〔9〕





 もう何も秘密はない。彼女の前でなら、自分は自分のままでいられる──────。



 そう自覚した後は、早かった。もともと凛子のように恥ずかしがるような謙虚な性格でないことも手伝って、夏が終わる頃には凛子と神崎のように、一馬と由風もすっかり社内公認の間柄となっていた。ただひとつ、あちらのカップルと違うところは、社内の皆には互いの素顔をさらしていないところだろうか。ほんとうのことなど、当人のふたりだけが知っていればよいのだ。

 翌年の春の凛子と神崎の結婚式の際に、ついでとばかりに入籍の発表をして─────社内の身近な面子が集まっていて、都合がよかったのだ。由風もだが、実は一馬も、生い立ちのせいか合理的なことを好む性格だったので。しかし、双方の親族─────主に一馬の姉の千秋や由風の父親からしてみればそれだけでは納得できなかったようで、双方から説得をされまくって、とりあえず親族だけの簡単な式と、親族以外の身近な人々へのお披露目を兼ねた記念パーティーのようなものを催す羽目になってしまった。

 由風は花嫁衣装を着ることを最後まで嫌がったが────結婚が嫌という訳でなく、極端に女らしい格好が苦手なのだということを一馬はよく知っていたので、彼女の好きなようにすればよいと思っていたのだが、彼女の父親の「母さんに晴れ姿を見せてやれ!!」という最終兵器を持ち出されて、渋々了承した。由風にとって亡くなった母親のことは、弁慶の泣き所、もしくはアキレスの踵とでもいうべき弱点なのだ。

「『ゆうか』さんて読むの? 変わってるけど素敵なお名前ね、『由風ちゃん』って呼んでもいい!?

「どうぞ、お好きに呼んでくださいな。私も『お義姉さん』って呼ばせてもらいますし」

 千秋と由風は初対面からシンパシーでも感じたのか、めちゃくちゃ意気投合したようで、すっかり一馬は蚊帳の外で義兄に「どっちが実のきょうだいかわからないねー」などと言われて一緒になって苦笑いを浮かべてしまった。千秋と由風は何だか似ていると前から思っていたが、実際会わせてみたらここまで波長が合う同士だとは思わなかったのだ。その後対面を果たした由風の弟は、一馬より一歳だけ歳が下なだけでほとんど同年代だった上に由風より裏がないタイプでつきあいやすそうだと思ったのだが、会ってほとんどすぐに「ほんっとーにあの姉でいいんスかっ!? 西尾さんみたいな人なら、もっといい女性を選び放題でしょうにっ」などと口にしたせいでしっかり聞き咎めていた由風に容赦のない技の応酬を食らい、完全KOされているのを見た一馬の前述の感想を確信に変えた。どこか凛子や愛理たちに似ているものを感じるというか。

 そうして、ほとんど何の問題もなく結婚についての恒例儀式を終え、一人暮らしをしていた由風が一馬の住まいに引越してきて、新婚生活はごく普通にスタートした…のだが。ちなみに新婚旅行は、凛子&神崎同様、GWを存分に活用して極力会社を休む日数を少なくしてでかけた────もちろん行き先は同じ海外ではあるがまったく別の国だ。一馬と由風は一緒でも構わなかったのだが、神崎の「新婚旅行は絶対ふたりっきりで行く! 誰にも邪魔はさせないっ!!」という猛反発にあい、苦笑いを浮かべる凛子と共に諦めざるを得なかったのだ。

 そして。結婚して初めての夏がやってくる──────。


「ねえ、由風って浴衣持っていたかしら?」

 きっかけは、凛子が休憩中にふとこぼしたひとことだった。ちなみに昼休みでもないちょっとした休憩時間なので、由風と神崎は営業に出ていてその場にはいなかった。

「浴衣…ですか? 持ってないんじゃないですか? 『そんなのより甚平のがよっぽど楽でいいやあ』なんて言いそうじゃないですか」

 安易に想像がついたのだろう、凛子が大きくうなずいた。由風という人物は、確かにそんなことを口にしそうな女性なのだ。そんな気取らないところが好きなところでもあるのだけど。

