いつもの週末の朝のはずだった。
カーテンの隙間から差し込む明るい陽の光に気付きつつも、由風はいつものようにベッドの中でまどろむ。昨夜の酒が残っていて頭が痛むが、そんなことはいつものことなのでとくに気にしない。とりあえず、吐き気さえなければ、二日酔いなぞどうにでもなるのだ。
「んー……りんこぉ〜。玉子焼いてよー、こないだ作ってくれたヤツ〜」
正確にはオムレツであるが、ちょくちょく泊まっている家の主で親友である凛子にはそれで通じるはずだった。……平常ならば。
「どういうものかはわからないので、僕自慢のレシピでよければ焼きますが?」
返ってきた声は、予想とはまるで違う低いもので、由風はそこで完全に覚醒した。
ちょっと待ってよ。いまの誰!?
そう思った途端、声の主も同じベッドの中にいるにも関わらず、ベッドがいつもより広いことに気がついた。いつも泊まる凛子の家のベッドは、凛子が一人暮らしのせいかシングルベッドで、二人で寝るにはちとキツい大きさなのだ。まあ、標準体型の成人女性二人ならば、何とか並んで眠ることは可能だが。
「あんた、誰!?」
ガバッ!と起き上がりながら、由風は叫ぶように問いかける。いくら大らかな気性の主といっても、まるで知らない相手と共に朝を迎えて、平気でいられるほど無神経でもないのだ。
「何言ってるんです。毎日顔を合わせているじゃないですか」
すぐ隣に寝転がっていた男が、心外だとでも言いたそうな顔で答える。その顔には、確かに見覚えがあった。
「あんた──────西尾…?」
普段会社で見ている顔とはどこか違う表情をした後輩は、平然とした顔で「はい」と答える。
「そんなことより。丸見えですよ、いいんですか?」
指された先に視線を下ろすと、下着も何もつけずにいる両の胸があらわになっていて、これにはさすがの由風も上掛けを引っ張って思わず隠す。
「ああ、やっぱり由風さんも女性だったんですね。人並に羞恥心を持っていてくれて、ホッとしました」
何を勝手なことを、と言いかけて、はたと気付く。自分が上半身どころではなく、下半身さえ一糸まとわぬ姿であるということに!
ちょっと待て。昨夜は確か凛子と飲んでいて、つぶれかけた凛子を偶然会った神崎に押しつけて、あたしは西尾と飲み直しに行って……そのあとどうした? おいおい、覚えてないってマジかよ!?
「ああ、玉子でしたっけ。簡単に身支度したら作りますから、ちょっと待っててくださいね」
言いながら、西尾はそばにあったらしい自分の下着をベッドの下から拾い上げ、由風に見せないようにして履き直す。
飲み過ぎて、翌朝目覚めたらふたりともマッパでベッドって、どう見ても……ヤッちまった…よな。まあ初めてでもないから、別に大騒ぎするほどのことでもないけどさ。
思わず額に手を当てた由風を見て勝手に勘違いしたのか、西尾はあっけらかんとして答える。
「ああ、避妊のことでしたらご心配なく。どんなに酔ってても、それだけは絶対に忘れないように気をつけていますから」
いや、それもそうなんだけどさと内心で呟きながら、由風も上掛けを胸に当てたまま、みずからの衣類を探す。何しろいまは、凛
子同様仕事がノリにノッている真っ最中なのだ。そんな時に、こんなこと─────それもみずからの意思で行った訳でもないことで煩わされたくはない。
「はい。作ってる間に、お風呂どうぞ。そのままでは気持ち悪いでしょう?」
西尾が差し出してきたのは、洗いたてのものらしいバスタオルとバスローブと、小さい袋に入った歯みがきセット。ホテルなどにあるようなそれに、由風は一瞬、自分はホテルに泊まったのかと勘違いしそうになる。
「あ、ああ…サンキュ」
「他に必要になりそうなものは、脱衣所のチェストの引き出しに入っていますから、好きに使ってください」
「わかった」
脱衣所に入って、服を脱ぎながらチェストの引き出しを開けてみると、女性用のシャンプーやリンス、コットンや化粧水、乳液ま
でしっかり入っているのが目に入った。それを見た瞬間、ここはほんとうに個人宅なのかと由風は疑いたくなった。確か一人暮らしと言っていたはずなのに、ここまで女性用のものが揃っていることから西尾がどれだけここに女を連れ込んでいるのかがわかる気がした。何故なら、特定の相手がいるならその相手専用のものをひとつ置いておけばよいからである。けれど目の前のそれらは、決して一種類のみでなく、どんなタイプの女にでも対応しているように見えた。
ったく。凛子には見せられない光景だわな。
