〔2〕





 いかにも一般中流家庭といった感じの石尾家は、母親の趣味だという庭からしてよく手入れされた花が咲き誇り、温かな雰囲気を醸しだす家だった。

「美味しい」

 紅茶と共に出されたクッキーを一口ほおばり、思わずもらした言葉に、彼女が嬉しそうに笑う。

「よかったあ。『あれもこれも作りたい』って母が言うものだから、私も結構手伝ったのよ。これで不味かったら、この量の処理に困り果てるところだったわ」

 言いながら彼女が示したキッチンのテーブルの上には、ここは菓子店かと思うほどの大量のクッキーの山が乗っていた。

「もちろん、先輩が淹れてくださったこの紅茶も美味しいですよ。僕はあんまり紅茶には詳しくないけど、ダージリン…ですか?」

「そう。母に似たのか、私も一度ハマると結構凝っちゃうほうで。……そういえば、あのひとも紅茶を褒めてくれたっけ…………」

 後半部分はひとりごとのように呟いた彼女の言葉を、一馬は聞き洩らさなかった。

「先輩?」

 まさか聞かれているとは思わなかったのか、彼女の表情に動揺が走る。

「な、何でもな…!」

 慌てたようにそう言いかけた彼女の瞳から、涙がぽろりと一粒こぼれる。

「ご、ごめ…! 何でも、ないから……」

「よかったら、話して? 聞いてもらうだけでスッキリすることだってあると思うから」

 それは、一馬自身の経験に基づく言葉だったから、彼女にとって十分な説得力に満ちていたようで、ぽつりぽつりと彼女は話し始める。一馬は先を急がせることは決してせず、彼女の一言一言にいちいち相槌を打つように、根気よく話を聞き続けた。

「……そのひとは、私の家庭教師をやってくれてたひとで。大学三年生で、私から見たらすっかり大人で、すごく優しかったの」

「うん」

「教え方も丁寧で、大学もレベルの高いところで、だけど他の人を見下すようなところなんか全然なくて、むしろ抜けてるほうが目立つようなひとで」

「うん」

「お母さんたちも、『あんな人なら安心してあんたをまかせられるわね』って認めるぐらい、すごくいいひとで」

「うん」

「私に対しても、全然威張ったところもなくて、『先生なんだから、もっとえらそうにしていいんですよ』って逆に私が言っちゃうぐらい、腰が低いひとで」

「うん」

「だけど、そんなところも含めて、全部大好きだったの」

 耐えきれなくなったのか、彼女の瞳からぽろぽろと涙があふれ始める。

「家庭教師をしてもらうたびに嬉しくて、だけど苦しくて。受験が終わったら、もう逢えなくなっちゃうかも知れないと思ったら、いてもたってもいられなくて。合格できたら告白しようと思って、発表を見て担任に報告して家に電話で知らせたその足で、先生の大学に向かったの」

「うん」

「行ったはいいけど、一人で大学の中になんて入れなくて困ってたところで、ちょうど先生が女の人と出てきて、追いかけていったら……ひとけのないところでふたりがキスしてるのを見ちゃって…………『彼女とかいるの?』って訊いてもいつも笑ってるだけで答えてくれなかったけど。ちゃんとそういうひとがいたんだって思ったら、急に自分がバカみたいに思えちゃって。そうよね、ちゃんと成人した大学生が、中学生の子どもなんて相手にする訳ないわよね。そんなことにも気付かないで浮かれまくって、私…ほんとバカみたい──────」

 床に突っ伏して泣き出してしまった彼女に、一馬は胸が締め付けられるような思いを感じて。気が付いたら、彼女の肩に手をふれていた。ぴくりと彼女の身体が反応して、涙に濡れた顔を上げる。

「バカみたいなんかじゃ…ないよ。そんなに真剣に、誰かを好きになれるなんて、すごく素晴らしいことなんだよ。恥じることなんかなんにもない。むしろ誇っていいぐらいだよ──────」

 ほとんど無意識に顔を寄せて。まるで蝶が花に吸い寄せられるように、彼女の唇にみずからのそれを重ねていた。触れるだけの、一瞬のキス。

「僕にはきっと経験できないと思うけど……純粋にひとを好きになれるその素直な気持ちは、他のどんなものより尊い宝物だと。僕は思うよ」

 あまりに驚いたからか、彼女の涙はとうに止まっていて。一馬の真意をはかるかのように、大きく目を見開いてこちらを見つめている。何となく居心地の悪さを感じて、一馬は照れ臭さを隠すように視線をそらしてしまった。自分でも、何故なのかはわからなかったけれど。