「じゃあ…弟さんよりはお父さまのほうが確実ね。もし見たければでいいんだけど、今度由風に内緒でお父さまに訊いてみてくれない? 由風のお母さまの遺品に浴衣があるかどうか」

「それはもしかして……用意さえすれば、凛子さんが由風さんに着せてくれる、ということですか?」

 そう訊ねると、凛子はこくりとうなずいて。

「明人さんとも話してたんだけど、今年の花火大会は、四人で浴衣を着て行かないかって。で、問題は由風なんだけど、結婚式の時も相当抵抗したって話じゃない? 普通に買ってきたものよりお母さまの遺品のほうが確実に着せられると思うのよね。西尾くん……由風の浴衣姿、見たくない…?」

 この時の凛子の言葉は、悪魔のささやきにも似ていると一馬は思った。けれどそれは、素直に乗ってしまいたいほど魅力的で……由風の浴衣姿? それは、断然見たいに決まっているではないか!!

「…早急に、義父に連絡をとってみます。着付けのほうは、よろしくお願いします」

「了解。あと小物は何があるかもちゃんと訊いておいてね。なければ事前に用意しなきゃならないから」

「わかりました」

 そうして、由風を除く三人の悪だくみが始まった…………。




                    *     *




 それから。由風に「うちのベランダから花火を見てみたいと神崎さんたちが言っている」と告げると、「おー、どんどん来ーいっ 酒は大人数で飲む方が楽しいしねー」と、すっかり飲むこと前提の答えが返ってきた。

 実際は、うちのベランダから見るんじゃないんだけどね。

 と内心で思うが、表には出さない。下手にボロを出して、計画を水泡に帰す訳にはいかないからだ。一馬も由風も車は持っていないが────免許はもちろん持っているが、会社や買い物に行くには公共交通事情や住居の立地条件が恵まれていることもあって、とくに必要とは思わなかったのだ────神崎が用意してくれるというので、万が一由風が飲み過ぎて大トラになったとしても行き帰りの面での問題はない。

 浴衣のほうも、義父に連絡して用意してもらい、由風の帰りが遅かった日に受け取りに行って、そのまま会社の最寄り駅のコインロッカーに入れて鍵は凛子に渡してある。これで、足りないものはあとは凛子が揃えてくれるはずだ。義父に「彼女に内緒にしておいてくれ」と前置きしてから計画を明かしたところ、義母の形見の品であるというそれを由風が着た姿を、是非とも写真におさめてくれと懇願されてしまった。せっかく娘が生まれたというのに、いっそ清々しいくらいに女らしいことをしない性格に育ってしまったことは義父にとっては泣けてくる現状らしく、くれぐれも頼むと一馬の手を力強く握りながら言い募る義父に、一馬は何だか同情したくなってしまった。もしかしたら、自分の両親も千秋のかつての時代のプライベートの姿を見たら、同じことを思ったかも知れないなと思いながら。

 後は一馬の浴衣だったが、それは由風が取引先に行ったまま直帰するという日の帰りに、会社の近所の呉服屋に凛子と神崎と共に赴き、既に購入してやはり凛子に預けてある。由風のものもそうだが、家に置いておくと何がきっかけで由風にみつかってしまうかわからないからだ。ちなみに一馬のものの購入には凛子さえいれば事足りるのに神崎までついてきたその理由は、「たとえ大して付き合いのない店員が相手だとしても、凛子と西尾くんがそういう間柄だと思われるのは我慢ならない」と彼が強固に言い張った結果だったのだが、彼がいないところで二人して苦笑いしてしまったのは、また別の話。

