〔6〕





「あ…」

 首筋にキスを落とすと、由風の身体がぴくりと反応して、背をそらしたその隙に彼女の背後に手を伸ばして下着のホックを外す。そのとたん、解放された豊かな胸がブラウスの中で大きく震え、一馬を驚かせる。前から大きいほうだとは思っていたが、ここまでだとは思っていなかったのだ。ベッドに本格的に乗りかけたところで、履いたままだったみずからのスラックスの存在を思い出し、もどかしい思いでベルトの金具を外して脱ぎ捨てて、上着と一緒にそばのローテーブルの上に放り投げる。

 もう何も気にするものはなくなって、みずからもベッドへともぐり込む。もともとこういう時を想定して買ったベッドであったから、ふたりなら余裕で共に眠れる広さだ。由風のブラウスのボタンを完全に外し、邪魔な下着と共に取り去ってベッドの脇に落とす。普段の由風であったなら、何も言わないままであるはずがないのに、一馬の身体の下で横たわる由風は無言のままだ。もしかして眠ってしまったのかと思った一馬は、そっとその名を呼んだ。

「……由風、さん─────?」

 顔を覗き込むと、多少眠そうではあるものの目はちゃんと開いているのでホッとする。ここまでその気にさせられて、眠られでもしたらたまらないからだ。一馬には、意識のない女性をどうこうする趣味などないのだ。けれど、無言のまま、更に動かないままでいられても結局は同じことなので、そっとその頬に手を当てると、そこでようやく気が付いたかのように由風がみずからの手をその手の上から重ねてきて、まるで温もりを確かめるかのように目を閉じて頬をすり寄せてくる。

「……?」

 彼女の意図がわからなくて、一馬は首をかしげる。普段の彼女とは、あまりにもかけ離れている反応だったからだ。どんな時でも、「まっ 済んじまったもんはしゃーないわな」と落ち込むより早く前向きに善後策を練り始めるような彼女が、まるで子どもや猫が甘えるかのように何も話さず頬ずりをするだけなんて、いったいどういうことなのだろう?

 いままで女性とほんとうの意味で本音でつき合ったことのない一馬には────千秋は別として────何が何だかわからない。一馬が困惑しているそのうちに、再び由風の唇がか細い声を紡いだ。

「キス…して──────」

 震えてこそいなかったものの、やはり儚げな風情しか醸しださないその声に、ようやく一馬もハッとして、その唇に優しく口づける。もう、葛藤は感じない。触れるだけのキスから始まり、少しずつ少しずつ激しくしていくと、由風もそれに応えるようにみずからの舌を一馬のそれに絡めてくる。その様子に安心して、ゆっくりとその豊満な胸に手を伸ばすと、由風の身体が目に見えて反応した。

「あ…ん、あっ……」

 唇が離れた一瞬の隙に、もれ始める途切れ途切れの声。それは間違いなく、一馬の行為に対しての反応で、ようやく見せ始めた普通の反応に何となくホッとする。ずっとあのままでいられたら、どうしていいかわからなかったからだ。いくら親友といえど、凛子に訊けるはずもなく────でなくてもあれだけ泥酔していた凛子のことだ、もしかしなくても同じように神崎と甘い時間を過ごしているであろうことが安易に想像できるこの状況で、邪魔などできようものか。実際にはそんなことはまったくなかったのだけれど────有効的な方法が思い浮かばなかった一馬は、思わずため息をついてから、由風の胸に顔をうずめた。

 あとはもう、夢中だった。最近女性を知ったばかりの青少年や動物でもあるまいに、こんなにがっつくつもりなど、一馬にはなかったのに。いま目前にいる女性には、そんな余裕など吹き飛ばしてしまうほどの何かが確かに存在していて。もっと、もっとと駆り立てる自分自身を止めることなど思いつきもしなかった。

 肌を味わい、なめらかなそれに手を這わせると、甘い吐息が由風の唇からもれ、それと同時に途切れ途切れに上がる声がまた一馬の中から思考力を奪う。普段の彼女とは違い、自分にされるがままに快楽に翻弄されるさまは、普段の彼女を知る者にしてみればぞくぞくするような支配欲にも似た感情をみずからの中に自覚させるのに十分で……。

「『一馬』って」

「…?」

「一馬って呼んで。他の誰でもない、僕の名を…呼んで」

 身体だけでなく、心さえも……自分でいっぱいにしてほしくて。そう呟いていた。既に深く考えることができなくなっていたような由風は、半ば復唱するかのようにその名を呼んだ。

