え、ちょっと待ってよ。前理事長同士が知らないうちに入籍していて? 元旦にそれを報せる年賀状が両家の面々が揃っている場に届いて? しかも本人たちはラブラブ新婚旅行? 「新学期が始まると同時に、緊急職員会議は決定だわね…って、そうじゃなくて」 いまは、美月の問題だ。 「これって、正式ではないけど島谷先生との間の婚約を白紙に戻すってことになるのかしら?」 こくん、と美月は頷く。そして、大きな瞳からこぼれ落ちる大粒の涙。 「その様子だと…島谷先生側にも同じことが書いてあったのね。島谷先生ご本人は……何て? 「『若く未来あるお嬢さんを祖父のわがままで縛りつけていて、申し訳なかったと思っている』と……それと、『一番強固にこの話を推していたふたりがこう言っているのだから、君はもう自由だ』って…」 ああ、嘉月の言いそうなことではある。あの人のことだから、美月の幸せのためになら、自分の本心を完全に隠しきることぐらいのことはやってのけるだろう。内心ではどれだけ苦しみ引き裂かれるような痛みを伴おうとも。 「……津川さんは…どうしたいの? 元の話通り島谷先生と結婚するほうがいいの? それとも…まったく違う男性と恋をしたいの?」 「わ、私……お祖母ちゃんやあちらのお祖父さまに言われるよりずっと前…先生と初めて逢ったあの日から……先生がまだ高校生の、『ただの兄さんの親友』だったあの頃からずっとずっと、島谷先生だけを見てきたんです───────」 いつもとは違い、しっかりと前を向いて、まっすぐな瞳で美月は言い切った。やっと、美月の本心が聞けたと綾乃は思った。美月の気持ちは本人に言われなくても注意深く見ていればすぐに気付けたが、こうして彼女本人の口からきちんと聞いたのは初めてだったから。まるで年齢の離れた妹の成長を目の当たりにした姉のような気持ちで、綾乃は思わず微笑みを浮かべる。 「私…『お祖父さんに決められただけの許嫁』でも、『親友の妹』でもなく、ひとりの女性として…染井先生みたいに自立した女性として見てもらいたい……それで、何のしがらみもなく私とのことを考えてほしい……でも、あちらにとって迷惑だったらと思うと…」 「津川さん!」 再び俯きそうになる美月の頬を、綾乃は両手で挟み込んだ。 「相手にとって迷惑かどうかなんて、訊いてみなきゃわからないでしょう!? 貴女が自分のやるべきことをちゃんと遂げて、その上で素直に気持ちを伝えたなら、きっとあのひとは結果がどうであれ真摯に応えてくれるはずよ。貴女の好きになった人は、そういう人でしょう?」 美月の瞳から、新たな透明な涙が溢れだす。 「はい…はい……っ たとえダメでも…この気持ちだけは絶対伝えたいです……!」 「…よし! 素直が一番よ」 綾乃がそこまで言った時、二人のいる保健室に近付いてくる足音。それも、歩いてくるような感じではなく、走って…といっても何だか妙にリズミカルな…そう、たとえるならスキップのように、軽やかな足取りのような足音だ。 「誰…でしょう?」 ハンカチで涙を拭った美月が問いかけてくるが、綾乃にも心当たりはない。やがて、開かれる保健室の扉。 「あっやーのさーんっ 新学期が始まらないいまのうちにいちゃいちゃしましょーっ!!」 語尾に♪でもつきそうな能天気な声で歌うように言いながら入ってきたのは、超!浮かれまくった顔の志郎で……。次の瞬間、「ボコッ!」という音と共にその顔にプラスチックのアルコール消毒液の入ったボトルがめり込んでいた。 「いっ…てーっ!! 綾乃さん、ひどいじゃないっスかーっ!」 立て続けに文句をたれようとする志郎の胸倉を掴んで、普段とはまるで違う鋭い双眸と口調で、綾乃は告げる。 「……以前、私は言ったはずよね? 学校関係者のいる前では絶対私たちの関係を気取らせるような言動はしないでって」 かつて友人たちに「本気で怒った時の綾乃は蛇のごとき迫力だ」と言わしめた気迫に臆しながらも、それでも志郎は反論しようとする、が。 「えー、だっていまは他に誰もいないじゃ…」 ここで、驚きに目をみはる美月とバッチリ目が合って、さすがの志郎も事態を把握したらしい。