〔5〕





 工藤の知っている店だというそこは、少々入り組んだ道の奥にある、こじんまりとしたバーだった。カウンター席に並んで座り、凛子はバーテンが作ってくれた何杯めかの水割りを飲みながら、ほうと息をついた。

「……少しは落ち着いたか?」

 隣に座る工藤が言うのに、こくりと頷く。

「そういえば…工藤くんと飲むのって、初めてだったわね」

「高校卒業以来、会ってなかったもんなあ。しっかし、たまげたよ。たまたま受け持ったクラスの生徒の一人が、お前の妹だったなんてさ。歳の離れた妹がいるとは聞いてたけど、まさかビンゴで出くわすなんて思わなかったし」

「こっちだってびっくりしたわよ。その次の彼氏と別れたばかりの頃に、いきなり蘭子から名前を出されるんだもの」

 あの頃は、例の元カレと工藤とのあまりの別れ方の違いが悲しくて、思い出しては涙がこぼれそうになるのを堪えていたっけ。そしていまはまさか、その元カレをふっきらせてくれた明人とのことで涙が溢れそうになっているのを、工藤に慰めてもらっているなんて。皮肉なものだと凛子は思った。

「携帯……ホントに電源切ったままでいいのか? 相手の奴、いまごろ必死に捜してるんじゃないのか」

「言わないで…………」

 もしかしたら、彼女とのことはほんとうに誤解なのかも知れない。麻美香も言っていた通り、彼女の策略にはまってしまっているのかも知れない。それでも。いまの凛子には、明人と真正面から相対する勇気が出せなかった。臆病だと、自分でも思うけれど。

「歳をとったせいかな。何だか、お前が昔より臆病になった気がするよ」

 自分でも思っていたことをずばり言い当てられて、凛子はどきりとする。

「……そうかもね。昔は、進路が違うってだけで平気で別れられたのに…いまは怖いの。もし、あのひとに別れを切り出されたらって……そう思うだけで、もう、独りで歩きだせる自信がないの」

「その気持ちはわかる気がするけどな」

 あの頃─────工藤と付き合っていた頃は、ほんとうに何も怖いものなどなかった。たとえ失敗しても、もう一度ぶつかっていく勇気がいくらでも持てた。だから、男子を相手にしても、教師を相手にしても、一歩だって退くつもりなどなかった。

「『ベルリンの壁』と呼ばれたお前はどこ行っちまったんだよ?」

 からかうような工藤の口調に、凛子の頬がかあっと熱くなる。

「やめてよ……そんな、恥ずかしいあだ名は。本家の壁だって、とっくの昔になくなっちゃったじゃない」

 そう。とっくの昔になくなってしまった本物のそれと同じように、凛子の心を頑強に包んでいた壁は、いまやとっくに砕け散ってしまっている。明人という、たったひとりの男性のおかげで。「雰囲気がやわらかくなった」とよく言われたが……いまとなっては、それがよかったのかどうかもわからない。どうせまた独りで生きていかなければならないのなら、いっそ以前のまま、鎧のようにガチガチに心を固めていたほうがよかったのかも知れない。

「こんなことになるなら……いっそのこと、出逢わなければよかったのかな」

 それだけ呟いて、凛子はそっとカウンターに顔を突っ伏して……目を閉じてしまったから。後のことは、もう何もわからない───────。


 それから、どれほどの時間が経ったのか。

どこからか聞こえてくる水音で、凛子はふいに目を覚ました。横たわった身体の下にあるのは、やわらかなマットとパリッとした感触のシーツ。確か自分は、バーの固いカウンターテーブルの上に顔を伏せていたのではなかったか? いくつもの疑問符が頭の中で回り始める。起き上がり、みずからの身体の上に掛けられていた上掛けをどけてみると、着ていたはずの上着もスカートもなく、ただ下着とブラウスを羽織っているだけ。驚いて辺りを見回すと、ベッドの脇のサイドテーブルの上に自分の眼鏡が置いてあったので、それをかけて改めて見直すと、明らかに普通のビジネスホテル等とは違う室内の様子が目に入った。

