〔13〕





 電車では二駅分ほど離れていると言っていた明人の家に着いたのは、約
30分後だった。週末の夜だからと言って、明人が裏道を使いまくった結果だ。のちに明人の部屋の窓から見えた大きい道の混み具合に、それが大正解であったことに後になって凛子は気付いた。「とりあえず水にはつけておかないとね」と言って、明人が百合の花束を持って歩くのについて、自分の荷物を持った凛子も続く。

そういえば、明人の部屋に行くのは初めてだった気がする。自分の部屋には二度ほど入れたことがあるが。以前明人が、「いまの自分の部屋には女性を入れたことがない」と言っていたことがあるけれど…それがほんとうなら、少し、いやかなり嬉しい。もちろん、これからも自分ひとりしか入れないのなら、という条件がつくが。

 鍵を開けて部屋に入り電気をつけると同時に、明人がいま思い出したかのように顔をしかめた。

「どうしたの?」

 明人が止めるのも聞かず、明人の背後から首をかしげて中を見た凛子は、一瞬で事情を理解した。今朝は、よほど急いで出たのだろう、独り暮らしの男性らしく部屋の中は乱雑そのものだったからだ。

「ちょ、ちょっと待っててっ いま急いで片付けるから」

 上がりながら慌てふためく明人の前で、凛子は悠々とミュールを脱いで中に入る。

「気にしないわ。うちの兄も、結婚前はこんなものだったもの」

 当時独り暮らしをしていた兄の部屋を、何度母に頼まれて掃除したか知れない。ほんとうは以前の彼氏の部屋もそうだったが、そちらは明人が気にするだろうと思ってあえて言わないでおいた。

 荷物を端に置いてから、手際良く片付け始める。とりあえずプライベートに関わるものを避けて、まずは雑誌や新聞、グラスやお皿など。身だしなみも行動も、いつも隙がないように見える明人にも、こんな風に気を抜いた面があるのかと思ったとたん、何だかこれまで以上に親近感がわいてくる。考えれば当然のことなのだけど、明人にもこんな人間味溢れるところがあるのだなと思って、ホッとしたのだ。

テーブルの上に一時百合を置いた明人が洗濯物などを片付け始めるのを目の端で確認してから、キッチンの洗い物を片付ける。凛子の部屋もそうだが、明人の部屋にもこんな大きな花束を入れられるような花瓶はないだろうと思ったので、とりあえずシンクを空けてここに水を張って入れておこうと思ったのだ。ほんとうは浴室などのほうがよいのかも知れないが、そちらは今晩使うことが決まっているだろうから、こちらのほうがよいだろうと判断したのである。

 凛子が百合の処置を済ませて振り返ると、明人は電話機に何かの操作を施しているところだった。

「何してるの?」

「え、ちょっと、着信音の消音をね……ああ、あと携帯の電源も切っとかないと」

「そんなこと、毎晩やってるの? でも夜でも携帯でメールとかやりとりしてたわよね?」

「いや、今夜だけはやっとかないとちょっと……」

 明人はそれ以上は語らなかったので、凛子はあえてそれ以上は訊かなかったのだが、彼女がその真相を知るのは、もう少しだけ後の話。

「それはともかく」

「なあに?」

「風呂…もうじき沸くけど、先に入りたい? それとも……一緒に入る?」

 明らかに凛子の反応を楽しんでいるのがわかっているのに、頬が紅潮していくのは止められない。悔しいけれど。

「お先にどうぞっ 私は髪とかで時間かかると思うから」

 ぷいっとそっぽを向くと、背後から明人のブーイングが聞こえてきた。それが三十路も過ぎた人間のすることかとも思うが、自分もひとのことは言えない部分もあるので、その点に関しては沈黙を守る。

「ああもうっ さっさと入ってきちゃいなさいっ」

 まるで母親のように言ってやると、明人は渋々とだが、バスタオルその他を持って浴室へと消えた。ひとり部屋に残された凛子は、自分の荷物を開けながら、これからのことを考える。

