翌週の半ばの帰り道。神崎明人は一人、黙々と歩いていた。思うはやはり、先週末のことである。
まったくまいった。口説くつもりで狙ったことがことごとく外れるとは。あのひとは、自分は完全に俺の守備範囲から外れていると思っているのだろうか。
それは困ると、明人は思う。とにかく、自分を男として認識してもらわなければ、話にならない。それも、ただの異性としてではなく、恋愛対象になりうる異性として、だ!!
そう思いながら駅に向かっての曲がり角を曲がった瞬間、紛えようもないただひとりの女性の後ろ姿が目に飛び込んできた。先週末、本人がアドバイスしてきた通り、花や風景が綺麗な場所に誘ってみるか? それならば、いくら鈍いあのひとでも気付いてくれるだろう。というか、もうそれしかないと思い、一歩踏み出そうとした次の瞬間。脇道のほうから、聞き覚えのある男たちの声が聞こえてきた。
「お、向こう歩いてるの凛子女史じゃね?」
同じ営業部の男性社員たちだ。
「キツいけど、髪下ろすとやっぱ変わるよなー。あれで眼鏡も外せば文句なしなのに。俺、マジで口説いてみちゃおっかな♪」
「高原〜。お前、春先に大ポカして盛大に大目玉食らったくせに、よくそう思えるなあ」
「ああいうタイプは、俺みたいなダメタイプが案外ほっとけないものなんだって。やってみる価値はあると思うぜえ?」
てめえ、勝手なことをぬかすなーっ!! てめーのその春先のポカのせいで彼女の素顔を知るのが遅れた俺が、いまどれだけ苦労してると思ってやがるんだ──────!!
想像の上で高原をタコ殴りにしてやった直後、明人は一目散に走り出す。冗談ではない、これ以上一歩でも他の男に後れをとってたまるものか! あのひとをものにするのは自分だ、他の誰にもその役は渡さない!!
激情のままに凛子のすぐ背後に立ち、一度深呼吸をして。呼吸を整えるのももどかしく、大きく口を開いて呼ぶ。愛しい相手の名を。
「───────凛子さんっ!!」
「きゃあっ!?」
背後から突然名を呼ばれて驚いたのか、凛子が大きな悲鳴を上げる。が、それ以上に大きな声が、凛子が耳元で手にしていた携帯電話から響き渡った。
『凛子──────っ!! 何よ何よ、いまの男の人の声は!? ちゃんといるんじゃない、そういう相手が!!』
興奮しきった声は、どうも年配の女性らしい。凛子の母親だろうか?
「ち、違うわよ、彼は同じ課の人でっ 別に特別に親しいとかそういう訳では…っ」
慌てたように、凛子が言い訳じみた言葉を口にする。
『嘘おっしゃい、何でもない相手が女性を名前で呼んだりするものですかっ!!』
「だからそれは、うちの会社は『鈴木』と『佐藤』が溢れ返っているせいだって前にも……」
『あーはいはい、わかったから、その方も今度の日曜連れていらっしゃい。ちょうどいいわ、年齢的に恋人じゃ何だから、姉の婚約者ですって先方に紹介しましょうっ 料亭の予約もちゃんと一人分増やしておくから、いいわね、ちゃんと連れてくるのよっ!!』
厳命としかいえないような口調で言い切って、相手の女性はそのまま電話を切ってしまった。後には、死刑宣告でも受けた被告のような顔をした凛子と、訳がわからずに呆然とする明人だけが取り残される。
「嘘…でしょ、う……?」
凛子の顔色は、既に蒼白だ。
「あの…もしかして、マズい時に声をかけてしまったんでしょうか………?」
心配になってしまって、明人はいまにも倒れそうな凛子を支えながら、近くの公園のベンチへと移動する。以前凛子が好きだと言っていた缶コーヒーを買ってきて手渡すと、緩慢な動作でそれをひとくち飲んでから、凛子は海より深いため息をひとつ。明人は隣に腰掛けながら、凛子の次の言を待つ。
「──────さっきの電話の相手は私の母で。前に結婚が決まったって言った妹のお相手の家族との顔合わせの日が決まったからって、電話をしてきたの…………」
「ああ、『蘭子』さんとおっしゃいましたっけ」