親友の凛子は、西尾のことをあくまでも草食系の穏やかな青年と信じているのだ─────それについては他の女子社員も似たようなものだが、そっちは食われようがどうしようが自己責任の問題で知ったことではないが、凛子にだけは世の中の裏の部分をできるだけ知らないでいてほしいのだ。たとえ同い年でお互いウブな小娘でもないとわかっていても、守りたいものと思うものは確かにある。
女だてらに営業をやっていると、とても口ではいえないようなえげつないセクハラに遭うことも多々あるのだ。
熱いシャワーを頭から浴びると、眠気と酔いの残滓が一気に流されていくような気がする。既に朝ではないことは先刻時計で確認済みだが─────昼との間、普通に午前中の昼間といってもいい時間だ。
全身をピカピカに洗ってバスルームから出ると、先刻まで着ていた自分の服や下着がなくなっていることに気付く。裸体にそのままバスローブを羽織って脱衣所を出ると、西尾はラフな服を着て、玉子を焼いているところだった。
「凛子さんのものにはかなわないかも知れませんが、僕も料理には自信があるんですよ。ぜひ食べてみてください。アレルギー、とくにありませんでしたよね?」
それを聞いて、由風は西尾がいつも自作の弁当を持って会社に来ていることを思い出した。
「アレルギーどころか、好き嫌いもろくにないけどさ。あたしの服はどこにやったんだよ?」
「ああ、いま洗ってますよ」
「なにーっ!?」
下着やインナーはともかく、服のほうは手軽に洗っていい代物じゃないんだぞ、いくらすると思ってやがるんだと反論しかけた由風の叫び声は、その直後の西尾の言葉に遮られた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと表示を見て、それ相応の扱いをしていますから」
こいつ…何者だ?と由風は思わずにおれなかった。いくら最近は手入れが面倒な秋冬物からすっかり夏物に切り替わっているといっても、女の由風でさえも表示の面倒さからクリーニングへ直行が多いというのに。
「さあ、できましたよ。冷めないうちに食べましょうか」
コーヒーも淹れてもらい、トーストとサラダとオムレツの食事を食べる。なるほど、自信があると言った通り、確かに味はかなりいい。凛子も料理上手なほうだが、それにも負けていない。
「……うまいじゃん」
ぽつりと素直な感想を呟く。
「両親を早く亡くして、姉と二人暮らしが長かったですからね。これぐらい、自然にできるようになります」
初耳だった。
「お姉さんは、いまは?」
「五年前に結婚して、いまや二児の母で幸せそうですよ。義兄もいい人だし、甥も姪も可愛いですしね」
「そんなん、初めて聞いたよ」
「あまり他人に言わないようにしていましたからね。人によっては変に気を遣ってきて、かえってうっとうしいことになりかねませんので」
「あたしならいいのかよ?」
「由風さんなら、よけいなことは他人に話さないでしょう? たとえ、親友の凛子さん相手にでも」
お見通しということか。
「…それもあるから、会社じゃ猫かぶってんの?」
「猫はずいぶん前からですね。昔から姉を狙う不埒な連中は多かったですから、将を射んとすれば何とやらで、僕から懐柔しようと見え透いた手を使ってくるんですよ。そういう奴らに、無垢な瞳で『お兄さん、もしくはおじさんていいひとだねっ こんないいひとぼくいままで見たことないよ』なんて言ってやると、大抵の奴は罪悪感からかそれ以上手出ししてこなくなります。それでも退かないような真正の悪党には、それ相応の目に遭ってもらいましたが」
それ以上は西尾は語らなかったが、由風には現在の西尾の片鱗が見えた気がした。
「─────あんたも苦労してんだね」
「そんなもの、本人が苦労と認識していなければ、苦労とはいいませんよ」
「んで晴れて自由となった現在は、女を連れ込み放題って訳か」
まさに悪党としかいえないような笑顔で言ってやると、西尾は顔色ひとつ変えずにけろりと応戦する。
「苦労に対する代価をいまいただいているだけです。あくまでも合意の上なんですから、誰を傷つけてもいませんよ」
「『苦労じゃない』と言った舌の根も乾かぬうちに言い切るか」
フォークをオムレツに刺したまま、きしし…と由風は笑う。会社内でしかろくに話したことはなかったが、なかなか面白い奴じゃないかと、由風は西尾に対するいままでの認識を改めた。
「さて」
空になった食器を手に立ち上がり、流しにそれを置いた西尾は、普段とはまるで段違いの挑戦的な笑顔で振り返る。
「もうじき、洗濯も終わる頃です。服のほうはアイロンもかけてお返ししますから、それを着て帰れば問題ないでしょう。その前に、僕もシャワーを浴びてきますから、そうしたら二回戦のお相手をお願いできますか」
