〔3〕





 彼女とそういう関係になってから、しばらく経ったある日。

「西尾くんは、好きなコとかいないの?」

 まだ暑いのか服を着ようともせずに、ベッドの上でうつ伏せに寝転がったままの少女の言葉に、ベッドの端に腰かけていた一馬は一瞬目を丸くして、思わず振り返ってしまう。そのとたん白い素肌が目に入って、慌てて目をそらして再び反応してしまいそうになる自分の身体を落ち着かせる。時間的に二度目は無理なことがわかっていたから。

「いないよ。いたら、先輩とこんなことしてないし」

「へえ、結構マジメなんだ、意外」

「先輩に言われたくないなあ」

「失礼ねー。あたしだって、誰とでもこんなことしてる訳じゃないし」

 首に腕を回されて、そのままきゅ…っと締められる。

「ちょっ 先輩、ギブギブ」

「あ、ごめ」

 彼女は苦しかったかと思ったのだろうが、実はそんなことではなく、背中に当たる生の胸の感触に、身体の一部分が反応しかけていたので焦ってしまったのだ。

「いい加減、身支度を整えないとマズいんじゃないの? 僕も親御さんが帰ってくる前に退散したほうがよさそうだし」

 仮に「勉強を教わっていた」ということにしたとしても、誰もいない家の中で年頃の男女が二人きり、というのは、やはり親御さんにしてみれば心配な事態だろうし、実際後ろ暗いところもある。顔を合わせないうちに帰ったほうが賢明というものだろう。

「…そうだね」

 言いながら、少女は身支度を整える一馬の背後でゆっくりと起き上がる。もぞもぞと、脱いだ衣類をかき集める気配。

「……今度さ。映画でも観に行かない?」

 背後から聞こえてくる声に、やはり振り返らないままで答える。

「そういうのは、ホントに好きになったひとと行く時のためにとっといたほうがいいと思うよ。こんな、ある意味ゆきずりみたいな奴と一緒にいるところを、誰かに見られたらマズいでしょ」

「……そうだね」

 少女の声のトーンが微妙に下がったことに、この時の一馬は気付かなかった。もしもこの頃、それに気付いていたら何かが変わっていたのだろうかと、大人になってからごくたまに考えてみたりもするが、過去は過去。後でどれだけ考えてみたところで変えられないことを、改めて実感することしかできなくて。

 だから。


「─────もう、終わりにしようか。あたし、好きなひとができたの」

 その後二度ほど彼女と逢った時にそう切り出された時も、「わかった」としか答えようがなくて。

「いままで楽しかったよ。ありがとう」

「やだ、それはこっちのセリフ。西尾くんがいてくれたから、あたしも立ち直れたんだもん」

「そう言ってもらえると嬉しいな。そのひとと、うまくいくといいね」

「ありがと。西尾くんにも、いいひとが現れることを祈ってる」

「どうかなー。また失恋した誰かを慰めてたりして」

「わー、すごいありそう」

 ふ…と笑いがおさまったその瞬間。一馬は、腰を下ろしていたベッドからそっと立ち上がる。

「じゃあ、僕帰るね。いつかまた、どこかで逢えたらいいね」

「そうだね。また……いつか」

 そうして彼女の家を出て、門扉のところで笑顔で彼女と別れて、そのまま一度も振り返らなかったから。だから、一馬は気が付かなかった。歩き去る一馬の背をずっと見つめていた彼女が、一馬が角を曲がってその姿が見えなくなったところで、耐えきれなくなったかのように大粒の涙を流しながら、その場でへたり込んでしまったことに…………。




                       *     *




 そして季節は過ぎて。木枯らしが吹き、そろそろ他人の体温が恋しくなってきた頃。担任から頼まれた用事のために、いつもより遅く学校から帰る途中だった一馬は、街中で見覚えのある後ろ姿を発見した。けれど、すぐに声をかけなかったのには理由がある。その人が乗ろうとしていた車が、いつも見ている車とまったく違っていたから。鍵を開けようとしている横顔を見て確信してから、一馬はその人の名を呼んだ。