「私は三人兄妹の真ん中で。兄は既に結婚していて子どももいて。そうなると、母親の懸念は私のことだけみたいで。顔合わせの時に三十過ぎた私だけ独身ですっていうのが恥ずかしいらしくて。妹の結婚が決まってからというもの、ほとんど毎日『そういう人はいないのか』って電話してきて……」
そうか。さっきの電話もその一環だったのか。それにしても、後ろからでは電話をしているなんて、まったく気付かなかった。悪いことをしたと、明人は素直に反省する。
「どうしよう……名前で呼ばれるなんて、神崎くんだけじゃないのに。料亭の予約まで増やすとか言ってるし、改めて電話かけ直したってきっと聞き入れやしないわ、そんな相手なんかいないのに、いったいどうしたらいいの!?」
凛子はもう、パニック寸前だ。そんな凛子を見つめていた明人の頭の中に、ひとつの妙案が浮かぶ。
「なら、僕が行けば何の問題もないじゃないですか」
「はいっ!?」
「実際声を聞かれた当人なんだし、年齢的にも、自分で言うのも何ですが、社会的な地位も将来性も凛子さんには釣り合うと思いますよ?」
「ちょ…っ 神崎くん、自分で何を言ってるかわかってるの!? うちの母親の強引さはハンパじゃないのよ!? 会ったら最後、式場や日取りまで決められかねない勢いなのよ!?」
これからの人生が決められちゃうのよ、それでもいいの!?
いまや泣き出しそうな勢いの凛子の肩を、明人は両手で優しく包んで。嬉しく思う心のままに、最上級の微笑みを見せた。
「凛子さんとなら……本望ですよ─────────」
ふたりの運命が、いま、信じられない方面からの後押しで、鳴り物入りで大きく動こうとしていた。
* * *
「……………」
コーヒーの入ったマグカップを手に、凛子の目前で由風が固まった。
『ちょっと込み入った話があるし、あたしが作るからうちで夕飯食べてかない?』
と誘って、夕飯を食べてから、つい昨日の出来事を全部語った上でのことだった。コトン…と音を立ててマグカップが置かれたのに気付き、由風の反応を見るために顔を上げた凛子が見たものは。滅多に見られないほどに、本気で可笑しそうにお腹を抱えて笑い転げる由風の姿だった。ガタン!と派手な音を立てて床に倒れ伏したので、慌てて駆け寄りかけるが、由風の身体が震えているのは痛みのためでなく笑いのためだと気付いたので、自分の席に戻って自分の分のコーヒーを飲みながら由風が落ち着くのを待つ。
「──────それ。マジの話? 冗談じゃなくて?」
まだ苦しそうにしながらも、何とか体勢を整えて椅子に座り直した由風が訊いてくる。
「世界で一番冗談だと思いたいのは私のほうだけど。すべて、ほんとうの話よ」
憮然として言い切ると、目尻に浮かんだ涙を拭っていた由風が小さく吹き出した。
「たかだかひとこと、名前で呼ばれたのを聞いただけで、いきなり婚約者扱いか……すごいね、あんたのお母さん」
それに関しては、まったく返す言葉もない。兄妹全員、母親に似なかったことを────見た目は別として、だが。凛子と妹の蘭子は、外見は母親の若い頃とよく似ているのだそうだ────神に感謝したいぐらいだ。
「んでどうすんの? あと一日二日しかないじゃん、マジで神崎連れてくの?」
「本人は完全行く気になっているようだけど……」
凛子が一番信じられないのは、神崎の反応だ。行ったら最後、こんな可愛くない女との結婚が待っているというのに、『行く』と断言したのだから。あんなにモテる男性なのに、こんな女と結婚して、いったい何のメリットがあるというのか。
「だーから、あいつ今日あんなに機嫌がよかったのか。一日中いつも以上に満面の笑顔だったから、気色悪いと思ってたんだよな」
「わからないのよ」
「何が」
「神崎くんの気持ちが。『うちの母親は、会ったら最後、式場と日取りまでその場で決めかねないような人間なのよ』って言ったにも関わらず、『本望だ』だなんて……私なんかと結婚して、どんなメリットがあるというのかしら」
