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 そして、八年目の春。



「神崎明人と申します。出身はこちらの県ですが、何の間違いか10年もの間他県の支社に配属されていました。こちらでは不慣れなことも多いと思いますが、皆さまどうぞご指導のほどをよろしくお願いします」

 そう言って頭を下げるのは、一馬よりほんの23cmほど背が高い、整った顔立ちに眼鏡をかけた男。こりゃあ周りの女子社員が放っておかないだろうなと思えるほどの、いわゆるイケメンであった。案の定、他の男子社員は手強いライバルの登場にどよめいていたが、初めから社内の女性たちは恋愛対象外の一馬にとっては半ばどうでもいい話で、面倒にさえ巻き込まれなければいいという思いしか浮かばなかった。ちらりと女子社員たちの反応を見やると、たいていの女子社員たちがぽーっと顔を赤らめる中、まるで普段通りの由風と凛子の態度には思わず感嘆してしまったが。

「凛子さんは、神崎さんみたいなタイプはどう思われます?」

 PCの処理待ちの合間にさりげなく訊いてみたところ、返ってくるのは見当違いの答え。

「見た目は仕事ができそうだけど…実際にお手並みを拝見してみないとわからないわね。世間には見かけ倒しの人なんてごまんといるし」

 そういう意味じゃなかったんだけどなと思いつつ、問いを重ねる。ちなみに神崎や由風他営業の人間は、新入りの顔合わせを兼ねてあちこちの得意先にでかけていて、ほとんどの人間が出払っていた。

「そうじゃなくて、男性として、ですよ。他の女性社員の皆さんには、好感触だったようですが」

 もちろん由風さん以外のひとたちですけどね、と付け加えるのも忘れない。

「別に……人間は顔じゃないと思ってるし。仕事さえきっちりとこなしてくれれば、個人的な恋愛で何をしようが、私は興味ないわね」

 自分の仕事から一切目を離すことなく、凛子は言い切った。これは、凛子が神崎になびくことはなさそうだとこの時の一馬は何の疑いもなく思っていたのだが。よもやまさか、それから数ヶ月もしないうちにあんなことになるなんて、誰が予想できただろうか


「西尾くん、よかったら一緒に飲みに行かないかい? 西尾くんは料理も上手いせいか結構グルメで、そのへんの美味い店をいろいろ知ってるって聞いたから、ぜひともおすすめの店を教えてもらいたいんだけど」

 週末の終業間際、そう誘いをかけてきたのは、当の神崎だった。そういえば、神崎とは皆と一緒に飲みに行くぐらいしかしたことがなかったなと思い、一馬はふたつ返事で了承の意を示す。でなくても、神崎とは自分と似たものを感じていて、うまくいけばいい友人関係を築けそうだとは思っていたのだ。たまには男同士で飲むのもいいかと思い、男友達と行くような店をいくつか教えながら、現在イチオシの店に二人で訪れる。

「ところで西尾くんは、いいひととかいないのかい? 誰に訊いても、西尾くんは『草食系で穏やかでいい人だ』って答えるくらい人気あるのに」

 水割りを片手に、神崎が訊いてくる。それが一馬の本性でないことくらい、この人物はとうに見抜いているだろうなと思ってはいるが、とりあえず普段の態度は崩さない。

「いやあ、たいてい『いい人』で終わっちゃうパターンでして。でなくても、皆さんそれぞれ違う方向で魅力的ですからね、ひとりに絞るなんてなかなかできなくて。そういう神崎さんはどうなんです? こちらの支社に転属されて以来、昼も夜もお誘いがひっきりなしだって話じゃないですか」

 そう言ってやると、神崎も負けず劣らずの侮れない笑みを浮かべながら、無難な答えを返してくる。

「いやいや、まだみんな、新入りが珍しいだけだよ。学生時代の転入生と同じようなものだね」

「でも、気になる女性はいらっしゃるんでしょう?」

 間髪入れずに言ってやった瞬間、神崎の瞳にほんの一瞬動揺が走ったのを、一馬は見逃さなかった。件の女性と隣同士の席で仕事をしている一馬には、彼女に対する神崎の態度が他の女性に対するそれと微妙に違うことは、とうの昔にお見通しだった。他の人間は気付かないぐらいの、ほんとうに微妙な差異だったけれど。

