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 退社後。「まだ仕事が終わりそうにないから、先に帰っていてくれ」という明人に軽く手を振ってから、凛子はオフィスを後にする。最近は、昨日のように平日でも明人の部屋に泊まることが多くなっていたから────まだ籍も入れておらず、新居もほとんど目星はついているもののまだ最終的な決断を下していなかったので、いまもまだ住まいは別々のままだったのだ─────独りの部屋に帰るのは、久しぶりだった。プロジェクトのことは聞いてはいたが、休日出勤まですることは恐らくないということと式までにはまず間違いなく完了するということも聞いていたので、そういう意味での心配はないが……。

心を占めるのは、昼間芽生えた自分でも理由のわからない不安感。どんなに考えても理由はわからないのに、不安と焦りだけが心を占めていて、自分でもどうしようもない。

 変なの……自分の心なのに、自分でも理由がわからないなんて。

 もう何も考えたくなくて、あえて意識をそらして食事やお風呂の支度を始めてしまったから。由風に電話なりメールをして話を聞いてもらうことすら思いつかなかった。だから、由風が一馬と彼の家で食事をしながら、どんな会話を交わしていたかなど、いまの凛子は知る由もない。




                      *     *




「……今日来た例の女さ」

 茶碗に温かいご飯をよそっていた一馬が、目前に座ってふいに口を開いた由風を見た。

「神崎さんの、昔の恋人だと思ったんでしょう? 僕も同じことを思いましたよ」

 茶碗を受け取りながら、由風はやっぱりなとでも言いたげな顔でうなずく。

「多分、凛子さんも気付いていたんでしょうね。自分ではわかっていないようでしたけど、あのひとと会う前と後では、全然落ち着きが違いましたから」

「相変わらず、天然は健在か……つか、凛子に自覚がないんなら、下手にボロを出す前にさっさとプロジェクトを終えて、とっとと自分の巣に帰ってもらいたいところなんだけどさ。そうもいかないんだろうなあ」

「プロジェクトも数日で終わるようなものじゃないし、仮にあのひとがこちらに来なくても、神崎さんが行くこともあるだろうし、また別の支社で会うこともあるだろうし…ね」

「ついでにいうと、なーんか腹に一物ありそうなんだよな、あの女」

「僕もそんな気はしましたが、由風さんもそう言うなら間違いないんでしょうね」

「何でよ」

「何も知らないはずの凛子さんといい、女性の勘は侮れないと、僕は常々思っているからですよ。そのへんのことは、件の女性をよく知っているであろう神崎さんも承知の上でしょうけど、女性はときどき僕ら男には予想もつかないようなことをやってのけますしね。僕もできるだけフォローするつもりですけど……」

 一馬の言いたいことがわかっているのだろう、由風がバシッと音を立てて拳をもう片手の平に打ちつけた。

「言われなくても。この由風さまの親友を泣かせたりしたら、神崎もあの女もただじゃ済まさないよ……表沙汰にならないような報復の仕方ぐらい、こちとらいくらでも知ってんだからな」

 凛子の元カレにかつて由風が何をしたかよく知っている一馬は、その時を思い出したらしく、微苦笑を浮かべる。

「僕からも、さりげなく神崎さんに伝えておきますよ」

「とりあえず、そのへんについて考えるのは後にして、いまはメシにしよ、メシにっ」

「はいはい、今日の味噌汁の具は、由風さんの好きな豆腐とわかめですよ。あおさも買ってありますから、お好きなだけどうぞ」

「やったあ、さすが西尾、気が利くうっ」

 そのとたん、拗ねたような表情を浮かべる一馬に、由風が首をかしげた。

「プライベートの時は『一馬』って呼んでくださいって、あれほど言ったのに」

「ああ、はいはい、悪かったよ、一馬ちゃんっ」

 そして、それぞれの夜は更けてゆく…………。




                    *     *




 そして、二、三日はとくに変わったこともなく。平日こそ忙しそうだったものの、週末は明人も普通に休めるようで、凛子と結婚式の打ち合わせにもちゃんと現れてくれた。招待客のリストを作ったり、どういう関係の人々をどのへんの席に配置すべきかなどを考えているうちに時間はあっという間に過ぎて、気が付いたら外はすっかり暗くなっていて、凛子は明人の促すままにほぼ指定席と化している彼の愛車の助手席へと乗り込んだ。

