〔3〕





 よかった、と。凛子は内心でそっと思った。先刻のことがしこりになって、ふたりの間にわだかまりが残ってしまったらどうしようかと、真剣に考えていたから。

 明人が、素直に反省して謝ってくれるような優しいひとで、ほんとうによかったと思う。いままで付き合ったことのある男性たち────といってもそんなに多い数ではなく、たったのふたりだけだったけれど────はまるっきりそういうタイプではなかったから、また悲しい思いをすることになるのかという危惧にすら考えが及んでいたから。

 先の言葉の通り、明人も今度は凛子の言う通りにだけ動いてくれたから、着付けるのはとても楽で。自分の着付け直しもあるし時間が足りなくなってしまうのではと心配していたが、思ったより早く終わってくれたおかげで、凛子のほうの時間も余裕でとれそうな感じで、そっと安堵の息をもらす。

「じゃ、そのへんに座ってちょっと待っててくれる? 急いで私のほうも直してしまうから」

「うん」

 シュル…とみずからの帯をゆるめ始めたところで、何となく視線を感じてそちらを向くと、ベッドに腰を下ろして、優しい微笑みを浮かべてこちらを見ている明人と目が合った。

「な…なに?」

「ん? どうやって着付けるのか、珍しいから見させてもらおうかと思って」

「やだ…恥ずかしいじゃない」

 手を止めないまま、視線だけそらして言うと、楽しそうな声が返ってきた。

「普段、もっとすごい姿を見てるのに?」

 言われると確かにそうだけれど、明人の見ている前で自分から脱いだことなどほとんどないから、何だか恥ずかしくて仕方がない。別にどこぞのすけべオヤジのようにニヤニヤして見られている訳でもなく、どちらかというと見守るような眼差しだというのに、だ。そばにあった三面鏡の一面に帯をかけて、その上に胸紐と腰紐を重ねてかけると、ウエストの辺りで止まっていた浴衣がだらりと下がって、床についてしまうほどに長くなる。気をつけないと、踏んで転んでしまいそうなほどだ。

「あれ、女性のはずいぶん長いんだな」

「ええ。男性用のと違って、女物は腰の辺りで調節したりするから」

 言いながら、浴衣を一時脱いで、中に着ているワンピースタイプの肌着を整えてから、再び浴衣を肩から羽織る。明人はいちいち珍しいのか目を皿のようにして見ているので、気恥ずかしさのあまり慣れている所作のはずなのに次の動作を一瞬忘れてしまいそうになってしまう。それでも何とか思い出して、裾線、左右の身ごろの幅を決め、腰紐で一時留める。それから姿見を見ながら裾や上半身の長さやズレを微調整していくと、自然に心身ともに引き締まっていくような気分になるところが、和服の不思議なところだ。

明人の視線に恥じらいながらも動作を続けていくと、明人も好奇心からでなく本心から興味を持ったのか、真剣な眼差しで身を乗り出さんばかりに凝視しているので、何だか可笑しくなってくすりと笑ってしまう。

「そんなに珍しい?」

「うん。男のとは全然違うんだな、驚いた」

 まるで仕事や勉強を教わっているかのような反応に、思わずくすくすと笑ってしまう。

「何か不思議。家庭教師にでもなった気分」

「で? 次はどうなるんだ? 教えてくれ、先生」

 くすくすと笑いながら、おはしょりの処理をして衣紋を抜くと、明人の喉から声にならない感嘆の声がもれた。ほんとうに珍しいのだなと思いながら、次の正月には着物を着て一緒に初詣にでもでかけてみようかと考えてみたりする。

「簡単そうに見えるけど、自分でやろうとすると難しいんだろうな……」

「やあだ、明人さん自分で女物の着方をするつもり?」

 想像したら、可笑しくなってくる。

「あ、そういう意味でなくて、凛子はやっぱ器用だなあと思って……」

「これくらい、慣れれば誰にでもできるわよ」

 言いながら胸紐を結んでから、鏡の前で前後左右、襟元、裾の辺りをチェックして、今度は帯を手に取る。

「そこまで色々やってからやっと帯を結ぶのか……女性のって面倒なんだな」

「でもその分、華やかさや色柄も男性のものとは比べ物にならないほど違うもの。一長一短ってところかしら」

「俺、男でよかったかも……」

 あんまりにもしみじみと言われてしまったので、凛子はもう耐えきれずに身を折って笑い出してしまった。そこまで真剣に明人が考えているとは、思ってもみなかったのだ。

「よかった」

 とたんに耳を打った言葉に、思わずそちらを向くと、ようやく心の底からホッとしたような明人の笑顔が目に入った。その瞳にどことなく自嘲的な光が見えるのは、気のせいだろうか。

