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──────両親が事故で急逝したのは。僕が10歳、姉が15歳の時だった。




「一馬。心配しなくていいよ。あんたが一人前になるまでは、姉ちゃんが絶対に守るから」

 涙も見せず、そう言い切った姉の横顔は、凛としていて。世界の誰よりも綺麗だと思った。

 初めに世話になったのは、父方の祖父母だった。母方の祖父母は既に他界していたし、母方の伯父たちが「よほどの事情がない限り、父方が面倒を見るのが筋」と言い張ったためだ。祖父母は既に年金暮らしで、お世辞にも裕福な暮らしとは言えなかったが、高校生になったばかりの姉の千秋も時間と成績の許す限りアルバイトをこなしたし、一馬自身も早朝新聞配達のアルバイトに励んだり、学校から帰ってからも懸命に祖父母の手伝いをしたりして、両親こそいないものの優しい祖父母の元でそれなりに幸せな日々を過ごしていた。祖父の持病のリウマチが悪化して、入院を余儀なくさせられるまでの一年ほどは。

 次に世話になったのは、父方の伯父の所。貧しくはなかったが、仕事人間の伯父と既に夫婦関係の破綻した伯母、そんなふたりを見て育った従兄弟たちとはどうにも反りが合わず、千秋も一馬も当たり障りのないように振舞うしかなく、心から寛げた覚えはなかった。多少気の弱いところがあった二人の父親が、あまり交流を持ちたがらなかった理由を、幼いながらに一馬は知った気がした。そんな中で成績を落としたら何を言われるかわからないということで、伯父一家に質問などすることもなく、何とか自力で上位の成績をキープし続けた。まあそれは祖父母の元でも同じだったが、のびのびとしながら勉強していた祖父母の元と、いつでも微妙な緊張感の漂う伯父の家とでは、精神的にまったく違い、落ち着かなかったことを覚えている。けれどその家も、従兄弟が受験だからという理由で、一年半ほどで次の家に移らざるを得なかったが。

 一馬たち姉弟にとって幸運だったのは、二人の両親が出身地である市にそのまま住んでおり、両親の親兄弟も同じ市内に住んでいたために、通学時間の変化などはあれど転校まではしないで済んだことだった。

 その後も父方・母方織り交ぜて何軒かの家に世話になった二人だったが、家族の数だけ家庭内もさまざまで、裕福ではあっても心はバラバラの家族や、逆に家族皆がまとまっていて温かい家庭ほど金銭的な余裕がなくて長い間世話になることができなかったりして、なかなかうまくいかないものであった。それでも、千秋も一馬も忙しい時間の合間をぬって、週に二回ほど父の親友であった男性が師範を務める空手道場に通い続け、身を守る術も身につけていった。もともと両親存命時から通っていた道場ではあったが、両親亡き後は師範は何度言っても二人から月謝を受け取ることをせず、「そんなに気になるなら大人になってから出世払いで払ってくれればいい」と笑うだけであった。

 そんな中、三軒目に世話になっていた家で、事は起こった。それは、両親が亡くなって二年半を過ぎた頃─────一馬が中学二年、千秋が高校三年になって、三軒目に移ってきたばかりの夏だった。夕刻学校から帰ってきた一馬が、その家の大学生の息子の部屋の前を通った時に聞こえてきた会話は、彼にとっては聞き捨てならないものであった。

「マジかよ。んなにいい女なんかよ?」

「女っつーかまだ高校生のガキなんだけどよ、年の割に結構育っててたまんねーんだよ」

「そんなんが一つ屋根の下にいんのかよ、よくガマンきくな」

「それがよ、毎日バイトばっか行ってて、遅くなんねーと帰ってこねーんだよ。手え出そうにもいなきゃしゃーねーじゃねえか」

 具体的な名前こそ出なかったが、誰のことを話しているのかは、一馬にはすぐにはわかった。最初に顔を合わせた時から何だか嫌な目つきで千秋を見ていると思っていたが……一馬の勘は当たっていたらしい。そのまま極力気配と物音を断って、自分と千秋に割り当てられている部屋へと急ぎ、大事にしまっておいた小さいラジカセを取り出す。まだ両親が健在だった頃に譲ってくれた、父親が昔使っていたという代物だった。それは古いけれど現在でも十分使えるもので、一緒にしまってあったカセットテープをひとつ手に取って再び先刻の場所へと戻る。多少は話が脱線していたのか、一番録音したい部分はちょうどこれからのようだったので、そっと胸をなで下ろす。