「…プロジェクトのほうは、どんな感じ?」

 車が発進してからしばらくは他愛のない話をしていたふたりだったが、ふと話題が途切れた時に凛子から問うてみた。同じ会社の営業関係とはいえ、平常の営業業務と例のプロジェクトはまるっきり違う仕事であるため、そちらの進行状況は凛子にはイマイチわからないのだ。

「んー? 一応順調に進んでるよ。前にも言った通り、式までにはちゃんと終わるだろうから、心配しないでも大丈夫だよ。その前に新居への引っ越しも済まさないとだけど、平日頑張れば週末は何とか休めるから、大丈夫だと思う」

「でも……ゆっくり休めないんじゃない? 明人さんの身体が心配なんだけど」

「だーいじょうぶだって。これさえ済めば、これから凛子と会社でも家でもずっと一緒にいられるんだと思えば、俺はいくらだって頑張れるから」

 信号待ちの間に、唐突に肩を抱き寄せられて頬に唇を寄せられて、凛子は思いきり焦ってしまう。いくらだいぶ暗くなっているとはいえ、車の周囲は天下の往来だ、どこで誰が見ているかわからないのに。

「も、もう、明人さんてばっ」

 あはは、と心底楽しそうに笑う明人を見ていたら、意味のわからない不安に振り回されているのがバカらしくなってくる。

大丈夫。自分たちは大丈夫と、凛子は自分に言いきかせる。こんな、理由もわからない不安なんかに負けはしない。きっと、世でいうマリッジブルーというもので、結婚式その他の準備とプロジェクトが重なってしまったがために精神が不安定になっているだけなのだ。この時期さえ乗り切れば、きっと元の精神状態に戻れるはずだ。

そう思いながら、その夜凛子は久しぶりに誰に気兼ねすることなく、明人と甘い時間をゆっくりと過ごした……。


 そして、再び美里と片岡が出向してきたある日。愛理たち三人娘と共に外に昼食に向かおうとしていた凛子は、社内の廊下で美里に声をかけられた。

「外にお食事? もしよかったらでいいんですけど、私もご一緒させていただいてもいいかしら」

「え、ええ、もちろん。別にいいわよね?」

 笑顔で三人娘を振り返ると、三人も笑顔で応じる。

「あ、みんなで行くのかい? よかったら、僕と片岡さんも……」

 明人が便乗しようとしてくるのを、美里が手で制した。

「だーめ。今日は、ガールズトークしたいんだから、男は立ち入り禁止」

「えー」

 子どものように不満そうな顔をする明人が可愛くて、凛子はついクスクスと笑ってしまう。

「そういうことよ。晩は好きなもの作ってあげるから、今日はおとなしく待っててちょうだい」

「凛子がそう言うなら…しょーがないなー」

「神崎くんも、彼女には形なしだねえ」

 片岡もいかにも楽しそうに笑っている。

「そりゃーもう。凛子には、もうベタ惚れですから」

 予想もしなかった明人の答えに、周囲からはやしたてる声や口笛が上がり、凛子の顔も一気に紅潮してしまう。いくら婚約していて周知の事実とはいえ、公衆の面前で面と向かって公言されると羞恥の度合いは半端ない。

「な、何言ってるのよ、もうっ 行きましょ、みんなっ」

 あまりの恥ずかしさにいたたまれなくなって、皆を促して移動を始める。

「じゃ凛子、また後でね〜」

 能天気な明人の声に、小さく舌を出して応えながら、オフィスを後にする。そんな自分を見つめる、美里の意味深げな視線には気付かぬままで。

 美里の「皆が普段行っているようなお店に行きたい」という要望に応えて、凛子たち五人はほんとうに普段よく行っているような何の変哲もない洋食屋へと入った。

「ほんとうに、どこの街にでもありそうなお店ですよ? いいんですか?」

 少々気がひけているように小声で問う麻美香に、美里は笑顔で答える。

「いいの、いいの。プライベートの時間ぐらいはお客さん扱いでなくて、元からいる仲間のように扱ってほしいから」

 そういうものなのかも知れないなと凛子は思う。ただでさえ不慣れな職場に来ているのに、プライベートでまでそんな扱いを受けたら、確かに息が詰まってしまいそうだ。

「それに、凛子さんに神崎くんの新人の頃の失敗談とか、こっそりバラしたかったし」

 明人より一年先輩だという美里だからこそ知っている話も、たくさんあるのだろう。明人には悪いが、彼のそういう話に興味津々だった凛子は、密かにその時を楽しみにしていたのだ。期待感が高まっていくのを、自分でも止められない。