「ほんとに……そう思う…?」

「本心から、そう思うよ」

 視線をそらしたままで告げると、何の前触れもなく、彼女が一馬の胸に飛び込んできた。

「なら……早く傷が癒えるように……慰めて、くれる──────?」

 経験はないが、それが何を意味する言葉なのかわからないほど、一馬も鈍くはなかった。冷静に考えれば、そんなことはするべきでないとすぐにわかることなのに、この時の一馬は深く考えることもできず、半ば自分以外の誰かに操られるかのようにほとんど無意識に頷いていた。若かったから、という理由からだけだったのかは、大人になってから考えてみても一馬にはわからなかった。

 「ここじゃ嫌」という彼女の言葉に従い、彼女の部屋があるという二階へと誘われる。いかにも女の子の部屋という感じの部屋に通されて、隣の部屋に行ったらしい彼女が戻ってくるのを待っていると、手のひらの中にすっぽりおさまるほどの大きさの何かを持った彼女が戻ってきた。

「…これ。お姉ちゃんが持ってるの、知ってたから。ちょっと、もらってきちゃった」

 言いながら一馬の手に渡してきたのは、ビニール袋に個別包装された、正方形の小さな包み。実際に見たのは初めてだったけれど、雑誌の記事や友達に聞いた話から使い方はわかっている代物だった。

「─────後悔、しない…?」

「しないわ。西尾くんこそ、怖気づいた?」

 反対に問われて、一馬の頭に一瞬血が昇る。完全に昇り切らなかったのは、複雑な生い立ちと空手の鍛錬のせいだったのか。

「血気盛んな年頃の男をナメてもらっちゃ……困るな」

 言いながら、ドアを閉めてこちらに向かって近づいてきた彼女の手首をつかんで、半ば強引にベッドへと押し倒す。

「きゃあ…っ」

 彼女が抗議の言葉を上げる前に唇を奪い、先刻とは段違いの口づけを交わす。経験なんてほとんどなかったけれど、やはり雑誌や友人の話からの受け売りの知識を頭に思い浮かべながら、彼女の唇や口内を存分に味わう。

「あ…っ」

 そのまま首筋に舌を這わせ、彼女の反応を見ながら場所を変えていく。そして手はゆっくりと身体のほうへと移行して、服の上から優しく撫で回してから制服のボタンをひとつずつ外していく。彼女は、抵抗らしい抵抗をほとんど見せない。もしも彼女が冷静になって、少しでも嫌がる素振りを見せるようであったら、すぐにでもやめるつもりだった。けれど完全に一馬にされるがままになっている彼女に、一馬の理性の最後の堤防が決壊した。

「先輩……先輩…っ」

「あ…んっ」

 服の中にそっと手を入れて、小ぶりな胸に触れ始めると、彼女は目に見えて反応を見せ始めて、一馬の劣情を煽る。初めて触れるものだったけれど、千秋の言葉の端々から、決して乱暴に扱ってはいけないものというのはわかっていたので、極めて丁重に扱う。

「に、しおくん……」

「なに?」

 手を休めないまま耳を寄せて問いかけると、わずかに呼吸を乱しながら彼女が告げてきた。

「初めてじゃ、ない…でしょ」

「そんなことないよ。正真正銘、生まれて初めてだよ、こんなことするのは」

 言うと同時に彼女の制服のスカートのホックに手をかけて、ゆっくりと脱がせて。そばにあった椅子の背もたれに皺にならないように掛ける。

「うそ…何だか、手慣れてる感じするもの……」

「ほんとに初めてだってば。『女性は丁重に扱うもの』って姉にしつけられて育ったからかな。だから、どうすれば一番気持ちよくなってもらえるのか、試行錯誤の連続だよ」

 言いながら自分のワイシャツのボタンを外し、胸元をはだける。彼女はまだ半信半疑の様子だったが、その後一馬がやはり初めて触れる女性の下腹部に戸惑ったり、例のものの装着方法に悩んだりしているのを見て、ほんとうに初めてであることを信じたようであった。

 その後は、一馬にしては珍しく、ほんとうにいっぱいいっぱいだった。彼女も初めてだったらしく、余裕のまったくない様子で一馬の一挙一動に敏感に反応を見せて、いちいち恥じらうさまは、一馬に我を忘れさせるには十分だった。千秋の教えこそ本能的に守っていたけれど、頭の中からは千秋のことも両親のことも何もかもが吹っ飛んでいて、まさにケダモノといっていいぐらいのがっつきようだったと、後になって自分でも思ってしまうほどだった。

更に自分の内部に入り込んだ一馬のそれに、彼女のそこは快楽と同時にきつく思うぐらいの圧迫感を与え続け、終わる頃にはふたりそろって疲労困憊になってしまうほどだった。いくら家の中に他の誰もいないとはいえ、外に聞こえてしまうのではないかと思うほどの悲鳴にも似た声を上げられた時には、さすがに一馬も焦ってみずからの唇で口をふさいでしまうほどで。女性の初めてはこんなにも辛いものなのかと、知識では知っていたものの実際に目の当たりにして驚くことしきりであった。その後は、あまりにも辛そうな様子の彼女が可哀想になってしまって、ベッドの上でうつ伏せで横たわる彼女の脇に腰掛けながら、彼女の髪や頬を撫で続けていた。