 つ…ついに来ちゃった。もう後戻りはできないわよ、わたしっ って、初めてでもないくせに、何変に緊張しちゃってるのよ。明人さんに伝わっちゃうじゃない。お互いいい歳なんだし、それなりに過去があって当たり前じゃない。なのに……何で初めての時みたいに緊張しまくっちゃってるのよ───────。

 風呂の支度を済ませて手持無沙汰になってしまったので、戸が開いたままだった隣室に行ってみる。こちらは寝室兼プライベートルームだったようで、いろいろな本────普通の小説や漫画、ビジネス書など────やらパソコンやらが置いてある。いかにも男性の部屋といった感じの、多少殺風景な部屋だった。ふと見ると、いまは使っていないような細めの花瓶があったので、キッチンに戻って綺麗に洗ってから、水と共に百合の花を何輪か入れてみる。それを寝室の適当なところに置いてみると、百合の香りが少しずつ漂い始めて、心が落ち着く気がしてきた。

「あれ。いないと思ったら、こんなとこにいたのか。こんな暗い所で何してるんだい?」

 振り返ると、清潔そうなバスローブに身を包んだ明人が立っていて。見たこともない姿に、凛子の胸が一瞬高鳴る。

「べ、別に何も…ただ、手持無沙汰だったから。あ、そこにあった花瓶、勝手に借りちゃった、ごめんなさい」

「それは構わないけど……あ、風呂空いたよ、入ってくる?」

「え、ええ。いただきます」

 石鹸の香りのする明人の脇をすり抜けて、みずからの支度を手にして脱衣所へと駆け込む。ドキドキが、止まらない。さっきも思った通り、初めてでもないのに──────。

自分でもよくわからないまま浴室に入り、全身をみがき上げる。先日明人と共にドラッグストアで買い求めた、普段愛用しているシャンプーと同じもので髪を洗っていると、一瞬自宅の風呂に入っているような錯覚を覚えるが、これは現実なのだと自分に言い聞かせる。

自宅から持参してきたバスローブを身にまとい、やはり持参してきたドライヤーで髪を乾かす。変な癖もあるしパーマもかけているので、きちんと乾かさないと後で大変なことになるのだ。化粧も落とし、化粧水や乳液、クリームなどというほとんどスッピンに見える姿になると、とたんに脱衣所から出るのが恥ずかしくなるが、以前もっと恥ずかしい泣きじゃくった顔を見られていることを思い出し、意を決して寝室へと向かう。


「ああ。やっと出てきてくれた。もしかして、いざとなったら恥ずかしくなって出てこれなくなるかなと思って、それなら実力行使で連れに行こうかと思ってたとこだったから」

 からかうような響きに、顔がカッと熱くなる。

「失礼な。ちゃんとひとりで出てこれますー」

 平然として返してやるが、何故か足が寝室の入り口に縫いつけられたように止まってしまって、そこから前へ進めない。

 あ、ら? どうして、足が動かないの? 明人さんのところまで、ほんの数歩歩けばいいだけなのに。動いてよ、私の足。ねえ、ちょっと!

 懸命に奮い立たせようとするが、足は動かない。それどころか、手や肩まで勝手に震えだしてきて、止めようとしても止まらない。何故なのかは、やはり自分でもわからないのに。

「凛子?」

 名前を呼ばれても、震えは止まらない。こんなこと、彼には知られたくないのに。まるで十代の小娘のように怯えているなんて、絶対に知られたくないのに───────!

 そんな凛子の内心など、明人にはお見通しであったらしい。ゆっくりと立ち上がって、凛子のほうに歩み寄ってきて、耳元でささやく。

「──────俺が怖い?」

「こ、怖くなんかないわっ ただ、今日はちょっと疲れちゃったから、それで筋肉が震えちゃうだけでっ」

 自分でも苦しい言い訳だと思うが、それ以上思いつかなかったのだ。

「なら、エスコート致しましょうか、姫」

 言うと同時に抱き上げられて、思わず悲鳴を上げてしまう。ベッドにそっと下ろされて、そのまま眼鏡を奪われて─────確かにもう必要ないかも知れないが、顔をよく見るためかお互い素顔のままで頭を密着させられると……いつもより近過ぎる分、恥ずかしくて仕方がない。

