〔12〕
眼下を埋め尽くすのは、色とりどりの百合の群れ。白から始まり、黄色・オレンジ・赤・薄いものから濃いものまでさまざまなピンクいろんな色の百合が所狭しと植えられているさまは────大半のものは蕾の状態であったが、ところどころ咲いてしまっているものを見るだけでも、まさに圧巻で。花とは多少距離があるというのに、これでもかと言わんばかりに香りは漂ってきて、百合とはこんなにも自己主張の強い花だったかと思ってしまうほどだった。 「どう?」 背後から、明人が訊いてくるけれど。 「すご…い───────」 もう、それしか言葉が出ない。 「百合って……こんなに色がある花だったの? 知らなかった……すごく綺麗…………」 それ以上は言葉にできなくて、凛子はただ、感嘆のため息をつくばかりだ。大半の人がそうであるだろうが、こんなにも大量の百合を凛子は見たことがなかったがために、ただ圧倒されてその場に立ち尽くすしかできなかった。 十数分もそうしていたであろうか。だんだんと精神が現実へと立ち戻ってきて、普段の冷静さを取り戻す。 「そういえば……か、明人、さんはこんなところよく知ってたのね。今日連れてきてもらわなかったら、私きっと一生知らないままだったわ」 振り返ってそう告げると、車の屋根の上にもたれかかって凛子の後ろ姿を見守っていたらしい明人が、驚いたように軽く目をみはって。それからこともなげに言葉を紡ぐ。 「ああ……実はこのへんがうちの親父の出身地でね。親父の実家が百合農家やってるんだ。いまは伯父が後を継いでるんだけどね」 「そうだったの?」 初めて聞いた。というより、明人の身内の話自体をあまり聞いたことがなかったことを思い出す。 「だから、あの百合はうちの伯父の丹精の賜物って訳。女の人は綺麗な花や風景を見たら喜ぶって言ってただろ? だから」 そういえば…以前、女性を誘うにはどうしたらよいかと訊かれたことがあった。あの頃は、てっきり自分ではなく別の女性を口説きたいのだろうと思っていたけれど。あんな、軽い気持ちで答えた言葉を覚えていてくれたのか? ほんとうに世間話の一環として、単なる一女性の意見として言ってみただけだったのに……。 そしていま、凛子を喜ばせるこのためだけに、あんなに時間と手間暇をかけてわざわざこんなところにまで連れてきてくれたのか。明人の心遣いに、胸の奥がかあっと熱くなる。 どうしよう。どうしよう。わたしいま、すごく嬉しい──────。 もちろん、仕事で疲れているのに申し訳ないと思う気持ちや、感謝の気持ちも存在する。けれどそれ以上に、こんなにも大事に思ってもらえている自分が嬉しくて。誇らしくて。いままで感じたことのない気持ちに、凛子自身が当惑していた。こんな気持ち、いままで感じたことはなかった。 抱きしめたい。強く、強く慈しみたい──────この感情を、「いとおしい」と表現するのだろうか。凛子にはわからない。ほとんど本能が命ずるままに、ゆっくりと歩きだす、明人へと向かって。凛子の意図に気付かないままで、けれど笑顔で両手を広げて待っていてくれる明人の胸に、まるで磁石が引き寄せられるように、ごく自然に飛び込んでいた。 「ありがとう……こんな、素敵なところに連れてきてくれて───────」 言葉が、素直に口をついて出る。もう、それしか言えなかった。明人の両腕にぎゅうと強く抱き締められた後、顎に指をかけられてそっと上を向かされる。明人の瞳と真正面から目が合うが、不思議と恥ずかしさは感じなかった。お互い何も言わないまま、そっと目を閉じようとしたその瞬間。明人の両眼が突然大きく見開かれ、素早く凛子の身体を抱き締めたまま、くるりと自分の位置と入れ替えた。いったい何がと訊く暇もなく、次の瞬間明人の頭に勢いよくサッカーボールが当たり、跳ね返った。 「すみませーんっ!!」 「へったくそ、どこ蹴ってんだよっっ」 「ごめーん」 「あたしたちよりあっちに謝るのが先でしょっ! ごめんなさい、大丈夫ですか?」 「ごめんなさーいっ」 明人の身体に阻まれて姿は見えないが、子どもたちの声のようだった。近所の子どもたちだろうか? その声を聞いた瞬間、明人の喉から声にならない「げっ」という声が聞こえた気がした。 「ケガはないですか…って、あーっ 明人兄ちゃんっ!!」 明人の顔を見た子どもの一人が叫んだとたん、子どもたちが一斉にざわめいて。それから、口々に騒ぎ始める。 「ホントだ、あき兄ちゃんだ!!」 「何でこんなとこいんの? 今日来るって言ってたっけ?」 「あれ、あき兄ちゃんて仕事で違う県に行ってたんじゃなかったっけ?」 「この春転勤で帰ってきたのよ。希望出したら通ったって、お母さんが『栄転みたいなものね』って言ってたわ」 「って、兄ちゃん女のひと連れてるっ」 「えっ うそっ」 「ホントだ、すごいきれいなひとー」 「おにいちゃん、そのひとだれー」 もう大騒ぎである。 「こ…この子たちって…?」 「このへんに住んでる、親戚のガキども。こうなるのが嫌だったから、見つからないように気をつけながら来たってのに」 明人はすっかり頭を抱え込んでいる。 「おかーさーんっ あき兄ちゃんがすごい美人連れてきたーっ!!」 「わーっ 待て、言うな─────っ!!」 