「んでよ、話は戻っけどうちの親ども、二週間後だったかにそろって旅行に行くんだと。チャンスだと思わね?」

「けど、弟とかいうガキもいんだろ? マズくね?」

「ばっか、ガキなんざ『駄賃やっから買い物行って来い』とか言やあ簡単に追い出せるじゃねえかよ。トロくさそうなガキだしよ、こっちの腹になんか気付きゃしねえよ。そもそもそのために優しい顔して手懐けといたんだからよ」

 トロくさそうで悪かったなと一馬は思う。立場的に、おとなしく振舞っているほうが楽だからそうしているだけで、中身もそうだとは限らないのに。そんなことにも気付かないようでは、外見通りストレートな性格の千秋はともかく、自分の敵ではないなと一馬は冷静に判断を下して。古いせいか多少音を立てているラジカセに気付かれないかと冷や冷やしながら、「セミよもっと鳴け」と思わずにはいられなかった。


 そして。

「正也、母さんたち三日後に旅行だけど、ホントにあんたたちだけで大丈夫なの?」

「何言ってんだよ。千秋ちゃんも一馬くんもいい子じゃん。俺も大学生だし、メシぐらい作れるって」

「ならいいんだけど……」

 心配そうな伯母の前で、友人たちに対しての態度と段違いの態度で従兄弟は告げる。その態度だけ見れば、とてもあんなよからぬことを企んでいるようには思えないだろうなと、一馬はとても他人のことは言えないことを考えていた。

「正也兄ちゃん、テープ聴きたいからラジカセ借りてもいい?」

 珍しくバイトが休みで家にいた千秋と、早く帰ってきていた伯父もその場にいるのを確認してから、一馬は従兄弟に話しかけた。普通に聴くだけなら自分のものを使えばいいのだが、この時にはそうしないほうがよい理由があった。案の定、何も気付いていない従兄弟は、笑顔で快く許可をする。

「あ? ああ、構わねえよ。ってか、いつでも使っていいって言っただろ〜?」

 気持ち悪いほどの愛想のよさだ。最初から腹に一物抱えていそうな笑顔だと思っていたが、案の定だ────まあそれについては一馬も他人のことは言えないが。多少なりとも血のつながりが存在するということか。単に面倒を起こしたくないから一馬はききわけのいい子どものふりをしているだけなのに、それが一馬の本質だと思い込んでいる愚かな男。そんなバカに千秋を黙ってどうこうさせようとするほど、一馬も人が好い訳でもない。

「あれ? 何だ、このテープ。ま、いっか」

 自分でもしらじらしい小芝居だと思いつつ、例のテープをラジカセにセットして再生ボタンを押す。数分間は、少し前に流行した曲が流れ、中盤に入ったところでそれが突然途切れる。

「あれ? どうしたのかな、テープがからんだのかな」

 言いながらも、一馬は停止ボタンを押そうとはしない。本番はこれからだ。

『…んでよ、話は戻っけどうちの親ども、二週間後だったかにそろって旅行に行くんだと。チャンスだと思わね?』

『けど、弟とかいうガキもいんだろ? マズくね?』

『ばっか、ガキなんざ「駄賃やっから買い物行って来い」とか言やあ簡単に追い出せるじゃねえかよ。トロくさそうなガキだしよ、こっちの腹になんか気付きゃしねえよ。そもそもそのために優しい顔して手懐けといたんだからよ』

『そんで俺らはその隙にその従姉妹のコといいコトしようってか。お前も悪だね〜』

『何言ってんだよ、家に住まわせてメシ食わせてガッコにまで行かせてやってんだぜ? ギブアンドテイクってヤツだろうが』

『そらお前、親がやってることだろうよ、お前の功績じゃないだろうが』

 その後は、男たちの下卑た笑い声が続き。セミの声も五月蝿いし具体的な名前こそ挙がらなかったが、伯父伯母には声の主が誰なのか、そして何のことを話しているのかすぐわかったようで、顔色は蒼白だ。従兄弟本人も、何故そんな音声が残されているのかわからないまでも、状況を正確に把握したらしく、狼狽しきっている。

「ま…正也っ! お前という奴はっ!!