それまでは浮かれまくっていた表情が、さーっと音を立てて青くなっていく。 「い…いたの……もしかしなくても…さっきの…聞いちゃった……?」 いまさら遅いと綾乃は思う。当然のことながら、美月は顔を赤くしてこくりと頷いた。 「たっ 頼む、いま見聞きしたことは一切合財忘れてくれーっっ」 先刻までの能天気さはどこへやら、とたんに情けない表情になって志郎は土下座しだす。綾乃はその隙に、保健室のドアから顔を出し、周辺を注意深く見やっては気配を探る。どうやら、冬休み中、それもまだ早い時間とあって、とりあえず他に人はいなかったらしい。ホッと胸をなで下ろしながら、静かに扉を閉めて向き直った。 「私からもお願いするわ、津川さん。このひとほんっっっとーに迂闊だから、細心の注意を払わなきゃいけないの。私たちのこと、黙っていてくれるかしら…?」 「いまは内緒でも…おふたりはいずれはご結婚なさるおつもりなんですか?」 「それはもちろん!!」 ガバッ!!と顔を上げた志郎の頭に、綾乃の持っていたアルコール消毒液のボトルが再びめり込む。 「そのへんは、学校内が行事を控えていない時に学園長たちに話そうと思っているの。最低でも今年の卒業式と入学式が終わってからでないと」 「そう…ですよね。おふたりとも学校の職員ですものね、生徒のことを優先しなければ……」 さすがに理事長一族の人間は話が早くていい。 「はい、私、おふたりがご自分たちから言い出すまで、誰にも言いませんっ それに…」 そこで美月は、恥ずかしそうな表情を浮かべて綾乃をちらりと見た。綾乃が女でなければ、惚れてしまいそうなほど可愛らしい表情と仕草だ。 「染井先生には、私の秘密も全部話しちゃってますし…お互いさまですもの」 ああそうだった。冷静に考えれば、綾乃の恋愛事情より美月の恋愛事情のほうが複雑で障害も多いのだ。 「でもおかげで私も気が楽になりました。とにかくいまは、いまの私にできることを一生懸命やろうと思ってます。絶対に、後悔はしたくないから」 その笑みは、少し前にここに訪れた時とは段違いに晴れやかだった。美月にとっては、志郎の闖入もいい意味でふっきるきっかけになったようだった。 「それならよかった。まだ寒いから、くれぐれも身体には気をつけて、ベストを尽くしてね」 「はいっ!」 そうして、何かを決意した瞳で美月は保健室を出ていった。その足どりには一片の曇りすら感じとれない。 「一時はどうなることかと思ったけど…志郎くんも一役かってくれたみたいで、結果的にはよかったわ」 「?」 何も知らない志郎は首を傾げるばかりだ。 ひとしきり考えても答えが出なかったらしく、気持ちを切り替えたらしい志郎は、それまでとは打って変わった真面目な顔で、椅子に腰を下ろした綾乃に歩み寄ってきた。 「ところで綾乃さん。明後日の夜って空いてますか」 「明後日? えーと…ああ、お休みの前の日ね、空いてるけど?」 「会わせたい人がいるんで、できればめかし込んで一緒に来てくれると嬉しいんスけど」 「会わせたい人って…」 綾乃の脳裏に、年が明けてすぐの時の出来事がよぎる。 「ま、まさか、ご両親に会ってほしいとかいうんじゃないでしょうねえっ!? そんな急に言われても、こっちにだって心の準備というものがっっ」 「あっ 違います、それとは全然関係ない相手ですっ 親兄弟とは別の意味で大事なヤツには違いないですがっ」 「え…?」 「そいつは絶対に俺たちのことを反対する訳ないし、むしろそれを待ち望んでるくらいのヤツで。ちゃんとそいつに報告しとかないと、そいつの人生、ここから先一歩も進めないんス」 「ええ?」 あまりにも抽象的過ぎて、意味がわからない。 「とにかく、明後日。どうかお願いします」 真剣極まりない表情で、志郎は深々と頭を下げる。 「わ…わかりました」 綾乃には、もはやそれしか言うことはできなかった。