 そして。計画実行の日がやってきた。

 適当に理由をつけて、午後になってから由風に早めにシャワーを浴びさせて、自分も浴びてから凛子と神崎の到着を待つ。何も知らない由風はさっそく甚平に着替えて、冷蔵庫にビールその他が買い込んで入れてあることを確認して、ほくほく顔だ。やがて、玄関のチャイムが鳴って、とりあえず簡素な洋服に身を包んだふたりが姿を現した。

「いらっしゃ〜いっ あれ、凛子ちゃんてば、今年は浴衣着ないの〜?」

 昨年のふたりの行動を知っている由風が、からかうように凛子の腕をみずからの肘でつんつんとつつく。

「着るわよ、これから」

 どことなく気恥ずかしそうな顔で答えながら言う凛子に、由風の背後から一馬は声をかける。

「凛子さん、奥の部屋に姿見も用意してありますから、そちらでどうぞ」

「ありがとう、西尾くん。じゃ由風、行くわよ」

 神崎の持っていた少々大きめなバッグの片方を受け取って、由風の腕を引いて凛子は奥の部屋へと進んでいく。

「え? 何? あたしに何か手伝えっての? あたし、浴衣の着せ方なんか知らないわよ」

「私が知っていればいいのよ」

 頭上にクエスチョンマークを飛び回らせまくりながら、由風は凛子に連れられて奥の部屋へと入っていく。凛子ひとりで大丈夫なのだろうか。

「で、西尾くんには僕から教えるということで。大丈夫、男物の着方は凛子からしっかりレクチャー受けてきたから」

 女物よりよっぽど楽だし。そう続けながら神崎が、持っていたもう一つのバッグを掲げて見せた。ちょっと意外に思いながら、神崎の指示に従って支度を始めると、一馬の内心が神崎に通じたのだろう。神崎が、何となく面白くないものを感じているような顔で、自分が羽織った浴衣の端をつまんだままでそっと口を開いた。

「……女性が別の人間、それも男に、浴衣に限らず和服を着せる場合、この腰紐を結ぶのにはリーチの問題で思いっきり密着しないとできないんだよ」

 神崎の指示通りにみずからの腰に回した紐を交差させてから神崎の顔を見やると、先刻までは何となくだった神崎の表情が、あからさまに面白くないものを感じているようなそれになって、一馬の視線からすいと顔をそらした。

「凛子と、他の男を密着させるような真似、俺が許すと思うかい?」

 ぽつりと呟いた言葉に、一馬の脳味噌がゆっくりとその意味を噛みしめて……意味を正確に把握した瞬間、思わず吹き出してしまっていた。

「す、すいません、つい…っ」

 四人が所属する支社に配属されたのは自分のほうが確かに先だが、入社の時期でいえば明らかに神崎のほうが先輩なので、笑ってはいけないと思うのも事実なのだけど、あまりにも予想外の言葉に堪えられないのもまた事実で……。

「……いいけどね、別に。それだけ俺が凛子に惚れてるってことは、もう周知の事実だし」

 誰の前でも堂々と公言する自信だってあるし、といくらか拗ねたように神崎が付け足したその時、奥の部屋の方から何やらもめているらしい女性たちの声が聞こえてきて、二人して反射的にそちらを見るが、何を言っているかはわからないが一際大きい一喝らしき声が聞こえたとたん、再び静寂が訪れた。

「大丈夫…かな……?」

「大丈夫だろ。部屋から出てこないということは、さっき最後に聞こえた大きい声は多分凛子だろう。大方、凛子の一喝に、由風さんが折れたってとこじゃないかな?」

 そうかも知れない。もしも由風がキレたのだとしたら、たとえいま自分がどんな格好だったとしても、部屋から飛び出してくるくらいのことはしかねないからだ。神崎もだが、一馬も自分の嫁の気性はよく知っているつもりだ。

「まあ向こうは凛子にまかせておけばいいとして。こっちも残りを終わらせてしまおう」

 神崎に言われて、交互に姿見の前に立ちながら、続きを再開する。しかし、女物はともかく、男物の浴衣などろくに見たことがなかったが、意外に種類があるものなのだなと一馬は思う。さすがに色は女物に比べれば極端に少ないが、その分柄などが凝っていて、なかなか面白い。