「好きだよ。凛子は? 俺のこと好き?」

 どうしてこう、ストレートに訊いてくるのだろう。覚悟してきたはずなのに、心の奥底から再び羞恥心が沸き起こってくる。言葉にできなくてこくんと頷くが、明人はそれでは納得しないようだった。

「ちゃんと、言葉にして言って」

「言わなくたって、わかってるでしょっ」

 素っ気なく言い放った瞬間、明人の頭が凛子の肩に埋まって。突然無言になった相手に何だか不安を感じて、凛子は声をかける。

「あ、の…明人、さん─────?」

「わかってるつもりでも、不安になる時があるんだよ。お願いだから。どうか言葉で言って? 俺に、自信を与えてくれ──────」

 初めて聞くような、自信のない声だった。

「凛子は知らないだろ、自分がどんなに魅力的かなんて。ちゃんとつかまえておかないと、横から誰かにかっさらわれそうで……怖いんだ。だから」

 こんな弱気な明人は、初めて見た。自分の知る明人は、いつも自信満々で……その裏側では、こんなことを考えていたのだろうか?

「──────馬鹿ね。好きに決まってるじゃないの。じゃなきゃ、いまここにいようとなんてしてないわ」

 言いながら、やわらかな胸の中にぎゅうと抱きしめてやる。その瞬間、凛子の腰に回された明人の両腕に、力がこめられて……息ができなくなりそうになる。次の瞬間、突然顔を上げてきた明人に、まるで不意打ちのように口づけられて。そのままゆっくりとベッドへと押し倒されて……バスローブの紐を引かれる。

「ちょ、ちょっと待ってっ」

「いやだ。待たない」

 明人は最後まで、『初めてでもないくせに』というようなセリフは言わなかった。いままで付き合った男に対する嫉妬心を感じさせるような言葉も。だから、凛子も何も言わなかった。

 いま、ここにいるのはただの明人と凛子。それでいいと思ったから。

「ん……」

 口づけをしながら耳朶をいじられて、凛子は思わず身を震わせてしまう。それに気付いたらしい明人の指が耳のあたりから首筋をたどり、鎖骨のあたりまでまるでくすぐるように撫で始めて……くすぐったいような、ぞくぞくするような感覚は、もうここ何年も感じたことのなかったものだけれど、身体の奥底から記憶が呼び覚まされてくる気がする。

「あ…」

 たまらなくなって小さな声を上げると、明人が嬉しそうに口元に笑みを浮かべて、再び顔を近付けてくる。唇を合わせるだけのそれではなく、今度は舌も絡ませてくる、息もつかせないような激しいキス─────。

唇を離して、互いの唇を繋げる透明の糸を名残惜しそうに手の甲で拭ってから、明人は凛子の首筋に顔を埋めてくる。ぴくりと反応してしまった凛子の首筋に、音を立てて落とされる唇。

「前から思ってたけど…やっぱり凛子はこのへんが感じやすいんだね。ここらへんを攻めると、すぐに反応する」

「そ、んなことな…っ」

 必死に反論しようとするけれど、いつのまにか大きく胸元をはだけられたバスローブの合わせ目から明人の手が進入してきて、優しく胸に触れられてそれ以上言えなくなってしまう。

「あ、ん…っ」

 こんなに優しく丁寧に扱われたのは、いったいいつ以来のことだろう?

「すごく…綺麗だ」

「や、だ、そんなこと言わないで…っ」

 恥ずかしくてそう告げたとたん、いつの間にか胸元にまで下りてきていた明人の唇が胸の先をその中に含んで、まるで味わうかのように舌先で転がし始めた。その温かく湿った感触が、凛子の身体に電流にも似た何かを走らせる。

「あ、やあ…っ!」

 明人は何も言わないが、その分舌先が雄弁に語るように休むことなく凛子を翻弄する。片側だけでなく、もう片方にも指と共にちゃんと愛撫を加え、更に凛子の背や腰から脚にかけても満遍なく撫でさすっているあたりはさすがといえるが、いまの凛子にそんなことに気付く余裕はない。

