだ。 そして、そんなことを夢にも思っていない夕映の腕をいま、少年たちは遠慮の欠片もなくぐいぐいと引っ張ってくる。何が「わかっている」だ、勝手なことをぬかすなと叫びかけたところで、突然に少年たちの動きが止まる。顔を見ると、たったいままでの余裕などどこへ行ったのか見るからに青ざめた顔色をしていて、笑みまで凍りついてしまったかのようにそのまま顔に張り付いている。いったい、何が起こったというのだ? よく見ると、彼らの視線は夕映本人でなく、その背後に注がれているように見える。誰か、自分の後ろにいるのかと思って夕映が振り返るより早く、背後から伸びた腕が夕映の腕を掴んでいた少年の手を強引に薙ぎ払い────それも夕映の身にはダメージを与えないよう、細心の注意を払ったやり方だったことに、夕映は驚嘆する。そんな器用な真似、そうそうできるものではない────夕映の身体を解放してくれる。 「…!」 夕映が振り返ってその顔を見ようとすると同時に、背後の人物が口を開く。 「……ひとの女に勝手に触ってんじゃねえよ。死にてえのか?」 低い、鋭利な刃を思わせる冷たい声だった。振り返った夕映の瞳に映ったのは、声と同じ印象を抱かせる鋭い瞳が印象的な、肩を少し過ぎたくらいまで髪を伸ばした青年だった。夕映より一、二歳は年上だろうか? 元からつり気味らしい瞳から放たれる眼光は険しく、顔立ち自体はそれなりに整っているというのに気の弱い者であったなら声をかけることさえ憚られるような……ある意味、外見で損をしていることもあるのではないかと思わせる相手だった。 「何とか言ったらどうなんだよ。ああ?」 そんな青年がいま、背後から夕映の肩に手を置きながら告げるものだから、少年たちはもはや何も言えない様子で、ぷるぷると首を振る。 「い、いえっ どうもすいませんっしたーっ!!」 それだけ告げて、脱兎のごとく走り去っていく。あれだけしつこかったのが、嘘のようだ。そう思ったのは、夕映だけではなかったようで……。 「けっ 根性のねえ奴ら」 そう毒づきながら、夕映を助けてくれた青年は夕映の肩からぱっと手を離して、まだ驚愕覚めやらぬ瞳で彼を見上げる夕映を見下ろしてくる。 「あ、ああ、勝手に触って悪かったな。さっきから見てて気になったんで、ついおせっかいしちまった。全部が全部ああだとは言わないが、たまにしつこい奴らがいるんだ、あんたも手に負えないと思ったら、大声出すなりして周りに助けを求めな」 言うだけ言って、青年はくるりと背を向けて去っていこうとする。もしかして、ナンパから助けるふりをしてそのまま更にナンパしてくる手合いかとも思っていたので、何だか意外な気がして驚いてしまう。人を見かけで判断してはいけないと、夕映自身よくわかっているというのに。 「あっ 待って…」 きちんと礼を告げていないことを思い出して、慌てて青年の後を追う。勝手に勘違いして、助けてもらったことに対する礼も告げないなんて、人として最低だと思ったから。 163cmの夕映よりも20cm近く高いらしい身長の彼のコンパスはやはり長く、背後の夕映をまったく気にする様子でもない彼に追いつくのはかなり骨であったが、ふいに歩調を緩めたのにホッとして、声を…かけようとしたのだが。青年がその前で立ち止まり、その脇についているフックから引っ掛かっていたものを手に取ったそれは。夕映が、嫌悪してやまないソレそのものだったのだ…! 「ん?」 青年が、みずからの背後で固まっていた夕映にようやく気付き、振り返る。 「あれ? あんた、さっきの…俺、何か落とし物でもしたか?」 着ていたジャケットやジーンズのポケットに入れていたらしい物をチェックして────例のソレに乗るためか、彼は手荷物らしいものを持っていなかったので────落とし物などがなかったことに安堵したように、そうなると夕映が何故追いかけてきたのかが腑に落ちないような顔で、こちらを向いてくる。 「おい? どうかしたのか?」 「──────なんて」 「え?」 「暴走族だったなんて、最低ですっ 勝手にいい人だと思い込んでいた私がバカでしたっ!」 それだけ勢いよく言いきって、夕映はきびすを返して走り出す。 「えっ!? ちょっと待てよ、おいっ!」 背後で青年の驚いたような声が聞こえるが、夕映はもう聞く耳も持たずに走り続ける。走るには、周囲に人が多過ぎて大変ではあったが、かえってそれが功を奏したようで、青年が追ってくる気配はない。