「4〕





──────もう、誰を頼っていいのかわからなくて。

 凛子が最後に思い出したのは、初めて想いを通じ合った相手の顔だった。

『…いま、どこにいるんだ? すぐ行くから教えてくれ』

 もう堪えきれなくて、まるで小さな子どものようにしゃくり上げながら、やっとの思いで現在位置を告げる。

『わかった。いますぐ車で行くから、30分だけ待っててくれ』

 聞き取りづらいだろうに、辛抱強く最後まで聞いてくれたそのひとは、それだけ言うと電話を切った。

 冷静に、一般常識をもって言うのならば、彼にだけは連絡をとるべきではなかったと気付いたのは、ずいぶん後になってからのこと。けれど、いま一番頼りたかったひとが─────いま一番抱き締めてほしかった相手が他のひとの元にいるとわかったその時に、凛子の中で何かが音を立てて壊れ、もう冷静に考えることなどできなくなってしまったのだ。

「鈴木!」

 やがて、広場の出入り口のところに一台の車が停まり、ベンチに腰を下ろしてうなだれていた凛子の名を呼んだ。以前妹の蘭子から送られてきた写メと何ら変わらぬ姿をした彼に、思わず安堵の息をつく。遠い昔別れたその時とは、ずいぶん変わっていたというのに…………。

「くど、くん……」

 一度は止まっていた涙が、彼の姿を見た瞬間、再び溢れ出す。

「ごめ…んね……じゅ、ねん以上もあってなかっ、たのに…でんわ、なんかしちゃ…って……」

 声が、まともに出てこない。あの頃と違って、もういい大人なのに。あの頃のほうが、いまのこの状態よりよっぽど大人だった気がする。

「気にするな。お前にも教えて構わないって蘭子に言ったのは俺のほうなんだから」

 教師になって久しいからか、工藤の言葉は優しい。相手に負担をかけないすべを、心得ているようだった。

「とにかく、ここじゃ人目につくかも知れないから、車に乗れ。もっと落ち着くところに連れていってやるから、それから話を聞くよ」

 工藤に促されるまま、前すらまともに見えない状態で誘導されて車に乗ってしまったから、凛子はほんとうに偶然から自分たちを見つけてしまった相手のことに気付かなかった。その人物が、自分たちが立ち去った後、携帯を出してどこかへ電話をかけていたことにも…………。

 やがて、工藤が連れてきてくれたのは、新幹線の線路の真下の、ほとんど更地と化している駐車場。時間が時間だからか、無人の車がちらほらと駐まっているだけの、新幹線さえ通らなければ静かな、ひとけのない場所だった。

「──────で。いったい何があったんだ? お前がここまで取り乱すなんて、よっぽどのことがあったんだろう? 昔、ほんの小娘だった時にだって、大人顔負けの冷静さを誇っていたお前が」

 もう、ひとりで堪えていられなかった。気が付いたら、話しだしていた。遠い昔、工藤と別れてからあった、さまざまな出来事を。工藤は、よほど疑問に思ったところについて質問する以外は、先を急がせることもなく、ゆっくり話を聞いてくれた。昔はそんなところはなかったように思うから、やはり教師になってから身につけたすべなのだろう。

「そう、か……蘭子から、『お姉ちゃんはいま幸せいっぱいなんですよ』なんて聞いていたから、てっきりそうなんだと信じきってたんだけど、そんなことになってたとはな……」

 近くの自販機で買ってきた缶コーヒーを飲みながら、工藤はふうとため息をついた。凛子はというと、一通り話し終えて少し落ち着いた気分を胸に、工藤が買ってきてくれたミルクティーの缶を手で弄びながら、時折口にして渇ききってしまった喉を潤していた。紅茶ならミルクティーが好きだったことを、まだ覚えていてくれたのかと嬉しく思う。

「でも、そんな言葉を言ってきたのはその相手の女だけで、肝心の婚約者からは何も聞いてないんだろ? なら、その女のでまかせってことも考えられるだろう」

「でも……明人さん…彼の携帯にあのひとが出たというのは、まぎれもない事実だし…………」

 少なくとも一緒にいたというのは間違いない事実だ。もう一度かけて確認する勇気は……いまの凛子には、もうない。

「男の立場から言わせてもらえば、普通そこまでベタ惚れ状態を人前で披露するなんて、よっぽど本気じゃなきゃできないと思うけどな」

「私だって…そう、信じたい。だけど……去年初めて出逢うまでの10年間を、私は知らないもの。あのひとが知っている10年分の彼を、私は知らないもの…………」

 凛子がそう告げたとたん、凛子のバッグから携帯の着メロが鳴り響いた。明人専用にしている曲だ。それに気付いた凛子の身体が、大きくびくりと震えた。

「…携帯。鳴ってるぞ」

「わかってる……」

 本来なら、すぐに出て問い質すのが正しいのだろう。けれどいまの凛子には、明人本人の声を聞いて冷静でいられる自信など、まるでなかった。だから、小刻みに身を震わせながら、携帯を手に取ることすらできない。

「出ないのか?」

 静かな、工藤の声。

「だって……話して、もしもあのひとのほうが好きだって言われたら…!?

