〔8〕





 そうして、今度は素面に近い状態でふたりで家にたどり着いてから、一馬は風呂を沸かし始める。

「そこらの学生でもあるまいに、焦ることもありませんしね。簡単なつまみでよければですけど、何か軽く飲みますか」

 言いながら、買い置きのチーズやサーモンを冷蔵庫から出してみせる。

「何でもいいよ」

 答えながら、由風は珍しいのかリビングを適当に見て回っている。彼女が手に取ったのは、飾ってあったフォトフレーム。

「…この一緒に写ってるの、お姉さん?」

 まだ結婚する前の千秋と、大学時代に一緒に撮った写真だった。近くには両親と一緒に撮った子どもの頃の家族写真も飾ってあるが、現在の一馬により近かったので目についたのだろう。

「そうですよ。それを撮ったのは…僕がハタチで姉が25だったかな。その近くに義兄との結婚式の時の写真もあると思いますけど」

「ふうん……お姉さんの前だと、あんたも普通に笑うんだね」

「え?」

 普段も普通に笑っていると思うけれど……。

「由風さんの目を侮るんじゃないよ。お姉さんの前では、本音で笑ってるっつってんの。他の奴は気付いてるか知んないけど、会社ではどうも腹に一物抱えてるようにしか見えないんだよね」

 鋭いなと一馬は思う。本性を完全に知っている千秋や古い友人、知ったところで何も言わず受け容れてくれそうな義兄の前では、確かに一馬も気を抜いていると思う。けれどそれを、写真を一見しただけの由風に見破られるとは思ってもみなかった。

「よく…わかりましたね。初めてですよ、そんなことを言われたのは」

 他の人も一部は見破っているのかも知れないが、面と向かって言われたのは初めてだった。

「まあ凛子や愛理、紗雪なんかはまるっきり気付いてないだろうけど。麻美香は静観してる状態かな? とりあえず自分に害がなきゃ構わないと思ってんだろ、みんな」

 それはそうだろう。普通の神経の持ち主なら、自分や周りに迷惑さえ及ばなければわざわざもめごとを起こそうとは思わないだろうから。

 あるもので軽く飲んでから、順番にシャワーを浴びる。いつまでも通勤着のままでは、どうも落ち着かないからだ。二人分の服をハンガーにかけたところで、背後から由風がふいに問いかけてきた。

「つかさあ。何であたしな訳?」

「え?」

 振り返ると、ベッドの上で少々訝しげな表情を浮かべていた由風と、視線が真正面からぶつかった。

「酔っぱらっててどうしようもないあたしを、ここに連れてきたまではわかるんだよ。あんたもあの晩はそれなりに飲んでたしね、あたしの家まで連れ帰れなんて無体を強いる気はないさ。だけど、そっから何でああなったのさ。ベッドやらソファやらにさっさと放り込んで、寝かせつけちまえば済むことだろうよ」

 何も、昼の顔しか知らない女をわざわざ相手にすることもなかっただろうにと、由風は言いたいのだろう。その言葉を聞いた瞬間、一馬は由風があの晩のことをほとんど覚えていないことを悟った。あの晩あんなことになったのは、一馬がというより由風がそれを望んだといっていい状況だったというのに。ほんとうに覚えていないのかという驚きと共に、あの時のあれはほんとうに由風自身だったのかという疑いまで浮かんでくる。

「知りたいですか?」

 自分で誘惑したも同然の状態で、それをまったく覚えていない上にまるで一馬がみずから望んでそういう行動に走ったと思われているのかと思うと、何となく苛立ちが募ってくる。あの晩、一馬は最初はそんなことをするつもりなどなかったというのに。ベッドに膝をついて、由風の両手首をつかんでみせる。

「…っ」

「無駄ですよ。これでも一応、二十年ほど空手をやっていましたしね。仮にも女性に力負けするほどやわじゃないつもりですよ」

「…やっぱり猫かぶりまくってやがったか、このヤ……!」

 由風の抵抗をやんわり押さえつけて、恐らくその後に罵声が続くであろう唇をふさぎ、ベッドへと押し倒す。普段の一馬なら、絶対にしないような強引な行動だった。後で思い返すと、それだけ苛立っていたのかと反省することしきりだったが。

