〔6〕
もう彼女以外の何も目に入らなくなって、頭が真っ白になった状態で駆け寄ろうとした明人の前に、工藤が立ちはだかった。そうだ、こいつがいたんだったと、ようやく思い出してまなじりを吊り上げる。 「おっと。そう簡単に渡すと思うか?」 不敵な笑み。明人はギリ…!と奥歯を噛みしめた。 「で? どういうつもりなんだよ。こいつと元カノ、二股かけようってのか?」 「あっちの彼女はもう何の関係もない。凛子には、何も告げるつもりはなかったのに、あっちが勝手に暴露してくれただけだ」 「てめえが元カノも御しきれない甲斐性なしだってだけじゃねえか」 改めて言われると、もう返す言葉もない。あまりにも正論過ぎて。 「ほら見ろよ、こんなに目元を腫らして……ここにもいくつも涙の跡を残しちまって」 工藤の指が、眠り続ける凛子の頬に触れようとするのを見た瞬間、明人はもう何も考えられなくなった。 「凛子に触るなっ!!」 そのとたん、凛子に触れかけていた工藤の手が止まり、代わりに挑発的な笑みを浮かべて再びこちらを向いた。 「ずいぶんえらそうに言ってくれるじゃねえか。いくら10年以上も前に別れた女だっつっても、こんな風にコケにされて、黙ってられるほど俺もお人好しじゃないんだよな」 それにはさすがに明人も黙っていられなくて、思わず声を荒げていた。 「そんな風になんか思っていないっ! いまの俺には、凛子だけがすべてなんだ、他の女なんかもう眼中にないっ!!」 店内にいた客が、緊張感をはらんで二人のやりとりを見守っているが、いまの明人にはそんなことはどうでもいいことで……その言葉を聞いて、工藤がヒュウ…と口笛を吹いた。 「じゃあ、もう二度とこいつ以外の女には目を向けないって誓えるか? 二度と泣かさないって……誓えるか?」 「ああ、誰にだって誓えるさ。凛子以外の女なんて、俺にとってはもう何の価値もない。だから、相手がたとえ誰であれ…凛子を傷つける相手は、絶対に許さないし、そのままで済ませる気もない」 工藤の目から視線を一切そらすことなく、明人は言い切った。それをじっと見ていた工藤は、それまでとはどことなく違う笑みを口元にたたえ、店員らしい男性に声をかける。 「……という訳で、連れの迎えも来たことだし、俺もう帰るわ。マスター、代行車呼んで」 「わかりました」 短い会話を交わした後、明人の前からスッと身をずらした。 「…いまの言葉、ちゃんと覚えておけよ? 今度こいつを泣かすようなことがあったら、いつでも俺がかっさらいに来るからな」 上から目線の言い草が癪に障るが、今回の件については明人に分が悪過ぎた。 「わかってるよ。二度とてめーになんか会わせるもんかよ」 それは、まぎれもない本音。今回の明人に言う資格はないのがわかっているから沈黙を守ってはいるが、凛子の初めての相手だというだけで腸が煮えくり返る思いなのだ。できることなら、二度と会いたくないし、凛子にも二度と接触させたくなかった。 工藤が退いたのを確認してから、凛子の元に間髪入れずに駆け寄る。あの騒ぎの中でも目を覚まさなかったのは驚きだが、それだけ深く傷ついて滅多にしない深酒をしたせいかと思うと、胸が痛くなる。頬にそっと触れて…幾筋もの涙の跡が頬に残っているのがありありとわかって、痛々しい。 「─────ごめんな。辛い想いをさせちまって…………」 小さな声で、ぽつりと呟く。そんな明人の姿を、工藤が背後から見つめていることにも、まるで気付かないまま。気付いた時には、既に工藤の姿はなかった。凛子の分の勘定を払おうとすると、先刻のマスターらしき男性が「お連れさまが済ませていかれましたよ」と言ってきたので、いまだ目を覚ます気配のない凛子の身体と二人分の荷物を抱え、明人も店外に出る。これ以上、工藤のテリトリーともいえる場所に、凛子を置いておきたくなかったのだ。 外に出たはいいが、大して土地勘もなく、ほとんど意識もない女性を連れてはそう遠くへも行けない。この店に来る途中にいくつかホテルがあったことを思い出し、とりあえず近場のホテルへと歩を進めた。ほんとうなら普通のビジネスホテルに入りたいところだったが、こんな状態の女性を連れていては、犯罪性があると勘違いされそうで怖かったので、仕方なくできるだけ他人と顔を合わせないで済むであろうラブホテルを選んだのだ。 