それから数日後にやってきたクリスマスイヴの晩には、綾乃は志郎と共に楽しく過ごした。
仕事が終わってから、学校から離れたところで待ち合わせた志郎が連れていってくれたのは、街中にありながら比較的目立たないところにある隠れ家的なレストラン。あまり大仰な造りではないが、どことなくホッとする雰囲気の店だった。志郎の学生時代からの友人がやっている店だというそこで、素朴だが優しい味のするディナーをご馳走され、綾乃はすっかり満足してしまった。途中、店主だという男性が挨拶に訪れて、ここに初めて女性を連れてきたという志郎をからかいまくってくれたおかげで、きっと学生時代はこんな感じでよくいじられていたのだろうなと思えるような志郎の可愛らしい姿を見られたことも大きいが。
その後は初めて志郎の一人暮らしの部屋に案内され、思っていたより綺麗だったことに驚きを隠せなかった。志郎いわく「先日の休日に必死で大掃除した」とのことだが。さすがにつきあい始めた時期が時期だったので、ちゃんとしたホテルはとれなかったのだろうなと安易に予想がついた。
テレビから流れるクリスマスソングを聴きながら、あらかじめ買って冷やしておいたというシャンパンを飲んで、ゆったりと彼に身をまかせて過ごす時間は、ここ数年味わったことのないほど満ち足りた時間で…志郎と素朴に過ごすこんな時間がもっと増えればいいのにと綾乃は思わずにおれなかった。ふたりの勤め先は私立であるから、公立のように結婚したらどちらかが異動しなければならないという決まりはない。にも関わらず、頑なにふたりの交際をひた隠しにしてきたけれど……半ば勢いに圧されて、OKしてしまった志郎の言うところの「結婚を前提としたおつきあい」だったけれど。こうやって志郎と共に、肩肘をはることもなくのんびりと歩いていくのも決して悪くない幸せだと綾乃は実感し始めていた。
「…どうしたの?」
志郎にもたれかかるようにして寛いでいた綾乃が無意識に微笑んでいたのに気付いて、志郎が話しかけてくる。
「ううん、何でもない。ただ、幸せだなーって思っただけ」
「じゃあもっと、幸せにしてあげる」
「え?」
そう言って志郎が傍らに置いていたバッグの中から出したのは、細長い包み。
「なあに、これ」
「クリスマスプレゼント。安物で申し訳ないけど」
「そんなこと…!」
「とにかく開けてみて」
いかにもアクセサリーといった感じの包みを開けてみると、中から出てきたのは小さいながらも綺麗な輝きを放つ石の付いたネックレス。
「綺麗…これ、もしかしてダイヤ? 私の誕生石の?」
「うん。ほんとうは指輪にしたかったけど、恥ずかしながらサイズがよくわかんなくて。それだったら細かいサイズは関係ないって店員さんが言うから」
自分で言った通り、綾乃は四月生まれでちょうど実家の庭の染井吉野が満開の時期に生まれたと聞いている。自宅の染井吉野は祖母がたいそう気に入っていたもので、祖母が病に倒れて入院している時に綾乃が生まれたので、名字がちょうど「染井」だったこともあり、祖父にもう少しで「吉乃」と名付けられるところだったと両親から聞いている。結局両親の説得と祖母の鶴の一声でそれはなくなったらしいが、綾乃の名が現在のものになったのもその名残りだということだ。いまどき古風過ぎると言われることもあるが、「吉乃」よりはよっぽどよかったと思うので、それはそれでよしとしている。染井吉野の花は好きだが、さすがに駄洒落で名前を決められるのは勘弁願いたいところだ。そんなことを思い出しながら見ていたネックレスを、志郎がそっと綾乃の手からとって、「ちょっと向こうのほうを向いててくれる?」と言ってきた。恐らくはつけてくれるつもりなのだろう。
言われた通りにしていると、数秒の間を置いて首筋に冷たい鎖の感触がふれたが、すぐに体温で気にならなくなった。胸元でその存在を主張しているのは、控えめながらも綺麗な輝きを放つ石。それはまるで、志郎の心のようだと綾乃は思う。
「ありがとう……」
嬉しく思う心のままに微笑んで礼を言うと、志郎は気恥ずかしそうに笑った。