あまりにも予想外の言葉を投げかけられて、由風は勢いよくコーヒーを吹き出す。
「ああっ!? あに言い出すんだよ、あんたはっ 酔ったはずみのあたしじゃなくても、いっくらでもそういう女がいるんだろ!? 欲求不満ならそっちにお願いすりゃ……」
そう答えると、西尾は意外な返答を聞いたと言わんばかりに、軽く目をみはった。
「あれ。昨夜、自分がどんな感じだったかとか覚えてないんですか? 普段からは信じられないくらいにすっごい甘えてきて、ほんとうにほんとうに可愛かったんですよ。もう眠くて仕方ないのに、『もっと〜』って言ってくるのを、『また明日してあげるから』となだめて寝かしつけたの…
覚えてないんですか?」
それを聞いたとたん、由風の顔が噴火した。羞恥のためではない。屈辱のためだ。
「んだとおっ!? あたしがんなこと言ったってのか、嘘ついてんじゃねえよっ この由風姉さん、男を甘やかしたことはあっても、自分が甘えたことは一度もねえやっ!!」
それは、ほんとう。もともと、「俺についてこい」タイプの男が大嫌いだったので、どちらかというと「先輩」「兄貴」などと
慕ってくるタイプとばかり付き合っていた気がする。前述のようなタイプとも関係を持ったこともなくはないが、それはどちらかというと恋だ愛だとかいう問題でなく、どっちが先に音を上げるかという勝負のようなものだった。もちろん、敗北を喫したことは一度もないが。
そのへんのことを思い出していた由風に、西尾が声をかける。
「なら、どっちの言い分が正しいか、確認してみますか?」
「おう上等だ、いくらでもかかってきやがれ!」
「じゃあ決定ですね。残りの用事を済ませてきますから、少々お待ちください」
「おう、とっとと片付けてこい!」
言ってから、何やら釈然としないものを感じるものの、何がとはハッキリわかっておらずに首をかしげる由風の後ろ姿を見ながら、西尾は音を立てずにクスリと笑う。
西尾に嵌められたことに由風自身が気付くのは、まだまだ先の話である───────。
* * *
そして。四人で約束した、週末の食事の日。四人で楽しく談笑しながら、食事は進む。もともと仲がいいほうであり────まあ由風が神崎を一方的に敵視しているきらいもあるが────業務成績も優秀な者同士なのだから、話がはずまない訳もない。
食後のコーヒーを飲んでから、「少々化粧直しに…」とひとり席を外した凛子は、戻ってから愕然とした。神崎以外のふたりの姿が、忽然と消えていたからだ。
「あとのふたりは!?」
「『他に用があるから、そっちはそっちでごゆっくり〜♪』だそうです。僕も止めたんですが」
ため息混じりの神崎の言葉に、凛子はそれが真実であると確信した。絶対、由風の発案に決まっている。
「で、由風さんからこれを預かっています」
言いながら神崎が渡してきたのは、数枚のお札。自分たちの分はこれでよろしくということなのだろう。
「まったくあの子ときたら! 月曜日は説教三昧よっ」
神崎から受け取った札と自分の財布から出した札とを合わせて、お会計を済ませて店を出てから、凛子は左右をくるりと見回す。
「あの子のことだから、いまごろそのへんにいる訳はないわね。まったく……」
「まだ時間も早いし、そのへんを歩いてみませんか。僕もこのへんの出身とはいえ、離れてからもう十年も経っていますからね、いろいろ変わってしまって、まだ戸惑っているところなんですよ」
言われてから、凛子もはたと気付いた。そういえばそうだ。神崎は、入社早々他県の支社に回されたという、異例の経験の持ち主だったのだ。
「もし差し支えがなければ、訊いてもいいかしら? どうしてその…」
「普通ならそのまま地元に配属されるのにって?」
神崎はまるで気にしていないらしい。
「研修の時に、上司の間違いを指摘してしまったからですよ。恥をかかせないようにと皆の前でなく一対一の時に伝えたにも関わらず、ね」
「まあ!!」
これには、正義感の強い凛子は憤ってしまった。
「いったいどの人なの!? 私たちと神崎くんは同期よね、てことは私たちもその上司に研修を受けたってことよね。十年前のこととはいえ、許せることではないわ!」
「いえ、いいんですよ」
対する神崎当人は涼しい顔だ。
「何故!?」
「その上司、その後もっとヤバいミスを犯して、僕よりもっと遠い支社に飛ばされたって、風の噂で聞きましたから」
予想外の返答に凛子は思いきり吹き出してしまう。
「やあだ、もうっ 他人に不当な扱いをするような人には、やっぱり天罰が下るのね、あーおかしい。他人の不幸を喜んではいけないけど、やっぱり笑ってしまうわ」