「西尾くんは……優しいね─────」

 普段の、猫を被っている時以外────さすがに千秋や長い付き合いの男友達たちの前では、一馬もほとんど本性をあらわにしているのだ────では初めて言われた言葉に、一馬は戸惑ってしまった。「優しい」? 自分が? 信じられない言葉を言われて、目を丸くしてしまう。

「冗談、でしょ」

 彼女の心を癒したいと思ったのは本心からだったけれど、途中からは自分の欲望にだけ忠実になってしまったというのに。いまだって、彼女の家族が帰ってきてしまったらどうしようと、自分のことしか考えていなかったというのに。

「ううん…友達や先輩とかに聞くと、『初めてだったのに全然優しくしてくれなかった』なんてよく聞くよ。あたしのこと特別好きって訳でもないのに、こんなに優しくしてくれるなんて、思ってもみなかったもの」

 一馬は特に優しくしようと思った訳でもなく、ただ単に普段とほとんど変わらない扱い方をしたにも関わらず、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。これも千秋の教育の賜物だろうか。とても千秋本人には話せはしないが。

「これからも……時々、逢ってくれる─────?」

 縋るような瞳で問われ、考えるより先に了承の返事を返していたことに、一馬自身が一番驚いていた。

 そうして、一馬と彼女の奇妙な関係が始まったのである…………。




                     *      *




 それからは、二週に一度くらいの割合で、彼女はこの日会ったあたりで待っているようになった。何故そのスケジュールなのかというと、彼女の母親がカルチャースクールに通っている曜日と時間帯だからだということだった。

 そして、彼女の家で茶をご馳走になってから、自然に身を寄せ合い、そういう行為に至る。互いに「好き」などという言葉を口にした訳でもなく、偶然テレビで見かけた不倫関係にある男女の睦み合いを彷彿とさせるような関係だった。けれど、どちらも何も言わない。言う必要がないと、一馬自身は思っていた気がする。


 中学三年になって二カ月ほど経った頃。いつものように週二回の空手道場での修練を終え、着替えて待ち合わせた千秋と共にそれぞれの自転車に乗って帰ろうとした一馬は、聞き覚えのある声に呼び止められた。

「一馬くん、千秋さん。今日またデカい車で来てるから、よかったら送ってくよ? 自転車も二台乗せられるし」

 同じ道場に通っている、佐久間春樹という名の男性だった。もともと骨太らしくがっちりとした体格だが、本人の性格がよく表れたのほほんとした顔立ちのせいで、周りからは「クマさん」「プーさん」などと呼ばれている人物だ。既に就職している社会人だが、その顔立ちと醸しだす雰囲気のせいで、誰も彼が空手をやっているとはにわかには信じないらしい。それもわかる気がすると、一馬も思う。

「え、でも…」

 渋る千秋に、佐久間はなおも続ける。

「初夏っていってももう遅いし、女の子と中学生だけじゃ危ないよー」

 ちなみに千秋は佐久間を嫌ったり警戒している訳でもなく、たびたび送ってもらっているので遠慮しているだけだということを、一馬はよく知っている。生い立ちのせいか、他人に必要以上に頼るということができない性格なのだ、千秋という人物は。

「いいじゃん、姉さん、ああ言ってくれてるんだし。僕もこれから自転車で帰るのめんどくさいなー。いまの家、少し遠いんだもん」

 助け船を出してやると、師範も後から続いた。

「そうだなあ。君たちに万が一のことでもあったら、私も君たちの親父さんたちに申し訳が立たないしなあ。佐久間くんの厚意に甘えてくれると、私としても嬉しいんだがなあ」

「…っ」

 二人がかりでそう言われては、さすがに千秋も折れずにいられなかったらしい。

「わ、かりました……お願いします」

 そう言って千秋が頭を下げた瞬間、佐久間の顔がぱあっと輝いて、直後普段ののほほんとした表情に戻ったことを、一馬は見逃さなかった。ふと佐久間の横に目をやると、「やれやれ」とでも言いたげな表情で肩をすくめる師範と目が合って、お互い同じことを考えていることに気付いて苦笑い。どうやらわかっていないのは、千秋本人だけのようだ。

 佐久間が言うところの「デカい車」のセレナの後ろに、中を汚さないように気をつけながら二台の自転車を積み込んで、一馬はその隙間に腰を下ろす。少々狭いが、千秋を座らせるよりはマシだと思い、我慢する。