適当な部屋に入って、二人余裕で眠れる広さのベッド─────用途を考えれば、当然のことだが─────に凛子を横たわらせても、凛子は目覚めることはなく。規則正しい寝息を立てていることにホッとしながら、着ていた衣服をそっと脱がせてハンガーにかける。そういえば、自分も今日はずいぶんと汗をかいてしまったなと思い出したとたん、どこからともなく寒気を感じて、思わずぶるりと身を震わせる。これは、早いとこ風呂で温まりでもしないと風邪をひいてしまうと思い、コートと上衣だけを脱いで、入浴の準備を整え始める。自業自得とは思うが、仕事のプロジェクトも佳境に入ってきたこの時期に、風邪をひく訳にはいかない。美里とはもう二度と顔も合わせたくないぐらいだが、仕事が絡んでいてはそうもいっていられないのが、社会人として辛いところだ。 そうして、風呂に入ってようやく人心地ついたところで、擦りガラスのようになっているバスルームの戸の向こうで何かが動いた気がして、念のため確認に赴いたところで、目を覚ましたらしい凛子に危うく逃げられてしまう直前だったと。そういう訳である。 恐らくは風呂に入っているのが自分だなんて夢にも思わずに、例の工藤という男だと思い込んで焦って逃げようとしたのだろうが、こちらも焦ってしまったせいで言葉すら発せず実力行使で止める結果になって、よけいな恐怖を与えてしまっただろうことは反省している。けれど、予想もしていなかった嬉しい台詞も言ってもらえて─────凛子本人にしてみれば、切羽詰まった末の訴えで、その心は恐怖その他で埋め尽くされていただろうから、それを思うと申し訳ない気分になるのだけれど、嬉しいものは嬉しいのだ────明人自身も彼女への想いを再認識した。 ほんとうに、取り返しのつかないことにならないでよかったと。自分の胸の中でようやく落ち着いてきたらしい凛子を変わらず抱き締めながら、しみじみ痛感した…………。 「……大丈夫?」 その瞬間、自分の顔の状態に思い当たって────きっと化粧もとうに剥げ落ちて、とんでもないことになっているに違いないのだ────思わず顔を背ける。 「何で顔を見せてくれないんだ?」 「だ、だっていま絶対すごいことになってるもの……そんな顔見られるのは嫌よ…っ」 「俺は気にしないけど」 「私が気にするのっ だから、私もお風呂入ってくるから……とにかく、話はその後でっ」 そう言いながら眼鏡をかけ直して、先ほど明人に薙ぎ払われたコートと荷物を拾うために、凛子は腰を落とす。あまりに勢いよく払われたので、バッグの中身もいくらか飛び出してしまっている。その中のひとつ、携帯の着信を示す光が点滅しているのに気付き、バッグとコートをクローゼットの中に置いてから、中を開く。着信していたメールは、一件────電話の着信は山ほどあったが、そのほとんどが明人と由風のものだったので、いまは置いておくけれど────アドレス帳には登録されてはいないが、どこかで見覚えのあるメルアドだった。添付ファイルがあったので開いてみると、必死の形相でどこかの店のものらしいドアを開けている明人の写真。 「え……?」 意味がよくわからなくて、思わず首をかしげた瞬間、明人が「どうした?」と言いながら背後からのぞき込んできた。 「タイトル『焦る男』…?」 「あっ あいつ…!」 明人が苦虫を噛み潰したような顔と声で言うのに構わず本文に目をやると、 『お前は寝てて知らないだろうから、代わりに撮っておいたぜ〜。こんだけ決死の形相で駆け込んできたんだから、浮気っつーのも絶対相手の嘘だろうよ、安心しろ』 「……っ!」 思わず後ろを振り返ると、明人がこれ以上ないというぐらいに顔を真っ赤にして、凛子と目を合わせないようにしている姿が視界に飛び込んできた。 「あんのヤロー…っ」 その言葉を聞いてから思い出した。そうだ。このアドレスは、以前蘭子が携帯番号と一緒に知らせてきた工藤のアドレスだ。凛子が寝ている間に凛子の携帯のアドレスをチェックして、わざわざ送ってくれたのか。普段なら「無断で他人のメルアドを調べるなんて」と思うところだが、今回に限っては状況が状況だったので、素直に感謝することにした。 「こんなに…一所懸命捜してくれてたの……?」 