〔1〕





───────こんなに満ち足りた気分になったのは、いつ以来だっただろう。



 一月の、春まだ遠い寒さが続く頃。まだ暗い部屋のベッドの中で、凛子はふと目を覚ました。

「…………」

 何か、夢を見ていた気もするけれど……よく思い出せない。遠い昔のことだったような気もするし、ほんの数年前のことのような気もするし……。

 身体の上に感じる重みに気付いて目をやると、裸の自分の身体の上に男の筋肉質の腕が載っていた。一瞬驚くが、そういえば昨夜「明日も仕事があるから」と止めたにも関わらず、彼の勢いに流されてしまったことを思い出す。ベッドの周りには、昨日互いが着ていたはずのパジャマや下着が脱ぎ散らかされていることだろう。

 もう……その気になっちゃったら、止められるほうが稀なんだから。

 よっぽどマズい理由がない限り、毅然と止められない自分にも非があることも、凛子には痛いほどにわかっているのだが。

 ふと視線を動かすと、自分の顔のすぐそばで寝息を立てている男の顔が目に入った。眼鏡を外しているぼやけた視界でも、このぐらいの近さなら問題なく見える。普段は眼鏡をかけたシャープな印象を醸しだすやり手の男も、こうして無防備に眠っていると可愛いとしか思えなくなるから、不思議だ─────凛子に関することだと、まるで子どものように駄々をこねる時もあるが、それでもやっぱり、鋭い観察眼と判断力に優れた彼の仕事ぶりはプライベートの姿をよく知っている凛子でさえ目をみはるほど見事で、本人にはとても言えないがその都度惚れ直してしまっていたりするのだが。

 そんなことを考えていたら、前兆もなく彼の身体が身じろぎをしたので、驚いてしまう。反射的なものかと思ったけれど、凛子の身体の上にあった手がそのまま凛子の肩に伸びてしっかりと掴んだので、そうではないとすぐに思い直してその顔を見やると、普段他人には滅多に見せないいたずらっ子のような笑顔で、こちらを見返していた。

「……いい男は寝ててもいい男だろ?」

 くすくす笑いを交えた声に、凛子の顔がかっと熱くなる。

「そ、そんなつもりで見てたんじゃ…っ」

 最後まで言い終える前に、唇をふさがれる。そのまま明人の唇が首筋に移行してきたので、凛子はぴくりと身を震わせた。

「あ…ダメ……今日も仕事があるのに…………」

「時間なら、まだまだ平気だよ。ほら、外はまだあんなに暗い」

「じ、時間の問題じゃなくて…っ」

「ごめん。あんな風に見つめられてたら、もう我慢できない」

 優しく胸に手を這わされると、凛子の呼吸も乱れ始めてしまう。どんなに気持ちがはやっていても、凛子の身体に触れる時は絶対に手荒に扱わない明人の心遣いは嬉しいけれど、こういう時は困ってしまう。本気で抵抗する気になれなくて、結局流されてしまうから。その証拠に、起き抜けでまるで活動を開始する準備ができていなかった凛子の身体も、自然と彼を受け容れる準備が整い始めていて、真冬の朝だというのに掛け布団の隙間から中に忍び込んでくる寒気さえも気にならなくなってしまっていた。

「も、う…強引、なんだから……」

 与えられる快感に抗いながら、何とかそれだけを口にすると、凛子の柔肌を堪能していた明人がその奥に隠されていた内心に気付いたのか、クスリと笑う気配。

「凛子のことだけは、特別。他の何に耐えられても、凛子に関することだけは我慢できないし、誰にも譲れないよ」

 もう。そんな風に言われたら、完全にお手上げではないか。凛子の両腕がみずからの首に回されたことに気付いて、明人が嬉しそうな笑顔を見せる。それからゆっくりと明人の熱が凛子の内部へと浸透してきて……もう、声が抑えられない。

「あ、明人さ……」

「凛子の心も身体も……もう、誰にも渡さないから」

 過去がどうであれ、未来は誰にも渡さない。だから凛子も、俺のことをどうにでもしていいんだよ。

 以前明人が告げた言葉が脳裏によみがえる。明人もだが、凛子にだってそれなりに過去があった。だから、ふとした拍子に考えてしまう。ほんとうに、自分だけを愛してくれる? 過去のことを思い出す余地もないくらい、自分のことで心を満たしてくれる? いつかこの手を放されるのではないかと……不安にしないでいてくれる──────?

