〔3〕





 どうしたものかと、明人は思った。

遠い昔────というほど年数は経っていないが、凛子に出逢う以前の明人にとっては、それくらい気分的に遠い過去だったのだ。何しろあの頃は、異性とは来る者は拒まず、去る者は追わずな付き合い方をしていたから────ほんの一、二ヵ月の間だけお互い軽い気持ちで付き合っていた女性と、まさかこんな形で再会をしようとは思ってもみなかったから……。

 研修の後配属された会社の一年先輩で、明人同様軽い気持ちで異性とつき合える相手だったから、付き合っていた時は束縛もしがらみも感じずにほんとうに楽しかった。仕事がしにくくなるからという理由で、他の誰にも話さずに内緒でつき合って、別れる時も実にあっさりと「他にいいひとができたから」とあちらから別れを切り出され、その数年後に彼女が同じ支社の別の課の男と結婚した時も、後輩の一人として心からの祝福をおくったものだった。別れてから、そして彼女が結婚してからはとくに、言動には細心の注意をはらってただの一後輩にしか見えないように振舞ってきたから、彼女との仲を本気で疑うような者はいなかったと思う。

明人がこちらへ異動になるのとほぼ同時に彼女も別の支社に異動になると聞いていたが、自分のことで手いっぱいで─────何しろずっと切望し続けた故郷の支社への異動だったのだ、浮かれるなというほうが無理な話である─────彼女の事情にまで気が回らなかった。彼女自身も何も言わず普段の態度とまるで変わらなかったから、まさか上層部にしか話を通さない状態で離婚の準備を整えていたなんて、最近再会して二人だけで話をする機会に恵まれるまで、知りもしなかった!

 やっぱ、マズいよなあ……他の誰よりも、凛子にだけは絶対知られないようにしないと。

 やっと出逢えた、ほんとうの本気で好きになれた相手なのだ。もう、凛子のいない生活なんて考えられないほどだ。彼女と出逢う以前の自分が見たら、きっと鼻で笑ったことだろうと自分でも思う。故郷に戻ったとたんに、ここまで好きになれる相手に出逢えるなんて、誰が予想できただろうか。思えば凛子とは共に研修を受けたはずだが、当時の彼女のことなどほとんど記憶に残っていないほどだったというのに。

 一馬にも、こっそりと釘を刺されてしまったことだし─────「凛子さん、自分でもわかってないみたいだけど、あのひとのこと何かしら勘づいてますよ」と、他に誰もいない男子トイレで言われた時には、心臓が止まるかと思った。恋愛事には鈍いタイプだと思っていたが、天然とは言い換えれば理屈でない部分で勘が鋭い、野生の感覚の持ち主ともいえるかも知れない。ちなみに由風は「野生」ではなく「野性」で、読んで字のごとく獣の勘を持つ者だ。油断をしていたら、その鋭い牙と爪で引き裂かれるに違いない。そんな相手とつき合えるのは、草食動物のような顔をしてその下にはやはり牙と爪を隠し持つ一馬ぐらいしかいないだろうと、明人は常々思っている。

 それはともかく、彼女とは一度きちんと話をしておいたほうがいいかも知れない。ただでさえ結婚前の微妙なこの時期に、ほんの少しの波風さえも立ててほしくないのだ。

 そして、好機は意外にも早く訪れた。明人と美里、そして片岡と島野とで社外に外出した折に、ついさっき訪れた取引先から「申し訳ないが、もう一度戻って来てくれないか」と連絡を受けて、「二人だけで大丈夫だから」と言って、片岡と島野だけ戻ってしまったのだ。残された二人には、「先に会社に戻っていてくれ」と言い置いて。これは、神が与えたもうたチャンスと、普段信じてもいない神に都合よく感謝しながら、「少し寄り道して帰りませんか」と美里を誘った。美里が快くうなずいたのを見て、最寄駅から会社に戻る途中の小さな公園─────例の「広場」と呼んでいる公園だ─────へと連れていく。とりあえずここなら、同じ会社の人間はそう滅多にやってこないはずだと思いながら。