自分は、度重なる明人からの着信から逃げて電源を落とすことまでしていたというのに。明人は、それでも諦めることなく夜の街を走り回って捜し続けてくれていたのかと思うと、胸が熱くなる。 「い、いいから早く風呂に入ってあったまってきなって! 湯が冷めるからっ」 照れ隠しのように叫ぶ明人の言葉さえ嬉しくて……先刻とは違う涙がこぼれそうになる。 「じゃ、じゃあ入ってくるわね」 携帯をしまって、バスルームへと急ぐ。ひとりになるともう堪えられなくて、思わずこぼれる涙が一粒。そして思う。これから先、たとえ何があっても明人を信じようと。誰が何を言っても、自分さえしっかり彼を信じていれば、きっと大丈夫だから。いままでだったらきっと持てなかった自信と勇気を、彼が自分に与えてくれたから。だから。 止められない涙をシャワーで流して、湯船にゆっくりと浸かると、ほんの数時間前までは冷たかった身体の隅から隅まで、ようやく体温が戻ってきたような感覚さえ覚える。バスローブをまとってバスルームから出てくると、カーテンをわずかに開けた窓際で、上半身のバスローブをはだけて腰を下ろして外を見ていた明人と目が合った。それを見た瞬間、凛子は先刻の出来事を思い出す。 「あ…っ さっき、ろくに身体も拭かないで出てきた上に、私の涙やら何やらでグシャグシャになっちゃったのね、ごめんなさいっっ」 慌てて謝罪する凛子に、明人は何も気にしていないような顔でけろりと答える。 「いや、風邪ひかないように暖房を強めにしたから、ちょっと暑くなってきただけだよ、凛子のせいじゃないから気にしないでいいよ」 言いながら、明人はいかにも暑そうに振舞いながら、着ていたバスローブを脱ぎ捨てる。優しい、嘘。 「じゃ、じゃあ、ホントに風邪をひいちゃわないうちに、早くベッドに入って」 言いながら明人をベッドの中に押し込んで、自分もそっとベッドに入る。眼鏡をサイドボードに置いて、明人のほうを向いて横たわった凛子に、明人もみずからの眼鏡を外してから、どことなく気まずそうな顔を見せた。 「? どうしたの?」 「─────もしかしたら、凛子はもう聞きたくないかも知れないけど。できるなら、弁解させてほしい。彼女の、ことなんだけど」 「彼女」というのが誰のことを指しているのかすぐにわかった凛子は、一瞬肩を震わせてしまう。その様子を見た明人が、「やっぱりやめよう」と言うのを聞いて、即座にかぶりを振る。明人が、驚いたような表情でこちらを見たけれど、凛子は決して目をそらさなかった。 「ううん…聞かせて。じゃなければ、私いつまでも彼女の影に囚われたままな気がするから……」 凛子の言葉を聞いた明人は、たっぷり数十秒ほど黙ってから、ゆっくりと口を開いた。何から話していいか、考えあぐねていたのだろう。 「……彼女とは。向こうの支社にいた頃、ほんの二、三ヵ月だけ付き合ってた。恋人として、というより、単に気が向いた時に一緒に過ごす、気ままな関係という感じで。だから、周りにも内緒にしていて、終わりもあっさりとしたものだったんだ。向こうに、『他にいいひとができたから』って俺がフラれた形で」 淡々とした口調。 「それから数年後、彼女は同じ支社の別の課の男と結婚して、俺は後輩の一人として他の皆と一緒に普通に祝って……後は、去年俺が異動するまで何もなかった。彼女も異動になってたけど、俺はやっと故郷に帰れるって喜びで、彼女のことを気にしている余裕なんかなかった。それが、離婚のために彼女が自分から出した異動願いの結果だったってことは、つい最近再会してから聞いたんだけど」 それを聞いて、凛子は驚いてしまう。では彼女は、バツイチだったのか。 「今回の騒動については、彼女の意図は俺にはわからない。そもそも俺をフッたのも彼女のほうだし、彼女の夫婦生活に波風を立てるような真似をした覚えもない。だから、彼女に好かれていたり憎まれての果てとは思えないんだ。だけど、凛子を傷つけた彼女を、俺は許す気もないし、もう仕事以外で関わる気もない」 そこで、明人はゆっくりと凛子の頬に優しく触れた。 「ほんとうに……済まなかった。理由はわからないとはいえ、結局は俺の過去が招いたことで傷つけて…たくさん泣かせて」 明人のほうが泣きだしそうな顔をしているくせに……凛子のことばかり労わってくれる彼に、凛子の目頭が熱くなる。