神崎のものは青っぽい色の生地────訊けば瑠璃紺色(るりこんいろ)というのだそうだ────に幾何学模様のような柄と黒や茶のラインが入ったものだが、自分用にと凛子や呉服屋の店員が見立ててくれたものは、一見黒っぽい色に見えるが褐色(かちいろ)という色で、三枡繋ぎ文というグレーっぽい柄が染め抜かれている。店員いわく、八代目市川団十郎が演目『一の谷武者絵土産』で岡部六弥太を演じた時に裃に用いたので、六弥太格子とも呼ばれることもあるそうで。歌舞伎はよくわからないが、一目見てなかなか気に入ったのでほとんど即決で買ってしまった。惜しむらくは、身長は神崎とそんなに変わらないのに、草食系と呼ばれる顔立ちと外面のせいか神崎ほど渋みが出しきれないところか。三十路も目前だというのに、いまでも二歳かそこら若く見られることもあるのが悔しい。

そんなことを思いながら最後の仕上げをしていたところで、奥の部屋のドアが開いた音がした。

「どう? うまくできた? そっちに行っても大丈夫?」

「大丈夫だよ、ほとんど終わってるから」

 凛子の声に神崎が答えた数秒後に、淡い紫色────神崎いわく「竜胆色(りんどういろ)」というのだそうだ────に百合の花が染め抜かれた浴衣を身にまとった、今日はコンタクトにしているらしい素顔の凛子が姿を現した。結婚式のブーケといい、神崎とつき合い始めてから変わった香水といい、凛子にとっては百合の花は何かしら特別なものなのだろう。それはともかく。凛子の背後から、不機嫌な表情を隠すことなく現れた存在に、一馬は目を奪われた。

 そこに立っていたのは、水色の布地に波紋と真紅の金魚が染め抜かれた浴衣に朱色の帯を締めた、見慣れているはずの自分の妻…だった。浴衣も、義父から受け取った際に一度目にしたはずだが、実際に着ているところを見るのとでは大違いだった。

「───────」

 「綺麗だ」と言ってあげたいのに。声が、喉にはりついてしまったかのように出てこない。いつもの自分なら、たとえほんとうにそう思っていなかったとしても、お世辞のひとつやふたつ、簡単に言ってのけるというのに。更に、凛子が気を利かせてアレンジしたであろう髪も、その状態に一役かっていたかも知れない。いつもは本人のさっぱりとした気性を表しているとしか思えないショートカットのそれが、どこをどうしたのか女らしい色気をかもしだすアレンジが施されて、浴衣の色に合わせた髪飾りまでついていたものだから、とてもいつもの由風と同一人物とは思えなくて…………。

「おやおや。西尾くんは、すっかり見惚れてしまって声も出せない様子ですよ?」

 先刻とはまるで違う、楽しそうな表情の神崎の声にハッとするが、やはり声は出せなくて……。そんな一馬を見た由風が、たったいままでの不機嫌そうな顔はどこへやら、一転して興味深そうな表情で一馬の顔を覗き込んできたので、とっさに視線をそらしてしまう。

「ちょっと。どうしたのさ」

「な…何でも……」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。そんな自分たちを見比べていた凛子と神崎が、互いの顔を見合わせてクスリと笑ってから、バッグから出してテーブルの上に置いてあったデジカメを手に取った。

「じゃあ由風、ご機嫌も直ったようだし、写真を撮ってしまいましょうか。外に行ってからだと、人も多くてちゃんと撮れないかも知れないし。西尾くん、由風のお父さまに頼まれているんでしょう?」

