「うっそ、だろ〜……」
凛子を抱えるようにして支えていた男が、脱力し切った声で小さく呟くのを、半ば眠りの世界に旅立ちかけていた凛子の耳は、しっかりとらえていた。
「なにがうそなのお〜?」
普段の凛子であれば決してしないような、無邪気な表情のまま男の顔を覗き込むと、男がすさまじい勢いで凛子の顔からみずからの顔を遠ざけた。その態度が妙に癪に障って、更に顔を近付けて迫ってみせる。
「なーによお、あたしの顔が嫌だっていうのお〜?」
これまた常ならばやらないようなふくれっ面をして言うと、男は信じられないものを見る目で凛子を見返してきた。
「─────ほんとうに。あの、凛子さんなんですか……?」
半信半疑の声だった。その響きと内容になおさらムッとして、凛子はますます頬をふくらませる。
「あったりまえでしょ〜、他の誰だっていうのよー。鈴木凛子、三十二歳、S本商事株式会社……」
会社での所属まで続けようとしたところで、凛子の言葉は大きな手のひらに遮られた。
「わかりました、わかりましたっ もう疑いませんから、それ以上個人情報を口にしないでくださいっ」
「わかればいいのよっ」
えっへん、と口にこそ出さないままで、凛子は思いきり胸を張った。
「それで…家はどちらですか? 由風さんはW町のほうだって言ってましたけど」
「あたしの家〜? あれ、どっちだったっけ〜」
本気でわからなくて首をかしげたところで、男性が軽くため息をついた。
「わかりました、免許証か保険証を見せていただけますか」
「はいはーい」
重ねて言うが、常と違い現在の凛子は警戒心の欠片も持ち合わせていないため、みずからのバッグをまさぐってまるで印籠のように免許証を突きつけてみせた。男はそれをじっくりと見つめてから、それを持ったままの凛子の手を再びバッグにもぐらせる。
「わかりました。送っていきますから、少し待ってください。タクシーを拾います。週末だし、すぐにつかまるかわかりませんが」
そのまま凛子の体を支えていた腕を組み直し、今度は完全に凛子の体を抱えるようにして男は歩き始める。そのあまりの力強さに、凛子は思わず全身の力を抜いて、男の腕に完全に身を任せた。
「まったく……こんなにへべれけになって、もし僕らが通りかからなかったら、女二人でどうなっていたと思うんですか」
咎めるような響きに、凛子は咄嗟に反論する。
「いっつもこうじゃないもん。蘭子が結婚するなんて言うから悪いんだもん」
子どものように唇を尖らせると、男が不思議そうに問いかけてきた。
「どなたですか、その方は」
「蘭子を知らないとは、何て不遜なっ 蘭子はこの凛子さまの可愛い可愛い妹に決まってるでしょうがっ 姉に似ずホントにホントに可愛いんだからっ 紹介してくれって言ったってもう遅いんだからね、蘭子はもう他の男のものになっちゃうんだから……」
そこまで言ったところで、凛子の脳裏に部分的に現実が立ち戻ってくる。
そうだ。あの可愛い妹は、もう自分たちだけの可愛いあの子ではなくて、れっきとしたひとりの女性となって、これから愛する人と寄り添って生きていくのだ。そう思った途端、凛子の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出す。目前の男がぎょっとするのが視界の端に映ったが、いまはそんなことを気にしている余裕などなかった。
「う…わあああん、蘭子おーっ お姉ちゃんは淋しいよー、お嫁になんかまだ早過ぎるよー、まだまだお姉ちゃんの可愛い妹のままでいてよーっっ」
ぼろぼろぼろ。もう恥も外聞もない。まるで走馬灯のように蘭子との想い出が思い出されて、凛子はもう涙が止まらない。慌てふためいた男の声がなだめるが、それでも涙は止まらない。
「ホントに可愛かったのよー、こんな可愛くない姉の妹なのに、すっごくすっごく可愛かったのよーっ 相手の男になんか会いたくないよー、たこ殴りにしてやりたいーっ!」