「実は私も…プレゼントを用意してたんだけど、こんなにいいものをもらってしまった後では見劣りしちゃいそうで気がひけてしまうわ」
「綾乃さんが用意してくれたものが、いいものじゃない訳ないじゃないっスかー」
そんな風に断言されてしまうと、嬉しい気持ちと裏腹に面映ゆくて仕方がない。
「あの…ね。手袋なんだけど……いつも手を寒そうにしてるから」
自分で編んでもよかったが、さすがに時間が足りなかったのと、車を運転する時には邪魔にしかならないだろうということで、市販の革製のものにした。手の大きさについては、事後に志郎が寝てしまっている時にこっそり採寸しておいた。
「マジですかーっ!」
「あっ そんなに高いものでもないのよ!?」
「値段なんか関係ないっス。綾乃さんが俺のことを考えて、俺のためだけに選んでくれたってことに意味があるんスから!」
本気でそう思っているような笑顔が嬉しい。ほとんど無意識にしまりなく緩んでいきそうな自分の顔に気付き、それを隠すように慌てて開けっぱなしだった自分のバッグを閉じようとしたその時、綾乃は中に入っていたいかにもハンドメイドの包みに気付いた。
「あ、忘れてた。昼間もらったんだったわ」
鞄から取り出したそれを見て、志郎も思い出したような顔をする。
「そういえば、俺ももらったんだった。それ、穂村先生からもらったヤツじゃないっスか?」
志郎も出してきたそれは、微妙に色違いのラッピングをされた包み。顔を近付けると、中から甘い香りが漂ってくる。恐らくは、中身はクッキーかマドレーヌあたりだろう。
「これ…食べても大丈夫っスかね……?」
心配そうに志郎が言うのを聞きながら、綾乃の脳裏にはある情景が浮かび上がっていた。
それは、今日の昼間の出来事。皆の前では普通に振る舞っているのだが、ふと皆の目がなくなったとたん、遥子が憎々しいものを見る顔で大輔を睨みつけていることが何度かあったのだ。綾乃はほんとうに偶然気がついて、その後も遥子に気付かれないよう時折視線を向けるだけでずっと彼女を見ていた訳でもないのだが……普段綾乃に対して向けるそれとは違い、何というのか、男女間の生々しさを感じさせるようなものだった。大輔は気付いているのかいないのか、ずっといつもと変わらぬ涼しい顔をしていて、その真意は計り知れない。
遥子に対して何事かをやらかして逆鱗に触れたのかも知れないが…遥子か大輔に確認する勇気は、綾乃にはなかった。
「大丈夫だと…思うわよ? 多分、私にくれた分にも何も細工はしてないと思うわ」
それはほとんど確信に近い。何故なら、用事で職員室に訪れた生徒が大輔の机の上にあったそれを見て羨ましがった時、大輔が快く分けてあげたものを食べた瞬間、すさまじい顔とかすれた声で「水っ 水っ」と苦しんだのに気付き、遥子が舌打ちをしたのを確かに見たから。恐らく大輔は何か細工があることを見越していて、生徒を毒見役にしたのだろう。ひどい話だ。だからいま、遥子の憎悪はすべて大輔に向いていて、綾乃や半ばどうでもいいと思っているであろう志郎にまで向ける余裕はないと思われる。
「女ってこえー…」
その言葉を聞いた瞬間、志郎の首に両腕を回して引き寄せて、ひとこと。
「…そうよ、女は怖いのよ。だから…裏切ったりしたら容赦しないんだから」
そう呟くと、背中に腕を回され強く抱き締められた。
「裏切ったりなんか絶対しない……絶対にこの手は離さないから」
だから…ずっと、俺のそばにいて───────。
その言葉を耳元で聴きながら、綾乃はそっと目を閉じた…………。
* * *
そして、それから数日経った大晦日の晩。実家────といっても同じ県内の隣の市だが────に帰っていた綾乃の携帯が鳴り響いたのは、深夜零時を十五分も過ぎた頃だった。居間で家族と過ごしながら飲んでいたお茶を飲み終わらせてから寝ようと思っていた綾乃は、発信者を確認して思わず目を丸くする。
「あら友達からだわ、何かしら」
何気ない風を装って、携帯を持って廊下に出る。
「…もしもし?」
『…綾乃さん? もしかして寝てた?』
「いいえ、もう少ししたら寝ようと思っていたところよ」
正直に伝えてあげると、電話の向こうの相手────志郎がホッとしたように息をつく。