 伯父の怒声と共に、従兄弟の顔面に叩きつけられる拳。伯母の悲鳴がその場に響き渡る。けれどすぐに千秋と一馬の存在を思い出したように振り返り、

「あなたたちはちょっとお部屋に行っていなさいっ」

 青ざめた顔色のまま、ふたりを部屋へと追いやってしまう。千秋に手を引かれて部屋に戻りながら、一馬は口元に笑みを浮かべる。

 ふん。いままで親の前でも猫を被っていたんだろうが、詰めが甘いんだよ。どうせやるなら、僕ぐらい徹底的にやらなきゃね。まあもっとも、僕はあんたみたいに下衆なことをやる気はないから、参考にもなりゃしないけど。

 部屋に戻って手を放し、ドアを閉めて振り返ったとたん、千秋が前置きもなく告げてきた。

「一馬、アレ録ったのあんたでしょ」

 さすがに千秋は気付いていたか。断定口調で言う姉にさして驚きもせずに、一馬は答える。

「どうして僕だと思うの? こんなに純真無垢な弟をつかまえて」

 次の瞬間、千秋の両手が一馬の両頬をつまんで、左右にむにーっと引っ張った。

「だ・れ・が・純真無垢だって? お姉さまの目は節穴じゃないわよっ」

「ひひゃいよ、へえひゃんっ」

 本気で痛がる一馬の顔を見てとりあえず気が済んだのか、千秋は手を離してくるりと向きを変える。

「まったく。あんな奴ら、たとえ複数でこられたって、あたしには指一本触れさせやしないってのにさ」

 確かに、道場に行く時は「習い事に行く」としか言っていないから────それは一馬たち姉弟が意図して隠していた訳ではなく、単に伯母が「女の子が武道なんて人聞きが悪い」と言って伏せさせていただけの話だが────千秋と一馬が見かけによらず腕が立つことを従兄弟は知らないだろうが、「油断大敵」という言葉もある。不穏の芽は早いうちに摘んでおくに越したことはない。

「そうは言っても、万が一ってことがあるじゃないか。早めに手を打っといて損はないだろ」

 みずからの頬を撫でながら、もうすっかり本性を出した一馬が言うと、千秋は面倒くさそうにため息をついて。

「それはそうだけど、あんなやり方したら、また違う家に回されちゃう可能性大じゃないの。せっかく慣れてきたところだったのに。なら、一度徹底的に叩きのめしておとなしくさせたほうが、表面的には何の問題もなくてよかったじゃない」

 千秋はそう言うが、もし相手がこちらのキャパシティを超える人数や人材だった場合、仮に一馬が加勢できたとしても限度がある。そしてその時一番深く傷つくのは、誰でもない目前の千秋なのだ。一馬にとって、それだけは何よりも阻止したいことだったのだ。

「それはそうだけど……」

 そんな一馬の内心を察したのか、千秋が自分よりまだまだ低い一馬の頭を抱き寄せてきた。

「……ま。手段はともかくとして、あたしを守ろうとしてくれたんだもんね。それについては感謝するわよ。どこの家に行こうが、あんたと一緒ならあたしはどこまでも頑張れるから」

「…………」

 それは一馬も同様だった。千秋を守るためならば、自分はきっと誰を傷つけても後悔はしないだろうと、一馬は思っていた。千秋本人が知ったら、悲しむかも知れないけれど。

 そして、その後夏休みに入ると同時に、二人はまた別の親戚の家へ移ることを余儀なくされ、後の風の噂で例の従兄弟は「根性を徹底的にたたき直す」という名目で、山奥の寺だか道場に放り込まれたと聞いて、一馬は胸のすく思いだった。これで少しはマトモになってくれればいいが、あの性根はそう簡単に矯正できないだろうなとちらりと思う。まあきっともう会うこともないだろうから、こちらには関係のない話だが。