「……で? 話はなに?」

 缶コーヒーを渡したとたん、ベンチに腰を下ろした美里が思いっきり直球で訊いてきた。そうだ。この女性は、由風並にストレートな女性だった。こちらに移ってきた最初の頃は、むしろ由風のほうが彼女に似ていると思っていたというのに、何故忘れていたのだろう。

「あ…相変わらず見事な直球ですね」

「てゆーか、あんたが回りくどいのよ。何かあたしに話したいことがあるから、ここに連れてきたんでしょ?」

 完全に見抜かれている。とりあえず落ち着くために自分の分のコーヒーのプルトップを引いて一口飲んでから、美里の隣に腰を下ろした。

「話っていうのは……凛子のことなんですけどね」

「でしょうね。あんだけ彼女馬鹿っぷりを見せつけられてたら、どんな鈍チンでもわかるわよ」

 ズバズバズバ。旧知の仲というのは話が早くていい分、情け容赦もないと思っていい。

「凛子には、昔のことを話さないでほしいんですよ」

 よけいなことは言わずとも、彼女にはそれで十分伝わるはずだった。すると美里は、意外にも両の眼を思いっきり見開いて、信じられないものを見る目でこちらを見返してきた。

「な…何ですか」

 何となく、居心地が悪い。

「まさか、あんたの口からそんな言葉が出るとはねえ。昔はホント、恋人がいる女性でも構わず食っちゃってたってのに」

「ご、誤解を招く発言をしないでくださいよっ あれは、向こうがフリーだって公言しながら言い寄ってきただけの話で、僕がみずからすすんでちょっかいかけた訳じゃありませんよっ!? って、そんなことはどうでもいいんです。問題は、凛子のことなんですよ。先輩もご存知の通り、僕らは三ヶ月後に結婚するんです」

「それで?」

「正直……結婚までして、自分の元に縛り付けておきたいと思った女性は、彼女が初めてで…だからこそ、他の何を失っても、彼女だけは失いたくないんです。そりゃあ、かつて遊んでたことは多少は知られていますけど、こちらに来て彼女に出逢ってからは全然で、彼女自身はそんな相手に会ったことがないからこそそれほど深刻に思っていないというか。だけど、実際にそんな相手に会ってしまったら、真面目な彼女のことだから、きっと…いや絶対、傷つくと思うんです。だから」

「あたしとのことは、一切知られたくないってこと?」

「まあ…ぶっちゃけて言っちゃうと、そういうことです」

 こんな言い方をしたら、凛子を傷つけたくがないために美里を傷つけてもいいと思っているように聞こえるかも知れないと思ったが、それでも。明人にとっては、凛子はそれだけ特別な相手なのだ。他の誰を傷つけても護りたいと思うほどに。

「へえ〜。あの、たらし神崎の言葉とは思えないわねえ」

 美里は何を考えているのかわからない顔で─────営業職の得意技の一つともいえる、ポーカーフェイスだ─────飲み終わった空き缶を近くのゴミ箱に放り投げて。綺麗な弧を描いて入ったのを確認してから振り返る。

「それだけ本気ってことなんですよ。お願いですからわかってください」

 もう、土下座せんばかりの勢いで拝み倒す。

「いまのあんたを、あっちの支社の連中が見たら何て言うかしらねえ。男子社員はともかく、女子社員はまず間違いなく幻滅するんじゃないの?」

「構いませんよ。凛子さえ、俺の元に残っていてくれるなら」

 美里はやはり、内心の読めない表情だ。

「ふうん。あんたをそこまで変えるなんて、相当な女なのねえ」

「凛子は特別なんです。他のどんな女性でもとって代わることはできないくらいに」

 美里の目をまっすぐに見て告げる明人に、美里の瞳が一瞬妖しげに煌めいたことを、明人は知らない。

「果たして……彼女のほうは、そこまで想ってくれてるのかしらねえ…………」

 美里の呟きは、先刻から吹き始めていた風に乗ってしまい、明人の耳には届かなかった。

「え? 先輩、いま何て言ったんですか?」

「はいはい、とりあえずわかったって言ったのよ。ちゃんと聞いてなさいよ」

「『とりあえず』って何ですか!? ちゃんと約束してくださいよっ」

「はいはい」

「だからっ」

「とにかくいい加減会社に戻りましょうよ。何だか嫌な感じの雲も出てきたし、片岡さんたちより先に戻っていないとマズいでしょ?」

 それを言われると明人も弱い。だからそれ以上は何も言わず、渋々会社への道を美里と二人、歩き始めた。美里と二人だけでいるところを見て、凛子が変に思わないでくれることだけを祈りながら。