「さあ…どうだろうねえ?」

 それ以上動揺を見せることなくとぼけて見せる神崎は、さすが営業の注目株だと感心せざるを得なかった。それまでトップを独走していた由風が焦るのも、当然のことかも知れない。

「僕は会社内での付き合いしかしていないから断言はできませんけど、例の女性にはいまは特定のお相手はいらっしゃらないようですよ? アプローチをかけるならいまがチャンスじゃないかと思いますけど」

 神崎の瞳が、一瞬驚きに見開かれる。

「そんなに……僕はわかりやすいかな…?」

「いいえ、僕が偶然気付いてしまっただけですから、他の人は気付いていないと思いますよ。もちろんご本人も。ただ、そのご親友の女性は知りませんけどね」

 あの女性はほんとうに侮れない女性だから。自分のことはともかく、親友のこととなれば嬉々として首を突っ込んでくる気がしてならないので、やるならば彼女の目の届かないところで行動を起こすべきだと、一馬は更に助言する。

「……実を言うと、性格がめちゃくちゃ好みのタイプでね。ああいう女性をどうやって落とすのが一番面白いか、正直いっていますごく…楽しくて仕方がないんだ」

 それは何となくわかる気がする。凛子に恋愛感情を持っている訳ではないけれど、何をどうすればどんな反応が返るのか、想像するだけでこっちまで楽しくなってくる。そういう意味では、神崎はやはり自分に似ていると思う。決定的な部分が違うことに気付くのは、このほんの数時間後のことだけど──────。

 その店を出て、適度に更けてきた夜の街を再び歩き始めながら、神崎が訊いてきた。

「どうする? もう少し飲みたい気もするけど、男二人だけじゃちょっと華が足りないかな。女性と飲める店とか知ってるとこがあったら、そっちに行ってみるかい?」

 神崎の言いたいことはわかっている。ホステスとかそういう女性がいる店でなく、互いのフィーリングでどうにでもなる女性のいるような店に行くかと暗に問いかけているのだ。神崎とならそれも楽しいかも知れないと思い、答えようとしたところで唐突にかけられる声。

「あっ 天の助け発見!!

「え?」

 振り返ると、もうひとりの女性を肩に担ぐように支えていた由風が、かなりいい感じに酔っぱらった風にけたけたと笑っていた。

「由風さん!? こんなとこで何やってるんですか」

「何って、酔っぱらいの介抱よーん」

「どう見ても酔っぱらい二人組にしか見えませんが」

「うーるさいな、あんたはっ こんなにしっかりしているあたしのどこが酔っぱらいだってのよー」

 不貞腐れたように言う由風をなだめるように、神崎が割って入ってきた。

「まあまあ、落ち着いて。そちらの方はお友達ですか?」

「何言ってんのよ、あんたもよく知ってる凛子じゃん。あんたも酔っぱらってんのー?」

「凛子さんって……えええっ!?

 神崎のこの反応には、一馬も驚いた。何ゆえ、凛子の素顔を知らないのだ?と思いかけて、四月の神崎他の歓迎会当日にあった騒動を思い出す。

 ああ、そういえば。あの時、凛子さんはオフィスに残っていて、歓迎会には来れなかったんだっけ。初めて凛子さんの素顔を知ったら、そりゃ驚くよなあ。

 一馬ですら、彼女が眼鏡を外したところは見たことがなかったのだ。その上、髪を下ろしていたら、別人にしか見えなかっただろう。

「あ、ちょうどいいやあ、あんた凛子送ってってやってよ。家はW町のほうだからさあ」

「凛子さん、大丈夫ですか?」

「だーいじょーぶよーん、あははははは」

 しかも態度までこれでは、にわかに信じられないのも無理はない。普段の凛子だったなら、ここまで正体をなくすほど飲むことはなかっただろうに、今日はよほど飲みたい出来事でもあったのだろうか? まあ、他人のプライベートに立ち入るほど野暮なことをする気はないけれど。

「凛子のことよろしくねーん♪」

 一馬は、そう言いながら自分の腕にみずからの腕をからめてきた由風と歩きだしてしまったから、その後のことはわからないが。何にしても、ふたりにとっていい結果に落ち着けばいいなと思いながら、今度は由風と共に、夜の街に再びくりだしていった…………。




