どこで歯車が狂ってしまったのか。いま考えても、答えは出ない。
学生時代までは明るく社交的だった彼。成績はいまひとつで少し頼りないところもあったけれど、いつも冗談を言っては周囲を笑顔にしてくれていた。自分も、よく笑わせてもらったうちの一人で。だから、彼に交際を申し込まれた時も、ふたつ返事で了承した。初めのうちは、お調子者と委員長のカップルで似合いだと皆に言われたものだった。なのに。
就職して一年も経った頃、彼から笑顔が消えた。自分が大変な時でも、他人を笑わせていたのが、彼というひとだったのに。苛立っている姿をよく見かけるようになり、酒の量も増え、煙草も喫わない人だったのに、いつの間にか喫うようになっていた。身体によくないからと何度も止めたけれど、聞いてもらえなくて……。そのうち、仕事という言葉に敏感に反応して不機嫌になるようになったので、言葉にも気をつけるようになった。
そして……決定的な出来事が起こった、あの日──────。
いつものように約束をしていたあの日、約束の時間ぴったりに彼の部屋を訪れた凛子は、いつもより明るい声で入室を促す彼にホッとして、玄関のドアが開くのを待っていた。けれど、ドアを開けたのは彼ではなく、見知らぬ男だった。思わず全身を強張らせた凛子に、中から声をかけてきたのは彼で…。
「ああ、そいつ友達。気にしないで入れよ」
よく見ると、中には他に男性が一人と女性が二人ほどいて、けれどどの相手にも見覚えはまったくない。こうして家にまで訪れているということは、それなりに親しい間柄なのだろうけど……いままで、こんな友達がいることを一言も聞いたことがなかったので、何となく身構えてしまう。
「あ、の…?」
詳しいことを訊きたい気もするけれど、何と訊いたらいいのかわからない。凛子が口ごもっているうちに、背後で聞こえる内鍵をかける音…。
「なん…で、鍵を─────」
訊くのとほぼ同時に、背後の男に肩をガッと掴まれて、半ば強引に部屋の奥へと連れて行かれてしまう。その途中で、脱いで腕にかけていたコートやバッグが床に落ちるが、相手はそれを拾う暇さえ与えてくれない。いったいどういうことなのかと問おうとする前に、部屋の中にいた別の男が近付いてきて、凛子のブラウスのボタンに手をかけ始めた。
「なっ!? 何をするんですかっ!」
「何って、気持ちいいことに決まってんじゃん」
説明を求めるように彼を見るが、彼は他の女性とじゃれあっていて、凛子を気にする様子もない。
「みんなで楽しもうよ。な?」
「…っ!」
にやにやと、嫌悪感しかもよおさない笑顔で凛子の服を脱がそうとする男の手を、勢いよく振り払う。
「やめ…てっ!」
付近に積み上げてあった雑誌を、手加減も何もなしで男たちに向かって投げつけて、とっさに男たちが怯んだ隙をついてきびすを返し、落としたコートとバッグを拾ってドアの内鍵を開けて外に飛び出す。幸い、誰も後を追ってこないようだったことにホッとしながら、走りながらコートを着直し、ボタンを開けられたブラウスを上から覆いながら自分の家へと逃げ帰る。
信じられなかった。あの彼が、あんなことをするなんて。あんなことなどできるひとではなかったのに。以前の彼とは変わってしまっていたことは知っていたが、まさかあんなひどいことを平気でできるようになっていたなんて。以前の彼を思い出すたび、訳がわからなくなって、頭の中が真っ白になっていく。
嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ────────!!