「親父に?」

 由風がきょとんとして振り返る。

「そう。お母さまの形見を着た愛娘の晴れ姿を是非見たいと、必死の形相で頼まれたそうよ。不憫よねえ。たまには、親孝行もしてあげなさいよ」

「しゃーないなあ。ちゃっちゃと終わらせてよ?」

 一馬から数歩離れて、由風は凛子の持つデジカメに目線を向ける。

「ちょっと! 浴衣でVサインはやめてよ、女子高生でもあるまいにっ せっかく女らしく仕上げてあげたんだから、少しは猫かぶってよ」

「もー、文句が多いなあ」

 ぶつくさと言いながらも、凛子に言われた通りのポーズや目線を決めながら、由風は記念撮影に応じている。それをぼんやりと眺めながらも、一馬は何も言えずろくに動けないままだ。女性は髪形や着るもので変わると知ってはいたが、まさか、こんなにも変わるものだとは思ってもみなかったのだ。

「大丈夫かい? 西尾くん」

 いつの間にかそばに来ていた神崎が、一馬の肩をぽんとたたく。

「まあ気持ちはわかるよ。俺も凛子の浴衣姿を初めて見た時は、似たような状態になったからね」

「……『女は魔物だ』って、あの言葉は真理ですねえ…………」

 もはや、それしか言葉が出てこない。

「さっき凛子に聞いたんだけど、案の定由風さんはすごい抵抗を示したらしいよ。だけど、凛子が『亡くなったお母さんの形見を着るくらいの親孝行はしてやれ』って言ったら、抵抗するのはやめたらしいけど、ずっと不機嫌なままだったんだって。だけど、西尾くんのこの反応を見たとたん、急速に斜めだったご機嫌がまっすぐになったらしい。可愛いところ、あるじゃないか」

 そんなところばかりじゃなく、由風にだっていっぱい可愛いところはあると反論したかったが、凛子の指示通りいろいろなたおやかなポーズをとっている由風を見ていたら、また何も言えなくなってしまった。

「ついでにいうと、君のことだから経験あるかも知れないけど、本気で惚れた女が着てる和服が乱れたりしたところは、もう格別の艶っぽさだから。せいぜい主導権を持ってかれないように頑張ってくれ」

 それだけ言って、神崎は女性二人の方に行ってしまったから。そういう神崎は覚えがあるのかと問いかけようとした一馬の言葉は、結局表に出されることはなく。

「はいはい、気持ちはわかるけど、もう出ないといい場所がとれなくなっちゃうよ」

 そう告げる神崎の言葉に従い、女性たちは撮影会を終了して、各々行く支度を整え始める。一馬も、浴衣と一緒に購入した信玄袋と呼ばれる巾着袋に貴重品を入れて、由風にも買っておいた巾着を渡した。

「こんなもんまで用意してあんの?」

「やっぱりあったほうがサマになるかなと思ってね」

「由風! 今日ばかりは煙草を吸うのは許さないわよ!? どこぞのヤンキーでもあるまいに、そのカッコでそんなことしたら、せっかくのおめかしがだいなしになっちゃう」

 前もって釘をさすのを忘れないあたり、やはり凛子は由風のことをよくわかってるなと思う。「いーっ」とばかりに凛子にしかめっ面を向ける由風は、まるで十代の少女のようで可愛らしい。思わず胸をときめかせていた一馬は、突然平常の顔に戻って振り返ってきた由風に、一層胸を高鳴らせてしまう。

「で?」

「え?」

「まだあんたの感想を聞いてないんだけど。どうよ、このカッコ?」

 まさかこんなにストレートに問われるとは思っていなかったので、とっさに言葉が出てこない。

「嫁の晴れ姿に旦那が無言ってのは問題あると思うんだけど?」

「えっと…その……」

 どうしたというのだろう。普段の自分なら、いくらでも世辞や美辞麗句を並べ立てられるだろうに、今日に限って言葉がまるで頭に浮かばない。由風の顔は、明らかに何らかの答えを期待しているように見えるのに、どうしてもそれに応えることができない。