子どものように泣きじゃくりながら、凛子は叫ぶ。嗚咽交じりで半ばまともに呂律も回っていないが、それは紛れもない本心。できることなら、顔合わせも結婚式も全部ボイコットしてやりたいぐらいだ。いい年をした社会人として、それは絶対に許されないことだけれど。
「らんこおーっ」
ポケットから取り出したハンカチで涙を拭うが、ハンカチはすっかりぐしゃぐしゃである。それに気付いたらしい男が、みずからのスーツのポケットからスッとハンカチを差し出してきた。
「あ、あじがど〜……」
「─────凛子さんは、可愛いですよ」
その時凛子はティッシュで思いきり鼻をかんでいたので、男の囁きも耳には入っていない。
「ん? いま何か言ったー?」
「…何でもありません」
男の顔が赤く染まっているように見えたのは、果たしてネオンのせいだったのか。いまの凛子には、まったくわからなかった。
そうこうしているうちにタクシーに乗って、男が運転手に行き先を告げる声を聞いているうちに、その低音があまりにも心地よく耳に届いて、凛子はそっと瞼を閉じた。
いい声だなー。どっかで聞いたことあるんだけど、どこでだったっけ。ずっと聞いていたい……低い…声───────。
そこで凛子の意識は途切れ途切れになってしまったから。あとは、部分部分にしか覚えていない。
「凛子さん、ほら。ちゃんとベッドに横になって」
「服がしわになっちゃうー。脱ぐー」
「脱ぐって、ちょっと…!」
上着とタイトスカートを脱ぎ捨てただけで満足して、凛子はみずからの体に掛け布団をかけて横になる。もうほとんど夢の中に旅立ってしまっていたので、何が現実で何が夢の中の出来事なのかわからない。だから。
「……凛子さんは、可愛いですよ。他のどんな女性よりもずっとずっと───────」
囁くような男の声も、優しく頬や髪を撫でる大きな手のひらも、夢だったのか現実だったのか。凛子には、わからない…………。
* * *
翌日の午前中。ずきずきと痛む頭を抱えて、凛子は目を覚ました。
「痛……何でこんな頭痛いの…」
記憶をさらい始めたところで、すぐに昨夜の深酒に思い至って、凛子は大きくため息をついた。とたんに激しく酒臭いみずからの口臭に気付き、思いきり顔をしかめてしまった。
「まいったー……蘭子の結婚がここまで堪えるとは、あたしって本気でシスコンだったのね」
そこまで呟いてから、昨夜の記憶が断片的によみがえる。
…あれ? あたし、昨夜どうやって帰ってきたんだっけ?
誰かに送ってきてもらったことは、覚えている。目覚めたのが見慣れた自分の部屋だったから、そこに気付くのが遅れた。辺りを見回すと、昨日着ていた服がきちんとハンガーにかけられていて、床にはいつものバッグが転がっている。バッグの中を開けてみると、愛用の眼鏡ケースの中にちゃんと眼鏡がおさまっていたので、ホッとしながらかけて、もう一度考える。
由風に送ってもらったのだろうか。長い前髪をかき上げながら玄関に向かうと、玄関のドアの鍵はちゃんとしまっていて、備え付けの郵便受けの中に鍵がちゃんと入っていた。新聞と鍵を取り出しながら、ふと気付く。
「由風って……こんなことするタイプだったっけ?」
凛子の知っている由風は、凛子を送ってから自分の家に帰るくらいなら、そのまま凛子の家に泊まっていくようなタイプのはずだ。現に、翌日目が覚めた時にシングルベッドにキツキツにおさまって二人で寝ていることも何度もあった。まあ、それも二人が極端に太っていない標準タイプの体格だからできることだけれど。
しかし。いま、この家にいるのはどう見ても凛子ひとりきりだ。では、誰が自分を送ってくれたのだろう? 懸命に思い出そうとしても、居酒屋を出てからの記憶はひどく断片的で、思い出せない部分も多々ある。一瞬警察のお世話にでもなっただろうかと思ったが、平常忙しいはずの警察官がご丁寧に家まで送ってくれるはずもない。よくて、せいぜい警察の施設で一泊させてもらえる程度だろう。
となると、やはり由風に訊いてみるしかないか。新聞と鍵をテーブルに置いて、床に転がったままのバッグを引き寄せる。予想通り、携帯はバッグの定位置におさまっていた。そのまま短縮ダイアルを押すと、コール五回ほどで由風が出た。
