翌朝。凛子はいつものように決まった時間に起き、いつものように朝食を作って食べ、いつものように身支度を整えて家を出た。いつものように電車に揺られ、いつものように同じ駅で降りて、いつものように会社に向かう。
見た目はいつもとまったく変わりがなかったが、その内面は嵐といっても過言ではない状態が続いていた。
神崎くんに会ったらまず謝らなきゃ。ホントにみっともないところばかり見せてしまったもの。ああー、蘭子のことがあったとはいえ、何であんなに飲んじゃったの、あたしっ
強く決心をして、オフィスに向かったのだが。神崎は急な呼び出しを受けて、取引先に直行してから出社するとのことで、始業時間を大幅に過ぎるまで姿を現すことはなかった。その電話も愛理が受けたので、凛子自身はまだ神崎と直接話してはいない。せっかく始業時間前にかけてくれたのにと、凛子は口惜しくて仕方がない。凛子のポリシーとして、就業時間内に必要以上の私語を行使することは許されないことなのだ。だから。
「おはようございます。凛子さん、さっそくですがS社さんの売上計上についてなんですが」
顔を合わせると同時に仕事の話を持ちかけられてしまっては、完全にそっちモードで受け入れることしかできないのだ。
「はい、何でしょう?」
それでなくても神崎と組んでする仕事には無駄が一切なくて、由風にも負けないくらい一緒に仕事をするのが楽しいのだから。自他共に認める優秀さを誇る凛子にとっては、もはや快感といってしまってもよいぐらいだ。
「…最近の傾向からすると、次にはこのへんの商品をおすすめするのはどうかしら」
「実は僕もそう思っていました。凛子さんのお墨付きなら、僕の勘も間違ってはいなかったということですね。また明後日アポをとってあるので、資料を揃えておきます」
「さすが、神崎くんは隙がないわね。わかりました、それまでに見積もりも出しておきます」
「お願いします」
などと会話をして別れてから、凛子の私的な部分がハッとする。
あああ、仕事の会話ならこんなにスムーズにできるのにっ 変なところで生真面目な自分の性分が恨めしいわ。
てきぱきと仕事を片付けながら考える。どうしたら、できるだけ早く就業時間外にプライベートで話せるか。なおかつ、他の誰かの目につかない場所でとなると─────何せ凛子にとっては恥でしかない行動に対しての謝罪なのだ、できるだけ他人に知られたくはない─────どこがよ
いだろう。適切な場所と時間を選択し、手早くメモに書き込んで、他の書類にクリップで添付してから神崎の元へと向かう。
「S社さんの売上計上です。確認をお願いします」
神崎の視線がメモのあるあたりに注がれるのを確認してから、凛子は席に戻る。後は、メモに記入 した通り─────昼休みになってすぐ、屋上に向かうだけだ。その頃なら、昼食を屋上で食べる社員もまだ到着してはいないだろうとふんでの判断だ。恥ずか
しくて仕方がないが、人として、そしてやらかした本人としてつけなければならないけじめだ。頑張ろうと凛子は内心で気合を入れていた…のだが。
「金曜の晩は、ほんとうにごめんなさい」
目前の神崎に深々と頭を下げながら、凛子は心からの謝罪の言葉を口にした。
「可愛がっていた妹の結婚が決まったからといって、荒れていい理由にはならないものね。ほんとうに、ほんとうにご面倒をおかけしました」
しかし神崎はけろっとして答える。
「いえ別に? 誰だって、自棄酒を飲みたい日ぐらいありますよ。もし気分が悪くなってしまっていたら、いろんな意味で大変だったと思いますが、そういうことでもありませんでしたしね。ただ、女性しかいない時に酔いつぶれるのはかなり危ないと思うので、その点だけ気をつけていただければ」
「そうね。そのへんに関してもホント気をつけます。神崎くんと西尾くん? に会えてなかったら、由風と二人、どうなっていたことか」
昨日今日に酒を飲み始めた若い娘でもあるまいし、女性としての危機感は忘れてはいけないと、凛子も思う。
「あ、当日のことはあまり覚えていらっしゃらない?」
「部分部分は覚えているのだけど……覚えていないことのほうが多いかも」
正直に答えると、神崎は感情の読み取れない表情を一瞬見せてから、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「─────そうですか。まあ、あまりお気に病まないでください。西尾くんもあまり気にしていないようでしたから。さ、食事に行きましょう。時間がなくなってしまいますよ」