けれど、その数時間後にかかってきた電話が、凛子の最後の希望を打ち砕いた。彼本人からのそれだったからだ。凛子への仕打ちを詫びるでもなく、むしろ凛子の行為について責める内容で……「せっかく楽しんでいたのに、水を差した」凛子に対しての非難が主な内容だったがために、凛子は半ば本気で自分の感覚のほうがおかしいのかと思ってしまった。
『お前みたいなつまんねえ女、いままで見たことねえよ』
『あれぐらい、大したことないだろ?』
『お前、男と恋愛なんか向いてねえんじゃねえの? ああ、いっそ仕事とでも結婚しろよ』
何も言えないままの凛子の胸に、いまや「元カレ」と呼んでいい存在となった相手の言葉が、情け容赦のない鋭利な刃となって突き刺さる。
『じゃあな、もう二度と俺に関わるなよ!』
捨て台詞と共に切られた電話から手を放すこともできず、無機質に響く通話が終わったことを示す機械音を聞きながら、凛子は自室の床にへたり込んでいた。ほんの数時間前に起こった出来事が、現実に起こった出来事なのか、把握しきれなかったのだ。
何が…起こった? あの時の彼と、いまの電話の彼は、ほんとうにずっと自分がつきあってきた彼なのだろうか? 信じられない思いが心を満たし、現実を認識したとたん、楽しかった頃の想い出がまるで大波のように心へと押し寄せて……それにつられるように、涙が瞳からあふれだす。
「…………っ!!」
思わず床に突っ伏して、声を上げて泣いた。こんなにも感情をあらわにして泣くなんて、高校時代につき合っていた彼と別れた時にだって、しなかったのに。
そんな風に感情的になりながらも、頭のどこかで「明日が仕事が休みでよかった、思いきり泣ける」などと現実的なことを思っている自分に、彼が最後に投げかけてきた言葉が頭をよぎって、自嘲に唇を歪めた笑みを浮かべてしまう。そんな自分だから、彼は十分に安らぐこともできず、あんな風になってしまったのか。ということは、責任はすべて自分にあるといっていいのか。
他人が聞いたら間違いなく「それは違う」と言うであろう思いを胸に、凛子は独り、いつまでも泣き続けていた…………。
* * *
そんな、八年も前の出来事を夢に見た、次の日の朝。凛子は、かつてないほどに晴れやかな気分で、いつも目覚まし時計が鳴る時間の一時間も前に目を覚ました。
例の彼とは、あれから一度も会っていない。携帯に登録してあった番号はしばらく消せなかったけれど、また酷い言葉を投げかけられるのが怖くて、結局一度もかけられずに終わった。つきあい始めた大学時代からの共通の友人たちからも、気を遣っているのか彼のその後を聞くことはなかった。
けれど。昨夜泣きまくったせいか、瞼は異様に重く感じるが、気分だけは最高にいい。いままで心の奥底に刺さっていた棘が、完全に溶けてなくなっている感覚さえする。涙で洗い流されてしまったのだろうか? もしそうなら、それは神崎────明人のおかげに違いないと凛子は思う。続いて思い出されるのは、昨夜の別れ際の明人の笑顔。そのとたん、頬がかーっと赤くなる。
な…何で? やだ、いままでこんなことなかったのに!
そう思ってみても、顔の紅潮は止まらない。枕元の鏡を見て羞恥に更に顔を赤らめているうちに、みずからの目元の腫れの酷さに愕然とする。こんな顔では、会社に行けないではないか!! こんなことをしている場合ではない───────!
タオルを数枚用意して、一枚は蒸しタオルにして、一枚は冷たい水に浸して固く絞る。それからソファに横になり、熱いタオルと冷たいタオルとを交互に閉じた瞼の上に当てて、それを何度も繰り返す。それだけで、目元の腫れはかなりひくはずだった。実際、いつもの時間に目覚まし時計が鳴り出す頃には、だいぶ目立たなくなってきているようだった。
よかった。これなら、よほど顔をじっくり見られない限り、気付かれなさそうだ。
ホッと胸をなで下ろしながら、いつものように出社の支度を始める。
いつものように電車に乗って、いつものように会社の更衣室で身支度を整えて、いつものようにオフィスの窓を開ける。毎朝の習慣が順調に進むのが気持ちよくて、胸いっぱい朝の空気を吸い込む。とてもいい気持ちだった。この次の瞬間までは。
「おはようございます」
いつもなら甲高い女子社員たちの声で聞こえるはずのソレが、低い声で聞こえた時の衝撃といったら、言葉で表しきれるものではなかった。
「な…なんで……?」
あいさつを返すのも忘れ、それだけ言うのが精いっぱいだった。何故なら、いま凛子の目前に立っているのは、昨夜遅くに凛子の部屋から自宅に帰ったはずの明人だったからだ。もちろん、出社してきたことに驚いたのではない。いつもより少々早過ぎる時刻に出社してきたその事実に驚いたのだ。それでも、この場に他の誰かがいれば、凛子もまだ表面上は平然としていられただろう。けれどいまはまだ、凛子と明人以外の人間はこのオフィスにはいない。その事実だけで、現在の凛子を挙動不審にするには十分だった。
「昨夜は、誰にも見せたことでないであろう内面を、あるひとがやっと見せてくれたことで嬉し過ぎて仕方なくて。おかげで、いつもよりずいぶん早く目が覚めてしまったので、少しでも早く愛しの彼女の顔が見たくて、家を飛び出してきてしまいました」
にこにこにっこり。いつもと変わらぬ口調だが、表情だけはこの上なく幸せそうだった。それと比例するかのように、凛子の羞恥心のゲージは限界値を振り切って、もうどうしていいかわからなくなってしまった。何も答えることもできず、窓の外へ向けてくるりと身体ごと振り返る。
やだやだやだ! もう恥ずかし過ぎて、何を言ったらいいのかわからない!! あんなこと言われて、いったいどんな顔をすればいいのよ!?