「…佐久間さん?」

 びくりと大きな肩を震わせて、相手が振り返る。そんなに驚かなくてもいいのに、と思いつつその顔を見ると、どこか狼狽したような表情が目に入って。いったいどうしたのかと心配になる。

「あっ ああ、一馬くんっ いま帰りかいっ!? ずいぶん遅いんだねっ」

「……どうしたんですか?」

 いつもはのほほんと人のよさそうな笑顔を浮かべているのに、珍しいこともあるものだと一馬は思った。

「車がいつものと違うから、人違いかと思いました」

「あ、ああ、これは自分の車なんだ。普段は自分のに乗ってて、親父のはたまに借りてるだけで」

「確かに、この車じゃ自転車二台は載りませんよねえ」

 人の悪い笑みを浮かべて言うと、佐久間はとたんに居心地の悪そうな表情を浮かべて。そっと助手席のドアを開けて一言。

「家まで、乗っていくかい?」

 佐久間の車は、少々古そうなセダンタイプの車だったが、佐久間の運転がうまいせいもあるのだろうか、乗り心地は決して悪くなかった。

「…それで」

 佐久間が言いづらそうに口火を切る。

「どこまで、気付いてる……?」

 気恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、ハンドルにすがりつくように大きな身体を縮こまらせる姿は、とても一馬より十歳近く年上の社会人とは思えなくて。一馬は何となく、頭を撫でてやりたくなってしまった。

「何をですか? 佐久間さんがうちの姉さんを好きってことですか? それとも姉さんを送りたいがために、多分わざわざ道場の日にだけお父さんの車を借りてきてるってことですか? そこまでしても姉さんに全然気付いてもらえていないってことですか?」

 ずばずばと遠慮なく気付いていたことを羅列してやると、佐久間の顔がまるで火山が噴火するが如く、これ以上ないというほどに真っ赤に染まった。

「やっぱり…気付いてた、よねえ……?」

 恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ないのだろう、佐久間の身体が更に縮こまって、このまま消えてなくなってしまうのではないだろうかと一馬には思えた。

「ていうか、気付いてないの、当の姉さんだけじゃないですか? 師範も思いっきり気付いてるし」

「そっか……やっぱり師範もか…」

「僕が言うのも何ですけど、あれはもうハッキリ言わないと無理ですよ。他人のことには敏感だけど、自分、それも恋愛事にはむちゃくちゃ鈍いから。というより、もしかしたら僕が一人前になるまで、あえてそちらには目を向けないようにしているのかも知れないけど」

 そう。その線もかなり有力だ。両親亡き後、千秋は事あるごとに言っていたから。「あんたが一人前になるまで、結婚なんか考えてられない」と。

「そう…だよね。でもそれが、千秋さんのいいところでもあるんだよね」

 ふと横を見ると、すっかり普段通りに戻った佐久間が優しい瞳で呟いている。ああこの人は。ほんとうに千秋が好きなのだなと一馬は思った。

「─────佐久間さんて。気は長いほうですか?」

 唐突な一馬の質問に、赤信号で車を停めた佐久間が、何を言い出すのかといった表情でこちらを向いた。

「長いというか……よく、弟とかに『鈍くさい』とは言われるけどね」

 うちの弟、一馬くんと違って口が悪いから、と佐久間は苦笑いを浮かべて続ける。

「それがどうかしたのかい?」

「五年…いや、七年かな。それまで、待てますか?」

「え?」

「ただ付き合うだけならともかく、もし結婚まで視野に入れて考えているのなら……それまで待てる人じゃないと。きっと姉さんは、考慮にも入れないと思うんです。とにかく僕を大学まで行かせて社会に出すまで、自分の幸せなんて二の次ぐらいに思っているだろうから。だから、それまで待てるくらい、姉さんを愛してくれるひとじゃないと……僕も安心して姉さんを託せないから、だから」

 既に信号は青になって、車は発進していたが、一馬は真剣な瞳で佐久間の横顔を見つめて言い切った。建前も虚勢もすべて取り払った、一馬の本心のすべてだったから。佐久間なら、こちらを見ないでも声と気配で一馬の真剣さに気付いてくれると思ったから、だから。