部屋の中の調度の何もかもがどう見ても安っぽいそれでしつらえてあり、そんな部屋の様子には確実に既視感があった。見覚えがある、という意味ではない。明らかに寛いだり眠ったりするための部屋というより、ある行為を目的としている部屋─────ハッキリ言ってしまえば、ラブホテルの一室にしか見えないようなそれだったのだ。自分が眠ってしまった間に、工藤に連れられてきてしまったのだろうか? そういえば、自分のことで精いっぱいで、工藤にそういう相手がいるのかどうかさえ訊くのを忘れていたことを思い出した。記憶をさらってみても、工藤の両手の指には指輪ひとつなかったような気もするし、車の中も普段特定の女性が乗っているような様子はなかったと思う────もっともこれは、夜で暗かったせいもあってさだかではないが。

10年以上も会っていなかったのに、電話ひとつかけただけですぐ来てくれて、泣きながら話す要領を得ない自分の話を根気よく聞いてくれて、更には飲みにまで付き合ってくれたことから疑いもしなかったが、いまの工藤が昔のように実直なままだと、誰にわかるのだ? 蘭子からは「いい先生だ」としか聞いていなかったが、それがもし表向きの顔だったら? 会っていなかった間に色々なことがあって、プライベートではあの頃とはまるで違う人間性になっていたとしても……何ら不思議はない。いくら凛子が酔いつぶれてしまったとはいえ、昔の工藤のままだったら、ラブホテルなどに連れて行こうとは思わなかったに違いないから─────数時間前の凛子の記憶が確かならば、あのバーの近くには何軒かビジネスホテルも存在していたのだから。その中のシングルの一室にでも放り込んで、心配ならメモなり残しておけば済むことだ。それをせずにこんなところに凛子を連れてきたということは……答えはひとつしかないように思われた。

「……っ!」

 背筋を、冷たい何かが伝ったような気がした。凛子は慌ててベッドから下りて、備え付けのクローゼットの中でハンガーに吊るしてあった、みずからの衣服を身につけ始める。凛子の衣類の隣には、どう見ても男物のコートやスーツが同じようにかけられている。更には、バスルームらしき場所から聞こえてくる水音と物音。逃げるなら、いましかないと思った。できるだけ物音を立てないように身支度を整えて、バッグとコートを手に靴を履いて、極力足音を立てないように歩いてバスルームの閉じられた戸────擦りガラスのような半透明の戸であったので、気をつけないと向こうからもこちらの動きが見えてしまうに違いない。その向こうにいる、肌の色しか全身の色が見えない誰かに気付かれないように、そっとそっと部屋のドアへと向かう。

 いくら、明人との仲が破局の危機を迎えているかも知れないといっても、だからといって自分までまるであてつけのように他の男とこんなことになるなんて、泥沼への入り口に片脚を突っ込みかけているとしか思えないからだ。もう少し…あと数メートルでドアにまでたどり着ける。ほんの数メートルが、いまは何と遠く思えることか。焦る心が注意を散漫にしていたらしく、半透明なドアの向こうの誰かが明らかに何かに感付いたことにも気付かなかった。ドアのロックに手をかけた凛子の手首を、勢いよく別のドアが開く音がした直後、背後から誰か─────どう見ても男の手であるそれがつかみ、抵抗する間もなく自身の胸の中へと引き寄せたのだ!! 悲鳴が、喉の奥で凍りつく。

「ま…待って、工藤くんっ あたしやっぱり、こんなことできないっ あてつけみたいで嫌っていうこともあるけど、やっぱり……何があっても、あたしは明人さんのことだけが好きだから─────!」

 ほとんど叫ぶように言った瞬間、男の手が凛子の手にしていたバッグやコートを薙ぎ払い、半ば力ずくで自分の側を向かせてその胸の中に抱き締めてきた。ろくに身体も拭かずに出てきたのか、湿り気をかなり多く帯びたバスローブの感触が、凛子の顔や身体に伝わってくる。

「お…お願い、やめてっ こんなこと嫌よっ!!

 涙がこぼれ始めるのも構わずに、力いっぱい抵抗を続け……悲鳴にも近い声を上げたところで、凛子の耳に届く、低い声─────本来ならいまここで聞こえるはずのない……誰よりも愛しいひとの、優しい、自分の名を呼ぶ声。

「──────凛子」

!?