そっと、明人の手の上から自分の手を重ねて、頬をすり寄せる。 「ううん……明人さんを信じきれなかった私の弱さが悪いの。その結果…もう遠い昔に別れたはずのひとに頼っちゃったりして。自分がされて嫌なことを……相手にやってしまうなんて、ホント馬鹿よね。私のほうこそ……嫌な思い、させたでしょ」 彼のことは明人に知らせるつもりなど一切なかったというのに。自分の知らない所で二人がどんな会話を交わしたかは、想像に難くない。恐らくは、工藤が一方的に責めたのだろう。そして明人は、ろくに反論もできずに堪えていたに違いないのだ。 「いや…それは俺が悪いんだし。だけど……ひとつだけ教えてくれないか。あいつとは、いまも連絡を取り合ったり…してたのか……?」 明人の瞳が、不安そうに揺れるのを見て、凛子は慌ててフォローの言葉を口にする。 「ち、違うのっ 実をいうと、彼は蘭子…あ、妹の蘭子ね、あの子の高校時代の副担任で、あたしも当時蘭子に聞いてびっくりしたのよ。携帯の番号とかメルアドも、最近同窓会に行って聞いたって言って、蘭子がメールしてきて…あの子は、あたしたちのことただの同級生としか思ってなかったから……」 言い訳だ、と自分でも思う。明人のことを責める資格など、自分にもないも同然なのに、ひとりだけ被害者ぶって……最悪だと凛子は思った。 「──────ごめんなさい」 もう、謝ることしかできない。 「もう二度と…会うこともしないし、連絡をとったりもしないわ。蘭子から聞いた連絡先も削除する。明人さんが嫌がることはもう絶対しない。約束するわ」 「いや、俺も一緒になら一度だけ連絡して構わないけど」 「え? どうして?」 「『俺たちはもう大丈夫だから、てめーの入る余地なんかねーよ』って言ってやりたい」 許して…くれるのか? 明人を信じきれずに、彼の元に走ってしまった自分を……たとえ何もなかったとはいえ、彼を頼ったことは事実なのに。凛子のそんな内心が通じたのか、明人がふ…っと微笑った。 「元はといえば、俺が遊んでたのが原因なんだから。真剣に恋愛してた凛子の過去まで否定するようなことは…できないし、したくない。あいつには、この上ないほどムカついてるけどな」 工藤のことを言う時だけ、明人が思いっきり顔をしかめたので、凛子は思わず吹き出してしまう。そんな自分を見ていた明人に気付いて、何となくばつの悪い気分を味わいながら、凛子は問いかける。 「な…なに?」 「…この手に確かに凛子が戻ってきたことを、いますごく確かめたい。けど…彼女の暴走を止められなかった俺に、そんなこと言える資格なんてないと思う自分も、心のどこかに確かにいて……」 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなる。 「私も……明人さんに抱き締めてもらいたいの。でも彼とのことを知られてしまった後じゃ…嫌な思いをさせると思っ…」 凛子が最後まで言い終える前に、明人が勢いよくその身を抱き締めてきたので、驚いてしまってもう何も考えられない。 「あああああ、明人さんっ!?」 「そんなの、凛子が気にする必要はないよ。むしろ、俺が奴との思い出なんか消してやるぐらいの気持ちでいるんだから。凛子さえ許してくれるなら……いますぐにだって、いくらだって抱きたい」 言うと同時に、バスローブの隙間から忍び込んでくる手。あまりの早業に、凛子はもう苦笑いしか出てこない。 「もう……相変わらず強引なんだから」 くすくすくす。小さく笑いながら、その唇にそっと口づける。 「来て───────」 後はもう、言葉なんて必要なかった。ただの男と女になって、過去など思い出す間もないぐらいに、熱く激しく抱き締め合っていた。何も考えず、獣のようにただがむしゃらに、現実の何もかもを忘れて……互いの熱を相手に浸透させるかのように、ただ相手のすべてを求め合った。何も、わからなくなるまで────────。 |
2013.12.1up
ようやく再び出逢えたふたり。
すべてを理解した後は、もう言葉は必要ないようです。
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