 その後は叔父の家に世話になったが、後で思い出せばこの家が一番温かく、家族全員がよくしてくれたと思う。けれど、先にも述べた通り、そういう家ほど家計は決して裕福ではなく、あまり長い間共に過ごすことができなかったことが大人になった現在でも残念でならなかった。

 そうして父方の親類をすべて回った後、経済的や他の理由から母方の親類にまで世話になることになったが、そちらも決してよい家庭ばかりとはいえなかった。経済的な理由だけならまだしも、舅・姑の介護を理由に家事の大半を一馬たち姉弟に押しつける伯母や、あからさまに邪魔者扱いする従兄弟たち、家庭の不幸をネタにいじめに走る同級生たち……決して楽とは言えない生活の中で、一馬と千秋は互いの存在を拠り所とし、絆を深め、耐え忍んで生きてきた。辛い日々も、後になって思えばそれなりに楽しい日々だったけれど。




                      *     *




「西尾くん?」

 中学三年生になったある日、学校帰りだった一馬はふいに声をかけられて振り返る。そこに立っていたのは、見覚えのある高校の制服を着た、一学年上の女子生徒だった。名は確か「石尾」といったか。部活にも入っていないのに何故学年の違う彼女と顔見知りなのかというと、「石尾」と「西尾」というよく似た響きの名字のため、教師や同級生にどちらかが声をかけられるたび、つい自分のことと勘違いして何度も反応しているうちに、知己の仲となってしまったのだ。

「石尾先輩、お久しぶりです。その制服はF高校ですか? あそこってかなり成績よくないと入れないんでしょう、先輩ってすごい人だったんですね」

「塾とか家庭教師とかつけて、ギリギリだったのよー。合格する自信なんて全然なかったもの。そんなことより、いま帰り? 西尾くんのおうちってH町のほうじゃなかったっけ、こんなとこ通るの珍しくない?」

 それは、以前世話になっていた家の住所だ。

「あ、話したことありませんでしたっけ。僕、実は両親を亡くしていて、姉と共にあちこちの親戚の家にお世話になっているんです。いまは、S町の親戚の家でして」

 とたんに彼女の表情が、「悪いことを訊いてしまった」というようなものに変わる。

「ああ、気にしないでください。もうずいぶん前の話ですし。姉がもう少しで成人するんで、そうしたら二人でアパートでも借りて住もうと話しているんで、落ち着かない生活ももうじき終わりますし」

「そうなんだ……ならいいんだけど。余計なこと訊いちゃってごめんね」

「いえ」

 本心からの笑顔で応えると、少女はふと何かを思いついたような顔になって、明るい笑顔で話しかけてきた。

「ねえ西尾くん、いま時間の余裕ある? それと甘いもの好き?」

「時間もありますし、甘いものも普通に好きですけど、それが何か?」

「昨日、うちの母がいっぱいクッキー焼いたんだけど、量が多過ぎておすそ分けしなくちゃならないぐらいあるのね。私の家この近くなんで、よかったらもらってくれない?」

「いいんですか? 実は僕より姉のほうが甘いものに目がないんで、いただけるならありがたいです」

「西尾くんてお姉さん想いなのねー。お姉さんがもうじき成人って言ってたけど、年離れてるの?」

「ええ、五歳ほど。いまは大学二年です」

「女子大生かあ……西尾くんのお姉さんなら、さぞ美人なんでしょうね、羨ましい」

 どこか淋しそうな顔の彼女を気にしながらも、一馬は促されるままに彼女の家へと歩を進めて、そのまま深く考えることなく中へと入っていった。家人は留守だというので、おすそ分けだけいただいて早々に辞するつもりだったが、「是非お茶でも飲んでいって」と人懐こい笑顔で有無を言わせぬ勢いで言われてしまっては、さすがの一馬にも断りきれるはずもなく、彼女の家の居間で淹れたての紅茶と種類豊富なクッキーをご馳走になる羽目になってしまっていた。

 その後、ふたりの運命が大きく変わることに、何ひとつ気付かぬままで…………。



     





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2013.5.9up

姉と共に、不遇の日々を過ごしてきた一馬少年。
彼の運命は、その後大きく変わっていきます。

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