                  *     *




 思った通り、由風とサシで飲むのは楽しかった。

神崎とも同性、それも似たもの同士で楽しかったのだが、それとは別の意味で楽しかった。神崎とは内心では通じ合っていたが、直截的な言葉や表現を使えなかったからだろうか。それとも、由風とは互いに適度に酒が入っていたからだろうか。それはわからない。

「いまごろ……凛子は食われちまってるかなー」

 自分で勝手に彼女を神崎に託したくせに、いまごろ心配になってきたのか?と思いきや、カウンターの隣の席でバーボンのグラスを傾ける由風の表情は、思っていたものとはまるっきり真逆で、楽しくて仕方がないといったものだった。

「前の男と別れて長いんだから、とっとと他にもっといい男を捜しにいけって散々言ってたのに、『自分は独りのままでいいんだ』なんて頑なに言い張るもんだからさ、こういうチャンスを待ってたんだよね」

「…神崎さんの気持ちも知った上での行動ですか」

「奴も適当に酒入ってんだろ? でもって目の前には、警戒心の欠片もない惚れた女……これで手を出さなかったら、アホもいいとこだろうが。じゃなきゃピーッかピーッかってとこじゃね?」

 さすがに女性の口からは聞きたくない直截的表現に、一馬の耳がピンポイントで拒否反応を示す。

「まあ、今夜どうなるかは別にして、これから先、ふたりがうまくいってくれればいいと思いますけどね。凛子さんはほんとうにいい人だから、幸せになってもらいたいですよ」

 それは、まぎれもない本音。本性を見せられないにしても、凛子には千秋に対するものにも似た感情を抱いていたから、彼女をほんとうに好きでいてくれる相手とならば、ぜひとも今度こそ幸せをつかんでもらいたいと思っている。そしてそれは、彼女の親友である由風も同じことであったらしく、

「そうなんだよな〜…万が一にもあいつを泣かすようなことしたら……神崎、マジでぶっ潰す!!

 立てた親指をくいっ!と下に向けて、剣呑な表情で由風は言い切る。気持ちの上だけでなく、やると言ったらほんとうにやる女性だということをよく知っている一馬だから────まあ以前見かけたアレは、不言実行の結果だろうけれど────微苦笑を浮かべるにとどめる。

「他人のことはともかく、由風さん自身はどうなんです? いいひとはいないんですか?」

 自分のグラスに口をつけてから訊いてみる。思えば由風とは、普段手がけている仕事の違いから、仕事のこと以外ではろくに話をしたことがなかったことを思い出したのだ。

「あたし? あたしはいまフリーだよ。適当に遊んではいるけどさ」

「へえ…」

 以前一緒にいるのをみかけた男とはもう別れたのか。それともあの彼も遊びの一環だったのか? 男女の違いはあれど、由風も男女の関係に関しては自分や神崎寄りの人間だったらしい。

 けれど、身体で仕事を取るような真似だけは絶対しないだろうなと、一馬は何の根拠もなくそう思った。由風の性格からして、そういうことは絶対に実力で勝負するだろうと、本人に訊くこともなく確信していた。

 そうして。

「あっはっはー、凛子が笑いたくなる気持ち、何かわかるわあ〜」

「ちょっ 由風さん、まっすぐ歩いてくださいよ〜」

 つい数時間前の凛子のように、けたけたと笑う由風を支えながら、一馬も歩く。一馬も今日は気を抜いていたせいか、いつもより酔いが回っている気がして足元が心許ないけれど、さすがに由風をこのまま放っていく訳にもいかないので、何とか家の場所を訊きだそうとしたのだが。

「あたしの家〜? あそこの角〜。あはははははっ」

 由風が指差したのは、夜勤らしい警察官が常駐している交番の建物。これはもう訊きだすのは無理だと思い、一馬は適当なところでタクシーを拾い、自分の住まいのすぐ近くにある大きい店の名を運転手に告げる。深夜だからか、15分もしないうちに自宅付近に着いてしまい、料金を払ってから由風の腕を取って、ほとんど担ぐようにして再び歩き始める。

「由風さん。ほら、しっかりしてくださいよ」

「ん〜? もっと飲む〜」

「もうダメですよ、マトモに歩けてもいないじゃないですか」

 言いながら、自分の部屋の鍵を開けて、由風を招き入れ……玄関で靴を脱がせて荷物だけ先に下ろしてから、由風の背と膝の裏に腕を回して、全身に力を入れて抱き上げる。酔っているとはいえ、長いこと空手をやっていた賜物かそれぐらいはできる。ベッドにそっと下ろしてから、荷物を取ってきてリビングのテーブルの脇に置いて、由風の元に戻る。