「いらっしゃいませ。綾乃さんもようこそおいでくださいました」 「てめ、なれなれしく『綾乃さん』なんて呼ぶんじゃねえっ」 「るせーな、てめえがデレデレして『綾乃さんが綾乃さんが』としか言わねえから名字を覚えられなかったんだよっ」 ひとしきり軽口をたたいてから、ふと真顔になって。 「…で。アイツらは?」 「もう来てるよ。騒ぎにならないように、裏口から奥の個室に通しといた」 …アイツ「ら」? 今日会う相手は一人ではないのか? しかも「騒ぎにならないように」とは…いったいどんな相手なのだろう? 首を傾げながら志郎に続き、件の個室に通される。ドアを開けてまず志郎が入り、一言二言挨拶を交わしてから綾乃も招き入れられ、完全に中に入って相手の顔を見た瞬間、驚きのあまり何も考えられなくなってしまった。 「えっ ええっ!?」 そこにいたのは、一組の男女。ふたりとも志郎と同年代と思しき相手で、女性のほうはそこらへんに普通にいそうな飛び抜けて目立つ容姿ではないが、可愛らしくふんわりとした感じの女性で好感のもてるタイプで……しかし問題はそちらではなく。その隣に座る男性は、直接会ったことはないもののテレビや新聞でならさんざん顔を見てきた人物だったのだ! 「高…っ」 思わずその名を叫びそうになった瞬間、個室の扉を閉めた志郎の両手が背後から綾乃の口をそっとおさえた。 「はい綾乃さん、ゆっくり深呼吸をして〜。声を出さずにはいもう一度」 志郎に促されるまま深呼吸をして、ようやく落ち着いたところで志郎は手を離してくれた。大きく息をついた綾乃を見て、男性────高遠真一(たかとおしんいち)という名の、いまや日本中で知らない人はいないのではないかというほど有名になったプロのサッカー選手────そこには「いま一番イケてるアスリートの一人」という枕詞がつく────が苦笑いを浮かべる。 「おいおい志郎。お前、彼女さんに誰に会うのかさえ話してなかったのかよ。可哀想に、顔真っ赤になっちまってるじゃねえか」 「いや、話そうとは思ってたんだけど、いつ言っていいのかわかんなくてさ。ごめん、綾乃さん。もう知ってるとは思うけど、こいつ高遠真一。高校の時、一緒にサッカー部で頑張ってた仲間。この店やってる仲本も一緒なんだ」 その言葉を聞いた時、一瞬真一の表情が翳ったような気がしたが、それを不思議に思う前にその隣の女性が立ち上がり、丁寧にお辞儀をしてきたのですっかり忘れてしまった。 「当時同じサッカー部のマネージャーをしていた三枝結実(さえぐさゆみ)と申します。驚かれたでしょう、ごめんなさいね」 「あ、志郎く…じゃなくて風間先生と同じ学校で養護教諭を担当しております、染井綾乃と申します。こちらこそ、お見苦しいところをお見せしましたっ」 志郎に促され、結実の向かいの席に座ると同時に、食前酒が運ばれてきた。 「しっかし、話には聞いてたけど、『風間先生』とは……お前ホントに教師やってたんだな」 「まあ、相変わらず体力勝負の体育教師だけどな。ところで綾乃さん、もっと飲んで飲んで」 「いえ私はこのくらいで…」 「潰れたら今度は俺が介抱したげるから」 「何かその手つきと目がやらしいっ」 いつものように軽口をたたいていると、前のほうで笑う気配。 「あっ ごめんなさい。風間くん、何か学生時代に比べておじさんくさくなったみたい」 「そりゃまあもう二十五だし? 『おっさん』と言われてもおかしくねえよなあ。実際生徒にもたまに言われてるし」 「そっか…二十五、だったか…あれからもう八年も経つんだな」 その言葉に突然しんみりとした空気になったので、綾乃は戸惑ってしまう。八年前というと…志郎たちは十六、七の頃か。その頃にいったい何があったというのだろう? 「まあとにかく、料理も来たことだし食おうぜ。俺、部活の監督で走り回ったから、腹へっちまった!」 「監督って…まさか走ってるのか? お前が!?」 真一の驚きの声。結実も驚きを隠せないようだ。 「そうだよ。あの頃の俺たちみたいに、生徒が結構まどろっこしいことやってるの見ると、つい走ってっちまうんだよな」 「その結果、生徒の誰よりも多く保健室に運ばれてきますしねー。いまじゃキャプテンの子のほうが立派にリーダーシップとってますよ」 「そう…ですか……志郎が走って…そう、か─────」 心の底から安堵したように、目元を手で覆ったまま真一が呟く。 「だーかーらー言ったろ、『もう何ともない』って。