もう大パニックである。そんな凛子の背後で、明人はみずからの机に荷物を置いて、ゆっくりと近付いてくる。背後から凛子をきゅ…っと抱き締めて、思わず身を固くする凛子の身体を、そっと自分のほうに向かせる。
「まだ少し、目元が腫れてる。だけど、このぐらい近付かなければわからないかな」
言いながら、凛子に答える間も与えずにそっと唇を奪う。「神聖なるオフィスで何てことするのよ!!」と叫んでやりたいところだが、唇をふさがれていては何も言えない。抗議の意で明人の胸をどんどんとたたくと、ようやく明人は唇を離してくれた。
「……もうっ オフィスで何をするのっ」
顔を真っ赤にして、口元をおさえながら抗議すると、明人は幸せいっぱいとしか表現のできない表情で笑って答える。
「いいじゃないですか、ふたりきりの時くらい。仕事をする上での大切なエネルギー補給ですよ」
ついでに言うと、昨夜はあのままモノにするつもりだったのに途中でおあずけを食らって、少々、いやかなり欲求不満ということもありましてねー。
まるっきり恥ずかしそうなそぶりすら見せず、明人は続ける。いくらそれなりに経験があるとはいっても、そんな直截的な表現をされて、平気でいられるほど凛子の神経は太くはない。何を言うべきか頭の中でぐるぐると考え込んでしまって、次に正気に戻った時は明人の腕の中で、後ろ髪を完全に上げていて丸見えのうなじや首元、制服であるブラウスからのぞく胸元に軽いキスを落とされている最中だった。ようやくハッとして、両腕を思いきり突っ張って、明人の胸の中から逃れる。
「ひとがぼんやりしてる間に、いったい何をしているのよーっ!!」
「えー、ちょっとしたスキンシップくらいいいじゃないですかー」
「わ、わたしはあなたとこのままつきあうなんて、ひとことも言ったつもりは…!」
そこまで言いかけたところで、廊下から賑やか─────というより最上級の姦しさを含んだ話し声が聞こえてきたので、ふたりそろって慌てて身支度というか表情を平常のそれに戻す。
「おはようございまーすっ!!」
「あらっ!? 神崎さんがもう来てる!」
「ほら、だから言ったじゃない、確かに見たって!!」
いつものメンバー、愛理・紗雪・麻美香だった。
「いったい何の騒ぎなの?」
訳がわからず、凛子は問いかける。爆弾発言が投下されたのは、まさにその次の瞬間のこと。
「土曜日、『ア・モ―レ』ってブティックに、ふたりしていましたよね!? それも、神崎さんが凛子さんの服をコーディネートしてるみたいな感じで!!」
紗雪の発言に、凛子は一瞬のうちに目まいを感じ、よろめいてしまった。慌てたような明人に支えられたために、倒れることだけは何とか回避できたが。
「さっき、総務の子もふたりが一緒にお昼を食べてるのを見たって……それもホントなんですか!?」
そ…そんなところまで見られていたなんて!!