「あの神崎さんが失敗してたなんて、想像がつかなーい」

 きゃーと楽しそうに笑う愛理と紗雪のことをえらそうに言えないなと、凛子はこっそりと思った。

 それぞれに注文の品を決めて、それがすべて揃ってからも談笑を続け、楽しい昼食の時間を過ごした。ほんとうに、時間に限りさえなければ、いつまでも話していたいぐらいに。会計を済ませて外に出ると、少々残り時間が厳しい状態だったので、皆自然と早足になりながらもそれでも楽しく会話を続けながら、会社に向かって歩き続ける。

「ああ、楽しい。こんなに楽しいの、いつ以来かしら。営業なんてやってると、こうして女同士でお昼、なんてなかなか行けないのよねえ」

「私たちでよければ、こちらにいらしている時にはいつでもお付き合いしますよー」

「今度はイタリアンのお店なんてどう? ほら、こないだできたばかりの」

「ああ、あそこ? そうね、評判もいいし。総務の子が言ってたけど、パスタが絶品なんだって」

「へえ、そんなお店があるの? 私パスタ大好きだから、行ってみたいわ」

 楽しそうな美里と愛理・紗雪を一、二歩遅れて歩きながら見つめていた凛子は、さりげなく隣に寄り添うように歩み寄ってきた麻美香に気付いて、ふと視線を向ける。前を見つめながら、凛子にしか聞こえないほどの小声で麻美香がささやいたのは、次の瞬間のこと。凛子以外の人間には、麻美香が何かを言っているようになど、まったく見えなかったことだろう。

「…凛子さん。あのひとには、気をつけたほうがいいかも知れませんよ」

「え?」

 一瞬、何を言われたのかわからなくて、聞き返してしまう。そんな凛子に、麻美香はにっこりと邪気など感じられない笑顔で応えながら。

「ほら、こないだ変わったからって教えていただいた書式。ごめんなさい、私すっかりド忘れしちゃって。オフィスに戻ったら、もう一度教えていただけます?」

 すっかり普段と変わらない様子で言う麻美香に、凛子は一瞬毒気を抜かれたような顔をしてしまうが、すぐに平常の自分を取り戻す。

「あ、ああ、あれね。いつでもいいわよ、持っていらっしゃい」

 自分の周囲で、何かが確かにくすぶっている─────そんな空気を感じ取ってはいるものの、それが何なのかまでは凛子には及びもつかない。わからないながらも、何となく不穏なものを感じ取って、凛子は小さく身を震わせた…………。




                  *     *




 どうしたものかと、凛子は思った。

いまは、平日の夜。またしても残業だという明人に、いつもと同じように笑顔で軽く手を振るだけの別れを告げて、家に帰ってきて食事も入浴も済ませてくつろいでいたところだ。手には、愛用の携帯電話。画面には、数人の人物─────蘭子をはじめとする二十代半ばと思しき女性たちに、それより少し年上らしき三十代前半ほどの男性がひとり混じっている─────が楽しそうに思い思いのポーズを決めている写メと、浮かれた感じの文面。先週末、明人と過ごしている間に届いた、妹の蘭子からのメールだった。マナーモードにしたままだったので、明人と別れてから気付いたのだ。

『本日、高校時代の同窓会に来ていまーす! 工藤先生も元気そうで、お姉ちゃんが結婚すると言ったら「おめでとう、お幸せにと伝えてくれ」だって。先生も少しは高校時代と変わってるかな? 本人からオッケーも出たので、さっき聞いた先生のケー番とメルアドも書いておきまーす』

 凛子と工藤がかつての同級生同士でそこそこ親しかったとしか知らない蘭子には、何の罪もないことはわかっている。自分が久しぶりに同級生たちに会って楽しかったから、凛子にもそのおすそ分けをしたいという、彼女なりの気持ちだということも。何しろ彼女が生まれた時からずっと大切に慈しんできた妹なのだ、彼女に他意や悪意がないことは自分が一番わかっている。それでも。このメールの処遇には困ってしまった。

 これがまだ、同性の同級生ならよかった。普通に添付画像をこちらの携帯に保存して、文面の最後に記してあった番号とメルアドをアドレス帳に登録して、「お久しぶり、元気そうで何より」などとメールを打って、旧交を温めればよいことなのだから。けれど、相手は男性だ。万が一にも明人に知られでもしたら、凛子のこととあってはすぐに我を忘れる彼のことだ、ただの同級生だと説明したところで拗ねるに決まっている。仮に相手に友情以外の感情を持っていなかったとしても、まず間違いなく独占欲を丸出しにして面白くなさそうな表情を見せるに違いないのだ。だから、何気なさを装って見せることすらできない。