「てめ…!」

 手を緩めたとたんに起き上がって、恐らくは怒りのままにくりだされてきた拳を軽くかわし、その背後に素早く回って耳朶を甘噛みすると、由風の身体が目に見えてびくりと震えた。前回の時にも思ったけれど、世間一般の大多数の女性同様、彼女も耳元が弱いらしい。その隙に背後から両手を回して、バスローブ越しにその豊満な胸を手のひらの中におさめる。

「あ、ん…っ!」

 そのまま自分の胸を由風の背にぴたりと密着させて、耳元でささやく。

「あの夜……貴女が言ったんですよ。『独りにしないで』って」

 耳にかかる吐息に反応したのか、告げた内容に反応したのか────もしかしたら両方かも知れないが────由風の顔が、背後からでもわかるほどに真っ赤に染まった。

「う、そだ……あたしはそんなに、弱い女じゃな…!」

 バスローブの合わせ目から侵入した一馬の手に、呼吸を乱し始めながら、いやいやをするように由風が首を振る。その様子はまるで、図星を突かれて恥ずかしがっている思春期の少女のように可愛らしくて、一馬の口元が知らず知らずのうちに緩んでくる。こんなに可愛い一面があるなんて、思ってもみなかった。

 その隙に、ベッドの上で膝を立てていた由風の下肢に片手を伸ばし、バスローブの隙間から両脚の間に手を差し入れると、由風の全身がそれまでとは比にならないぐらいに大きくびくりと震え、何かをこらえているような声がその喉からもれだした。

「あ…ああ…っ」

 まだ心にくすぶっている苛立ちのままに、内股を撫でてからその奥に手を伸ばし、いつもより少々激しく指を動かし始めると、びくびくと由風の身体が反応して、その唇からはもう意味をなさない声しか出てこない。先刻まで抵抗を続けていた両腕も、既に力は抜けきっていて、はだけかけたバスローブと相俟って、いまではしどけない姿を見せるだけとなっている。彼女の髪が短いのも、この場合は好都合だった。あらわになった首筋に、唇や舌で好きなだけ愛撫を与えることができるから─────もっとも一馬は目立つところに跡をつけることは絶対にしない主義なので、細心の注意をはらうことも忘れないが。

普段の由風を知る者のほとんどが見たことがないであろう姿を、いま、自分だけが目にしている。それが、一馬の中に以前の時にも感じた支配欲のようなものと、更に今度は独占欲にも似た感情を芽生えさせる。いままでならいざ知らず、こんな由風を他の男にもう見せたくはなかった。自分のことを棚に上げている自覚はあるが、止められなかった。

激情のままに、指と舌を巧みに使って攻め続けると、やがて由風の喉から一際高い声が上がって、うつ向いていた由風の背が反りかえり、一馬の指を締めつける感覚。それと同時に、由風の身体が一馬の身体に力なくもたれかかってきて……激しい呼吸音だけがその場に響き渡った。由風をそっとベッドに横たえてから、濡れたみずからの指をぺろりと舐めて、ベッドの脇のサイドボードから常備してあるものを出して、手早く準備をする。このまま休ませるつもりなど、一馬にはなかったから。何も言わず由風の細腰を両手で掴んで引き寄せて、そのまま背後から一気に貫くと同時に、由風が悲鳴にも似た叫びを上げた。

「や、あああっ!!

 たったいま、絶頂へと昇らされた直後にこの刺激では、たまらない気持ちもわかる。だけど、一馬自身にも自分が止められなくて。由風には悪いと思う気持ちも確かに存在するのだが、いまはただ、彼女を苛むことしかできなくて。持てる手管を駆使して、どこまでも由風を追い詰めていく。

「あっ ふ、んああっ」

 逃げようとする彼女の腰を力で押さえつけて、欲望のままにみずからを打ちつけていく。由風の呼吸は浅く速く、もはや彼女自身何も考えられなくなっていることだろう。彼女が抵抗できないのをいいことに、前回の時に知った彼女の弱いところを同時に徹底的に攻め上げる。そのたびに由風の唇から甲高い嬌声が上がり、一馬の心身ともに更に昂らせていく。