そこまで言ってため息をつくと、由風は信じられないものを見るような目で凛子を見た。
「なに?」
「いや、あんたじゃなく……この期に及んでまだ言えてないのかよ、あのヘタレめ」
後半部分は凛子に聞こえないように声をひそめて、由風は呟く。
「あんた、自分が好かれてるかもって選択肢はない訳?」
「誰が?」
「あんたが」
「誰に?」
「神崎に」
今度は凛子が吹き出した。
「いきなり何言い出すのよ、由風。こんなお堅い可愛くない女を、好きになる男の人なんかいる訳ないじゃない」
それは、紛れもない本気。『お前、面白くねえんだよ』と吐き捨てられてフラレたのは、もう遠い日のことだけれど、凛子の心の中には抜けない棘となって深く刺さったままだ。『そんなのそいつが女々しい男だったってだけじゃん』と由風は笑うけれど……凛子にはどうしてもそういう風には思えない。相手ではなく、仕事も相手もすべてを包み込めなかった自分の器が小さいような気がしてならないのだ。
「あんた、自分を過小評価し過ぎ」
そう言われても、持って生まれた性分はどうしようもないのだ。
「じゃあ質問を変えよう。あんたは神崎をどう思ってるのさ?」
「素敵な男性だと思うわよ? 仕事はできるし、人あたりもいいし。モテるのに、誰とも付き合ってないなんて信じられないくらい」
よほど女性の理想が高いのか、それとも自分同様心の傷でも抱えているのか。
そんなことを思いながら前を向くと、由風が頭を抱えているのが目に入った。
「どうしたの?」
「ヘタレとは思うが、それ以上に力いっぱい同情してんだよ」
由風はそれ以上深くは話さなかったので、凛子には意味がわからなかった。その頃、別の家の中でくしゃみをした男性がいたかは、さだかではない。
* * *
そして、顔合わせ前日の土曜日の昼前。掃除も洗濯も終えて一息ついていた凛子は、鳴り出した携帯に気付いて慌てて取り上げる。
「はい」
『あ、神崎ですけど。今日これから時間ありますか?』
明日のこともあるので、あの後携帯番号を交換していた神崎だった。
「え、ええ、あるけど…どうしたの?」
『三十分後にお迎えに上がりますので、出かける支度をして待っていてくれませんか』
「え、どうして?」
『ちょっとお連れしたいところがあるんです。じゃ、また三十分後に』
言うだけ言って切った神崎に戸惑いながら、凛子はのろのろと支度を始める。
いったい、神崎は何を考えているのだろう? 凛子には真剣にわからない。こんな女と結婚してもいいなんて言い出すし、神崎ほどの男なら、詐欺という線も考えにくい。大失恋でもして自暴自棄になっている? ありそうな話だ。
通勤用のものよりはカジュアルなツーピースを着て、今日は完全に下ろしている髪をとかしながら神崎の到着を待つ。もともと癖のある髪なので、全体に軽くパーマをかけて落ち着かせているのだ。仕事の時は、邪魔にしかならないのできっちりと上げているが。
玄関のチャイムが鳴ったので確認してから出てみると、やはり普段よりはカジュアルな格好をした神崎が立っていた。
「社外での姿、初めて見ましたけど…そういう服もなかなかお似合いですね」
「あ、ありがとう」
「では行きましょうか」
「ね、ねえ、一体どこに行くの?」
「行けばわかりますよ」
それしか答えない神崎についていくと、神崎はまったく動じる様子もなく婦人服専門のブティックに入っていく。凛子でさえ入ったことのないそこに入ると同時に、手の空いている店員に声をかけ、ショウウィンドウを指差しながらいくらか会話を交わした後凛子の背中に腕を回し、店員の前に差し出すように足を踏み出させる。
「じゃあ、あとはよろしく」
「かしこまりました。ではお客さま、こちらへどうぞ」
「えっ えっ!?」