ある程度離れた場所にまで行ってから、少しずつ速度を緩めて、夕映は建物の壁に手をついて立ち止まり、呼吸を整える。 偶然とはいえ、信頼できそうないい人に出会えたと思ったのに。まさか、夕映がこの世でもっとも憎悪する人種といっていい暴走族の人間だったなんて。人を見かけで判断してはいけないと思った矢先に、まさか見た目そのままの人間だったなんて。自分の人を見る目のなさに、嫌気がさしてくる。 信じられない……いい人だと、思ったのに…っ!! 青年が前にしていたもの─────それは、いかにも「走り屋」と呼ばれる人種が乗るような二輪車で、夕映が職業柄よく目にするようなチーム名らしきロゴが入ったステッカーが貼ってあるような、ソレだったのだ。もちろん合わせて揃えたようなヘルメットもそれは同様で……見るだけで、心の奥底から嫌悪などとっくに通り越したような憎悪しか湧いてこないようなモノだったのだ。 「信っじ…られない……!」 俯いた喉から洩れ出る声は、自分でも驚くほどに怒りで震えていて。こんなにも、憎しみを抑えきれていない自分自身に、夕映の心は驚愕に彩られる。職務に就いている状態でなくプライベートだったからだろうか。それとも、午前中に済ませてきた用事のために気分が昂っているからだろうか。それは、夕映自身にもわからない。 許さない。絶対に許さない。
それは、あの青年個人に対しての感情ではない。今朝、そして午前中に新たにした決意を、みずからの胸の中で改めて誓ってみせる。やはり、忘れることなどできはしない。どんなに時間が経っても解けない呪縛が夕映の全身全霊に絡みついていて……きっと一生解けないだろうと、夕映は改めて再認識した──────。 翌日の退勤時刻過ぎ。更衣室で職場の制服から私服に着替えていた夕映は、同じく着替え中の貴絵に声をかけられて振り返る。 「なあに? 貴絵」 茶色がかったロングヘアを三つ編みにして、更にそれを後頭部のあたりで結い上げた貴絵は、いつもなら終業と同時にそれを解くというのに今日はそのままにしていて、夕映の心の端に小さな疑問が生まれるが、大したことでもないので、そちらは口に出さない。 「今日これからさ、暇なら付き合ってほしいところがあるんだけど……いい?」 「構わないけど、何? 遅くなりそうならちょっと困るけど」 「ああ、ちょっとした買い物だから、時間は大丈夫よ。ただ、ちょっと高い買い物だから、一人で見て決めるのはちょっと不安があってさ」 互いに着替えを続けながら、会話を続ける。 「高い買い物…?」 フォーマルのスーツか何かだろうか。貴絵にはちゃんと頼りになる彼氏もいるというのにわざわざ夕映に声をかけてくるということは、同じ女同士の目から見たほうがいいものなのだろうかと夕映は思う。 「お茶でも奢るからさ」 「そんなのは別に構わないけど。そのお店? ここから遠いの?」 「んーん、そんなに遠くないわよ。歩いて10分か15分くらいかな」 「じゃあ、バスとかに乗る必要はないわね」 職務上必要があるので、夕映も貴絵も一応普通自動車免許は持っているが、通勤手段は徒歩や自転車が多いので、遠い所にでかけるにはバスや電車が不可欠なのだ。着替えを終わらせた後、同僚たちと挨拶を交わしてから、夕映と貴絵は職場を出る。勤め始めの頃は職場の建物に出入りするだけでも緊張したものだが、いまでは警備のために立っている相手への挨拶も手慣れたものだ。決められた独特の挨拶の動きと言葉を交わして、二人並んで貴絵の言う通りに歩き始める。 「ねえ貴絵、いったい何を買うつもりなの?」 「ふふ、行けばわかるわよん♪」 貴絵とは中一からの付き合いだが、少々いたずら好きな貴絵は、時折こういう風にサプライズを仕掛けていたりする。まあ、はた迷惑なことではないのがほとんどなので、夕映もそれほど気にしてはいないのだが。 「それに、もしかすると夕映も買うかも知れないしね〜」 「え? 何、もしかして中学か高校の同級生の誰かが結婚するとか?」 「えー? 何を買うつもりだと思ってるの?」 「彼氏じゃなくて、わざわざあたしを連れてくぐらいだから、フォーマルの高い服とかかと思ったんだけど、違うの?」 「ああ、そんなんじゃないわよう。あ、ほらそんなこと言ってるうちに見えてきた」 貴絵が指を差すのは、何軒か店が連なっている一角。