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 大学を卒業した一馬が入社したのは、S本商事という世間では中堅どころにあたる株式会社だった。無難に研修もこなした後、持ち前の人あたりのよさが功を奏したのか、営業部に配属された時は少々驚いたけれど、まあ営業担当そのものでなく補佐の立場にされたあたり、面接官はよく見ているなと感心してしまったが。そもそも一馬は前面に出るより、そういうタイプのフォローをするほうが性に合っているのだ。

 研修後に指導役となったのは、鈴木凛子という三年ほど先に入社した女性の先輩だった。ウェーブをかけた髪をきっちりまとめ、眼鏡の奥の眼光は鋭く、仕事に関しては信用のおけそうな相手であった。その勘は外れることなく、在りし日の千秋を思い出すような隙のない仕事ぶりを見せる女性で、プライベートのよけいなことは話さず、かといって冷たいという訳でもなく……共に働く相手としては、理想の相手だった。

「西尾くんのお弁当って、いつも美味しそうね。配色も綺麗だし、作っている人の配慮が見えるようだわ」

 食堂で共に持参の弁当を広げて食べている時に、ふいに凛子が言い出した。そういう凛子の弁当も、一馬のものに負けず劣らずの出来で、きっと本人が作っているのだろうなと思わせるような几帳面さがうかがえるものだったけれど。

「ありがとうございます。実はこれ、自作なんですよ。昔から、姉の分と一緒に作るのは僕の役目だったので」

 親戚宅にいる頃から、作っているのは弁当だけではなかったが、それは言わないでおく。世の中、黙っておいたほうがいいこともあるのだ。

「あら、そうなの? 西尾くんて器用だとは思っていたけど、お料理も上手なのね」

「凛子さんこそ、ご自分で作ってらっしゃるんじゃないですか? ご本人の性格がとても表れている気がしますけど」

 「社内には『鈴木』と『佐藤』はあふれているので、下の名前で呼んでほしい」と言われたので、名前で呼ぶようにしているが、何となく抵抗を感じたのは最初のうちだけですぐに慣れた。先輩としての敬意しか抱いていないからかも知れないが。

「あらやだ、本人と一緒でお堅そうにでも見える?」

 微苦笑を浮かべて言うさまが、何となく可愛らしい。

「いえ、そういうことではなくて、女性らしいやわらかさにあふれているというのか……僕みたいに男が作るのとは、やっぱりどこか違うんですよ」

「やあね、褒めても何も出ないわよ?」

 そう言って凛子が笑った瞬間、その背後からすっと伸びる一本の腕。その細い指先が、凛子の弁当箱から弁当用のサイズに作られていたらしいコロッケのひとつをひょいとつまみ、凛子が驚いて振り返り終えるより早く口に放り込んでしまっていた。

「ラッキー、カニクリームコロッケだ♪ 凛子ちゃん、また腕上げたんじゃない?」

 みずからの指を舐めながら楽しそうに言うのは、ショートカットにスーツ姿の女性。

「由風! またあんたはひとのお弁当を…!」

「だーって、いま戻ったばっかでお腹すいたんだもーん」

 由風と呼ばれた女性は、まるで物怖じしない。

「だったら、さっさと食券でも買ってらっしゃいっ」

「はいはーい」

 ひらひらと手を振りながら、由風は自販機へと向かっていく。それを見送った凛子は「まったくもう…」と呟きながら、椅子に深々と座り直した。タイプはまったく違うが、佐藤由風という名の営業担当の彼女は、凛子の入社以来の親友だという。奔放な由風とフォロー役の凛子。ある意味ぴったりくる組み合わせといえよう。千秋を二で割ったような性格の二人なので、一馬は何となく二人ともに親近感を抱いていた。

「由風も口は悪いけど、お腹の中にはなんにもないから、気にしないでね? 言うだけ言ったらスッキリしちゃってるから、後にもひかないし」

「大丈夫です、それはわかっていますから。そういうところ、うちの姉によく似ているんですよ」

「西尾くんのお姉さんなら、由風と似ててもきっともっと気が利くタイプなんでしょうね。一度お会いしてみたいものだわ」

 気の利く部分はそういう凛子のほうこそよく似ていると思うが、たとえそれを告げたところで謙遜ばかりして決して認めようとはしないだろうから、とりあえず黙っておく。ほんとうに、よく似たタイプがそろったものだと感心したくなる。