「どうしたの?」
二日にはそちらに戻る予定だから、そうしたら一緒にゆっくり過ごそうと約束していたのに。
『いや…ご家族は別として、今年一番最初に綾乃さんと話したいなと思って』
思いっきり照れているであろうことが声で判別できるくらいには、綾乃も彼のことを理解できるようにはなっていたので、志郎が本気でそう思っていることはすぐにわかる。
「…私も同じことを考えていたわ。明けましておめでとう。今年もよろしくね」
『あっ 明けましておめでとうっ こっちこそ、今年こそもっともっとよろしくっス。俺、綾乃さんの全部を受けとめきれるくらい、もっともっと頑張るからっっ』
「馬鹿ね。貴方はいまのままでいいのよ。いまのままの貴方が、私は一番好きなんだから」
ほんとうに素直な気持ちでそう告げた次の瞬間、背後から素っ頓狂な声が上がった。
「やーん、お義姉さんてばラブラブーっ!! ていうかそんな相手がいらしたんですねっ」
振り返らなくてもわかる声の主は、弟嫁である若い義妹だ。
「紘也(ひろや)くーん、お義父さんお義母さーんっ 今年はお義姉さんのウェディングドレス姿が見られるかも知れませんよーっ!」
「ちょっ 木綿子(ゆうこ)ちゃんっっ」
止めようとしても時既に遅し。義妹の姿はあっという間に居間の中に消えてしまった。そして居間からわき起こる、歓声。あちゃー…と綾乃は声にならない呟きを唇に乗せる。
『…もしかして、妹さん?』
「弟のお嫁さんだから義理のだけどね。悪い子じゃないんだけど、ちょっとにぎやかしな部分があるというか……ごめんなさいね、気を悪くしないでね」
『いや俺は全然…というか、こっちのほうがもっと「ごめん」かも』
「え?」
『いや実家に帰ったとたん、母ちゃんからまだいいひとはいないのか、何なら見合いするかって持ちかけられて、慌てちまったもんだから、とっさに綾乃さんのことバラしちまって。そしたら、とにかく実家に連れてこいってうるさくって。俺兄弟の末っ子だから、兄貴や姉貴もすごい期待して待ってるんで、綾乃さんにどう言って一緒に来てもらおうかと思ってて……』
「や、やだ、可愛い末息子が悪い年上女にたぶらかされてるとか思われてるんじゃないの!?」
『大丈夫、そんなことないって! むしろ何やらかすかわからない俺を好いてくれてる貴重な女性だって、すごい歓迎ムードなんだから』
「…………」
それはそれで、何だか珍獣にでもなった気がして複雑な気分だが。
『…心配なのは、俺のほうなんだよね……こんな後先考えない若造に大事な娘はやれん、とか言われそうで』
双方ともに、非常に若々しい────敢えて好意的な言い方をすれば、だが────弟夫婦がいるので、そういう意味ではまったく問題はない気がする。
「大丈夫よ。家族はみんな私の気性をよく知ってるから、絶対『似合いの相手を見つけてきた』って納得するでしょうよ」
『そう言ってもらえると嬉しいけど…』
と、志郎がそこまで言いかけたところで、その声越しに聞こえてくる甲高い声。
『あー! 志郎兄ちゃん電話してるーっ』
『カノジョ? ねえカノジョ!?』
『わー、お前ら寝たんじゃなかったのかっ』
『部屋の外でボソボソ話してるの聞こえたから起きちゃったよー。ねー、電話カノジョー?』
『うるさいうるさい、部屋に戻ってろっ あ、ごめん、綾乃さん、甥っ子共に見つかっちまって、いま避難したから』
あまりにも微笑ましくて、つい笑みがこぼれてしまう。
「『お兄ちゃん』って呼ばれてるの? 可愛いのね」
『あー、兄貴が早く結婚したもんだから、いま生意気盛りで…』
「私が言ったのは、志郎くんのことよ」
『え』
「早く会いたいな。そしたら、思いっきり甘やかしてあげる。大好きよ、志郎くん」
『えっ あっ お、俺もっ 大好きッス!』
「じゃあ、またね。おやすみなさい」
『おやすみなさい…』
通話を切った携帯を胸に抱き締めた綾乃が思い出すのは、志郎を抱き締めた時の感触。ほんの数日触れていないだけだというのに、早くあの頬に、髪に、手に触れたいと思っている自分がいることに、綾乃自身が一番驚いている。いつの間に、こんなに好きになっていたのだろう?