くすくすくす。普段の会社での鎧も脱ぎ捨てて素で笑い続ける凛子の背や肩に、神崎の手が瞬間回りかけていたことを、凛子は知らない。
「でも、十年間もよく耐えられたわね。私なら、その前に辞めてしまったかも知れないわ」
「凛子さんなら辞めないでしょう、由風さんも。『仕事で見返して、いつか絶対こっちに帰ってくるんだ』という思いを胸に、必死で頑張ってきましたから。いまとなっては、帰ってきてほんとうによかったと思いますよ。家族や友人たちとも気軽に会えるようになりましたし………何より
も、凛子さんに出会えたから」
それを聞いた瞬間、凛子の手が神崎の背を思いきりたたいていた。
「やあだ、神崎くんてば。褒めてももう何も出ないわよっ やっぱり営業さんは口がうまいわね」
「…本気なのに」という神崎の呟きは、凛子の耳に届かない。
「そういうことは、口説きたい女性に言ってあげるものよ。由風みたいにひねくれた相手でもない限り、神崎くんみたいな素敵な人にそんなこと言われてぐらつかない女はいないもの」
「なるほど。実際の女性の言葉は勉強になります。あとは? 女性として、異性に言われてみたい、またはされてみたいこととは?」
「そうねえ、いまはともかく涼しくなりかけた頃なら、上着とかさっとかけてくれるとか…ああでもこれは春先か秋頃が効果的ね。
もっと寒い時だと、嬉しいより相手に風邪をひかせちゃうって気持ちのほうが強くなっちゃうから。マフラーとか手袋みたいな小物ならいいかも。ひとつの手袋をふたりで片方ずつ使って、残りの手はつないで彼のポケットの中とか。たまに見かけるけど、微笑ましいのよね」
「なるほど。これからの季節に有効なのは何かないですか?」
「あら、神崎くん口説きたい相手がいるの? そうねえ、これからなら……綺麗なお花がいっぱい見られるところに誘うとか、まだ早いけど、海とか川とか綺麗な風景の場所に誘うとか……まだそんなに親しくない間柄なら、泳ぎに行くより風景を見に行くほうがいいかもね。着替えなきゃいけないような場所は、やっぱりもっと親しくなってからでないと。ああ、花火見物なんかもいいかもね」
「勉強になります。で、凛子さんはそういう相手がいらっしゃるんですか?」
「私? そんな人がいたら、妹の結婚にかこつけて親にせっつかれはしないわよ…ふふっ」
思わず遠い目をしてしまう。
「ああ、失礼しました。そんなつもりじゃなかったんです」
「まあいいわ。神崎くんなら、悪気がないのはわかってるから。だから、気にしないで」
にっこり笑ったその瞬間に、神崎の手がまたピクッと動きかけたことを、凛子はやはり知らない。
週末の繁華街の中は、やはり人がいっぱいで。人にぶつからずに歩いて行くのは、なかなか至難の業だ。すれ違うカップルは仲よさそうに腕を組んでいたりするが、そんな関係ではない自分たちがする訳にもいかず、神崎とは微妙な距離感を保って連れ立って歩き続ける。時折、神崎が「あ
そこ以前は○○でしたよね」などと声をかけてくるのに答えながら。
ああ。やっぱり神崎くんはいい声してるなあ。ちゃんと歌ってるとこ、聴いてみたいかも。
「ねえ? もしよかったらでいいんだけど、これからカラオケとか行ってみない? 一時期の流行もおさまったし、週末の夜でも入れるところがあると思うのよね」
「え? いきなり何でですか?」
「だって、神崎くんていい声してるんだもの。前に送ってもらった時にも感じたけど、できればずっと聞いていたいくらい。ちゃんと歌ってるとこも聴いてみたいなあって思ったの」
「そうですか? そういえば、時々電話で声を褒められたりするなあ。とくに女性に。女性受けしやすい声なんですかね?」
「そうかもね。でもいいじゃない。悪いよりいいほうがいいに決まってるもの」
「そうですね。なら、口説く時には声を有効に使ってみようかな」
「いいんじゃない? 耳元で囁かれたりしたら、あたしなんてすぐ落ちちゃいそう」
それを聞いて、神崎の目がキラリと光ったことに、凛子はやはり気付かない。
そうしてふたりは、すぐに入れるカラオケ屋を探し出して入った訳だが、神崎が懸命に愛する女性に向けて歌う曲ばかりセレクトしていることに、凛子は「口説く練習をしているのだ」とばかり思って、まるで気付かなかったことも追記しておく。
そして月曜日に由風に首尾を訊かれ、正直に答えたところ、また「ヘタレ」扱いされたことも。まったく報われない男である。
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