 一馬は大学まで行きたいと思っておらず、高卒で働くつもりだったのだが、「いまどき大学ぐらいは行っておかないと、就職に不利だから」と千秋が熱心に説得してきたから、なるべく千秋に負担をかけない学校や学部を選んで進学することにしていた。そして一馬が千秋の手を離れたその時……何の枷もなくなったひとりの女性として、千秋を愛してくれる男性に、彼女を託すつもりだったから。下手な男には決して渡せないと、ずっとずっと、一馬は思っていた。だから、目前の佐久間がどれだけ気のいい男性だったとしても、千秋を託す相手として考えれば、話はまるで違ってくる。

 長い沈黙が、二人の間に流れる。そしてその間に、車は一馬が現在世話になっている親戚宅のそばに着き。いつも道場帰りに降ろしてもらうところで停まったところで、それまで無言だった佐久間が口を開いた。

「……さっきの話だけど」

 シートベルトを外していた一馬は、驚いて思わずそちらを向いてしまう。佐久間はこちらを向かないままだったが、瞳はまっすぐ前を向いていて、その横顔は真剣そのものだった。

「待つのだけなら、できると思う。自分で言うのも何だけど、僕、往生際は悪いから」

「…!」

「だけど、千秋さん本人が僕を好きになってくれるかどうかは、また別の問題なんだけど」

 たはは…と情けないなと言いたげな笑顔で頭の後ろをかきながら、佐久間はこちらを向いて笑った。普通の神経の持ち主なら苦笑い、無神経な人間なら嘲笑を浮かべたかも知れないけれど。一馬には、何故か笑うことができなかった。このひとならばほんとうに、千秋のすべてを包み込んで愛してくれるのではないかと、かすかな希望を感じたからだ。だから、助手席のドアを開けながら、一馬にしては珍しく演技でもなく優しい微笑みを浮かべて、佐久間を振り返る。

「……弟の立場としては、姉の気持ちを最優先にして考えることしかできないけど。僕は、かなり好きですよ、佐久間さんのこと。だから、姉さんが嫌がらない限りは、できる限りの協力はするつもりです。だけど」

 後は佐久間さんの努力次第ですよ?

 そう続けると、佐久間は一瞬緊張した面持ちを見せて。それからすぐに、こくりと頷いた。

「もちろん僕も、頑張るつもりだよ。千秋さんの迷惑にならない範囲で、自分なりに」

 それを見た瞬間、ひどく安堵したことを覚えている。千秋の将来が約束された訳でもない。それどころか、千秋本人の気持ちすら確認したこともない。だけど、このひとならば……ほんとうに、何年でも千秋を待っていてくれるかも知れないと。そう思った瞬間、張り詰めていた気持ちがふっと緩んだことを…現在でも覚えている。それは、いずれやってくる未来への予感だったのか、ただの希望的観測だったのか。それはいまでもわからないけれど。

「いつか…『義兄さん』と呼べる日が来ることを、祈っていますよ」

「うん…ありがとう。他の誰でもない君にそう言ってもらえるのは、何よりも心強いよ」

「こちらこそ。送ってくださって、ありがとうございました」

 そう言って助手席のドアを閉めて。佐久間の車が走り去っていくのを見送ってから、一馬は当座の自宅へと戻る。「遅かったじゃないか」と多少文句は言われたが、「学校で担任の手伝いをしていたから」と答えたら、それ以上何も言われることなく済んで、千秋と共にあてがわれている部屋へと向かう。途中でばったり会った小学校に入ったばかりの従姉妹に、「お兄ちゃん、何かいいことあったの? 楽しそうなお顔してるよ?」と言われてから、無意識に上機嫌の顔をしている自分に気付いて、何となく気恥ずかしくなってしまったけれど─────。




                      *     *




 それから。さして変わったこともなく日々は過ぎて。早朝の新聞配達がキツくても、親類に辛くあたられても、性根の腐った同級生にいじめに近いことを言われたりされたりしてもすべて笑顔でかわしてみせて……もっとも、あまりにも酷い同級生には、自分がやったとわからないように細心の注意を払いながら、連中の悪事を白日の元にさらしたりして────もちろん、連中の中に仲間に対する疑心暗鬼の感情が生まれるように仕向けることも忘れない────適当にストレスを発散しつつ、一馬は中学を卒業した。