「に、し……」

 彼女が何を言いたいのか悟った瞬間、苛立ちも絶頂に達し、更に速度を速めて彼女を追い詰めていく。

「や、あっ は、ああ…っ ──────っ!」

 声にならない叫びが迸り、由風の身体が力を失ってベッドに崩れ落ちていくのを確認すると同時に、みずからの抑制していたすべてを解き放った…………。


 少しずつ冷静さを取り戻していくと同時に、反比例するように心を満たしていくのは、とてつもない罪悪感。こんな、まるで責め立てるかのように抱くつもりなどなかったのに。彼女があの夜のことを覚えていなかったという、ただそれだけのことで、あんなにも怒りにも似た苛立ちを覚えるなんて、自分でも思ってもみなかった。

「ごめん。ごめん。ごめん。ごめん──────」

 眼下で眠り続ける由風の髪や頬を優しく撫でながら、恐らくは聞こえていないであろう、謝罪の言葉を口にする。たとえ酔っていたが故の結果だったとしても、彼女には覚えていてほしかったのだ。そこに至るきっかけなどではなく、互いに素顔をさらして、身体だけでなく心さえも、他の誰よりもそばに寄り添えていた、あの時のことを───────。

 そして、できることならもう一度……。

「『一馬』って…呼んでほしかったんだ…………」

 それは、いまとなっては千秋以外に呼ぶ者がいない、自分の名前。友人や義家族に呼ばれても、何かが違うとしか思えないのだ。誰よりも近しい者が呼ぶそれを、もう一度、呼んでほしかったのだ、誰でもない彼女に。何故彼女なのかは、自分にもわからないのに。いままで、他人と上っ面の付き合いしかしてこなかった自分が悪いことは、痛いほどにわかっている。それでも──────。

「…………それ。あんたの癖……?」

 静寂の中、そのひとのそれとは思えないほどに落ち着きを取り戻したささやきが、響き渡る。

「え…!?

「それ…髪とか頬とか撫でるの」

「こ、これはほとんど無意識で……姉が酔っぱらった時に半ば強制的にやらせてたからかな、だから……」

 焦って答えている最中に、一馬ははたと気が付いた。由風は「癖か」と問うてきた。初めてされたことに対して、そう思う人間は普通いない。ということは……。

「もしかして……あの晩のことを思い出した、とか…?」

 図星であったのか、横を向いていた由風の顔が、一瞬にして赤く染まった。

「べ、別にあんただからどうこうって訳じゃないかんねっ 大学時代に死んだ母さんが子どもの頃によくやってくれたのを思い出したから、それで…っ!」

 慌てたように起き上がって早口でまくしたてていた由風の声が、途中でたち消えて……代わりに、驚いているかのように両目を見開いている。いったい何がと思ったその時、一馬の頬にのばされる細い手─────普段の気の強さからは予想もつかないくらい、力を入れて握ったら折れてしまいそうなほどの……。

「あんたこそ……何で泣いてるのさ…………」

 言われて初めて気付くなんてこと、あるのだろうか。由風の指が触れた頬は、確かに濡れていて……自覚がないままに流れる涙は、とどまることを知らず、由風の指さえ濡らしていく。

「え……」

 理由なんて、自分にもわからない。

「…………」

 まるで慰めるかのように、優しく唇に触れるやわらかな温もり。それは、いつもの由風の力強さとはまったく違う、あふれんばかりの慈愛に満ちていて……そのまま、あたたかくやわらかな胸の中に抱き締められる。その感覚は、他の誰とも違っていて…由風の言葉ではないが、遠い昔母に抱かれていた頃─────ひいては千秋に抱き締められていた感覚を思い出させる。

「泣いていいよ。いくらでも、受けとめてやるから」

 何故涙が出るのかさえ自分にもわからないのに、そんな言葉を投げかけられてもどう応えていいのかわからない。

「あ……」

 何と言っていいのかすらわからないのに、言葉を発しようとしたその瞬間。

「…………一馬」

 その名を聞いた瞬間、目の前を覆って行く手を遮っていた壁が、一瞬にして霧散した気がした。自分が何を求めていたのか、まるで水が土に染み込んでいくように、理屈も何もかもすっ飛ばして理解していた。頭ではなく、心で。