訳がわからずに戸惑っているうちに、凛子はあれよあれよと女性店員に試着室に連れ込まれ、物腰はやわらかいが有無を言わせぬ力強さで着ていた服を脱がされ、あっという間にまったく違う服を着せられてしまった。先刻ちらと見ただけだから確証はないが、店員と何やら話していた神崎が指差していた服だった気がする。
試着室のカーテンを引かれ、前で待っていたらしい神崎が振り向いた途端、仕事がうまくいった時とはまた違う、満足そうな笑顔を見せてうんうんと頷いている。
「いかがですか? こちらのお客さまはフェミニンな顔立ちでいらっしゃいますから、こういうデザインは映えると思いますが」
「うん、予想以上だ。この色も、やっぱり似合う」
着せられた服は、淡いラベンダー色の服。普段の凛子だったら、まず選ばないであろうかなりやわらかい印象をかもしだす服だ。
「凛子さんは綺麗なんだから、こういう服も着るべきだと思っていたんですよね。ウィンドウで見た時から、絶対似合いそうだと思っていたんですよ」
凛子には、何が何だかわからない。
「じゃあ、これとあとそこのふたつも一緒に、お会計お願いします」
「かしこまりました」
恭しく神崎の差し出したカードを前に、店員が専用の機械を出すためかカウンターの奥に行ってしまってから、凛子は神崎に詰め寄る。いい加減、沈黙しているのも限界だったのだ。
「神崎くん、これはどういうことなの!? 何故私がこんな着せ替え人形的扱いを受けなければならないの!?」
「女性に、自分が一から選んだ服を着せたいというのは、男の永遠のロマンですよ。女性には理解しがたいかな?」
「答えになってない!」
「だって、僕らは明日は『恋人』、いや『婚約者』同士になるんでしょう? なのに、僕がプレゼントしたものがひとつもないなんておかしいじゃありませんか」
答える神崎は飄々としたものだ。
「だからって、あんな高いものばかり…!」
神崎が他に指し示したのはアクセサリーの類いだったが、それもとても安いとは思えないつくりのものばかりだったのだ。
「まあ、事情は後で詳しく説明致しますから。いまはとにかく、僕の言うとおりにしてください。ね?」
悔しいが、そう言われてしまってはここでは退くしかない。店の中で大騒ぎするのも、他人の迷惑にしかならないということを忘れないほどには、いまの凛子も常識と冷静さを欠いてはいなかった。
「……わかりました。理由はじっくりと後で存分に聞かせてもらうとして。とにかく、着替えてきます」
「そうですね、それは明日、皆さまの前でぜひお披露目してもらいたいですから」
にこにこにっこり。神崎の満面の笑顔に、何だかひっかかるものを感じたが、この時の凛子にはどうしても思い出せなかった。そのことを力いっぱい後悔することになるのは、やはりかなり後になってからなのだけど。
「ありがとうございましたー!!」
最上級の笑顔の店員たちのお見送りを受けてから、ふたりはブティックを後にする。荷物を持ってスタスタと先を歩く神崎に凛子はついていくのが精いっぱいで、この後どこに行こうとしているのか訊くことさえできない。
「さて」
神崎が突然立ち止まって振り返ったので、凛子はその背に危うくぶつかりそうになるのをかろうじて堪える。
「お昼は済みました? まだだったら、最近西尾くんに教えてもらったいい店があるんです。そこに行ってみませんか?」
断る理由もないままそこに行き着いた凛子は、今度こそという思いを胸に、神崎に話しかける。
「……ねえ、神崎くん」
しかし、返ってきたのは予想外の答えだった。
「明人」
「え?」
「恋人、さらには婚約者だというのに、名字呼びはないでしょう? 名前で呼んでくださいよ。僕としては、凛子さんのこともぜひ呼び捨てで呼びたいところなんですが、既にお母上に『さん』づけで聞かれちゃってますからね、仕方ありません」
「だから、私が訊きたいのはそっちじゃなくて…!」
「名前で呼んでくれない限り、何を訊かれても答える気はありません」