 だから、美里がこの時何を考えていたのか、知る由もなかった…………。




                      *     *




 明人がそんなことを思っているなどと、露ほども知らない凛子は、仕事の合間に一人女子トイレにやってきていた。ついでとばかりに、暖房のあたたかさのせいか鼻の辺りに浮いてきてしまった脂を、いつもポケットに入れて持ち歩いているあぶらとり紙を当てて吸い込ませる。仕事中に化粧直しなどもっての外だと思ってはいるが、さすがにこれだけは女性としては見逃せないので。そうしているうちに女子トイレの戸が開いて、美里が入ってきたので驚いてしまう。

「あら。奇遇ね」

「いま外回りからお帰りですか? 寒い中、大変お疲れさまです」

 以前麻美香に「あのひとには気をつけたほうがいいかも知れない」と言われたものの、具体的にはその理由も、どうしていいかもさっぱりわからない凛子としては、心のどこかでわずかに構えたまま、美里と接してしまう。麻美香はあれ以来、とくに助言めいたことは言ってくれない。美里と同じ営業職に就いている由風は、美里に関しては仕事ぶりを褒めることはあっても彼女個人についてはとくに話そうとはしない。ならば凛子から訊けばいいのかも知れないが、あの由風が自分から話そうとしないことをこちらから訊くのも何だか憚られて、結局訊けないままなのだ。

 少し前に芽生えた小さな不安は、まだ消えない。それどころか、かえって大きく育ち始めている印象さえ受けるのは、果たして気のせいなのだろうか…………。

「あら」

「え?」

 美里の視線が、凛子の胸元……わずかに開いているブラウスと肌の境目の辺りに向いたのに気付いて、凛子も思わずそちらを見る。が、自分自身ではよく見えない。

「まったく神崎くんたら、困ったひとよねえ。こんなところにつけるなんて、見てくれと言わんばかりじゃないの」

 どういうことかと問いかけようとした凛子は、ある可能性に気付いて一瞬にしてみずからの顔が上気していくのに気付いた。あの男…っ 髪で隠せるところは何とか隠しきったと思っていたのに、そんな、自分では見辛い、向き合った相手の角度によっては見えるようなところに跡をつけるなんて…っ!

「ちょっと動かないでいてね」

 そんな凛子の変化に気付いているだろうに、美里はそれ以上追及せず、自分のバッグから出したファンデーションをスポンジに少し取り、「ちょっとごめんなさいね」と言いつつ凛子のブラウスの第一ボタンを外し、スポンジを肌に軽く当ててファンデーションを塗りつける。そして再びボタンをはめて、ひとこと。

「これで少しは目立たないと思うんだけど」

「あ、ありがとうございますっ」

 勢いよく頭を下げた凛子のうなじ─────懸命に色々考えながら部分部分を結い上げて、いくらかは残した髪で隠していた部分がその動きに合わせて露出してしまっているのを、美里が無言で凝視していたことを凛子は知らない。そしてそれが、美里の心にどんな変化をもたらしたのかということも。

「─────ホントに。貴女も大変よねえ。以前の彼だったら、絶対そんな目立つところに跡なんか残さなかったから、そんな風に、毎朝苦労して髪形を決める必要なんかなかったっていうのに」

 いま…彼女は何と言った?

 イゼンノカレダッタラ、ゼッタイソンナメダツトコロニアトナンカノコサナカッタ──────?