「やっと、いつもみたいに笑ってくれた……あのまま笑ってくれなかったら、どうしようかと思った──────」

 眼鏡を脇に置いて、まるで隠すように手で顔を覆う明人に、凛子は今更ながらにほんの数十分前の出来事を思い出す。自分でも、言われなかったらこのまま忘れてしまっていたかも知れない。

「そんなこと……気にしてたの…?」

「だって、あんなひどいことして傷つけて……もし凛子に許してもらえなかったらどうしようって、そればっかり頭の中でぐるぐると回ってて。凛子に嫌われたら、俺きっといままでみたいに自信ありげになんかふるまえない。それくらい、凛子を失うのが怖い、ただのハッタリ野郎なんだよ、俺は…………」

 そういえば、由風に以前言われたことがあった。

『あいつ余裕あるふりしてるけど、あれほとんどハッタリだよ。営業の手腕のひとつでもあるけどね。あんたに関しては、余裕なんかないんだよ』

 あれは…ほんとうのことだったのだろうか? ほんとうに、そんな風に想ってくれていたのか、こんな自分のことを? 凛子だって、自分に自信なんかまるでない。自分にもっと魅力があったなら、いままで付き合った彼氏とだって別れずに済んだかも知れないと思うほど、自分に自信などまるで持っていない─────持てないと言ったほうが正しいか。そんな自分なのに、明人は凛子のほうから自身から離れていってしまうことを恐れ、日々怯える心を隠しているのか。

「こんな、わたしなのに……?」

「そんな凛子だから、いいんだ。凛子のどこが違ってても、俺はきっと好きにならなかったかも知れないぐらい、そのままの凛子がいいんだよ──────」

 顔を覆っていた手を外して、頼りなげな笑顔で明人が告げる。それは、初めて見る明人の憔悴しきった顔で。いままで見せたことのないほど自信のない表情と、いままで聞いたことのないほどに弱々しい声にたまらなくなって、気付いた時には明人の頭をその胸の中に抱き締めていた。自分でも、驚いてしまうほどの早業だった。

「あっ えっと…その。『自信がない』なんて……言わないで。わたしだって、自信なんかないけど。それでも、明人さんがいてくれるから、自分のことを少し好きになれたの。貴方がわたしに自信をくれたのよ。誰よりも一番好きだから─────だから」

 言いたいことが、ちゃんと伝わっているのか凛子にはわからない。それでも一生懸命頑張って、言葉を紡ぐ。仕事の時だったら、いくらでも論理的に文章を組み立てられるのに、明人に正直な内心を伝えようとするととたんに言葉が浮かんでこなくなるのは、どうしてなのだろう? それは、いくら考えても解明できない謎だったりする。麻美香あたりに訊いてみたら、答えを教えてくれるだろうか?

 そんなことを考えていたから、明人が行動を起こしたことに気付くのが遅れた。両の二の腕の辺りに、ぬくもりを感じてハッとする。明人の大きな手のひらが凛子の腕にそっと添えられていて、みずからの腕の中には、明人の優しい微笑み──────。

「……ありがとう…………」

 先ほどよりは明るくやわらかくなった表情を見て、凛子の顔も知らずほころんでいた。自分の拙い言葉ででも、明人の心に少しでも安らぎを与えることができたのなら、嬉しいのだけど。

彼のためならば、いつでもどんなことでもすることを厭わない覚悟ができていたのは、いつ頃のことだったか。自分に何ができるかなんて、わからないけれど。彼を守るためならば、何でもできると─────凛子は思うようになっていた。

「─────俺はもう大丈夫だから。続きをやってしまっていいよ。まだ、帯が残っているんだろう?」

「え、ええ」

 まだ少し心配だったけれど、普段の様子に戻りつつある明人を信じて、凛子は再び鏡に向かう。ついさっき放り出した帯が所在なさげに端に引っ掛かっているのを手に取って、胴周りの長さに合わせて調節しながら結んでいくと、浴衣本体に比べて複雑な動作であるせいか、それまでは興味津々の体で見ていた明人も次第に混乱してきたようで、眉根を寄せて理解しきれていないような表情を隠しもしない。その様子が何だか可笑しくて、ついくすくすと笑ってしまう。