「かず…ま? かずま……」

 その声を聞いたとたん、何故だか妙に嬉しくなって、彼女の身体をまさぐり始めていたみずからの指の動きを激しくさせる。

「あっ や、あ…あっ んんっ」

「ゆうか…ゆうか……ゆうか…!」

 もう、何も考えられず、ただ彼女の名を繰り返しながら、みずからの欲望を理性のタガから解放し、手で、唇で、舌で、そして猛り狂う自分自身で、彼女のすべてを余すところなく堪能した。普段の由風とのギャップのせいか、それとも彼女との相性がよかったせいなのかわからないが、彼女の身体はどこまでも甘く滑らかで、一馬を夢中にさせた。これまで、ここまで快感を与えてくれる相手と出会ったことがあるだろうかと、本気で記憶をさらってしまったぐらいだ。

 後のことは後で考えればいい。普段の一馬ならば決して考えないであろう思いを胸に、昂る気持ちのままに突っ走って。由風が力尽きて眠りに就くまで、何度も何度もその身体を貪り続けた…………。


 カーテンの隙間からもれる月明かりの中、上掛けを掛けて眠る由風の髪や頬を優しく手の平で撫でながら、一馬はぼんやりと考えていた。

 どうしてこんなことになったのだろう? 後悔は微塵もしていないけれど、いくら考えてもそれがわからない。泥酔した時にこそその人の本性が出ると言うが、とすると、普段の感情豊かな由風と違い、あの頼りなさげな姿こそが彼女のほんとうの姿ということなのか。あまりにも普段とかけ離れ過ぎていて、うまく想像ができない。

「ん……」

 そのうちに、眼下で由風が身じろぎをしたのでハッとしてそちらを見ると、瞼を閉じた目尻に光るものが見えた。

「…かあ…さ─────」

 『母さん』? 由風の家族の話など聞いたことはなかったが、もしかして、一馬と同じように母親を亡くしでもしているのだろうか。詮索する気はないけれど、何となく気になって……目が、離せなくなった。

 けれど、眠気は容赦なく訪れる。由風の隣に同じように全裸のままで入り込んで、同じように上掛けを掛けて目を閉じる。由風の髪や頬を撫でる手はそのままに。

 そうして、朝は誰にも平等にやってくるのだ──────。




                       *      *




 明るい午前中の光が、カーテンの隙間から差し込む頃。隣でもぞもぞと動く気配を感じて、一馬は目を覚ました。

「んー……りんこぉ〜。玉子焼いてよー、こないだ作ってくれたヤツ〜」

 いつもとまったく?変わりない、由風の半分寝ぼけたような声。

「どういうものかはわからないので、僕自慢のレシピでよければ焼きますが?」

 こちらもやはり普段と変わらずに答えると、それに反応するように由風がガバッ!と音を立てて起き上がった。

「あんた、誰!?

 その言葉に、もしかしなくても昨夜のことは全然覚えていないのかと驚きを禁じ得ない。

「何言ってるんです。毎日顔を合わせているじゃないですか」

「あんた──────西尾…?」

 自分の顔を見ても、表情からは驚愕以外の感情を見てとれないことに気付き、やはり覚えていないのかと少し残念な気分になる。何故なのかは、自分でもわからないのに。

 その後、自分が勧めるままに脱衣所に消えた由風の後ろ姿を見つめながら、朝食を作る準備を始める。考えなくても勝手に動く身体とはよそに、脳裏によみがえるのは昨夜の由風の姿。起き抜けでも普段と変わらないあたり、普段の態度も由風の本質ではあるのだろうけど、昨夜の彼女とどっちがほんとうの彼女なのかとわからなくなってくる。

「確認…してみたいもんだな」

 誰に言う訳でもなく、独りごちる。

 脱衣所に置いたままだった由風の衣類を無断で洗濯に回し、慣れた手つきで朝食を作り上げる。もう少しで出来上がるといったところで由風が出てきたので、ナイスタイミングと思いながら残りを仕上げた。