 とにもかくにも、入社したばかりだというのにある意味懐かしい匂いのする人物たちに囲まれて、一馬の社会人生活はスタートした。


 千秋が嫁いで気楽な一人暮らしになったこともあって、週末は時折ひとりで夜の街にくりだして楽しむようになった。ごくたまには社内の人間と飲みに行くこともあったが、さすがにそういう時は素の自分を出せなくてほんとうの意味での息抜きができないので、ほんとうにのんびりしたい時には学生時代からのつきあいで一馬の本性をよく知っている相手と行くか、もしくはひとりで行くようにしていた。そうすると。

「…ねえ。あなた、ひとり?」

 などと手慣れた様子の女性が時折声をかけてきてくれて、その場限りの気楽な恋愛を楽しむこともできるので。一馬の家に連れていくこともできたが、懐かしい品が詰まったあの部屋にそういう相手を連れていくのは何となく抵抗があって、もっぱらホテルなどを利用していた。その時限りの相手ならば、それで十分だったから。

 後から考えれば、学生時代の例の彼女との付き合いとは、あまりにも違っていたなと一馬はいまでもときどき思う。例の彼女とは互いの思いを確認し合ったことはなかったが、他の相手とは違う何らかの絆が確かに存在していたように思うから……その感情の名は、いまでもわからないけれど。

 そして、その時も適当な時間まで残業をやって、行きつけのひとつである店に向かっている途中の路地裏で、一馬は信じられない物を目撃することとなる。

「ぐあっ!」

 何かがぶつかるような音と、男の悲鳴のような声が聞こえた時は、「何だケンカか」と思いながら、そのまま相手に気付かれないように立ち去ろうとしたのだが。その直後に聞こえてきた声に、一馬は自分の耳を疑った。個人的にはそれほど親しくはないが、ほとんど毎日聞いている声が響いてきたためだ。

「何だよ。男のくせに、えらい弱いのな、信じらんねー」

!?

「て、てめえ、いったい何なんだよ!? 何の恨みがあってこんな…!」

 焦りを多分に含んだ男の声と、余裕綽々な女の声。男のほうは知らないが、女のほうの声には思いきり覚えがあった。

「恨み? あたし自身にはないんだけどねえ。んでも、あたしの大事な相手を泣かせてくれたのは許しがたいんでね」

「大事な相手…?」

 それは一馬も知りたかった。だから、悪趣味と思いつつも、その場を立ち去ることができなかった。

「あたしの名前、佐藤由風ってんだけど。聞いたことない?」

「佐藤…? あっ もしかして、凛子がよく話してた同期で友達の『ゆうか』って…!」

「ピンポーン、あたしのことだよ」

 凛子? ここでどうして凛子の名が出るのだ?

「あ、あいつに頼まれたのか!? 俺を痛い目にあわせてくれって…」

 次の瞬間、また響く派手な物音と男の悲鳴。

「あのコが、んなこと頼むような女だと思ってんのかよ。あんたと別れたって話も、『自分が悪かったんだ』としか言わないようなあいつがさ」

 怒りを圧し殺したような、低い由風の声。

「な、ならどうして…!」

「てめえみたいな男はな。あたし自身が許せねえんだよ。てめえのことしか考えねえで、あいつの優しさにつけ込みまくるような下衆野郎がよ。『俺と仕事とどっちが大事だ』? バッカじゃねえの、そんなセリフいまどき頭の軽いバカ女ぐらいしか言わねえよ」

 二人の会話から察するに、いま由風が痛めつけているこの男は、本性を全開にした一馬が聞いていても鼻で笑ってしまいそうな理由から、凛子を手酷くフッた男ということか。凛子とはまだ一年も付き合っていないが、自分をフッた男に対して報復を頼むなんて、天と地がひっくり返ったとしても彼女はやりそうにない行動だろう。そして話を聞いた由風が激怒して、凛子の意思とはまったく関係のないところで単独で天誅を与えに来たと、そういう話か。お節介な女性だと思わなくもないが、自分の気持ちに正直なところは決して嫌いではない。姉とよく似ている部分だからだろうか。

「つー訳で、これはあたしのスタンドプレーってことで、あいつは一切関わってないよ。だから、逆恨みであいつに報復するなんてこと考えたらどうなるかわかってるよな?」

「ひっ!」

 同じ男からしても涙が出てきそうな情けなさだ。いったい凛子は、こんな男のどこがよくて付き合っていたというのだろう? 凛子にしかわからない、いいところでもあったのだろうか。