お前は心配し過ぎなんだよ」 何だか感極まってしまったような真一とは対照的に、軽口をたたく志郎に、真一を労わるかのようにその腕に触れる結実。もしかして、真一と結実は、恋人同士なのだろうか? 報道などでそういう相手がいると聞いたことはなかったが、彼女が一般人であるのならその存在を懸命に秘めていたとしても何らおかしくはない。 「とにかく食おうっての。お前も、昼間練習してきて腹減ってんだろ? 仲本のヤツ、性格はともかく料理の腕は確かだから、存分に味わえよ。お前らここに来たことないんだろ?」 「料理と違って性格悪くて悪かったなっ 風間ぁ、てめえの分だけ特製激辛仕様にしてやってもいいんだぜ?」 「あっ 嘘ですごめんなさい仲本さまさまっっ」 以前来た時と相も変わらぬやりとりに、思わずくすくすと笑ってしまう。ふと見ると、綾乃の向かい側に座っていた結実も懸命に声を出さないようにしながら笑いを堪えていたので、お互い顔を見合わせて相乗効果で今度こそ吹き出してしまった。 「ご、ごめんなさ…っ 二人とも高校時代と全然変わってないものだから、もう可笑しくて……」 「わ、わかります。前回初めて来た時からこんな調子だったので、私も笑いを堪えるのが苦しくてもう…っ」 「おいお前ら、女性陣が笑い死にしかねないから、いい加減にしろって」 見かねた真一が間に入ってくれたおかげで、志郎と仲本の不毛ともいえる漫才はようやく終わりを告げた。 「わっかりましたよ、高遠親方」 「そうそう、てめえはおとなしく仕事に戻っとけ」 その後は、志郎たちの思い出話や現在のそれぞれの日常のことを話したりしながら、楽しい食事の時間は過ぎていき、最後のデザートや飲み物が出る頃には、綾乃たちはすっかり満腹になってしまっていた。 「やーもう、昔から仲本くんお料理上手だったけど、腕に磨きかかり過ぎっ」 「ほんとう、今夜このまま寝たら絶対太っちゃうー」 「だーかーらー、寝る前に運動をね…」 「志郎くんおっさんくさ過ぎだってば!」 相変わらずの軽口の応酬をしていたところに、唐突に名字で呼ばれて綾乃はそちらを見た。すると、斜め向かいに座っていた真一が、深々と頭を下げている姿が視界に飛び込んできた。 「─────ほんとうは俺が言えた義理じゃないんですが。志郎のこと、どうかどうか、お願いします。できることなら一生、支えてやっていただきたいぐらい……」 「え……」 その声に答えたのは、誰でもない志郎その人だった。 「……おっ前…ホントいつまで気にしてんだよっ あのことがなくっても俺は多分プロにはなれなかったんだって何度言ったらわかるんだ? いまでさえ高校生にテクで負けてんだぞ? それに…教師になってなかったらきっと綾乃さんにも逢えなかったし、いまではむしろよかったことのが大きいぐらいなんだかんな」 「でも…っ!」 「俺のことより、お前いま海外のチームから誘い受けてんだろ? 俺に遠慮してこれ以上足踏みしてるままだったら、俺もいい加減怒るぞ? 三枝のことだっていつまで中途半端にしてんだよ」 結実が、ハッと息をのむ気配。それに気付いた真一が一瞬そちらを向いた。 「俺はもう綾乃さんっていう幸せを手に入れてんだよ。今度はお前が三枝と幸せになる番だろうが」 ふたりの瞳から、見る見るうちに溢れ出てくる透明なしずく。 「俺に、世界に羽ばたくお前の姿を見せてくれよ。嫁さんを連れてさ」 志郎がほんとうにそう思っているとしか思えないほどの一点の曇りもない笑顔で言った時、真一は涙を流しつつも力強く何度も頷いた。 「うん…うん……っ」 綾乃にはよくわからないやりとりだったけれども、心のどこかで何となく納得できたような気がして、自分の肩を引き寄せている志郎の胸に黙ったまま頬を寄せた。 「……あいつ…真一のことだけど」 ふいに志郎が話し出した。 「高校の頃から皆の中から頭一つ飛び抜けて巧くて、でも面倒見もすっげーよくて、皆が皆、『あいつは将来絶対プロになって活躍する』って話してたんだ。『そしたら俺たちの誇りだな』って」 「うん」 「本人もプロになる気満々で、俺や仲本にも『一緒にプロになって日本サッカー界を盛り上げようぜ』ってあいつは多分本気で言ってて。