「あき…ひ、とさ……っ」

 絶え間なく嬌声を上げさせられて、凛子がようやく明人の名を呼べた時には、明人の顔は既に凛子の下腹部に移っており、それに気付いた凛子が制止の声を上げる前に、脚の間にその顔を埋めた。

「や、あああっ!」

 そんな経験がない訳でもないが、まさかそんなことまでされるとは思っていなかったし、もう思い出せないくらい遠い昔の経験でしかなく、更に彼にそんなところを見られるのは初めてであったために、羞恥心はもううなぎ上りだ。

「やめ…っ お願い、恥ずかし…のっ」

 ほとんど半泣きで訴える凛子の耳に届くのは、平然としている明人の声。

「でも、相当久しぶりなんだろうし、ちゃんと慣らしておかないと後がキツいよ? 俺、自分を抑えられる自信全然ないし、凛子に痛い思いさせたくないし」

「…っ!」

 その言葉にまたしても羞恥心を煽られたところで、再び襲いかかってくる久しぶりの感覚。温かくやわらかな何かが凛子の中を蹂躙していき、忘れかけていた快感を再び思い出させる。身体の奥に灯った小さな火が、どんどん大きくなっていくのを凛子は自覚した。

「は…っ あ、あんっ だ、め……っ」

 思わずベッドの端にあった上掛けを掴んだところで、ふいに敏感な花芽に舌を這わされて、そのあまりの刺激の強さに、それまで声を抑えていたことも忘れて一際高い声を上げてしまった。

「…いいよ。何も我慢しないで。凛子はただ、感じてくれればそれでいいから」

 明人の言葉に顔が更に熱くなって、反論しようとするが、それもかなわない。これまでの恋愛編歴など語ったことはほとんどないが、ブランクがあることをわかっているのか、明人の愛撫はどこまでも優しい。けれど確実に与えられる快感に、絶え間なく嬌声を上げさせられているうちに、花芽の周りを撫でていた指がそっと凛子の中に入ってきた。

「ん…っ」

「ごめん、痛い?」

 多少の違和感はあるものの痛みは感じなかったので、正直に首を横に振って応えると、明人はホッとしたような笑みを見せる。

ああ。私やっぱり、このひとが好きだ。

考える間もなくごく自然に心に浮かんできた想いに、凛子も知らぬ間に微笑んでいた。

「明人さん……好き──────」

 ごく自然に浮かんできた言葉を唇に乗せると、明人はほんとうに嬉しそうに微笑んでから、「俺も好きだよ」と返してきた。それと同時に、凛子の中に沈められた指の動きが少しずつ早まっていく。

「あっ ああっ! そ、そんなことしたら…っ」

「いいよ、イッて」

 予想もつかない指の動きと共に、花芽に再び伸ばされた舌によって、凛子の意識が急速に覚えのある高みに上らされていく。

「やっ あああ─────っ!」

 凛子の頭の中が真っ白になって、もう、何も考えられなくなってしまった……。

 呼吸が、整わない。たったいま自分の身に何が起こったのかわかっていなかったところに、少しずつよみがえっていく直前までの記憶。そのことが、凛子の心にいままでとは比にならないほどの羞恥心を呼び起こさせる。

 私…私、いま……?

 恥ずかしくて、もう顔を見せられない。思わず両手で顔を覆ったところで、優しく手首にかけられる大きな手。

「どうしたんだい?」

「や…っ 見ないでっ」

「どうして? 感じてる時の凛子はすごく可愛いし、綺麗なのに」

「そういうことを言わないで…っ」

 言い終わる前に手を外されて、髪を撫でられながらそっと額にキスをされる。

「凛子。愛してる───────」

 百合の、むせ香るような香りの中で。大切なひとの腕の中で、凛子はいま初めて生まれ変われたような、そんな気がした……………。



    





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2013.1.22up

ようやく過去をふっきることができた凛子。
これからは、まっすぐ前を向いて歩いていけそうです。

そしてぶっちゃけた本音。
濡れ場はやっぱり難しいです(泣)

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