 同時に千秋が大学三年になるのを待って、一馬と千秋は両親と住んでいた家の近くにアパートを借りて二人暮らしを始めた。ほんとうはもっと早くそうしたかったのだが、千秋が早生まれで他の同級生より成人するのが遅かったため、キリもいいからということでそうしたのだ。保証人は、やはり元々のご近所さんだった空手道場の師範が引き受けてくれた。「もう親戚に遠慮をするのは疲れただろう」と言って立候補してくれたので、素直に甘えることにしたのだ。姉弟にとって、祖父母やよくしてくれた親類以外では、この世でもっとも信頼できる相手だったから。

 家財道具も、両親と暮らしていた頃のものを祖父母が大事に保管してくれていたので、大半のものを新しく買わないで済んで非常にありがたかった。さすがに二人が幼い頃に使っていたものはサイズの問題等で使えなかったが、両親が使っていたものをそのまま使えばいいということで、新生活というには二人にとっては懐かしいものをたくさん携えての生活が始まった。

 高校は、やはり家から近いところの、いままで上位をキープしていた成績で無理なく入れるところに決めて、千秋同様、両親の遺してくれた保険金や奨学金を受けながら通い始めた。長い居候生活のせいで、その頃にはすっかり外面と内面がかけ離れてしまっていたけれど、外では完璧に穏やかな優等生を演じきった。千秋や両親健在時からの友人────何人かはやはり同じ小中学校を経て同じ高校に入学していたのである────はすべてわかってくれていたので、とても気が楽だった。

「西尾くん、まだ高一なんだって? 道理でお肌がぴちぴちだと思ったわ」

「それに結構可愛い顔してるから、学校でモテるんじゃない? 彼女とかいるの?」

 母譲りのどちらかというと可愛い系の顔立ちのせいか────ちなみに千秋は父親似で、どちらかというと綺麗系の顔立ちだった────高校に入ってから、新聞配達の代わりに始めた夕方からのバイト先で、やたら年上の女性に声をかけられるようになった。高校でも声をかけられるが、学生のうちは真剣な恋愛相手として考えている場合が多いから、ハッキリ告白された時以外はなるべく軽くかわすようにしていた。バイトと家事と勉強で忙しくて、マトモに恋愛することはおろか、デートすらろくにできないことがわかっていたから……。千秋だって、みずからの青春のほとんどを犠牲にして自分を一人前にしようとしてくれているのだ。なのに一馬だけ、のん気に青春を満喫するなんて、できるはずもないしする気もない。

 だから、バイト先にいる年上の女性のほうが、色々な意味で手慣れているし付き合いやすいのだ。仮にそういう意味で誘われたとしても、中高生のように本気になることもなく、むしろ一馬がつまみ食いされている感じで後くされがないからだ。

 そして。「千秋に好きになってもらえるように頑張る」とかつて一馬と約束をした佐久間は、その後千秋に対して地道だが堅実なアプローチを続け、千秋が就職したその年にようやく告白を果たし、何と交際にまでこぎつけた。その上、「弟が一人前になるまでは、結婚なんて考えられない」の一点張りの千秋を気長に一途に待ち続け、ほんとうに一馬が大学を卒業する年になってからプロポーズをして指輪を贈ったというのだから、一馬にしてみれば尊敬の一語に尽きる。そこまでされれば千秋も女冥利に尽きるというもので、西尾が背中を押したことも手伝って、一馬が就職をした春に、無事佐久間家へと嫁いでいった。身内だけのささやかな結婚式にて、西尾姉弟が号泣してしまったことは、一馬にとっては墓にまで持っていくつもりの秘密になったことは言うまでもない。


 そうして。物語は、次のステージへと移っていく──────。



    




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2013.7.3up

一馬くん、石尾さんの本心には気付かぬまま
まだまだ修行が足りません。
そしてずっと寄り添って生きてきた西尾姉弟、
ついに人生の分岐点です。

クマさん、頑張りました。

背景素材「空に咲く花」さま