「……美味いじゃん」

「両親を早く亡くして、姉と二人暮らしが長かったですからね。これぐらい、自然にできるようになります」

 正確には二人暮らしではなかったが、まあ似たようなものだ。

「お姉さんは、いまは?」

「七年前に結婚して、いまや二児の母で幸せそうですよ。義兄もいい人だし、甥も姪も可愛いですしね」

「そんなん、初めて聞いたよ」

「あまり他人に言わないようにしていましたからね。人によっては変に気を遣ってきて、かえってうっとうしいことになりかねませんので」

「あたしならいいのかよ?」

「由風さんなら、よけいなことは他人に話さないでしょう? たとえ、親友の凛子さん相手にでも」

 図星だったらしく、由風はぽつりと「まあね」と呟いた。家族のことは社内の人間────面接官や上司は必然的に知ってはいるが────には初めて話したが、やはり思った通りだった。食べ終わってから、「さて」と言いながら使い終わった食器を流しに置いて、本性を全開にした笑顔で振り返ってみせる。

「もうじき、洗濯も終わる頃です。服のほうはアイロンもかけてお返ししますから、それを着て帰れば問題ないでしょう。その前に、僕もシャワーを浴びてきますから、そうしたら二回戦のお相手をお願いできますか」

 予想もしていなかったらしく、由風が勢いよくコーヒーを吹きだす。

「ああっ!? あに言い出すんだよ、あんたはっ 酔ったはずみのあたしじゃなくても、いっくらでもそういう女がいるんだろ!? 欲求不満ならそっちにお願いすりゃ……」

 その反応も予想通りだった。

「あれ。昨夜、自分がどんな感じだったかとか覚えてないんですか? 普段からは信じられないくらいにすっごい甘えてきて、ほんとうにほんとうに可愛かったんですよ。もう眠くて仕方ないのに、『もっと〜』って言ってくるのを、『また明日してあげるから』となだめて寝かしつけたの…覚えてないんですか?」

 それは、大嘘。由風が昨夜のことをどこまで覚えているかはわからなかったけれど、そんなことを言ってやればその反応でどれくらい覚えているかわかるだろうと思ったのだ。全部聞き終わったとたん、由風の顔が眉根を寄せた表情はそのままに、紅潮した。少しは覚えているのだろうか。

「んだとおっ!? あたしがんなこと言ったってのか、嘘ついてんじゃねえよっ この由風姉さん、男を甘やかしたことはあっても、自分が甘えたことは一度もねえやっ!!

 ああこれは、覚えていないな。

 そう結論づけた一馬は、これを利用しない手はないと思い、故意に挑発的な顔と口調で提案を持ちかけてみる。

「なら、どっちの言い分が正しいか、確認してみますか?」

「おう上等だ、いくらでもかかってきやがれ!」

「じゃあ決定ですね。残りの用事を済ませてきますから、少々お待ちください」

「おう、とっとと片付けてこい!」

 提案に応じたものの、何か納得できない部分でもあるのか、由風はしきりに首をかしげている。表面的には覚えていないものの、深層心理の部分が違和感を訴えているのかも知れない。まあもっとも、たとえ覚えていて照れ隠しのために覚えていないと言ったのだとしても、いまさらここで逃がすつもりなどなかったけれど。

 こんなに楽しい気分になったのは、久しぶりだった。いままでどんな相手とどんなことをしても、ここまで胸が躍ったことはなかったのに。やがて訪れるかもしれないかつてないほどの楽しい時間を期待しながら、一馬は目前の用事を済ませることに専念した。




                     *      *




「…あー、悪いんだけど、こっちもいまたてこんでてさ。あんたの訊きたいことはあらかた想像ついてるんだけど、説明するにはこっちもいま余裕がないのよね。だから、また後でかけ直すわ。じゃ!」

 一馬がシャワーを浴びて出てきたところで、置いてあった自分のバッグのそばで、慌ただしく携帯の通話を打ち切っている由風の後ろ姿が目に入った。誰と話しているのかはわからなかったけれど、話している内容から相手が凛子であることはすぐにわかった。彼女も昨夜は泥酔していたから、自分の身に何が起こったのかわかっていないのかも知れない。

 けれど。ふと、奇妙なことに気付く。あの時凛子は神崎に託されて、どちらかの家に行ったのかホテルにでも入ったのかまでは知らないが、少なくとも神崎が一緒にいたはずだ。その後何が起こったのか訊きたいにしても、途中で別れた由風に訊くより、神崎に訊いたほうがよっぽど的確に答えが返るだろうに、何ゆえ彼女に問う必要があるのだ?