俺たちは自分たちにはそこまで行きつける実力がないって薄々わかってたから、表面上だけ話を合わせてて」 「うん」 「そんな時…高校二年の春だったな。いまでいうドラッグってヤツをキメてたヤツの運転する暴走車が、部活帰りの俺たちの歩いてるほうにすげースピードで向かってきて……真一が一番手前にいるのを見た瞬間、俺は何にも考えられなくなって、気がついたらあいつを思いっきり突き飛ばしてた。で、次に気付いた時は病院のベッドの上だった。親や兄貴たちが泣いてて…誰かが報せたのかすぐに真一もやってきて、あいつも泣いてた。俺、三日間意識不明だったんだって。そのまま死んでてもおかしくなかったって医者も言ってた」 こつん…と志郎の蹴った小石が道の脇の雑草の中に消えた。 「腰から脚にかけて、すごい重傷だったらしくて、下手をしたらもう二度と走れないかもって言われちった」 志郎は明るく軽く言うが、実際志郎の腰から脚にかけての傷跡────いくらかは薄くなってきてはいたが、それでも気軽に訊くことはためらわれるほどの傷跡だった────を知っている綾乃には、その怪我がどれほど酷いものだったのか安易に想像がついた。走るどころか歩くことだってもうできなかったかも知れなかっただろうほどの怪我だったに違いない。いま志郎が普通に生活して、サッカー部の顧問として走ることができるほどまでに回復したのは、志郎の努力の賜物以外の何物でもないと、綾乃は信じて疑わなかった。 「俺はそれでもよかったんだ、真一さえ無事に済んだんなら。あいつも怪我したけど、すぐに治る軽傷ばっかりって聞いた時は本気で神に感謝したよ。神なんてそれまで大して信じてなかったのにな。だけどあいつは、『お前の一生を台無しにした』って…『一生かけてお前に償う』ってそればっか言うんだ。だから、『本気で俺に償いたければ、日本で一番の選手になれ』って言ってやったんだ。『じゃなきゃ許さない』って」 どちらの気持ちも痛いほどにわかる……どちらも、相手がほんとうに大事だからこそそう思ったし口にしたのだろう。 「その結果、あいつはムチャともいえる猛特訓の末にホントにプロになって。俺も負けてられないってリハビリ頑張って…現在に至るって訳」 初めて聞いた、志郎の過去。それは、現在の志郎の明るさからはとても想像もできない壮絶なものだった。だけど、と綾乃はふと思う。志郎の走る姿を見て、時々どう言ってよいのかわからないほどかすかな違和感を覚えたのは……もしかして、志郎にはまだ後遺症が残っているから、なのだろうか? 養護教諭で医者ほどではないにしてもそれなりの医療知識がある綾乃だからこそ、それが微妙な違和感となって、気付けたのだろうか。そしてそれは、もしかしたらまだ痛みも伴っているのかも知れない。けれど、志郎のことだ、訊いたとしても恐らく冗談めかしてはぐらかされてしまうだろうが……。 「…当時のサッカー部の先輩がいまスポーツ系の記者やっててさ。真一にいま海外からの誘いが来てるんだけど、あいつどうも行く気ないんじゃないかって業界ではもっぱらの評判らしくて。もしかしたらまだ俺のことを引きずってるのかも知れないってこっそり連絡があって。いつまでそんな昔のこと気にしてやがんだって何かカッとなっちって。綾乃さんにも何も報せずにこんなとこまで連れてきちゃって、ホントごめん…」 恐らくは、いつもと変わらない笑顔で志郎は振り返ろうとしたのだろう。たとえ内心で、どれだけ辛かったとしても、いつでも他人を思いやって、そうやって志郎は笑っていたのだろう。それを思うと、胸が締め付けられそうに痛くて仕方なくて。志郎が振り返る前に、ぎゅっとその背に抱きついて、その胴に両腕を巻きつけて、強く強く抱き締めていた…………。 |
2015.5.20up
普段の志郎からは想像もつかないほどの過去。
綾乃の胸は彼への想いでいっぱいに…。
それを乗り越えてきたからこそ、ふたりの現在があるのです。
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