「えー、じゃあおふたりはつきあってるんですか!?」
「素敵ーっ おふたりともお仕事はできるし、大人同士って感じですっごくお似合いですっっ」
目をキラキラと輝かせて言ってくる愛理に、凛子は全身が脱力しかけるのを何とかこらえる。
「いえ、あのね……」
何と言って誤魔化そうかと脳味噌をフル回転させているところに、ドアが勢いよく開いて、さらなる爆弾発言が投下された。
「凛子くん、神崎くんっ 日曜日に『香月亭』という料亭で双方のご家族同伴でいらしていたというのはほんとうかね!?」
…課長であった。これには明人もさすがに驚いたようで、目を丸くしている。
「か、課長、それは…!!」
「結婚するのなら、仲人は是非私にやらせてくれないと困るではないか! 何といっても私は、君たちの直属の上司なんだからなっ」
「えーっ もうそんなところまで話が進んでいるんですかーっ!?」
もう大騒ぎである。これには凛子とさすがの明人も一緒になって、とりあえず日曜のほうの誤解だけでも解こうと必死に説明を繰り返す。その甲斐あって、何とかそちらの誤解は解けたのだが、今度は違う方面からの爆撃が襲来してきた。
「でも、凛子さんの妹さんの結婚がらみで凛子さんが行くのは当然だとしても、そこに何で神崎さんまでついていく必要があるんですかーっ!?」
「そうよねえ、血縁関係がある訳でもないんでしょう?」
「てことは、やっぱり恋人とか婚約者って関係だってことー!?」
蜂の巣をつついたような騒ぎというのは、こういうことを言うのか。それとも、盆と正月がいっぺんにやってきたとでもいうのだろうか? もはや、凛子は考えることを放棄しかけていた。そんな凛子にトドメともいえる一撃を放ったのは、他の誰でもない神崎明人、その人であった。
「ええ、そうですよ。式のこととかはまだなんにも考えていないので、いまはとにかくあたたかく見守ってやってください。僕はともかく、彼女は恥ずかしがり屋なので」
にこにこにっこり。よく、営業担当者の笑顔を狐狸妖怪の類いと評することがあるが、この時の明人ほどその表現がぴったりくることはないと、凛子は思った。
際限なく盛り上がる周囲たち────その中には、いつの間にか輪に加わっていた由風や西尾も含まれる────に、「策士」という言葉ではもう追いつかないほどにしたたかに過ぎる明人。何故自分ばかりがこんな目に遭わなければならないのか。我が身のあまりの不運ぶりに、凛子の精神は今度こそ考えることを完全に放棄し、凛子の思考はいまや完全に停止した……………。
その数時間後。仕事の合間に給湯室で湯呑みなどを洗っていた凛子は、由風からの「婚約おめでとう〜♪」という言葉で動揺して、危うく手にした湯呑みを落とすところだった。
「ゆ、由風っ あんた、真相に薄々気付いていながら、あえて沈黙を守っていたわねっ!? あんたも一緒に説明してくれていたら、いまごろ皆の認識ももっと違っていたかも知れないのにっっ」
大きな声で叫びたいのをこらえながら小声で文句をつけると、由風は「えー、だってえー」とわざとらしく唇を尖らせてみせる。
「八年もの間独りで頑張ってたあんたが、せっかく幸せをつかみかけてるって時に、邪魔するほど野暮じゃないわよ、あたしも」
「由風…」
洗い物を終わらせてタオルで手を拭いていた凛子は、由風に向けてそっと手を伸ばす。
「ごめんね、あんたの気持ちに気付けなくて……」
背を向けていた由風がこちらを向いたとたん、凛子の口調も表情も身を包んでいた空気も一変する。
「な・ん・て、言うとでも思った!? 大方あんたのことだから、神崎くんの内心も状況も全部わかってて、面白がっていたんでしょうっ!?」
由風の両頬をつねりながら言うと、由風が「ブレイクブレイクっ」と言いながら両手を上げてきたので、凛子はそっと手を放した。
「もう、凛子ちゃんてば。これからまた営業に行かなきゃなのに、お化粧直さなきゃいけないじゃない」
「そうじゃなければ、一日スッピンで仕事させてやるところよっ」
「まあまあ、お怒りを鎮めて。でもさ。よかったじゃん?」
前の彼氏とどういう別れ方をしたかを知っている由風に言われると────それは別に凛子が自主的に話した訳でもなく、由風が強引に聞きだした結果である────凛子もそれ以上強く言えない。手段や迫り方はともかく、一般的な目から見れば明人は恋人もしくは結婚相手としては文句のつけようのない相手であるからだ。
「それは…まあ……」
思わず素に戻って言葉を濁したとたん、耳元に寄せられる由風の唇。
「とりあえずお祝いは、ゴム製品一ダースとかでいいかな?」
「由風!!」
今度こそ、凛子の雷が炸裂した。
|