 信じられなかった。だって、そのひとがいま、ここにいるはずがないと思っていたから。驚いて顔を上げた凛子の瞳に映ったのは─────いまは眼鏡はないけれど、プライベートでは何度も見た、凛子が間違えるはずもない神崎明人そのひとの顔だったのだから。

「…明人…さん……?」

 震える声が、その名を呼ぶ。

「そうだよ。俺以外の他の何者でもないよ」

「ど…して……」

 ここにいるの? そう続けたいのに、言葉は喉の奥にはりついてしまったかのように出てこなくて……代わりに、瞳から涙があふれ始めて。やっと認識したばかりの明人の顔を滲ませて、何も見えなくさせてしまう。

「もう泣かさないって誓ったのに……俺が油断していたばっかりに、傷付けてたくさん泣かせてしまって……ほんとうにごめん──────」

 夢かと思ったけれど、夢じゃない。まぎれもない現実だと認識したとたん、涙が止まらなくなって。明人に眼鏡を外されたのを合図に、その広い胸の中に顔を埋めて……力の限り、抱きついていた。凛子の眼鏡を脇に置いた明人が、力強くみずからの背を抱き締めてくれることに気付いた瞬間、もう堪えることもできなくて。まるで小さな子どものように、声を張り上げて泣き続けた。あれだけ流したのに、どこにまだこんなにも水分が残っていたのかと思うほどに、凛子はいつまでも涙を流し続けていた…………。




                *      *




 凛子の姿を求め、真冬だというのに明人が汗だくになりながら夜の街を疾走していた頃。凛子専用にしていた着メロが、携帯から鳴り響いてきたことに気付き、明人は一瞬幻聴かと我が耳を疑った。何故なら、そのしばし前に電話をかけて呼び出している最中に相手の携帯の電源を切られたことは、彼の精神に多大なる絶望感を与えた事実だったからだ。

 ポケットから携帯を取り出して、ディスプレイを確認するが、凛子の携帯からの着信に間違いない。それを認識したとたん、オンフックボタンを押して、慌てるあまり手から落としそうになりながらも何とか耳に当てる。

「もしもしっ 凛子かっ!?

 周囲を歩く人々が振り返るのも構わずに、大きな声で呼びかける。けれど、相手から返ってきた声は、愛しくて仕方のない恋人のものではなかった。

『─────よう。色男』

 低い、凛子とは似ても似つかない…まぎれもない男の声。一度も聞いたことのない声だった。凛子と自分の近くにいる誰の声でもない……まったく知らない男の声だった。

「誰だ、貴様」

 嫌悪を感じる心を隠すこともせず、不機嫌そのものの声で答える。知らない番号などからの電話なら、何も気にする必要もなく、ただ通話を打ち切れば済むことだ。けれど、男が使っているこの携帯自体が、誰でもない凛子のものなのだ。それを勝手にかけてきているこの男の元に凛子がいることは、疑いようのない事実で……。

凛子自身がどういう状況下にいるのかはわからないが、この男が力ずくで取り上げたりした訳でもない限り、凛子は明人が知らないこの男の元で、無防備に酔いつぶれるか眠るかしているということで─────平常の状態なら、凛子が他人に携帯を貸すなどということは考えられないからだ。そんな状態の彼女を、いつまでもよその男の元に置いておくなんて、我慢ならなかった。しかもこの男がもしも一馬が目撃した相手でなかった場合、凛子は複数の男の元にいるということで……凛子の身に何かあったらと考えるだけで、もう気が狂いそうになる。

『俺? 俺は工藤ってんだけど、聞いたことないか?』

 工藤? そんな名前は聞いたことがない。この言い方だと、少なくとも仕事関係ではないし、凛子や由風の口からも聞いたことのない名だった。

「知らないな。それより、凛子は無事なんだろうな。何もしていないだろうな!?

 威嚇を兼ねて告げた言葉に、携帯の向こうで男が笑う気配。

『おいおい、俺は誘拐犯かっての、人聞きの悪い』

「似たようなものだろうが」

 明人からわからないところに凛子を車で連れ去って、更に嘲るかのように電話をかけてきたような男に、神崎が好意を抱けるはずもない。そして、とどめとばかりに明人の嫌悪感─────否、憎悪といってもいいかも知れない─────を煽ったのは、男の次の発言だった。

『こいつ……凛子の、初めての男だよ。ああ、いまの恋人になんか話せるはずもないか』

 故意になのか、楽しそうな笑い声がより明人の神経を逆なでした。憎しみの感情だけで他人を殺すことができるなら、いますぐにでも殺してやりたいとまで明人は思った。そりゃあ、明人同様、凛子にだってこれまでに複数の恋人がいてもおかしくはない。話に聞いたことがあるのは、大学時代から就職して二年ほどまで付き合ったという男のことだけで……他の男のことなど、聞いたことはなかった。凛子も話そうとはしなかったし、明人もあえて聞こうとはしなかったからだ。過去なんて、もうどうでもいいと思っていたから。

 けれど、それは体のいい建前だったことを、いま思い知った。自分は、ただ知りたくなかったのだ。自分より前に、凛子の心を占めていた相手の話など!