あまりにも。あまりにもあっさりと話を切り上げられたので、凛子は拍子抜けしてしまった。自分にとっては恥以外の何物でもなかったあの出来事も、神崎にしてみればほんとうに大したことのないことだったのか。
神崎の後に続いた凛子は、後で西尾にも謝らないとという考えで頭がいっぱいになっていたから、神崎が口内でこぼした呟きにはまったく気付かなかった。
「こっちの姿でなら、平然としていられるんだけどなあ…」
その日の帰り道。由風と共に歩いていた凛子は、先に出た神崎の後ろ姿を認め、ひとつの案を思いつく。
「ねえ、由風」
「何?」
「神崎くんと西尾くんに、お詫びに食事でも御馳走しようと思うんだけど、どう?」
「それって、あたしにも金出せって意味?」
「当たり前でしょ、二人して迷惑かけたんだからっ 西尾くんは近くにいないみたいだけど、神崎くんだけでもいま声をかけてさ」
「しゃーないなあ」
不承不承といった体だが由風も納得したようなので、凛子はさっそく神崎に声をかけた…が。振り返った神崎は、凛子の姿を認めた途端明らかに狼狽してみせた。
「……神崎くん? どうかした?」
「あ、いえ、何でもありませんっ どうかしましたか?」
あまりにもいつもの神崎とは違って見えて、凛子は驚きを隠せなかったが、とりあえず先ほどの提案を口にしてみせた。
「そ、そんなに気にしないでもいいんですよ」
「でも、それじゃ私たちの気が済まないのよ」
「あたしは別にいいんだけどさ」
横で罪悪感の欠片も感じさせることなく言う由風の肩を、みずからの肩でつついてから、凛子はさらに言い募る。
「できたら西尾くんも一緒のほうがよかったんだけど、いま思いついたばかりなのでとりあえず神崎くんだけでもどうかなって…」
西尾も一緒にという部分に力を得たように、神崎は立て板に水とばかりにまくしたてる。
「いやあ、お誘いは嬉しいのですが、今日はこれからちょっと用がありましてっ 凛子さんがそこまで言われるのならば、西尾くんと一緒に場を改めて、ということで」
「あ、ご用があったの? ごめんなさい、引き止めちゃって。わかりました、西尾くんの都合も訊いて、また改めて決めましょう」
「はい、そうしていただけると助かります。じゃ、また明日!」
言うが早いか、神崎は一気に走り出して、数秒のうちに後ろ姿すら見えなくなってしまった。
「あら…ほんとうにお急ぎだったのね、また悪いことしちゃったわ」
自嘲の響きを隠すでもなく呟いた凛子の隣で、それまで黙ってなりゆきを見守っていた由風が怪訝そうに眉根を寄せて、そっと口を開いた。
「急いでるっつーか、あれは何つーか……」
「何?」
何かを答えようと再び口を開いた由風は、思い直したように言葉を止めた。
「あー…いや、何でもない」
「何よ、変なの」
この時点で、何も気付いていないのは凛子ただひとりであったことを、やはり凛子だけが知らないのであった。
* * *
何故このような事態に陥ったのか。どれだけ考えても、神崎明人にはわからなかった。
凛子と由風から食事の誘いがあったのは、二日前のこと。そして今朝、西尾の都合がついたということで、週末に四人で食事に行こうと改めて誘われ、もう逃げるすべもなかった神崎は、了承の意を唱えることしかできなかった。
いっそのこと、ずっとあの姿のままだったなら、自分も平静でいられるのだが。
そう思わずにいられない。
そんなことを考えながら、営業先から会社に向かって歩いていたから、偶然通りかかった由風が声をかけてきたのに気付くのが遅れた。
「何ボーっとして歩いてんのよ、らしくない」
「あ、いえ…少々考え事をしていたもので」
由風相手にだったら、平常の状態でいられるのに。
「まあいいや、ちょっとコーヒーでも飲んでかない?」
帰社予定時刻にはまだ余裕があったので、神崎はふたつ返事でその提案に応じた。社内の女子の間で評判がいいという喫茶店に入り、それぞれ好みのものを注文する。注文の品が来たところで思い思いにミルクや砂糖を入れて、まずは一口。
「……あんたさー」
「はい?」
「凛子に惚れてるっしょ」
「!!」
予想もしていなかった爆弾発言を突然投げかけられ、神崎は思いっきりむせてしまった。口元を手でおさえて派手に咳き込んでしまう神崎を冷ややかに眺めながら、由風は膝を組んで優雅にコーヒーを味わっているようだった。
「な…っ 何を言い出すんです、突然!」