本屋や家具屋にブティックなどが立ち並んでいて、どこに入ろうとしているのか見当もつかない。悩んでいる夕映の手首をきゅっと貴絵は掴んで、何の迷いもなくそのうちの一軒に入っていく。そこは、夕映にとってまるっきり想定の範囲外の店で、驚きを隠すこともできない表情のまま、ほとんど初めて足を踏み入れていた。 「こーんにーちはーっ!」 店員の姿も見えない店内に、貴絵の明るい声が響き渡る。その声に反応して、店の奥─────恐らくは住居部分につながっているのであろうドアから、年配の男性が姿を現した。少々粗野に見えなくもないが、人柄は悪くなさそうな人物だった。その眼光の鋭さから、ただ者ではなさそうな雰囲気を醸しだしてはいるが、ところどころ汚れた作業着を着たその人物は貴絵と夕映の姿を見るなり、相好を崩した。 「おう、貴絵ちゃんいらっしゃい。今日はトオルじゃなくて、お友達と一緒か」 「はーい、中学からの親友で、いまは同僚でもある有川夕映でーす」 背中を押されて貴絵のすぐ隣に並ばされた夕映は、慌てて名乗りながら頭を下げる。 「初めまして、有川と申しますっ」 「おうおう、真面目そうなお嬢さんだなあ。貴絵ちゃんと全然タイプが違うんだな」 「だからこそ、ずっとうまくいってるんですよー」 よく言われる言葉だけに、貴絵が傷付いていないか心配だったが────そういう風に言う相手に限って、夕映と貴絵を比べてはたいてい貴絵のほうを貶めるようなことを口にするので。夕映には、それがいつも我慢ならないのだ────この人物はそういうタイプでないようなので、ホッとする。貴絵とも気心が知れているようで、仲睦まじく話しているさまはまるで旧知の知り合いのようだ。 「…で。貴絵、ここへはいったい何をしに来たの?」 ずっと抱いていた疑問を、ここでようやく口にする。 「何だい、貴絵ちゃん、お友達には何も言わないで連れてきたのかい?」 まあ座りなと二人に椅子を勧めて、男性も向かい側の事務用らしい椅子に腰を下ろす。 「だーって、先に話していたら、夕映ってば『絶対行かないっ』って言い張りそうだったんだもの」 それはそうだろう。貴絵に有無を言わせず連れてこられたここは、できることなら夕映が一生入らないでいたい場所である、二輪車専門店だったのだから!! 「黙ってたのは悪いと思うけどさー、ここは夕映が嫌うような類いのお店とは全然違うのよ? だから、バイク屋さんだからって偏見持ってほしくなかったのよね」 「もしかして、こちらのお姉ちゃん────あ、『夕映ちゃん』って呼んでもいいかい?」 さすがに本人を目前にして愛想を悪くもできないので、夕映は肯定の意を表すためにそっと微笑んで頷いて見せる。 「夕映ちゃんはもしかして、いわゆる族って呼ばれる連中が嫌いなのかい?」 「大っ嫌いですっ!!」 反射的に、間髪入れずに返した夕映に、男性のほうが驚いているようだった。脳裏に一瞬、幼い少女の姿がよぎる。 「私から、大切なものを奪った奴らなんて……一生許す気はありません」 溢れ出る憎悪を隠しもしない夕映の様子から、男性は何かを感じ取ったようで、「そうなのかい」と短く答えただけで、それ以上何も言わなかった。そして、ふいに背後を振り返って、 「おーい、茶あ三つ……お前も飲むなら四つ持ってきてくれや」 と声を張り上げた。返事は聞こえないが、奥に細君でもおられるのだろうと夕映は思った。 「それはともかく、今日はこのコにも一緒に買い物させちゃおうかなー、と思いまして」 夕映の事情をほとんど知っている貴絵が、変な雰囲気になりかけた場を和ませるように、のん気な声を出した。 「……買い物って何よ」 「だからあ、ここにはスクーターを買いに来たのよ。夕映も買わない?」 「はあっ!?」 何がどうしてそういう話になるのだ!? 思わず立ち上がって貴絵を見つめた夕映の前で、先ほど男性が出てきたドアが開き。盆に四つの客用らしき蓋つきの湯呑みを乗せた人物が姿を現した。 「親父、お客さんか……」 その人物の顔を見た夕映の瞳が、更に驚愕に彩られる。たったいま目前に現れた人物こそ、つい昨日夕映をナンパから救ってくれた、例の青年だったのだ──────!! |
2013.1.1up
ようやく始まりました、夕映と暁の物語。
まだまだお互いを何も知らないこのふたりは、
いったいどんな物語を紡いでいくのか?
少しずつ、ゆっくり歩んでいく予定です。
背景素材「空に咲く花」さま