『凛子のことを怒る資格なんか、お前にあるのかよ? 元カノに振り回されて、婚約までしたこいつをさんざん泣かせた野郎がよ』

「……っ!」

 痛いところを突かれて、明人は押し黙る。それは、確かにそうだった。懸命に頼んだにも関わらず、結果美里にいろいろ暴露され、凛子をいま話している男の元に走らせてしまったのは、確かに自分自身なのだから。もっと、うまく立ち回る方法があったかも知れないのに、結局最悪の形で凛子に過去を知らしめて、明人には想像もできないほど深く、彼女の心に傷を負わせてしまった事実は、どんなに詫びたところで消せるものではない。自分自身の不甲斐なさに、自分で自分を殴りたい気分になってくる。だから、相手の男が何か言っているのに、気付くのが遅れた。

『……だよ』

「え?」

『聞いてなかったのかよ。もう一度だけ言うから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ? C町の「マディソン」って店にいっから。凛子が大事なら、いますぐ来いよ。来なけりゃ、こいつは俺がもらう。俺で始まって俺で終わるってのも運命っぽくていいしな』

「な…っ!」

 誰が、そんなことにさせるか!

「てめえ、いますぐ行って絶対ぶん殴るからなっ それまで凛子に手え出すんじゃねえぞっ!!

『どのツラ下げてそんなセリフが言えんだよ。まあせいぜい頑張って、凛子に許しを請うんだな』

 言いたいことだけ言って、電話は切れた。後には、怒りに全身を震わせる明人だけが、街中に取り残される。さっきまで感じていた寒さがまるで嘘のように、身体が熱くて仕方ない。

すぐさま大通りにまで走って、暇そうに客待ちをしていたタクシーに駆け寄り、その助手席側の窓をせわしなくたたくと、運転手が慌てた様子で後部座席のドアを開けた。無駄のない動作で乗り込むと同時に、先刻聞いた店の場所と名前を告げて、更に「超特急で」と付け加える。あんな危険な男のそばに、これ以上一秒たりとも凛子を置いておきたくない。自分勝手な言い分だとわかってはいるが、凛子自身にはっきり引導を渡されない限り、彼女を手放すつもりなど明人にはなかったから。

夜も遅い時間だからか、明人の乗ったタクシーは比較的スムーズに進み、『工藤』と名乗った男の告げた店の近くに着いたのは、電話を切って15分ほど経った頃だった。これ以上は道が細かく入り組んでいて、車で行くのは辛いと運転手が言ったためだ。料金を払ってタクシーを降り、冷静さを取り戻す時間も惜しいほどにせわしなく両脚を動かし、たどり着いた店のドアを勢いよく開ける。品のいい洋楽がかかっていた店内で談笑していたらしい客たちが一瞬しんとして、突然の闖入者を一斉に見る。どこだ。どいつが工藤という男だと、呼吸を整えるのも忘れて店内を見渡す明人の数メートル先で、カシャ…ッというシャッター音のような音が響いたのは、次の瞬間のこと。

 思わずそちらを見やると、自分や凛子と同年代と思しき男が、本人のものらしい携帯を手にこちらを見て笑っていた。

「タイトル『焦る男』ってか」

 ニヤニヤ。癪に障る笑顔を向けているこの男が工藤だと、明人は直感した。店員に、「お客さん、ドア閉めてもらえます?」と言われて、初めて出入り口のドアを開けっ放しだったことに気付いて、今度は静かにドアを閉めて、ツカツカと足音を立てて工藤の元へと歩み寄っていく。

「……っ!」

 工藤がその身で隠すようにしていたカウンターテーブルに突っ伏して、眼鏡を外してまるで眠っているように見えるのは、ずっと捜し続けていた凛子そのひとだった─────!




    





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2013.11.28up

ようやく凛子の元にたどり着けた明人。
工藤との決着は?

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