「いつもながら…ほんとうに大きい車ですね」

 助手席に座った千秋が感嘆したように呟く。

「ああ、ばあちゃんを車椅子と一緒に乗せたりもするしね。ほんとうは僕の車じゃなくて、親父の車なんだけど、親父がいない時でも動かせるようにって練習中なんだ」

「そうですね、運転も空手と同じで、日々の鍛錬が大事ですものね」

 千秋がほんとうに気付いていないらしい様子で言うのを聞いて、一馬は「あーあ」と思う。いくら練習のためとはいえ、そう毎度毎度、道場の日にばかりこんな大きい車に乗ってくるとは限らないではないか。千秋を送りたいがための努力なのに────この場合一馬はオマケ扱いだろうが、親切にしてくれていることには変わらないので、そのへんはあえて黙殺する────本人にはまるで気付かれていないあたり、恐らく同じことに気付いているであろう師範と共に、佐久間に同情したくなってくる。千秋も一馬同様、生い立ちのせいか他人の感情の機微には敏感だが、こと自分の恋愛に関しては鈍感過ぎるほどに鈍感で、いままで何人もの少年や男性が彼女に心惹かれながらも行動に移すこともできずに諦めていくのを一馬は間近で見てきた。一馬に橋渡しぐらいしてやればいいのにと言う人もいたが、みずから行動すら起こせずにいるようなヘタレに千秋を渡す気にもなれなかったので、一馬はあえて沈黙を守ってきたのだ。けれどこの佐久間は、消極的ながらも自分で行動を起こしている。最終決定権はもちろん千秋にあるが、多少の援護くらいはしてあげてもいいかなと一馬は思ったりもしていた。

「と…ところで千秋さんは、付き合っている相手なんかいらっしゃったりするんですか?」

 控えめながらも核心を突く質問に、一馬は思わず目をみはる。

「えー? バイトや勉強で、そんなのつくる暇なんかありませんてー。でなくても、こんな空手に燃えてるような女、からかってくるような命知らずもいませんよー」

 佐久間の意図になどまるで気付いていない様子でけたけたと笑う千秋に、恐らくは佐久間のみならず一馬も内心で滂沱の涙を流してしまう。

 その髪と同じくまっすぐな気性の千秋は、モデルにならないかと声をかけられたこともあるぐらいのそれなりの美人なのに、なかなか彼氏ができない。まったくできなかったとは言わないが、多忙とその鈍感さゆえに長く付き合う前に別れる羽目になってしまうのだ。確かになかなかデートも電話もできないのでは────さすがに親戚の家に厄介になっている状況では、あちらの家の電話もそうちょくちょくは使えないし、千秋のバイト代で払っている携帯も一応持ってはいるが、急ぎの連絡用にしていることもあり長電話はしないというのが千秋のポリシーなのだ────相手にも気の毒だと思うし、自分が千秋の重荷になっていることは重々承知の上なので申し訳ないとも思うが、だからといってすぐに別れるという選択に至る相手にも非があるのではないかと一馬は思うのだ。

 だから、気の長そうな佐久間にはかなり期待を寄せているのだが、彼がその期待に応えられるだけの度量の持ち主なのか、いまは見極めているところといったところか。

「そういう佐久間さんはどうなんですか? 現代女性は癒しを求めているっていうし、モテるんじゃないですかー?」

「いや、僕なんか全然……」

 千秋も酷な質問をするなと思っていたところで、

「そういえば一馬くんなんてどうなの? 優しいし、年のわりにしっかりしてるし、モテるんじゃない?」

 唐突に話をふられて、心底驚いてしまう。

「ぼ、僕?」

 軽く身じろぎをしてそちらを向くと、ちょうど信号待ちで車を停めていたらしい佐久間と目が合った。

「そう。付き合ってるコなんていないの? いまの中学生って早いコはもう付き合ってるとかいうじゃない」

 一瞬、ひとりの少女の姿が脳裏をよぎるが、あれはそういうことではないと思い直し、平静を保ったままで答える。

「僕も全然ですよー。いっつも男友達とつるんでバカ話ばっかりしてますし」

「あ、そうなんだ? じゃあ僕が中学の頃とあんまり変わらないなあ」

 佐久間の朗らかな笑い声が車内に響く。

 …そう。あのひとは、そんなんじゃない。あのひとにとっては僕はただの慰めてくれる存在でしかなくて。仮に僕が好きになったとしても、あのひとにとってはきっと重荷でしかなくて…………。

 そう思った瞬間、胸の奥が小さく痛んだ気がしたが、それ以上は考えることを放棄して。一馬はそっと目を閉じた。





    




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2013.6.6up

生い立ちのせいかやっぱり昔からひねてた?西尾くん。
石尾さんとの関係はどうころんでいくのやら…。

背景素材「空に咲く花」さま