翌日。まだまだ時間には余裕があったので、ラフな部屋着を着たまま寛いでいた凛子は、ふと座ったまま振り返ってため息をついた。
そこにかかっていたのは、つい昨日神崎にプレゼントされた────凛子からしてみれば「押し付けられた」と言いたいぐらいだが、少なくとも好意からのそれをそう表現するのは失礼かと思い、できるだけそう思うようにしている。不本意とはいえ、こんなところでまでお堅い部分を発揮する自分が嫌にもなってくる
が────淡いラベンダー色の服。
通勤の時に着るには少々華美に過ぎるかも知れないが、今日のような祝い事の席にはぴったりといえるような、華やかで、それでいて三十代に入った凛子が着てもおかしくないほどある程度の落ち着きも兼ね備えている服だった。本人は男だというのに、こんな服を大して迷った様子もなくセレクトできるなんて、やはり神崎は女慣れしていると凛子は思った。まだ経験も浅い二十代の女性なら、何の疑いもなくすぐに彼に夢中になってしまうだろうと客観的に考えてしまうほどには凛子は年齢も経験もそれなりに重ねていたので、冷静に判断を下していた。
そんな時、鳴らされる玄関のチャイム。先刻、あらかじめ電話をしてきた同じマンション内の顔見知りの主婦だろう。そう思い、インターホンで確認することもなく凛子は返事をしながら玄関のドアを開ける。次の瞬間には、その軽率さを心の底から後悔することになるのだけれど。
そこに立っていたのは、驚きに目をみはった表情を浮かべた神崎。凛子と同じように、一瞬呆けていたようであったが、気を取り直すのは彼のほうが早かった。可愛らしい花束を凛子の眼前に差し出して、女性なら誰でも一瞬見惚れてしまうであろうほどの魅力的な笑顔で微笑んで見せた。
「…少々早過ぎるかと思いましたが、家でじっとしていることもできなくて。お約束の時間の前に、少しでも長く一緒に過ごしたくて、押しかけてしまいました。これは、お詫びも兼ねてのプレゼントです」
「あ…ありがとう」
さすがの凛子も毒気を抜かれて、つい素直に礼を述べて受け取ってしまう。
「ついでに余計なお世話とは思いますけれど、相手を確認もせずにドアを開けるのは、一人暮らしの女性としては少々警戒心に欠けるのではないかと……」
「あっ こ、これは、近所の奥さんがご用でいらっしゃるって言うから、てっきりその方だと思って…!」
凛子が言い訳にも似た言葉を口にしたとたん、すぐそばの曲がり角を誰かが曲がってきた気配。
「あっ 鈴木さん、お待たせしちゃってごめんなさーいっ これ、大したものじゃないんですけど、実家の両親が送ってきた地元の銘菓なんで……」
タイミングというものは、どうしてこうも空気というものを読まないのだろうと凛子が思った瞬間、凛子の前で相対している神崎
に気付いた顔見知りの主婦が、一瞬にして頬を染めた。美男子というものは、罪なものだと凛子は思う。新婚間もない主婦でさえ、年頃の乙女のように魅了してしまうのだから。
「あ…っ お客さまがいらしてたの? ごめんなさい、私ったら…っ さっき電話で言った渡したいものって、これだったんです、お邪魔してごめんなさい、私はこれで退散させていただきますねっ ホント、失礼しましたーっっ」
「あっ ちょっと、木村さんっ」
「誤解よ」と伝える前に────木村夫人は具体的なことは言っていなかったが、何やら誤解していることは確かだと思ったので────礼も言わせずに木村夫人は早々に去っていってしまった。後には、微妙な空気が流れる凛子と神崎だけが取り残されて……。
「…あー…ご近所の方とお約束していたんですね、勝手に来てしまってすみませんでした…」
それにしても、と神崎は続ける。
「今日は、ずいぶんラフな服装なんですね。そういう姿も、新鮮でいいですけど」
その言葉にハッとして、凛子は慌てて家の中に引っ込む。
「ちょ、ちょっと待ってて、とりあえず身支度を整えるからっ」
そう言ってドアを閉めかけてから、すぐに思い直して神崎の手を引っ張って玄関の中へと引き入れてからドアを閉める。
「あれ、男を家にさっさと入れるなんて、ずいぶん大胆というか…これが僕でなかったら、あまりにも警戒心が足りなさ過ぎと言うしかありませんよ?」
「ち、違うわよっ 私の支度が終わるまで、玄関の前で待っていられたら、それこそご近所で何を噂されるかわからないじゃないっ いますぐ支度するから、そこから先には入ってこないでね!」
いまごろ、木村夫人他顔見知りの主婦たちの間でどんなことを噂されているか考えると…頭が痛い。彼女たちは凛子と歳が近いせいもあり、常日頃から「いいひといないなら、うちの主人のお友達を紹介するわよ〜?」と頻繁に声をかけてきて、断るのに毎度苦労を強いられているのだ
────なまじ根はいい人たちだけに、あまり強くも言えないところがまた困るのだ。最近はとくに目新しい話題もなかったあの方々に、新たなおいしいネタを提供してしまったと見て、ほぼ間違いないだろう。
あああ、これから先あの人たちに会った時、どういう態度をとればいいのよ〜っ!?