 まあどちらにしても、一馬には止める義理も意思もないので、そのまま二人から見えない位置に立ちながら、ことのなりゆきをただ黙って見守っていた。もしも由風がやり過ぎてしまうようだったら止めに入るつもりだったが、姉や自分と同じように何かしらの武道の心得でもあるのか、由風はギリギリのラインを知っていたようで、心配したようなことにはならなかったのでとりあえず胸をなで下ろす。

「他人に言っても構わないよ? 女にボコられて泣きつくほどプライドがないんなら、の話だけどさ」

 口止めもしっかり忘れていないあたり、由風がこういうことに手慣れていることが見てとれる。いままでは、ただの威勢のいい女性だと思っていたが、意外な一面を見てしまって、一馬の中で由風への認識がまた少し改まる。姉の千秋もそうだが、女性はいったいいくつの顔を持っているのだろう? 彼女の持つ別の顔も見てみたいと一馬が思ったのは、この時が最初だった。

 そしてその感情の名を、やはり一馬は知らない───────。




               *      *     *




 それから。由風や凛子とは会社で表面上のつきあいを続けながら、夜は別の顔を持つというある意味二重生活といえる日々がしばらく続いた頃。

 二、三人は馴染みの相手もできて、何度か夜を過ごすうち、互いの人となりもわかってきて、いつしか相手の住まいに訪れるようにもなっていた。もちろん相手にばかり負担をかけるつもりもなかったので、翌朝相手より先に起きて朝食を作ってやると、たいてい喜ばれた。最近は料理のできる男はモテるというのはほんとうだったのだなと、一馬はしみじみ実感する。まあそれだけ女性の社会進出も当然になって、男女の差もなく対等に働ける社会になったということだろうか。

 そしてその頃には、一馬も防犯を考えてセキュリティのしっかりした住まいに居を移して、両親や千秋との想い出の品は滅多に他人を入れない奥の部屋に移し、普段使う自室のものや必要に応じた物は新たに購入したり────さすがに両親も使っていた寝具で互いに結婚の意思もない女性との情事に及ぶのは抵抗があったのだ────して、成人男性の一人暮らしとしての体裁を整えた。更にその頃付き合っていた相手の中には、雑貨等の卸しを職業にしている女性もいたので、ホテル等で使われているようなアメニティグッズを彼女の権限で小口扱いで分けてもらったりして、いつでも女性を招き入れられるようにすることも忘れなかった。

「私の他にもいいひといるんでしょ?」

 時折そう訊かれることもあって、そういう時は下手に隠しごとをしても仕方ないと思い、一馬は正直に答えるようにしていた。そうすると、相手はたいてい微苦笑を浮かべて、

「そういう時は、嘘でも『君以外にいないよ』って答えるものよ」

 と言ってくるのだが、一馬にしてみればどの相手にも均等に好意を持っているので、そんな風に答えることはかえって皆に失礼な気がして、できなかったのだ。

「まあ、そのほうがより信憑性が増す気がするけどね」

 くすくす笑う相手の唇をみずからの唇でふさいで、舌で存分にその中を堪能する。

「そういうのが嫌だっていう相手とは、付き合わないようにしてるだけだけど。君も実はそういうのは嫌なタイプ?」

「わかってて訊くんだから。顔に似合わず、結構意地悪よね」

 くすくすくす。いまだ笑い続ける相手の肌に舌を這わせると、女性が目に見えて反応した。それに気付いていながら、今度は自分が笑みを浮かべながら、一馬は問いかける。

「どうしたの? ちゃんと質問に答えてもらってないけど?」

 女性の耳朶を甘噛みしながら、身体に覆いかぶさるようにして両手を動かし始めると、彼女の息がみるみるうちに上がってきて、その唇からは途切れ途切れの声がもれ始めた。その声を楽しく思いつつ聞きながら、手の動きを少しずつ早めていく。女性は何かを言おうとしているようだったが、一馬の与える快楽に翻弄されて、もはや声は言葉として意味をなしていない。

「あっ ああっ」

 女性の腕が一馬の首に回されて、彼の身体をみずからへと引き寄せてくる。それに応えるように彼女の唇に軽いキスを落として、準備を整えてからゆっくりと彼女の中へと侵入を果たしていく。えもいわれぬ快感が、一馬の身体を駆け抜けていって……。