「おはよう、由風。気分はいかが?」
『飲み過ぎて、頭がガンガンしてるわ〜。あんたは?』
「こっちもよ。吐き気がないのだけは救いだけど。で、ちょっと質問があるんだけど」
『あー、悪いんだけど、こっちもいまたてこんでてさ。あんたの訊きたいことはあらかた想像ついてるんだけど、説明するにはこっちもいま余裕がないのよね。だから、また後でかけ直すわ。じゃ!』
と、言うだけ言って、電話は切れてしまった。あの様子ではかけ直しても、ろくに話はできそうにない。となると、落ち着いて話ができるようになるまで、自力で思い出すしか方法はないということだ。
何はともあれ、とりあえず風呂に入ろうと思い、浴室に向かう。流れ出すお湯を茫然と眺めながら、凛子は深呼吸をしてから記憶をさらい直す。
「……二人ともかなりへべれけになって、最初の居酒屋を出たのは覚えているのよ。その時はちゃんと歩けてるつもりだったけど、由風に結構寄りかかってたのも覚えているんだけど…………」
そこまで考えて、何だか嫌な予感がして凛子は眉根を寄せる。
何だか…思いきり泣き叫んだような記憶が……ある気がする。それも、自分のハンカチでは足りなくて、誰か他人のハンカチも借りたような。ぎくりと身をこわばらせてから、自分が昨日着ていた上着に駆け寄って、そのポケットに片手を突っ込む。夢だと思いたかったけれど、その中に
あったハンカチは、まぎれもなく二枚─────!! しかも、片方はどこをどう見ても男物だ。こんなもの、自分はもちろん由風だって持っているはずがない。では、これはいったい誰のものなのだ!?
そう思った途端、不明瞭だった記憶の一部が突然刺激された。そうだ。確かに、誰か男性に支えられていた覚えがある。何がどうしてか由風が他の誰かといなくなった後に、その相手にタクシーに乗せられて、それから……? 反射的に自分の格好を見下ろすが、昨日着ていたブラウスや
下着のままで、脱いだり着直したりした感じはしない。もちろんその手の経験がない訳でもないが、それでも誰とも知れない相手となんて、冗談ではない。
そのまま、ぺたん…と床にへたり込んでから、凛子は呟く。
「いったい…………」
あたしは、どこの誰に送ってもらったのよ───────!?
凛子の苦悩は、まだまだ始まったばかりであった。
由風から電話があったのは、その日の夜のこと。凛子としてはその場ですべて問いただしたいところだったが、『今日はちょっと疲れたから』と言って、由風は明日の昼間会う約束だけをとりつけて、電話を切ってしまった。思いっきり肩すかしを食らった気分で、凛子はホットミルクの入ったマグカップを傾ける。
二日酔いに効くというしじみの味噌汁その他を食したおかげで、気分はだいぶ楽になっている。明日には頭痛も完全におさまっていることだろう。とにかく、すべては明日になってからだ。明日こそは、由風からすべて聞き出してやる。固い決意を胸に、凛子はいつもより早めにベッドに入って眠りに就いた。
「で? 何がどうしてああなった訳?」
翌日の昼下がり。由風との待ち合わせ場所の喫茶店で、注文した二人分のコーヒーがやってくるのを待ってから、凛子は切り出した。
「その前にひとつ訊くけど、目覚めた時はどこにいた? 誰かと一緒だった?」
平然としたまま、由風が訊き返してくる。
「え? 自分の家のベッド…だったけど? あたし以外誰もいないわよ、鍵も郵便受けに入ってたし」
「んじゃ、格好は? 服とか下着とか、脱いでたりしなかった?」
「スーツは脱いでたけど、下着やブラウスはちゃんと着てたわよ。変なことにはなってませんでした!」
きっぱりと言い切ってやると、由風は途端に眉をひそめて、視線を横に逸らしてから『あんのヘタレ野郎が』とぽつりと呟いた。由風はひとりごとのつもりだったかも知れないが、その言葉は凛子の耳にもばっちり届いた。
「ちょっと由風。何の話してるのよ?」
「何の話って……もしかして、あんた何にも覚えてないの?」