「ばーっか、見てりゃバレバレだっつの。あ、ちなみに西尾もばっちり気付いてるよ。あいつもあんな人畜無害な顔して、腹黒だからね」
「それは知っていますが……」
課の他の皆────それにはもちろん凛子も含まれる────は気付いていないようだが、あの青年はああ見えてなかなかの策士だということは、神崎は会って間もなくに気付いていた。それが彼の処世術なのだろうなと思い、他の誰にも話したことはなかったが。さすがに由風は鈍くはなかったということか。
「て、ヤツのことはいまはいいのよ。本題は凛子のことだよ」
「凛子さんが何か?」
答えた途端、由風は再び冷ややかな視線を向けてきた。
「家まで送っといて、何もしなかったんだって? ばっかじゃないの、ヘタレにもほどがある」
そうきたか。というか、それは男が言うセリフではなかろうか。
「凛子みたいな恋愛には鈍いタイプは、とっとと既成事実でも作っといたほうが話が早いってのにさ」
「お言葉ですが、正気でない女性をどうこうするほど落ちぶれるつもりはありませんのでね」
コーヒーを再び口に運びながら、笑みを浮かべて答えると、由風が露骨に顔をしかめて見せた。
「あにカッコつけてんだか。凛子の素顔初めて見た途端にうろたえるような男がえらそうに」
吐き捨てるような言葉に動揺しつつも、何とか表面上は平静を保ってみせる。が、内面は暴風雨で荒れ放題だ。
それに関しては、もう返す言葉もない。確かに、初めてオフィスで顔を合わせた時から、内面は自分の好みのタイプそうだと思ってはいた。共に仕事をしてみて、少々厳しいリミット付きの案件を依頼してみたところ、案の定難色を示したので、「ああやっぱりそうですよね、お忙しいのに無理を言ってすみませんでした」と、ある程度以上のプライドの高さを持ち主ならば火がつくに違いないセリフを口にしたところ、即座に「『できない』とはひ
とことも言っていないでしょう!」と返して、見事リミット寸前に仕上げてみせたあの姿を見たら、もう惚れずにはいられなかった。この負けず嫌いの勝気な女性を、どんな手を使って落とそうかとあれこれ画策することは、最近の神崎のもっとも楽しい趣味ともいえることだった……のに──────。
一皮むいたら、外見まで理想のタイプだったなんて、詐欺もいいところだよな。
椅子の背もたれに背を預けながら、神崎は深く深くため息をつく。以前会社のそばで見かけたあの女性が凛子だったなんて、予想もしていなかった展開だ。
「………………」
「いつどうやって落とすのか、一番近くでばっちり見せてもらおうと楽しみにしてたってのに、こつまんない」
神崎のナイーブな一面も理解しようともせずに、あまりにも身勝手な言い分を繰り出す相手に、これにはさすがの神崎もムッとしたので、間髪いれずにカウンターをお見舞いしてやる。
「そこまでおっしゃるということは、そちらはあの後西尾くんとさぞ熱い夜をお過ごしになったことでしょうねえ」
…今度は、由風がむせる番だった。
「てめ…! 西尾から聞きやがったのか!?」
由風は既に噴火寸前だ。
「いいえ? 西尾くんがここ数日実に楽しそうなので、カマをかけてみただけですが。図星でしたか」
由風の、隠す気もなさそうな舌打ちの音が聞こえる。
「…そのこと。他の誰か、たとえ凛子にでもバラしやがったら、てめえただじゃおかないからな」
紛れもない明確な殺意を見せながら告げる相手に、神崎はまるで動じることなく答えた。
「そうお思いでしたら、こちらの事情も放っておいていただけませんかね」
もう既に仮面を脱ぎ捨てて、本性をさらけ出して持ちかけると、相手も忌々しげな表情を浮かべたまま背もたれに体重を預けた。
「しゃーないな。痛み分けってとこか」
苦々しい顔でため息をつきながら、由風は呟く。神崎と凛子のことに関してよけいなちょっかいを出せば、みずからの不都合にもなりかねないということを、ようやく理解してくれたようだ。
それにしても、と神崎は思う。
まさか、この年になって中学生の青春みたいな青臭い恋愛劇の登場人物になろうとはね。
自嘲のため息をつきながら、天井を仰ぐ。できることなら、ここで煙草の一本も喫ってみたいところだが、血縁者のひとりをヘビースモーカー&肺がんのコンボで亡くしたことのある神崎には無理な相談だった。
神崎の苦悩を、凛子はまだ何も知らない────────。
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