 小さな小さな不安の芽が、凛子の中に生まれたのはいつのことだったか、いまはもう、凛子自身にも思い出せない…………。




                     *     *




「ふあ……」

 午前中、会社の廊下を歩きながら口元に手を当ててつい欠伸をもらしてしまった凛子に、後ろから強めの肩たたきと共に、かけられる声。

「やーね、凛子ちゃんてば、昨夜もおさかんだったのぉ〜?」

 からかうような声の主は、振り返って確認しないでもわかる。親友の由風だ。

「由風。会社でそういう発言はやめてっていつも言っているでしょ」

 咎めるような凛子の声も耳に入っていないのか、由風が凛子の首筋────うまく髪で隠したつもりのところではない場所だ────を指でつん、とつつく。

「あ、キスマーク」

!?

 思わずその場所を手で覆い隠しながら振り返った凛子は、にま〜っとしか形容のしようのない笑顔を浮かべる由風を見て、「やられた」と思う。

「なあんだ、やっぱりそうなんじゃんー。いまさら隠すこともないじゃんよ〜」

 ああもうこうなると、同い年の女性といえどそこいらのセクハラ親父と変わらない。むしろ最近は、由風の勢いに中年以上の男性社員たちのほうが圧されている感じさえ見てとれる。この彼女と親友を続けるのも、もう少し考えたほうがいいかと思いつつ、共に自分たちのオフィスに戻ったところで、楽しそうに談笑をしている声が耳に飛び込んできて、驚いてしまう。

「なに?」

 思わず近くにいた後輩の紗雪に声をかけると、明るい答えが返ってきた。

「あ、凛子さん、由風さん。ほら、前に課長が言ってたじゃないですか、近いうちに他の支社から出向してくる人たちがいるって」

 ああ、そういえば。今度のプロジェクトは少し大き目で他県の支社とも連携が必要だから、近場の支社からも出向してくるし、こちらからも行かなければいけないと、明人が残念そうに言っていたことを思い出す。明人の社会的名誉のために補足すると、「残念」なのは仕事上の話ではなく、行ってしまったら日帰りでは絶対に帰ることはできないので、凛子に逢えないという意味での発言だ。隙あらば凛子の身体に指一本でも触れていようとする彼だからこその発言だろうが。

「で、少し前に来たその支社の人が以前神崎さんと同じ支社にいた人らしくて、話がはずんでるんですよ。さっき、お茶を持っていった愛理がそう言ってました」

 そんなこともあるのかと、凛子は驚いた。確かに異動や転勤はあるだろうが、凛子の場合は仕事上の問題かそういうことがほとんどなかったので実感がわかない。しかし、考えてみれば実際明人は異動してきたのだから、あり得ないことでは決してないのだが。

そんなことを話しているうちに、応接スペースのほうから見覚えのある相手とまったくない相手とがまぜこぜになって出てきたので、凛子は慌てて自分のデスクに戻る。ついさっき別の課に行って受け取ってきたばかりの書類の処理を始めようとしたところで、すぐ横に誰かがやってきた気配。顔を上げると、ついさっき応接スペースから出てきたばかりの明人と、その後輩にあたる営業の島野だった。

「ちょうどよかった。これから、別の支社からいらした方を紹介しようと思っていたんだ」

 その言葉に、隣のデスクに座っていた一馬も共に立ち上がる。

「こちらがうちの営業補佐の、鈴木と西尾です。けどうちは『鈴木』と『佐藤』があふれているので、社内では下の名前で呼んだほうがまぎらわしくないですよ」

「初めまして、営業補佐の鈴木凛子です。よろしくお願いします」

「初めまして、同じく西尾一馬です。よろしくお願いします」

「そしてこちらが、K支社からいらした片岡さんと戸川さん」

 明人の紹介に、彼を挟むようにして立っていた男女一人ずつが同じように頭を下げてきた。

「初めまして、K支社の片岡伸二です。こちらこそ、よろしくお願いします」

「初めまして、同じく戸川美里です。同じ女性同士、どうぞよろしくお願いしますね。あ、もちろん男性の方も」

 そう言って笑う女性は、とても魅力的で…もちろん、営業に女性がいることは珍しくもないが────実際この支社にだって由風他女性営業マンがいる訳だし────こんなに魅力的で嫌味のない女性なら、第一印象だけでかなり有利だろうなと凛子は思った。そして、決してそれだけではないものを持っていることを証明したのは、その女性自身で……。