 以前の明人に、それなりに女性経験があったことは、何となくだが知っている。けれどいまの美里の言い方だと、そんな相手を知っていたというより、まるで美里自身が知っているような──────。

「ああ、いい加減顔を上げたほうがいいわよ。そのままだとうなじのものまで丸見えになってしまうから」

 言われて初めて、凛子は自分が頭を下げたままであったことに気付いた。

「あ……」

「じゃあ私、トイレに入ってから戻るから」

 そう言って、美里は軽やかな足どりで個室へと入っていった。ついさっき上気して紅くなったはずの凛子の頬が、いまではすっかり蒼ざめていることに気付いているのかいないのか。

「あ…じゃ、じゃあ、お先に……」

 内心の動揺を悟らせまいと、決死の思いで平常の声を絞り出した凛子は、緩慢な動きになりかけるみずからの身体を叱咤して、できる限り普段と変わりのない様子でオフィスに戻ろうとするのだが……普段、自分がどんな風に歩いていたかさえ思い出せない。

「あ、凛子さん。惜しかったですね、ついさっき神崎さん戻ってきたんですけど、たったいま課長に呼ばれて行っちゃいました」

 オフィスに入ったとたん、コピー用紙の束を抱えた愛理が、笑顔で声をかけてくる。

「あら、そうなの? どうも今日はタイミングが悪いわねえ」

 凛子自身が意識するまでもなく、顔は自然にいつもと変わらぬ笑顔を浮かべていた。ずっと、プライベートで何があっても仕事最優先で頑張ってきたが故の条件反射だろうか。

「今日こそは一緒に帰れるといいですね」

 何も知らない、二十代になって久しいというのに純粋無垢と評しても誰もが頷くような愛理が、心からそう思っているらしい満面の笑顔で言ってくれるのに、やはり笑顔で応えながら。

「そうね、そうできたらいいのだけどね」

 それだけ答えて、凛子は自分のデスクに戻った…………。


 結局今日も、明人は残らざるを得なくなって、凛子は一人で家に帰る羽目になってしまった。

 食事は一応作って食べたけれど、正直何を食べたか、どんな味だったかも思い出せない。つけたまま、目に映ってすらいないテレビ番組に顔を向けながら、クッションを抱きしめてソファではなくカーペットの上に直に座り込んでいた。抜けた髪の毛が入り込んだのか、胸元がくすぐったいようなかゆいような奇妙な感覚に気が付いて、そっと手を入れてそれを取り除く。その時に触れたのか、指の一部に自分のものとは違う色のファンデーションが付いたことに気付いて─────それと同時に昼間聞いた美里の言葉が脳裏によみがえって、それを思い起こさせるものを自分の身につけておきたくなくて、クッションを放り出してティッシュボックスからティッシュを数枚引き抜いて、自分の指と胸元をゴシゴシと…それこそ赤くなってしまうのも構わずに拭い続けた。

ようやく動きを止めて、床に置いた手の甲に、ぽとりと透明な雫が落ちた。いつの間にか、涙が頬をつたっていた。どうして? 泣きたくなんかないのに。

「……っ!」

 どうして? どうしてあのひとは、明人さんの以前の癖なんて知っているの? 私でさえ知らなかったようなことなのに。

 その答えを、凛子はほんとうはわかっている。自分は、それを認めたくないだけだということも。だけどいまは、それ以上考えたくなかった。認めたくなんて……なかったから。

だから、もう何も考えたくなくて、そのままお風呂場へと駆け込んで、脱衣所で服を脱ぐのももどかしく、軽くシャワーを浴びるとすぐに湯船に飛び込んで……頭も身体も沈めてしまった。


 次の日は金曜日で。明人たち四人は朝から社外にでかけたままで、凛子は一度も顔を見ることもなく過ごした。けれどそれは、ある意味幸運なことといえたかも知れない。何故なら、明人がオフィスにいるということは、美里もいる可能性が高いということで……いまだけは、美里の顔を見たくなかったから。大人として、そして社会人として失格だとは思うが、いま美里の顔を見たら泣きだしてしまわない自信がなかったから。だから、勝手だとは思いつつも、彼女がいないことに安堵してしまっていた。