「そんなことはないと思うが……だって、もう三ヶ月後には結婚するんだろ?」

「でなくても、言い訳めいたことを言われたら……私、自分がどうなってしまうかわからない。彼の口から、あのひとの話なんか聞きたくない…っ!」

 思わずみずからの両手で耳を塞いだ凛子の手から缶を取り去って、車の中のドリンクホルダーにおさめてから、工藤は両腕で凛子の身体を抱き締めた。まるで、いまだ鳴り響く着メロを凛子に聞かせないようにするかのように。

「…………」

 こんなことになるなら、あの頃、工藤と別れなければよかったかも知れないと凛子は思った。こんな、辛い想いをすることになるくらいなら……明人と、出逢わなければよかったかも知れないとまで思ってしまうほど、いまの凛子は追い詰められていた…………。




                     *      *




 そして、少し時間を戻した頃の明人はといえば。

 四人で、ホテルのカフェでお茶を飲みながら談笑していた片岡の携帯が鳴り響いた。「ちょっと失礼」と言いながら、片岡がカフェの出入り口から出ていって、他の人間の邪魔にならないところで話しているのを、明人はぼんやりと眺めていた。やがて、少し話した後にまっすぐこちらを見て手招きしてきたので、荷物もコートもそのままでそちらへ行ってしまったから。その後残されたふたり─────とくに美里が何をしていたのかなど、まるで気付かなかった。

「お宅の課長からなんだけど、ちょっと訊きたいことがあるんだって」

「はい、代わりました、神崎です」

 そう言って話し始めた明人の横を、「ちょっとごめんなさい」と言って通り過ぎて、女子トイレに向かって歩いていく美里の後ろ姿を見つめながらも、何も気付かなかった。そのことを、後になってこれ以上ないほどに悔やむことにも、この時はまったく気付かないままで……。

 それから、片岡と再び代わったりして電話を終えた頃に、美里が普段とまるで変わらない様子で戻ってきて……「はい、お返しするわね」と言って明人の携帯を渡してきた時には、心底驚いてしまった。この携帯はマナーモードにしたまま、その前に使った時にいま席に置いたままのコートのポケットに入れておいたはずだが…何故いま、美里が持っているのだろう?

「こう言っちゃ何だけど、貴方の婚約者さん、仕事はあんなにできるのに恋愛にはちょっと経験値足りなさ過ぎるんじゃない? いまどき信じないわよ、水道の音をバックに流しただけで『シャワー浴びてる』なんて」

 その言葉に嫌な予感を覚えて、自分の携帯の着信履歴を開く。最新のところ、ほんの数分前の着信を示す場所には、誰よりも大切な相手の名─────まぎれもない凛子の名が記されていた。しかも、不在着信になっていないということは…明人に出た覚えがないのなら、他の誰か─────この状況では、美里以外の誰でもない─────が電話を受けたとしか考えられない。

「凛子に…何を言ったんですか」

 もう、先輩だとか共に働く仲間だという事実など、いまの明人には何の抑制の要素にもなり得なかった。

「別に。『彼はシャワー浴びていて出られない』って言っただけよ。ああ、『以前の彼なら、女の肌の目立つ所に跡を残すような真似はしなかった』とも言ったかしら」

!!

 くすくす笑いを含んだ美里の声に、頭が真っ白になって、もう何も考えられなくなった。

 もう、止められなかった。携帯を持っていなかったほうの手を掲げて、思いっきり振り下ろしていた。相手が女性だということも、いまの明人にはもうどうでもいいことで…。大きな、乾いた音が響き渡る中、脇でことのなりゆきを見守っていた片岡が軽く目をみはり、ひとり席に残ったままだった島野や周囲にいた人々がこれ以上ないというほどに大きく目を見開いてこちらを見ていた。けれど、いまの明人にはそんなことは目に入ってすらいなくて……スラックスのポケットに入れていた財布から千円札を一枚取り出して、片岡に渡してひとこと。

「…すみませんが、俺の分はこれで。俺は、今日はこれで失礼します」

 目をそらしたままの美里に一瞥もくれることなく、席に戻って自分の荷物を取り上げる。

「か…神崎さん」

 おっかなびっくりといった体の島野に、お義理程度の笑顔を向けて、

「悪いな、驚かせて。俺はこれで帰るから。じゃあ、また来週」

 それだけ言って、島野の返事を待たずにその場を立ち去る。早足で片岡と美里の脇を通り過ぎながら、「お先に」とだけ告げて、その後はもうほとんど走り出していたから、後に残された片岡と頬をおさえた美里がどんな会話を交わしたかなど知る由もなかった。

「……馬鹿だね、戸川さん」

「どうせ馬鹿よ。笑いたければ笑えばいいわ」

「今夜はとことんつきあうから、飲みに行こうか」

「もう、どうなってもいいわよ、あたしなんて」

 ふてくされたように言う美里と共に席に戻りながら、まだ驚きに支配されたままで動けない様子の島野に、片岡が声をかける。

「まあ、そんな訳で、島野くん、今日はここで解散ということで。悪いね、また次回の出向の折にでも会いましょう」

「あ、はいっ」

 そのまま、二人と一人になって別れていった……。

 そして、街中をひとり走る明人の心を占めるのは、凛子ただひとりのこと。仕事や普段の生活に関しては誰よりも強気なくせに、恋愛に関しては誰よりも繊細で臆病な……泣く時だって誰かがそばについていなければ、自分自身を責めて責めて、どこまでも殻に閉じ籠もってしまう弱さを持ったひと。絶対に、放ってなんかいられない。誰からも何からも護ると決めたのに……どうして自分は、あんな危険人物がそばにいるこんな時に、油断などしてしまったのか!!