「誰か男の人に送ってもらった覚えはあるけど……他はほとんど、ね」
前髪をかき上げながら、自嘲気味に返す。
「あれま」
「で? その男の人は誰だったのよ? あんたは覚えているんでしょ?」
「つか覚えてないの、多分あんただけよ。向こうは向こうで、あんたのこと誰だかわかんなかったみたいだし、何なのよ、あんたたち」
そこまで言ってコーヒーを一口飲んでから、由風は再び口を開く。
「──────神崎よ」
「え?」
一瞬何を言われたのかわからなくて、凛子は反射的に聞き返す。
「神崎だっての。聞こえてる?」
「かんざき……くん?」
呟きと同時に、見慣れた神崎の顔が頭の中にフラッシュバックする。記憶の中にあった一昨日の男性の顔に当てはめようとするが、どうもうまくいかない。
「あたしはまだ飲み足りなかったしあんたはマトモに歩いてないしさあ、居酒屋出た後どーすっかなーと思ってたところで、神崎と西尾とばったり会って。めんどくさかったんで、神崎にあんた押しつけちったー、悪いねっ」
欠片も悪いと思っていなさそうな顔で、由風はへら…と笑う。凛子が一瞬、どついてやろうかと思ってしまったとしても、彼女に罪はないだろう。
「そういえばあんたは誰かと一緒にさっさとずらかってたわね。あれは西尾くんだった訳?」
「そうそう。神崎よりは一緒に飲むのも楽しいかなーと思って」
「そりゃあ、西尾くんはいま流行りの草食系って言われるぐらい、穏やかでいい人だと思うけどさ」
その言葉を聞いた瞬間、由風が再び呟いたが、今度は凛子の耳には入らない。
「みんな騙されてるよなあ……」
「で? あんたはその後はちゃんと家に帰れたの?」
「ん? まあ……」
何だかいつもの由風と違い、どうも歯切れが悪い。
「由風?」
「いや、何でもないよ。それよか、あんたのほうはどうだったのよ? まっすぐ帰っておしまい?」
「多分ね。タクシーに乗った記憶もあるし、ちゃんと家に帰ってベッドで寝てた訳だし」
「…んだよ。あいつもせっかくなんだから、据え膳くらい食っちまえばいいのに……」
そこまで言ったところで凛子から発せられる怒りのオーラに気付いたのか、由風が慌てて話題を変えた。
「そ、そういえばさあ、あいつって何であんたのことわかんなかったの? 歓迎会だってあったじゃん」
確かに、髪をきっちり結い上げるスタイルは、仕事の時にしか見せないスタイルだ。
「神崎くんたちの歓迎会の時は、高原くんがトラブル起こして、オフィスに一人連絡係が残らなきゃならなかった時だったの、覚えてないの?」
そんな状況だったので、課長には歓迎会のほうの責任者として行ってもらって、一番キャリアの長い凛子が残ったのだ。あの時は大変だったと、凛子はしみじみと思い出す。無事に片付いてくれて、ほんとうによかった。
「てことは、あんたのプライベートの顔を、あいつは知らなかったってことか。そりゃあいろんな意味で驚いたことでしょうよ。あんた、外見だけじゃなくて態度まで全っ然普段と違ったしねえ?」
にやにやにや。由風の心底楽しそうな顔に、凛子の記憶の一部が思い出される。
そういえば。すっごい馬鹿みたいに大笑いしてた覚えがあるわ。蘭子の名前を叫びながら、大泣きした覚えも…………。
そう思うと、あの二枚目のハンカチの意味も理解できる。自分のハンカチは涙やら何やらでぐしゃぐしゃになっていたから、神崎が見かねて貸してくれたのだろう。あのハンカチはいま、自宅のベランダで他の洗濯物と一緒に風にはためいているはずだ。
自分の醜態を思い出すと、もう顔から火が出そうだ。明日にはまた、会社に行かねばならない。神崎と顔を合わせたら、いったいどんな顔をすればよいのだろう!?
などと、凛子は自分のことで頭がいっぱいになっていたから。自分の対面で、由風が安心したようにため息をついたことに、気付くよしもなかった。
四人の運命は、まだ動き始めたばかりであった……。
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