「…ダメだ。見てても、どうなってるのか全然わからない。やっぱり凛子にはかなわないや」

「慣れの問題だってば」

 今日初めて浴衣の着付けを見た人間にそう簡単にわかられては、しばらく勉強を続けていた人間の立場がないではないか。それも、男性ならなおさらだ。とりあえず、後で解き方だけは教えてあげようかなとこっそり思うが、それをいま明人に告げる勇気はない。

 やがてキッチリと結び終えてから、合わせ目が乱れないように気をつけながら、ゆっくりと結び目を前から後ろへと回して、鏡を見ながら最後の仕上げに取りかかる。いくつかの注意事項をチェックして、前も後ろもきちんと整っていることを確認できたところでようやく安堵の息をもらす。慣れていても、全作業を終わらせた時にはついため息をついてしまう。

「終わった?」

「ええ、何とかね。久しぶりだし、ちょっと神経を遣ってしまうわ」

「でも、すごく綺麗にできてるよ。普段の凛子とは全然違って、まるで別の女性みたいだ。女性ってホントに服や髪形で変わるよね、何だか好きになったばかりの頃の気分だ」

「そんな…明人さんだって、今日は思わず惚れ直してしまったぐらい……素敵よ…………」

 勇気を出して告げた言葉に、凛子だけでなく明人の顔まで真っ赤になってしまって、何だか気恥ずかしい空気がふたりを包む。もし由風でもこの場にいたとしたら、「いつまでもやってろよ、中学生日記カップルがよっ」とでも悪態をついたに違いないと思えるほどの、甘酸っぱさだった。

「そ、それはともかく、そろそろ出ないと駐車場も電車もいっぱいになっちゃうし、もう出たほうがいいんじゃないかなっ 凛子は、車と電車、どっちのほうがいい?」

「あ、私は車のほうがいいと思うわ。電車だと、人混みの中を長く歩かなきゃいけないでしょ、私はともかく初めての人が下駄で歩くのは大変よ、少しでも歩く距離が短いほうがいいと思うわ」

「そうなのかい?」

「靴ずれじゃなくて、下駄ずれというか鼻緒ずれというか……そういうのは結構辛いのよ。もしお酒とか飲みたくても、いまはノンアルコールのものもあるから、そっちのほうが断然いいと思うわ」

「じゃあ…凛子がそう言うならそうする」

 それから、明人の着ていた服や靴を袋に入れて、あらかじめ用意しておいた凛子の着替えを入れたバッグと共に手に持って、ふたりそろって下駄を履いて凛子の家を出る。着替えを持って出たのは、車の混み具合によっては神崎の家に戻るほうがいいかも知れないと思ったからだ。カランコロン…と独特の音を立てるそれに、明人がぽつりと「何だか鬼太郎みたいだ」と呟くのを聞いて、凛子は思わず吹き出してしまう。

「ホントだ、履き慣れないからか、何となく変な感じがする」

「でしょう?」

「それにしても、こんなものまであるんだな。ほんと至れり尽くせりだなあ」

 こんなもの、と明人が言うのは、浴衣に合わせた色合いの小さな巾着袋。「信玄袋」と呼ばれる、男性用の小物入れだ。普通は財布や煙草などを入れるためのものだが、明人は煙草を喫わないので、財布と携帯に車の鍵、それと汗拭き等に使うためのハンカチが入っている。凛子ももちろん浴衣に合わせた色合いの、華やかな巾着袋を手にしている。さすがに洋服用のバッグは和服には似合わないからだ。

 似合わないといえば、明人の愛車であるシルバーのフェアレディZには浴衣は合わないことこの上なかったが、この際ご愛嬌ということで目を瞑ることにした。ふたり並んで乗り込んで、明人は車を発進させる。下駄を履いたままでは運転は危ないと言って凛子が脱がせたので、素足のままでアクセルとブレーキを踏んでいる。

「…初めて素足で運転したけど、妙な解放感があって、何だかくせになりそうだ」

「車の中を土足厳禁にしている人たちも、案外そんなことを思っているのかも知れないわね」

 他愛のない話を続けながら、花火大会のために設けられた臨時駐車場への道を走り始めた…………。





    






誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はTOP返信欄にて







2013.3.13up

今回はほとんど着付けの説明回のようになってしまいました。
興味のない方には申し訳ないです。
そして次回は、いよいよ花火大会本番です。

背景素材「空に咲く花」さま