幸せな想いにいつまでも浸っていたかったが、そうもいかない現実が背後に迫っている。居間で、綾乃が戻るのをいまかいまかと待ちかまえている両親と弟夫婦たちだ。まずはこちらを何とかしないとと思いつつ、綾乃はそっときびすを返した。
* * *
それから三日ほど経った日の朝のこと。部活をやっている生徒たちのために保健室を開けるため、綾乃が学校にやってきたその日、保健室の前で佇んでいる人影に気付いた。運動部の生徒かと思ったが、よく見るとそれはもう部活も引退して来たる受験に向けて準備に入っているはずの、美月であった。
「津川さん? どうしたの? あなたは普通受験組だから、三学期が始まるまでは学校に用はないはずじゃ……」
そう話しかけると、美月はゆっくりとこちらを向いて綾乃をまっすぐに見据えてきた。その表情を見て、綾乃は心底驚いてしまった。美月はいまにも泣き出しそうな顔をしていたから。
「と、とにかくいま開けるから中に入って。軽く支度をしてからゆっくり話を聞くから、少し待ってね」
「はい…」
とりあえず美月を中に招き入れて椅子に座らせてから、綾乃は普段の準備に取り掛かる。何とかいつものように体裁を整えてから、私服の上着を脱いでハンガーに掛け、白衣を羽織って美月の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「で、何かあったの?」
「先生…お祖母ちゃんが……」
「前理事長先生? あの方がどうかなさったの?」
「これ…」
そう言って美月が持っていた封筒から出してきたのは、一枚の白い便箋と写真がプリントアウトしてあるらしいハガキ。「見てもいいの?」と訊くと美月がこくりと頷いたので、まずは便箋のほうを丁重に開いた瞬間、綾乃は信じられないものを見た。それは、綾乃も見たことのある前理事長の一人で美月の祖母である津川真穂(まほ)の字でこう書かれていた。
「正一(しょういち)さんと再婚します。財産のほとんどは生前贈与が済んでいるし、学園の経営についてもすべて息子に引き継ぎが済んでいますので、後は好きにしてください」
確かに、もう一人の前理事長の島谷正一と真穂は遠い昔恋人同士で、家同士の確執のために結ばれることができなかったと聞いているから、いまでも互いに想い合っていても不思議ではない。更に双方とも現在は連れ合いを亡くして独身同士だから、結婚するにしても法律的にも何の障害もないが…しかし、これは。
「元日…うちと島谷家の方々とで集まる日に、お祖母ちゃんとあちらのがお祖父さまがいつまでも姿を見せないから、皆がおかしいと思ってお部屋に行ったら…それが置いてあって。年内にすべて準備してから行ったみたいで、ふたりが入籍したことを証明する戸籍謄本も置いてあったんです」
さすがにそれは持ちだしてこれなかったのだろうが、美月の話しぶりからしてそれは確かに本物だったのだろう。ちなみに島谷家のほうにも、正一氏の筆跡でまったく同じ内容が書かれた書き置きが残っていたそうだ。
「そして、元旦にそのハガキがうちとあちらのおうちに届いて……」
それは、真穂と正一のふたりがお揃いのアロハシャツを着て、並んでそれぞれのパスポートを片手に────もちろん姓は同じものである────もう片方の腕を互いの腕に絡ませている写真がプリントされている年賀状。そこには、「ハワイに新婚旅行に行ってきまーす♪」とのん気な文章が書かれていた。年賀状が届くタイミングを考えると、これはハワイで撮ったものではなく、事前にハワイっぽい背景の場所で撮ったものなのだろう。齢七十を越えたカップルの、ラブラブツーショット写真……何とコメントしてよいものかわからない。
「…現理事長たちの反応は…?」
「それが…誰もふたりの思惑を知らなかったみたいで、大パニックになっちゃって」
だろうな。安易に想像がつく。
「私は、お祖母ちゃんが幸せになれるなら再婚したって別に構わないんですけど…その…最後の一文が……」
そう言って美月が指したのは、文章の最後の部分、「追伸」と書かれた部分。正直、最初のインパクトが凄すぎて、そちらまで目に入らなかった。そこには、多少くだけた文字で、こう記されていた。
「なお、我が孫美月の縁談については、本人の望むままとする───────」
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