「あの……その…」

 困り果てた一馬を救ったのは、神崎の一声だった。

「はい、そろそろ出るよー。車は言われた通り、下の来客用スペースに駐めさせてもらってるから」

「エレベーター、ちょうど上がってくるわよ、急いで急いで」

 下駄を履いて先に出ていた凛子が慌てた様子で戻ってきたので、一馬も我に返って、由風の手を引いて凛子たちが用意しておいてくれた下駄を履いて外に出る。

「あっ ビール持ってきてないーっ」

「向こうでいくらでも買ってあげますから」

「ホントだね? 男に二言はないね?」

「いいから、早くいらっしゃい!」

 エレベーターの扉を、ボタンを押して開けたままにしていた凛子が焦りまくった様子で皆を呼ぶ。神崎に続いて四人全員乗り込んだところで、一馬はようやく安堵の息をつくことができた。

「そういえば神崎さんの車って、確か二人乗りだったんじゃ…」

 神崎の車を実際見たことはないが、確かフェアレディZだと聞いている。それでは、四人も乗るのは無理なのではないか。そう思って訊いた一馬に、神崎はこともなげに答える。

「ああ、それなら大丈夫。ちゃんと四、五人乗れるものを、実家から借りて来てるから」

 そういえば、神崎は昨年までの10年間他県の支社にいたが、出身は間違いなくこちらだった。実家が近くにあっても、何らおかしいことはない。

「お義父さんに悪いことしちゃったかしら。Zなんてお義父さんには運転できないんじゃない?」

「ああ、それは大丈夫。まだおふくろの車もあるから」

 そんな神崎たちの会話を聞きながら、一馬は由風からさりげなく視線をそらしている。不自然だと自分でも思うけれど、いまの由風の姿を目の当たりにしてしまったら、またあんな挙動不審になってしまうのがわかっていたから、どうしてもそちらを向けなかったのだ。由風は無言のままだ。やはり、褒めなかったのはまずかったか、いまからでも遅くないだろうか、でもいつ言えばいいだろうと考え込んでいるうちに、神崎の運転する車はコンビニを経由して花火会場の臨時駐車場に着いてしまい、何も伝えることができなくなってしまった。


 会場内は既になかなかの人出で、もう少し遅く着いていたら座る場所すらキープできるかわからないほどだった。神崎たちの持参してきたビニールシートを敷いて、座り込む。一馬のオールオッケーが出たことを免罪符に、由風はさっそくビールを空けて、他の三人を見回してきた。凛子が、困ったように神崎を見るのに気付いて、一馬は半ば無意識に言葉を紡いでいた。

「ああ、僕は今日は飲む気にならないんで、凛子さん、付き合ってあげてくれますか」

「え、いいの?」

「こういう状況ですしね、男が素面のほうが都合がいいと思いますし」

 それはほんとう。トラになった由風を連れて帰るにしても、彼女たちに寄ってくるナンパ男を追い払うにしても、素面に近いほうがいいに決まっている。

「そういうことなら……」

「ああでも、あまり飲み過ぎないでおいてくれな。酔っぱらいを二人も抱えて帰るのは、いくら男でもちょっと辛いから」

 そもそもの始まりを思い出してか、神崎も釘をさすのを忘れない。まあもっとも、さっきの言いっぷりからして、今夜の凛子にさっさと飲み過ぎで置いてけぼりを食らうのは、男としては少々、いやかなり酷な話だろう。

「わかってますよーだ」

「ま、とりあえずカンパーイっ」

 親友と久しぶりに飲めるのが嬉しいのか、由風はご機嫌だ。これで、一馬が賞賛の言葉を口にできれば、完璧なのだろうけれど……。

 やがて花火が始まって、周囲から歓声が上がり始める。

 しばらく花火を楽しんだ後、由風がふいに立ち上がったので、思わず声をかける。

「ビールなくなっちったから、買ってくるー」

「待ってください、僕も行きますっ」

 完全に酔いつぶれていないとはいえ、それなりに飲んでいる由風の足どりは微妙に危なっかしく、これでよその男にナンパされでもしたらいまの由風に手加減ができるとは思えないし、それ以前に彼女の身が心配だ。慌てて二人分の巾着袋を持って、立ち上がる。笑顔で見送る凛子と神崎に応えながら、由風の腕を取って自分の腕にからめさせる。