 あてどなく走る前に、まず電話をかければいいのだとようやく気付いて、携帯を取り出したとたんに着メロが鳴り響いたので、驚きながらもオンフックボタンを押して……慌てていたせいで、発信者を確認する前に出てしまったがために、鼓膜が破れるかと思うほどの大声が耳をつんざくほどに響いたのは、次の瞬間のこと。

「は、い…神崎です」

『神崎─────っ!! てめえ、凛子を泣かしやがったなっ!? てめえ以前言ったよな、もう絶対泣かさないって!』

 怒り狂った由風の声に、パニックを起こしてしまう。そんな明人を救ったのは、「ちょっと代わって」と携帯を取り上げたらしい、一馬の声だった。

『神崎さん、どうも西尾です。僕、ついさっき見ちゃったんですよ。凛子さんが、これまで見たこともないくらいに泣いて、知らない男の車に乗ってどこかへ行ってしまうのを』

「なんだって!?

 周囲の人々が驚いて振り返るのも構わずに、大声を上げていた。

『全然見たこともない男だったから、うちの会社の人間じゃないことは確かですけど……僕一度だけ見たことがあるんですけど、凛子さんの前カレでもありませんでしたね。ほんとうに、どこの誰だかわからない男です』

 そんな男の車に乗って、凛子は行ってしまったと…いうのか? あの、人一倍女性として警戒心の強い凛子が?

『相手の男も凛子さんの名字を呼んでいたから、少なくともゆきずりの知らない男ではないですね。かといって、身内…お兄さんでもない。僕にわかるのは、これくらいです。とにかく、一度電話をしてみたらどうですか? 由風さんは、僕が抑えておきますから』

「わかった。いろいろありがとう」

 それだけ言って、電話を切って…凛子の番号を呼び出すのももどかしく思いながら、オンフックボタンを押す。呼び出し音が、鳴り響く。

 凛子…凛子…凛子…っ! いま、どこにいるんだ? いったい誰と一緒にいるんだ? 頼むから……早く出てくれ!!

 祈りも虚しく、しばし呼び出し音が鳴り響いた後、留守電に切り替わってしまう。電話がかかったことに気付いていないのか、それとも明人だと気付いていながら出ようとしないのか……後者かも知れないと思ったとたん、胸が引き裂かれそうな痛みを覚える。

「凛子……頼むから、電話に出てくれ。どこにいるのか教えてくれ。俺の話を聞いてくれ……っ!」

 胸の痛みを隠すことない声でメッセージを吹き込んで、しばし待つ。折り返しの電話は来ない。待っている間のたかだか数分間が、まるで永遠にも等しく感じるほど長く感じる。万が一にもこんなことで凛子を失うことにでもなったら、自分はきっと、一生自分を許せなくなるだろう。悔いて悔いて……生きる気力すら失ってしまうかも知れない。誰でもない、自分自身の過去のせいで。否、自分自身の過去のせいだからこそ、だ。

 時折電話をかけては留守電に切り替わることに落胆しつつもそのたびにメッセージを吹き込んで、思い当たる店を当たりながら、夜の街を疾走する。あえてバスやタクシーを使わなかったのは、もしかしたら件の男と歩いている凛子を見つけられるかも知れないという、淡い期待からだった。けれどそれも、何度目かの電話をかけている最中に携帯の電源を切られたことにより、絶望へと変わってしまったのだが。

一馬は、相手の男は車に乗っていたと言っていた。とすると、もしかすると明人には予想もつかない遠い場所に行ってしまっているのかも知れない。そうなってしまったら、もう明人に探しだすことは不可能に近い。更なる絶望が、明人の心を襲う。真冬だというのに汗だくになっていた身体が、急激に冷えていくような感覚さえ覚える。

 凛子……もう、何もいらないから。お前が望むなら、もうお前以外の誰も、何も見ないから。24時間、お前のそばから絶対離れないから、だから。俺の前から、消えてしまわないでくれ。お前がいなくなってしまったら、俺にはもう、何も残らないのだから。

 血を吐くような想いで、天に…否、凛子ただひとりに向けて祈り続ける。神よりも仏よりも、信じられるのは凛子ただひとり……明人の心を救うことができるのは、凛子ただひとりだったから。

 捜し始めて、どれくらいの時間が経った頃であろうか。握り締めた手の中で、携帯の着メロが、前触れもなく鳴り響いた…………。



    




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2013.11.24up

ついに最悪の事態に突入。
明人は凛子を見付けられるのか?
工藤から彼女を取り戻すことはできるのか。


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