神崎を玄関で待たせて、花束を水につけたり支度を始めながら、凛子は頭を抱えてしゃがみたくなるのを懸命に堪える。対する神崎が、少しずつ外堀が埋まっていくことにまるっきり反対の感想を抱いていることに、少しも気付かないままで。
そうして、身支度を整えて、時間はかなり早かったけれど、神崎と共に家を出る。母親たちとの約束の時間までまだ間があり、とくに時間をつぶすあてもなかったけれど、このまま家に居てふたりで気まずい時間────恐らくはそう思うのは凛子だけだろうが、知らぬは本人ばかりなり、だ────を過ごすのも苦痛だったし、何よりまた近所の人にふたりでいるのを見られるのも嫌だったので、とりあえず街中を適当にぶらついてから約束の場所へと向かった。
そして。
「まああ! 凛子にこんな素敵な恋人がいたなんて、夢にも思わなかったわあ!!」
近所の人々と変わらない、いつもとまるで違う甲高い声を出す母親に、凛子は頭痛を抑えることができなかった。あれほど「違う」と言ったにも関わらず、まったく聞く耳も持たないで…!
「神崎明人と申します。これから末永くお願いします」
「凛子は一人暮らしを始めてからろくに実家に帰ってこないからなあ。いまのお友達のことも父さんにはよくわからんよ」
相変わらず人の好さそうな笑顔で父親が告げる。確かに、あまり帰っていなかったかも知れない。二十代後半になって、母親がうるさくなってきてからはとくに。
「凛子にこんなマトモな彼氏がいたとはなあ。信じらんねー」
「あなた、凛子ちゃんに失礼じゃないの、もうっ」
「うるさい、馬鹿兄貴。そっちこそ、こんな素敵な奥さんと可愛い子どもがいるほうが信じられないわよーっだ」
兄との憎まれ口の応酬も、子どもの頃からの恒例行事だ。
「お姉ちゃんっ!」
背後から聞こえてきた声に、反射的に振り返る。忘れるはずがない、愛しい妹の声だ。
「蘭子!!」
「お姉ちゃんっ!!」
まずは、熱い抱擁。それからお互いに顔をじっくり見て。
「蘭子、また綺麗になったんじゃない? やっぱり恋をしてるからかな?」
「もー、それはお姉ちゃんもでしょー、素敵な恋人さんじゃないっ」
「お姉ちゃんのことはこの際どうでもいいのっ それよりもあんた、お嫁になんてまだ早過ぎるわよー、お姉ちゃんは淋しいわー」
「そんなこと言わないでー。彼ってば、ホントいいひとなのよ、お姉ちゃんもきっと気に入るわ」
可愛い妹にそう言われてしまうと、ほんとうに弱い。反対する気が失せてしまうではないか。
「蘭子さんのことは、凛子さんからよく聞いていますよ。『ほんとうに可愛い妹なのよ』って、ことあるごとに自慢されてます。ほんとうに可愛らしい方で、お会いできて光栄です」
いつのまにか背後から寄ってきていた神崎が告げる。営業職だけあって、ほんとうに抜け目がない。
「神崎さん…でしたっけ。お姉ちゃんを、ホントよろしくお願いします!! いつだってひとのことばっかり優先して、自分のことはいっつも後回しなんですから」
「もちろん。これからは、僕が全力でお守りしますよ。この服も似合うと思ってプレゼントしたんですけど、どうでしょう?」