「…電話、凛子さん?」

 由風を背後から抱きすくめながら、端的に問いかける。

「そう。けど、変な話だよな。神崎が一緒のはずじゃ……」

 一馬が思ったことと同じことを口にしようとしているらしい由風の顔を、半ば強引に振り返らせて、みずからの唇でふさいで言葉を遮る。思った通り、頬を赤らめもしない由風に、思わず微苦笑。

「少しは恥じらってくれると嬉しいんだけど」

「誰に向かって言ってんのよ」

 あっさりばっさり一刀両断。由風らしいといえば由風らしいのだけど。そのまま手首をゆっくりと引っ張って立ち上がらせて、自室へと誘導する。

「つーか、朝…じゃないな、昼間っからあんたも元気だねえ」

 ドアを閉め、いくらか開いていたカーテンの隙間を完全に締めきっていた一馬にかけられる、半ば呆れを含んだ声。

「『据え膳食わぬは男の恥』って言うでしょう?」

「据え膳って、別にあたしが誘惑した訳でもないし、それを言うならむしろあたしのほうが『飛んで火に入る夏の虫』ってヤツじゃないの?」

 正論といえば正論である。だからといって、予定を変更するつもりなど、一馬には微塵もなかったが。

「そうですね。だからといって、逃がすつもりなんて毛頭ありませんけど」

「そらこっちのセリフだよ。酔って正気でない時はいざ知らず、素面の時なら負けやしないかんね」

 言いながら、由風は一馬の手首を即座にひっつかみ、ベッドへと勢いよく引き倒した。とっさに受け身をとったのでダメージはないが、驚きのほうが大きい。起き上がろうとしたところで、それより早く身体の上に乗られ、両手で肩を押さえつけられて動けなくなってしまった。女の力なのだから、本気になればすぐに退かせられるだろうが、それよりも由風が何をするつもりなのか知りたい気持ちのほうが強かった。

「……で? いったい何をしてくれるつもりなんですか?」

「女がいつでも受け身の立場だと思ってたら、大間違いだよ」

 言うが早いか、両手首を左右に広げられてシーツに縫いとめられ、奪われる唇。角度を変えては何度も繰り返され、少しずつ激しくなっていく口づけ。それはまるで、昨夜自分がやっていたことそのもののようで、あの時の由風はこんな気分だったのかなとぼんやりと思う。実際、息継ぎをするのも忘れていたので、酸欠のせいでぼんやりとしてしまったのかも知れないけど。

「…………」

 とりあえず満足したのか、離される唇。茫然としたままの自分の顔を見て由風が笑うのを、一馬はやはりぼんやりと見つめていた。

「何て顔してんだよ、昨日今日初めてキスされた小娘でもあるまいに」

「あ、いや…ちょっと驚いてしまって」

 正直な感想だった。

「言っとくけど、まだまだだよ? それくらいで呆けてるようじゃ、これから先が思いやられるね」

 その言葉と同時に、由風の手が一馬の着ていたバスローブに伸びて、肩口から一気に脱がしにかかる。ほとんど完全にあらわになった一馬の裸の胸に由風の手が触れて、くすぐったさを感じて思わず身をよじらせたところで、唐突に全身を強い刺激が突き抜ける。由風のもう片手が、いつの間にか一馬の下半身に伸びていたのだ。

「!」

「言ったよな、あたし。女はいつでも受け身のままじゃないって」

 本気で楽しそうに由風が笑う。昨夜の彼女とはまるで違うその様子に、一馬は彼女はもしかして二重人格か、でなければいつの間にか入れ換わった双子の姉妹かと困惑してしまうほどだった。もっとも、そんなことを考えていられるだけの余裕を、もう由風は与えてくれなかったけれど。

「く…っ!」

 由風の手管に完全に翻弄されきってしまう前に、何とか全身の力を奮い立たせて起き上がる。そのまま最後まで由風の思い通りにされてしまうのは、男の沽券に関わるからだ。

「わっ」

 思った通り、女の由風の力では完全に一馬を押さえつけるのは不可能だったようで、ころんと音が聞こえてきそうな勢いで、由風の身体がベッドに倒れ込む。その隙を逃さず、今度は一馬が由風の手首をつかんで、ベッドのマットへと軽く押しつけた。

「よくもまあ、好き勝手にやってくれたものですね。今度は、こっちの番ですよ」

 完全に本性を全開にした一馬の反撃が、これから始まろうとしていた…………。






    





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2013.7.24up

ついに本性を現した一馬VS由風の第一ラウンドの始まりです。
勝つのはどちらだ?
そして由風の変貌の意味は?
すべてはまだまだこれからです。

背景素材「空に咲く花」さま