 そんな週末を、時折相手を替えながら続けて、それなりに楽しんでいたけれど。何かが足りなく思う自分もみずからの中に確かに存在していて、けれど、それが何なのかは自分でもわからずに、日々だけが過ぎていった。

「一馬はさ。いいひととかいないの? たとえば同じ会社の同僚とか」

 久しぶりに遊びに行った佐久間家────言わずと知れた、姉の千秋の嫁ぎ先だ。千秋と西尾の生い立ちをよく知っているだけあって、義兄をはじめとする義理の親族たちは、一馬にも家族同然の扱いをしてくれる────で先に生まれた甥と遊んでいた一馬に、千秋が声をかけてきた。千秋の腕の中で眠るのは、数ヶ月前に生まれたばかりの姪。甥はどちらかというと千秋に似た気性らしいが、姪はのんびりと鷹揚とした気性のようで、滅多なことではなかなか泣かないのだと以前千秋が語ったことがあった。

「んー…いまのところ、いいなって思うひとはいないなあ。会社の人も年上年下関係なくみんな魅力的だし」

 外面をはりつけたまま答えると、千秋がわざとらしくため息をついてみせた。

「その反応は何さ、姉さん」

「あたししかいないとこでまで、よそいきの模範的な回答をしなくていいのよ? あんたのことだから、いろんなことから解放されて、調子に乗って遊びまくってるんでしょうけど」

「…っ!」

 さすが血のつながった姉は侮れない。自分が嫁いでからの一馬の日常などロクに知らないはずなのに、まるで見てきたように断言する千秋に、一馬は驚きを禁じ得ない。

「かずくんあそんでるのー? なにしてあそんでるのー? ぶろっくー? おすなあそびー?」

 さすがに無垢な幼子の前で正直に答える訳にもいかず、「そう、おすなでおしろつくってるんだよー」などと適当にごまかす。

「さすがお姉さま。おみそれしました」

「何年あんたの姉やってると思ってんのよ。仕事辞めて家事と育児に専念してるからって、このお姉さまの眼力は衰えやしないわよ」

 ため息を一度ついて、両腕で甥を抱えて飽きさせないように動きながら、言葉に気をつけつつ続きを口にする。

「…でも。誰かひとりだけが違って見える、ということがないのはホントだよ。何だかんだいってみんな違う方向で魅力的だし」

「あんたはまだ、本気で好きになれるひとに出逢ってないのかもね。それとも、既に出逢っているのに気付いてないだけとか。あたしと春樹さんみたいに、なーんちゃって!」

 自分で言っておいて、千秋は顔を真っ赤にして照れ隠しのように一馬の背中をバンバン!と叩いてくる。結婚して空手は辞めたとはいえ、日々成長していく子どもたちの世話に明け暮れている千秋の腕力は、衰えるどころか更に強化されたように思える。あまりの痛さに甥を落としてしまわないように集中しながら、一馬は小さく息をつく。

 本気で好きになれるひとに出逢ってないか、気付いてないだけ、か……どうなのかなあ。自分でもよくわからないや。

 脳裏をよぎるのは、遠い昔、しばしの間だけまみえた少女の姿。いままでの人生で数え切れないほどの少女や女性と出会ってきたが、いろんな意味で忘れられなかったのは、これまでで彼女ひとりだけだった。彼女のように────結局、彼女への気持ちがどんなものだったのかはわからないままだったけれど────思える相手が、これから自分にも現れるのだろうか。そんな疑問が、一馬の心にひっかかりはしたが、答えが出ることもなく。

 相変わらず軽い付き合いの相手と夜の街を歩いている時に、やはり見知らぬ男性と共に親しげに歩く由風と偶然顔を合わせたけれど、互いに目を見交わしただけで会話を交わすこともなくそのまますれ違った。凛子と違い、由風ならば何も言わなくてもわかってくれると思ったから。恋愛に関してある意味純真な凛子には、こんな付き合い方を理解してもらえるとも思わなかったので、あえて彼女には隠し通した。彼女の前では、「穏やかな西尾くん」のままでいたかったから。

 そしてこの頃までは、由風との関係もさして変わることがなく、そのまま時間だけが過ぎていったのだけれど。一馬が就職してから八年目の春。凛子や由風のみならず、一馬の運命さえも大きく変わっていくのである…………。






    






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2013.7.14up

ついに運命の相手に出逢った一馬…。
けれどまだ双方ともそのことに気付いていません。
ふたりの関係は、いったいどう変わっていくのか……。

背景素材「空に咲く花」さま