「ええ、すっごい似合ってる!! このネックレスとかも神崎さんのお見立て? これもいい感じー。お姉ちゃん、もっとやわらかい感じの格好すればっていつも言ってたのに、お堅い服装ばっかしてて困ってたんですよー。ちゃんとわかってくれる人に出会えてよかったね、お姉ちゃんっっ」
キラキラキラ。夜空に輝く星のように瞳を輝かせる妹を見ていると、嘘をついていることへの罪悪感で胸がチクチクと痛んでくる。思わず真実をぶちまけたくなったタイミングを見計らったように、神崎が凛子の肩をぽんっとたたく。
「姉妹の邂逅はとりあえずまた後にしたほうがよさそうですよ。先方もお着きのようですから」
神崎の言う通り、二台のタクシーに分乗してきたらしい先方の方々が、凛子の両親たちと挨拶を始めていた。
「では、中に入ってまたゆっくりと……」
誰かの合図と共にそのまま料亭に入ってしまったから。後のことは、緊張のあまり凛子はあまり覚えていない…………。
*
* *
その夜。
「つ…っかれた〜………」
「コーヒーでも淹れるから、寄っていく?」という誘いに乗って、共に凛子の住まいに戻ってきた神崎の前で、凛子はぐたーっとテーブルの上に突っ伏した。神崎は反対側のソファに腰を下ろして、同じように脱いだばかりの上着を脇に置いている。
「お疲れさまでした。その甲斐あってか、完璧だったと思いますよ。あれなら、誰も僕たちのことを疑ってはいないでしょう」
まあそれも、蘭子と相手の男性がほんとうにラブラブで、こちらがかすんでしまうほどだったせいもある。母親も言っていた通り、確かに相手の外見は強面だったが────あれでパティシエだというのだから、世の中不思議でいっぱいだ────内面はかなりシャイでいい人だったので、さすがの凛子も蘭子との結婚を認めざるを得なかった。ほんとうに、ほんとうに悔しいけれど。
「まあ僕としては、由風さん相手の時ともまた違う、ご家族の中での素の凛子さんを見られて楽しかったですけど」
そうだ。久しぶりに会った家族の前で、すっかり油断していた。昔っから口ゲンカばっかりしていた兄や、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた妹を前にしたら、普段の鎧などどこかへ吹っ飛んでしまったのだ。
「か、会社の人には言わないでね!? 由風にもダメよ!?」
「はいはい」
目前のソファに腰を下ろし、コーヒーを飲みながら笑う神崎は、ほんとうに楽しそうで………。
「ほんとうに……可愛かった、ですよ──────」
コーヒーカップをテーブルに下ろし、神崎が立ち上がるのを見た時には、『トイレかな?』と思ったので、凛子はみずからのコーヒーカップを下ろしてから右手でトイレの方向を指さそうとした、のだが。それより早く、神崎に手を掴まれて驚いてしまう。
「あ、の…?」
神崎は何も答えない。それどころか、いつのまにか背中に手を回されて緩やかに横たわらされている気がして、思わず確認しかけた時には既に遅く、気が付いたら床に寝かされていた。眼前には、いつのまにか神崎の顔。
あら? これって……どういう状況?