「あら…さっそくですけど、『凛子さん』とお呼びしてよろしいかしら? その左手の薬指の指輪はもしかして……」

 前半の部分で肯定の返事をしたとたんに、予想もしなかった方面からツッコまれてしまったので、凛子の頬が一瞬にして朱に染まる。社内や普段出入りしている取引先の人間には、もうさんざんいじられまくって久しかったので、すっかり忘れていたのだ。

「あの…その……」

 返答に詰まってしまった凛子の続きを引き継いだのは、もうひとりの当事者である明人だった。

「ああ、そっちの紹介を忘れていましたね。この凛子は、僕の婚約者でもあったりするので、よけいなちょっかいはかけないでくださいね、片岡さん」

「あき…神崎さん!」

 とっさに名前で呼びかけて言い直すと、たったいま紹介されたばかりの片岡が、半ば苦笑い、半ば呆れたような笑顔で答えてみせた。

「釘を刺されなくても、ほんのわずかな期間だけ一緒に仕事をする女性に何かするほど、見境がない訳じゃありませんよ」

「あらあら。あの来る者は拒まずの神崎くんがねえ。変われば変わるものね」

「やだなあ、戸川さん、それじゃ僕がまるで女たらしだったみたいじゃないですか。彼女に変な誤解を与えるような発言はやめてくださいよ」

 それではまるで、凛子に出逢うまで女たらしではなかったような言い方ではないか。よく言う、と思いかけたところで、ふと気付く。ということは。この女性が、かつて明人と同じ職場で働いていた相手、ということか。まさか、女性だとは思わなかった。

「でも。そう、貴女が神崎くんのねえ……神崎くんてば、素敵なひとを見つけたじゃない。こんなしっかりしてそうなひとなら、しっかり手綱を握ってくれそうよね、安心したわ」

「戸川さん〜」

 言葉は、丁寧だ。顔も、満面の笑顔────目が笑っていないとか、そういう問題でもない。だけど、何かが…凛子の心のどこかにひっかかるのだ。何が、と問われても多分答えられないくらい、細かいところで……凛子自身にすら説明がつかないぐらいささいな何かがひっかかるのだ。それが何かまでは、ほんとうにわからないのに。

「それはともかく。お式はいつなの?」

「一応、三ヶ月後に予定してます。いろいろとキリもいいしね」

「そう…三ヵ月なんて、きっとあっという間よね、お幸せに」

 それは、ふたりに対しての言葉だったので、明人と共に会釈しながら「ありがとうございます」と答える。その間に、営業らしく目はしのきく明人の目に別の紹介すべき社員が映ったらしく、簡単な言葉で締めくくって、二人を別の場所へと案内していく。

「じゃあ凛子さん、今度女同士でゆっくり話しましょう。神崎くんの、本人は内緒にしているであろう失敗談とか、いっぱい教えちゃうから」

「あ、はい、ぜひ…」

 互いに笑顔で美里と別れると同時に、凛子の胸に小さな棘に似たものが刺さったような感覚が芽生える。どうしてかなんて、やっぱり凛子自身にもわからないのに。

「こちらが、やっぱり営業補佐の佐藤、田中、鈴木」

「佐藤愛理です、よろしくお願いします」

「田中紗雪です、よろしくお願いします」

「鈴木麻美香です、よろしくお願いします」

 あちらでは、何も知らない愛理たち三人娘が挨拶を交わしている。けれど凛子は、何故か美里から目が離せなくて……。

「凛子さん? どうかしました? 気分でも悪いんですか?」

 背後から一馬に声をかけられるまで、動くことすら頭に思い浮かばないほど、自分自身にも訳のわからない感情にとらわれたままだった。

「あ…何でもないわ。同じ営業でも、由風とはずいぶんタイプの違う人なんだなと思っただけ」

「ああ、同じ仕事をしていても、いろんな人がいますからね」

 まるで僕らみたいに、という一馬の最後の呟きは、その口内から出ることもなく消えた。そして、凛子はやりかけの仕事に没頭してしまったから。一馬が意味深げな瞳で自分をしばし見つめていたことに、まったく気付かなかった……。



   





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2013.9.19up

微妙な不安を覚えているところに、新たに現れたひっかかる存在。
果たして凛子は不安を払拭できるのか?

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