 ああ……そうか。僕は、彼女に恋をしていたんだ─────初めて抱いた、あの晩からずっと。だから、名前を呼んでほしかった。だから、彼女だけが気になった。だから、彼女だけは他の誰にも渡したくなかったんだ───────。

 そう悟った瞬間、遠い記憶の中、もう想い出の中でしか逢えない少女が微笑んだ気がした。「やっと自分の気持ちに気付けたのね。人一倍鋭いくせして、変なところで鈍いんだから」。声は聴こえないのに、そう言っている気がして、ああと思う。

 すべてを理解すると同時に、ますますあふれ出していく涙。もう、止まらなかった。

「あんたはずっと、泣くことを忘れていたんだね。もう、いいんだよ。あんたはもう自由なんだから。自分のためだけに生きていいんだよ────────」

 まるで母親のそれのように、心に染みていく由風の声。もう記憶の底に沈みきって思い出せなくなりかけている母親の声と、そしてずっと自分を護り慈しんでくれていた千秋の声と重なり、固く閉ざされていた一馬の心の扉を開放していく。こんなにも感情を全開にしたのなんて、いったいいつ以来だろう? もう思い出せないくらい昔のことだったかも知れない。そんな西尾を抱き締めてくれる由風の背に腕を回し、強く抱き締める。激情のままに、けれど彼女の細い身体を壊してしまわないように、ほとんど無意識に適度に加減をしながら。声さえ上げなかったものの、一馬はいつまでも泣き続けていた…………。




                      *     *




「…………」

 あれから、どのくらいの時間が経ったのか。

「スッキリしたかい?」

 一馬の涙が止まるのを見計らったように、由風が声をかけてきた。

「はい……あ…すみません。せっかくの綺麗な身体を汚してしまって」

 先刻までは気にしたこともなかったが、由風の胸から下にかけて、一馬の涙やその他でぐしゃぐしゃに濡れてしまっていて……とても、正視にたえない状態だった。

「気ーにすんなってー。こんなん、も一回シャワー浴びりゃあ済むことなんだからさあ。それよかあんたもすごい顔してるよ。明日は表に出らんないかもね。面倒だから、一緒にシャワー浴びちまうかー」

 言うが早いか、由風は西尾の手首をとらえて、そのままベッドから降りていく。

「えっ!?

「あにいまさら驚いてんのさ、とっくの昔に全部見せ合った仲だってのに。ちまちま一人ずつ浴びるより、よっぽど効率がいいじゃん」

 それは、そうなのだけど。

「そしたらその後は、さっきの仕返しも兼ねて、またあんたを啼かせてやるからさ」

 そう言って振り返った由風の笑顔は、普段と何ら変わりのないもので……。

「あっ あのっ 何か、違う意味に聞こえるのは、僕の気のせいですか!?

「さあ……どうだろうねえ?」

 悪戯を思いついた子どものような笑顔で、由風は笑う。そしてそのまま浴室へと引っ張り込まれて、互いの全身をくまなく洗い合ってベッドに戻ったその後は、由風の宣言通り、先刻はほとんど上げなかった声を上げまくってしまうほどに、先の一戦がよほど悔しかったのか由風の気合いの入りまくった手管に翻弄されてしまったのであった…………。




──────そして。しばらく経ってから由風と街中を歩いていた際に、懐かしい面影を残した女性と偶然出会い、同年代と思しき男性と小さな子どもと行動を共にしていた彼女と何のわだかまりもなくしばしの会話を交わして、笑顔で別れてそれぞれ帰路につくのは、また、別の話…………。



    






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2013.8.16up

ついに、西尾と由風の邂逅です。
書くのにめちゃくちゃ苦労を強いられました。
心情よりも、主にその
えっちなシーンで()
そしてこの裏で神崎と凛子はまだ全然かと思うと笑えます。
残り、あと一エピソードで終了予定です。

背景素材「空に咲く花」さま