 更にいうと、他の同級生ならともかく、工藤に関しては凛子自身にも多少後ろめたいところもある。遠い過去、それも明人とはまったく面識がない頃のこととはいえ、凛子にとってはすべてにおいて初めての─────異性とのそういう意味での交際もだが、キスも身体に触れたことも、互いのすべてを受け容れたことも含めての全部だ─────相手となれば、明人がどれほど激しい嫉妬の炎を燃え上がらせることになるか、考えただけでも恐ろしい。もともと勘はいいほうである彼は、凛子のことに関してはそれを更に研ぎ澄ませるのだ、仮に凛子がとぼけたとしても、ちょっとした言葉尻からすぐにそれを察知してしまうに違いない。そして巧みにカマをかけて、たとえ凛子がどれほど注意していたとしても真実を暴いてしまうだろう。だから言えない。このメールについて話すことすらできない。

 無垢とは、時に罪なことになるなと思いつつ、凛子は画面を元の待ち受けに戻してから、パタンと携帯を閉じた。

 そんなことを考えながら眠ったせいだろうか。その夜は、非常に懐かしい夢を見てしまった。

 それは、十数年前の初夏のこと。高校二年の時同じ生徒会の会長と副会長を務めており、既に自他公認でそういう間柄になっていた凛子と工藤は、土曜日の授業が終わってから────ちなみにこの頃はまだ完全に週休二日制になっておらず、第一土曜日と第三土曜日は普通に午前中は授業があったのだ────夏休み前の生徒総会のために多少の打ち合わせをしてから一緒に帰ったのだが、もう少しでいつも別れる工藤の家の近所の角だというところで急な雨に降られ、慌てて共に工藤の家に避難したのだ。にわか雨とはいえ、土曜日の多少遅いお昼時。いい加減空腹だろうと、工藤が凛子の分も昼食を用意してくれて、ふたりでそれを食べたことを覚えている。工藤の家は両親が共働きで、きょうだいたちもバイトや何かで忙しくて帰ってこず────当時は現在ほど携帯携帯が普及していなかったが、公衆電話やよその家からかけたらしい留守電メッセージが家の電話に入っていたのだ────適当な話題が尽きてしまって、何となく気まずい沈黙がふたりを包んでいたこともハッキリ覚えている。

『音楽でも聴くか?』

 と工藤がわずかに緊張を感じさせる声で問うてきたので、この微妙に居心地の悪い雰囲気を何とかできるならと思って了承し、工藤の部屋に初めて入って……。

『何きょろきょろしてんだよ』と言われ、『だって、兄貴以外の男の人の部屋に入ったのって初めてで……』と答えたところでふいに唇を奪われて─────少なくともキスはその時が初めてではなかったが─────そのまま、ほとんど勢いで突っ走ってしまった。いま思い出しても、若かったなと思う。

その後はしばらく普通の男女交際を続けていたが、進路が分かれる時にそのまま自然と別れてしまって……結局、そのまま一度も会うこともなかった。風の噂で教師になったらしいと聞いたこともあったが、ハッキリとしたその後を聞いたのは、意外にも妹の蘭子からだった。まさか、妹の副担任になっていたなんて、夢にも思わなかったのだ。あのまま付き合っていたら、二度目の元カレと付き合うこともなく、もしかしたらいま明人と付き合うこともなかったかも知れない。そうしたら、工藤かそれともまったく別の人ともっと早く結婚なりしていて、いまごろ結婚のことであれこれ奔走することもなかったかも知れないと思った瞬間、凛子は人の縁の妙を感じた。

 けれど、そんな夢を見てしまったせいで、翌朝電車を降りて会社に向かっている途中で明人に会った時、何となく後ろめたさを覚えて少々挙動不審になってしまった。いつもならそんな時には目ざとく追及してくる明人が何も言わないのにホッとしていたから、凛子は明人も多少挙動不審になっていることに気付かなかった。ふたりにしてみれば、それはよかったのか悪かったのか……。




    




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2013.11.7up

明人のほうのみならず、凛子にも
相手に言えないことができてしまった様子。
このまま何事も起こらなければよいのですが…。

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