「いくら全面オッケーが出たからって、ちょっと飲み過ぎじゃないですか?」

 少し由風が疲れたようだったので、途中の木陰で幹にもたれかけさせて、一時休憩させる。少々たしなめるような口調で言うと、由風はとたんに唇を尖らせて。

「……ないんだもん」

「えっ?」

 よく聞こえなかったので耳を近付けると、ふてくされたような由風の声が耳に飛び込んできた。

「だって、あんた何にも言ってくんないんだもん。せっかく苦しいのも我慢して着たのにさ」

「え……」

 由風が嫌なのを我慢して浴衣を着たのは、亡くなった母親と父親への孝行のためだけではなかったのか? もしかして、否、もしかしなくても、自分に見せたかったからというのも…あるのだろうか。それぐらいには想われていると、自分は自惚れても……いいのだろうか─────結婚までしておいて、いまさら何を言うのかという話だが。

「もういいよ。そんなに関心がないなら、こんなカッコもうしない。楽なのが一番だもん、こんなのどうせあたしの柄じゃな……」

「綺麗だよ」

 完全にやさぐれモードに入って顔をそむけかけた、由風の動きがぴたりと止まって。それからゆっくりと、一馬のほうに再び向き直る。その視線を感じて、一馬は目をそちらに向けることができない。顔が、自分の意思とは関係なく紅潮していくのもわかっているけれど、止めることができない。

「なかなか言えなくてごめん。あんまりにも予想以上に綺麗だったから、何だかこっちまで恥ずかしくなっちゃって……普段の姿も好きだけど、いまの姿がすごく…魅力的だから。ホントは他の誰にも見せたくないくらいだけど、花火を見に来るのは約束だったから。できることなら、うちから出さないで閉じ込めておきたいぐらいで…って、何言ってるんだろうな、僕っ」

 由風の顔を見られないままだったから、由風がどんな顔をしているのか一馬にはわからなくて……熱くて仕方ないと思っていた頬に、ふと感じるやわらかな温もり。思わず前を向いた一馬の瞳に飛び込んでくるのは、ほんとうに嬉しそうな由風の笑顔で……。

「やっと言ってくれた」

 頬が、更に熱くなる。

「式の時も言ってくれたけど、いまのほうがすごい余裕なくて本音っぽいから…いまのほうがすっごい嬉しい」

 言われてみれば、そうかも知れない。式の時ももちろん本気で綺麗だと思っていたけれど、いまほど余裕をなくしてはいなかったと思う。こんなにも、言うタイミングや言葉の選び方に迷うことなんて、生まれて初めての経験だったかも知れない。

 またしても、言葉に詰まってしまった一馬の首に、回される細い腕。そのまま、大きな花火が上がるタイミングで唇をふさがれてしまったから、もう、言葉は必要なかった。

 その後。花火を観終えて帰ってから、ふたりの間に何があったのかは、言わぬが花というものだろう。




──────それは、ふたりだけの秘め事。誰にも教える必要のない、ふたりだけが知っていればいい、ふたりだけの秘密の事情…………。



   





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2013.8up

ついに西尾&由風編ラストです。
西尾の腹黒さや由風の意外な可愛さが、
ちゃんとお伝えできたか不安です。

今回もまた、浴衣の色柄についてご協力いただいた
桜子姉さん、ありがとうございました
!!
うまく切れる所が見つからなくて、長くなってしまいました。
『不器用』シリーズも、残りあと一章。
ラストはやっぱり、凛子と神崎で。

最後までおつきあいいただけると幸いです。

背景素材「空に咲く花」さま