「由風さん、脱がないと服が皺になっちゃいますよ。寝るなら、とりあえずスーツだけは脱いで」

「ん〜…めんどくさーい、脱がしてー」

「まったくもう……」

 言いながら、手早く脱がし始める。その程度ならよく千秋相手の時にもやっていたし、それくらいで興奮してしまうほど、経験の浅い青少年でもない。ついでに、由風の頭と頬を優しく撫でて────これは酔った千秋がよく要求してきたことに応えた結果の習慣だったので、別に他意はなかった────脱がせたものをハンガーにかけて、手近なフックに引っかける。あとは上掛けを掛けてやって、自分は両親の遺したベッドで寝ようと思いながら上着を脱ぎつつ近付いた一馬は、突然ぐいっと腕を引っ張られて、バランスを崩してしまう。まさか、こんなことになると思っていなかったから、何の心構えもしていなかったのだ。それでも何とかマットに手をついて、由風の上にそのまま倒れ込むのだけは阻止する。由風を挟んだ向こう側にもう片手をつきかけたとたん、ネクタイをつかまれてそのままぐいっと引っ張られて、首から上だけ引き寄せられて……唇に感じるのは、やわらかな感触。それが何かはわかっていたが、わからないのは、どうしてこんなことになっているのか、だ。

「…………」

 しばしの間、現実を忘れて互いの唇を堪能する。互いに正気に戻った時、どうなるかなんて、いまは考えられなかった────同じ会社の女性には、絶対に手を出さないと……昼の顔と夜の顔は完璧に使い分けると決めていたというのに。最初は確かに由風に押し切られる形だったけれど、気が付いた時には一馬も瞳を閉じて、みずから舌を動かし始めて由風の舌を絡めとっていた。一瞬、驚いたような反応を見せた由風だったけれど、すぐにそれに応えてみせて……一馬の首にみずからの両腕を回してきた。

「……はあ…」

 唇が離れたところで目を開けると、いつもは強気な光を宿している由風の瞳が酔っているせいかとろんとして更に熱を帯びているように見えて……まるで別人のような表情に、一馬の喉がほとんど無意識にごくりと鳴った。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 かつて立てた誓いを、内心でもう一度繰り返す。会社の女性だけではない、大学時代もそうだった。普段身近にいる女性では、いつどこで何をバラすか、でなくてもボロを出すかわからないから、絶対に手を出さないと決めていたのに。そんな強固な誓いさえも吹き飛んでしまいそうなほどに、いまの由風は頼りない風情まで醸しだしていて、その潤んだような瞳と濡れた唇が扇情的過ぎて……いま目の前にいるのがあの由風だということを忘れさせるのには、十分だった。

「ゆう……」

「独りにしないで…………」

 予想もしていなかったか細い声に、一馬の中で何かが音を立てて決壊した。

 ベッドの上で突っ張っていた腕の力を緩め、ベッドから浮きかけている由風の細い肩に手を回し、今度は自発的に自分の胸の中へと引き寄せる。そのまま唇を寄せて、啄むようにキスを落として…角度を変えながら何度も繰り返し、そのたびに少しずつ時間を長くしていく。キスの合間にネクタイをゆるめ、手探りで由風のブラウスのボタンを外し……みずからの首に回されていた腕を外させ、ゆっくりとベッドに再び横たわらせる。心なしか呼吸がわずかに乱れている由風の頬は紅潮していて、いままで見せたことのないそんな表情が、より一層一馬の劣情を誘う。

 先刻まで頭の中にあった誓いなど、既にどこにもなくて……いま心の中にあるのは、この女性があとどれほど見せたことのない表情を見せてくれるのかという思い。他にどれだけの男が彼女のそんなところを見たのかと思うと、苛立ちにも似た感情が一馬の心を占めて……その感情の名を、やはり一馬は知らない。

ふたりの夜は、まだ始まったばかりだった…………。





    





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2013.7.18up

主要キャラも出揃ったところで
ついに始まってしまったこちらのふたりの事情…。
常にない自分を自覚した時、
人はどんな変化をその心身にもたらすのか。


背景素材「空に咲く花」さま