「ど、どうしちゃったの? 神崎くん」
訳がわからないままに問いかけると、神崎ががくーっと肩を落とした。
「この状況でそうきますかっ どこまで鈍いんですか、あなたというひとはっ!?」
いままで見せたことのないような、余裕のない声と表情だった。
「えっ!? えっ ええっ!?」
いまだ状況が理解できない凛子の目前で、神崎の顔が一気に赤くなって。まるで若返りの薬か何かで、成人男性が一気に男子中学生ほどに若返っていくさまを見ているような錯覚を、凛子に与えた。
「ああもう、いままでせっかく余裕のあるふりをしていたのに。仮面が、一気にはがれちゃったじゃないですか。これも全部、貴女のせいですよ」
赤い顔のまま、責めるような口調で言われても、凛子には何が何やらわからない。
「何であたしのせいなの? あたし、神崎くんに何かした!?」
凛子には、慌てふためくことしかできない。その言葉に、神崎がますます脱力したように凛子には見えた。
「ここまでとは思ってませんでしたよ……ここまできたら、もはや天晴れという他ありませんね」
褒められてるのか貶されているのか、よくわからない。
「もうハッキリ言わないと通じないようですね」
気が付くと、自由であったはずの左手まで封じられていて、足腰のあたりは神崎の足でスカートを押さえられていて、足を動かすこともままならない。
「あの…神崎、くん?」
声をかけてみても、真剣な顔をしたまま真っ赤になっている神崎の答えは返らない。
「僕は!」
突然上げられた大声にびくりと肩を震わせる。
「貴女が好きなんですよ。気付いてなかったんですか?」
……好き? 誰が? 神崎くんが? 誰を? …………あたしを!?
「えええええええっ!?」
驚きのままに叫ぶと、神崎は今度こそ脱力し切って、凛子の頭のすぐ脇の床にみずからの額をつけた。
「───────ほんとうにここまで伝わっていないとは夢にも思っていませんでしたよ……」
耳元で聞こえるその声に、凛子の脳裏に由風の言葉がよみがえる。
『ヘタレとは思うが、それ以上に力いっぱい同情してんだよ』
あれってそういう意味だったの!?
神崎どころか由風まで全身脱力しそうな鈍さである。
「なっ だっ どっ …えええっ!?」
「口説きたい相手がいる」って言ってたのって……まさかとは思うけど、あたしのことだったの!? 今日のこともあんなに嬉々として「行く」って言ったのって、相手があたしだったからなの!? 嘘でしょ!?
「──────初めは、中身が好みだと思ってたんですよ。勝気で負けず嫌いで……ああしてみたら、どんな反応が返るだろう、こうしてみたらどうだろうって考えてて。スマートに、主導権はこっちもちでゆっくり口説こうと思って、いろいろ策を練っていたのに。髪を下ろしたら、外見まで超好みのタイプだったなんて、こっちは詐欺としか言いようがないですよ」
初めて聞く、神崎の弱音だった。本音だという根拠はまったくなかったが、普段とまったく違う余裕のなさが、これが神崎の偽らざる本音だということを、凛子に知らしめていた。
「そんな相手が、いきなり酔っ払って目の前に現れた時、俺がどんなに驚いたかわかります!? 警戒心の欠片もなくくっついてくるわ顔を近付けてくるわ、しまいには目の前で服を脱ぎ出すわで、よく理性がもったと思いますよ、あの晩の俺は!!」
「えっ あたしそんなことしたの!? うそおっ!!」
「ええ、そんなことだろうと思いましたよ、翌々日訊いても全然覚えてなさそうでしたしねっ」
神崎の声はもうほとんど恨み節である。
シュル…とみずからのネクタイを緩め────今日の神崎の服装は、会社には着てきたことのないような有名なブランドの洒落たスーツで、それが均整のとれた身体にはよく似合っていた────そのままみずからの眼鏡を外し、今度は凛子の眼鏡をそっと外す。一気に視界がぼやけてしまうが、何故か神崎がどんな表情をしているのか、ハッキリ見える気がした。
「─────だから。もう、我慢はしません。たとえ貴女が嫌だといっても」
ぼやけていた視界が、ハッキリしてきた気が、した。否、気がするだけではない。神崎の顔が少しずつ近付いてきたせいだ。
ああ。眼鏡をかけてなくても、カッコいい人はカッコいいのだな、などと呑気に思っているうちに、神崎の瞼が閉じて。唇に感じる温もりに気付くと同時に、神崎の意図にようやく気付いた凛子は、自分自身の鈍さにようやく納得した。
神崎の苦労は、まだまだ続きそうな気配であった───────。
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