「……っ!!」
凛子には、もはや何が何やらわからない。神崎という人間は、こんな人間だったか? 誰よりも大人で、どんな時でも笑顔を絶やさなくて……たとえ由風にケンカを売られても軽くいなすような、そんな人間だと思っていたのに。先ほどの件といい、これではまるで子どもではないか。
「わ…かり、ました。『明…人』さん? これでよろしいのかしら?」
小さな青筋を額に浮かべながら、凛子はその名を口にする。堪忍袋の緒の限界が近いことを自覚しながら。
「まあ、まだ少し固い気もしますが、そのうち慣れるでしょう。はい、何でしょう?」
ようやく本題に入れる。
「どうしてここまでしようという気になれるの? このままいったら、まず間違いなくあなたはこの可愛くない女と結婚する羽目になるのよ?」
「誰が『可愛くない女』なんですか?」
またしても、予想外の答え。
「私がに決まっているでしょう。会社の誰に訊いたってそう答えるに決まってるわ、『お堅い可愛げのない女』って」
直接聞いた訳ではないが、空気で感じることも多々ある。由風と並んで『二大可愛くない女』と、上司が影で話しているのを由風と二人、聞いたこともあるのだ。その時は、怒り狂う由風を止めるのが精いっぱいで、自分は怒る機会を逸してしまったのだが。
「そんなの誰が決めたんですか」
先刻とはまるで違う、真剣な神崎の顔。仕事中にそういう顔を見せることもあるが、それとはまったく違うことは目を見ればわかる。いつもなら余裕を見せているその瞳が、いまは全然笑っていないからだ。
「だ、誰って……見てればわかるわ、誰もがそう思ってるってことは」
思わず気圧されながら、つい視線を逸らしつつ答えると、神崎は実にわざとらしいため息をついた。
「そんな、見る目もない連中と一緒にしてほしくはありませんね。他の人間がどう思おうと、僕から見た凛子さんは誰よりも魅力的だし、可愛い女性ですよ」
「か、からかわないでちょうだい」
気を抜いたら震えそうになる声で、それだけ答えるのが精いっぱいだった。全身の気を張り詰めていなかったら、まるで中高生の少女のように、顔が真っ赤になってしまって何も考えられなくなりそうだったからだ。
嘘だ嘘だ嘘だ。本気にしちゃダメ。真に受けたら最後、手痛いしっぺ返しが待っているに違いないのだから。
『あんた、自分を過小評価し過ぎ』
どこからか由風の言葉が脳裏をよぎるが、聞かなかったことにする。
その後は、差し障りのない話────主に明日のための辻褄合わせだが────をしてから、家に帰る。それから黙々と家事をこなし、明日の準備を整えてから、お風呂へ。
ぼんやりと湯船に浸かっていると、何の脈絡もなく、神崎の真剣な表情が脳裏によみがえる。
「!!」
『他の人間がどう思おうと、僕から見た凛子さんは誰よりも魅力的だし、可愛い女性ですよ』
声までよみがえってきて、思わずぶるぶると頭を振ったとたん、貧血を起こしそうになって、慌てて浴槽のヘリに両手をかけて身体を支える。
ようやく冷静に戻ってから、どうして、と思う。どうしてあんなにもまっすぐに言葉を発せられるのだろう。いまの凛子には眩しくて仕方がない。いったいいつから、自分はこんなにも臆病になってしまったのだろう。『可愛い』なんて、誰にも言われたことなどない。いつだって、そう言われる側の女の子に恋人を盗られる側だった。こんな自分を『可愛い』と思うような男性なんて、現れるはずなどないと─────思っていた。
そこまで考えてから、のぼせそうになって、凛子は浴槽から上がる。
もういい。あとのことはあとに考えればいい。いまはもう、何も考えないで寝てしまおう。
現実逃避としか思えないことを考えながら、凛子はベッドに早々に入って寝てしまったから。あとのことは、何もわからない───────。
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