 けれど、凛子の精神状態はもうギリギリだった。何も話さないでいいから、何も聞かなくていいから、とにかく明人の胸に抱き締められたかった。最後のプライドとして、社内ではいつもと変わらない様子で振舞ったけれど。

 だから、一時間ほどの残業を済ませた後、いつものように何気ない様子でロッカー室で着替えて、会社を後にして──────例の広場で、独り携帯を取り出した。とにかく、明人に逢いたくて。そして、オンフックボタンを押した…のだが。この時の凛子は知らなかった。明人たち四人が直帰で帰る直前に、とあるホテルのカフェでしばし談笑していたことを。

 お願い。早く、早く出て。そんな思いを胸に、鳴り響く呼び出し音を聞き続ける。五回、六回、七回……もう少しで十回に届くかという時になって、ようやく相手が出た。

「あ……」

 けれど、相手側から響いた声は、あれほど切望していた声ではなく。いまもっとも聞きたくない人物のものだった。

『あ、凛子さん? ごめんなさい、勝手に出ちゃって。彼いま出られないものだから。音、聞こえる? シャワー浴びてるのよ、いま』

 女性の声の後ろから聞こえてくるのは、どこか遠いところから聞こえるような、水が流れる音で…………。目の前が、一瞬にして真っ暗になった気がして。ほとんど無意識に通話を打ち切っていた。脚から力が抜けて、もう、立っていられない。

 どう…して……? どうして明人さんが、あのひとと一緒にいるの…? どうして…シャワー、なんて…………。

 もう、何も考えられない。気付いた時には地面にへたり込んだまま、携帯に登録されているアドレス帳を懸命に繰っていた。まず目に付いたのは、由風の名前。その番号にかけようとして、ハッとする。ダメだ。由風は今日は、帰りが何時になるかわからないから、直帰にすると言っていた。ということは、いま現在もしかすると商談の真っ最中かも知れない。そんなところにこんな、プライベートなことで電話などかけられない。次に目に付いたのは、麻美香。忠告をしてくれた麻美香なら、愛理や紗雪と違って冷静に話を聞いてくれるに違いないと思ってから、彼女が今日はデートだと言っていたことを思い出す。とても嬉しそうな顔をしていた彼女に、やはりこんな迷惑はかけられない。

 そうすると、もうかける相手に心当たりなどない。妹の蘭子も七歳も年下ではあるが、結婚もしているし、それなりに恋愛経験はあるだろうから─────実際はそうでもないのだけれど、そんなことを凛子が知るはずもない─────相談するには適しているかも知れないが、夫と二人暮らしならまだしも義両親と同居している彼女に、こんな面倒事を持ち込むことは憚られて……。

 蘭子の顔の次に脳裏を一瞬よぎったのは、遠い昔に見たままだったそれが、一枚の写メによって現在の年齢相応の顔に成長していった……ひとりの男性の顔。思い出したら、もうそのひとの顔しか浮かばなくて。震えるその手で、以前受信したメールを手繰って…ひとつのメールを開いてあるひとの番号を探し出していた。カーソルをその番号に当てて、考える余裕もなくオンフックボタンを押して、ケータイを耳へと当てていた。再び鳴り響く、呼び出し音。今度は、三回ほどで相手が出た。

『はい、工藤です。どちらさまですか?』

 懐かしい……記憶の中にあるその声より幾分低くなった、十数年ぶりに聴くその声が、凛子の耳を打った。

『もしもし?』

「工藤…くん──────」

 震える声が、その名を紡ぐ。相手が、息をのむ気配。

『……鈴木…? 蘭子のほうじゃなくて、お前…凛子か……?』

 相手が驚いているのがありありとわかるような声だった。けれど、いまの凛子には、それを気にしている余裕はなくて。

『鈴木? おい、どうしたんだよ、何かあったのか?』

「工藤くん……たす、けて────────」

 もう、涙を止めることはできなかった………………。




    





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2013.11.14up

ついに行動を起こし始めた美里。
不安を抱えていた凛子もついに限界が来てしまい、
同じく元の恋人の工藤に救いを求めて…。
事態は更に複雑になっていきます。

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