明人があわてて止めようとするが、子ども、それも複数の勢いはそうそう止められるものではない。あれよあれよと子どもたちに引っ張られて、ふたりは近くにあるという神崎家の本家へと連れて行かれる羽目になってしまった。あまりの怒涛の展開に、客間に通された凛子は緊張でもうがっちがちである。 本家って…やっぱりあの本家よね!? 粗相なんかしたらとんでもないことになりかねないんじゃない!? 「だから、嫌だったんだ……凛子にこんな不要な緊張強いるつもりなんかなかったから」 「だ…大丈夫よ、明人さん。あたしがきちんとしてればそれで済むことなんだから」 うわずった声で言いながら、正座した膝の上で握った両手に力をこめる。三十路に入って久しいのだから、これぐらい大丈夫。難なくこなしてみせる。胸の内で決意を新たにしたその時、ともすれば震えてしまいそうだった両手が上からそっと温かいものに覆われた。明人の手だった。それだけで、緊張がいくらかやわらぐ気がして、凛子はホッとする。 「ごめんなさいね、お待たせして」 明るい声で言いながら、年配の女性がお茶を乗せた盆を持ってやってくる。先ほど明人が言っていた伯父の妻である伯母だろうか。 「粗茶ですが、どうぞ」 「ど、どうぞお構いなくっ」 「あらやだ、そんな緊張しなくていいのよー。大方寄る気なかったのにあの子たちが無理に連れてきたんでしょ〜」 などと言いながら、女性はからからと笑う。なかなか大らかな性格の女性のようだ。そこに、どかどかと派手な音を立てて、作業服を着た年配の男性が部屋に入ってきた。 「明人が女の人を連れてきただと!? どれ、会わせてみんかいっ」 「お父さん、もうちょっとお上品に入ってこれないの? あちらのお嬢さん、すっかり緊張しちゃって可哀想なぐらいなのに」 女性にたしなめられて、男性はコロッと人懐っこい笑顔になって、声のトーンもいくらか落として話しかけてくる。 「いや、こりゃ失礼。どうも初めまして、明人の伯父です」 「伯母です」 ふたり並んで丁寧なお辞儀をしてきたので、凛子もあわてて座布団から下りてから頭を下げる。 「は、初めまして、鈴木凛子と申しますっ 明人さんにはとてもよくしていただいて……」 「凛子、凛子。会社じゃないんだから、そんなにかしこまらなくてもいいんだよ」 明人にかけられた声に、凛子は我に返ってかあっと頬を紅潮させてしまう。 「これはこれは、礼儀正しいお嬢さんだ。明人にはもったいないぐらいだな」 「伯父さん、それはないよー」 「えーと、凛子さんって呼んでよろしいかしら?」 「あ、はいっ」 「明ちゃんとは同じ会社って話だけど、もしかして前にいた県の会社にお勤めなの?」 「あ、いえ、明人さんがこちらに移ってきてからなので、いまは同じ職場です」 「って……あらやだ、まだ三カ月も経ってないじゃないっ 明ちゃんいったいどんな手を使ったの、伯母ちゃん怒らないから言ってごらんなさいっ」 真剣そのものの顔の伯母に対して、明人は普段とはまるで違う大慌ての顔だ。 「伯母ちゃん、人聞きの悪いこと言わないでくれよ、凛子が誤解するだろ!?」 「わっはっはっ そうだよなあ、親父に似て目的のためなら手段は選ばん性格だが、特定の女性を身内に会わせたことは一度もないって話だったもんなあ。こちらのお嬢さんには相当本気ってことなんだろ、なあ?」 伯父のフォローになっていないフォローに、明人が更に慌てふためく。普段は絶対見せないような本音全開の明人に、どうにも堪え切れなくなって凛子はクスクスと笑ってしまう。 その後は、やれ伯母だ従兄弟だ従兄弟の子どもたちだ────先刻会った子どもたちのことだ────が乱入してきて、もうすっかりお祭り騒ぎになってしまった。おかげで凛子の緊張はすっかりほぐれたが、明人の精神的疲労は半端ないようだった。 そのまま昼食もご馳走になったり皆の質問にひとつひとつ答えていたりしたら────ふたりのつきあうきっかけやいまの仲の進行具合については適当にぼかしたが────時刻はすっかり夕刻になってしまい。「泊まっていけ」というひっきりなしのお誘いを何とか明人が断り続け、ふたりは帰路についた。 「あ〜、疲れた」 エンジンのかかっていない車の中で、ハンドルに上半身をあずけて明人がぽつりと呟く。凛子は助手席で、クスクスと笑いながら声をかける。 「ほんとうに、お疲れさま」 「…凛子、楽しんでるだろ」 「さあ、どうかしら」 明人が恨みがましい目を向けてくるが、凛子は涼しい顔で素知らぬふりで目をそらす。今日一日ですっかり「凛子」呼びが定着したようで、何だか嬉しいようなくすぐったいような。 走り出した車は、夕食を挟んでそのまま凛子のマンションに向かっていたが、凛子はまだ明人と別れがたかった。けれどそれを口にする勇気がいまひとつ出せず、他愛のない話題しか提供できない。もう少し…ほんとうにもうほんのちょっとだけの勇気でよかったのだけど──────。 言いだせないまま車はマンションの前に着いてしまい、しょんぼりとした内心のまま凛子は助手席からそっと降りる。どうして自分は、肝心な時に限ってこんなに意気地なしになってしまうのだろう? 自分で自分が嫌になってくる。 「ああ、そうだ、ちょっと待ってくれる?」 運転席から降りてきた明人が、車の後ろに回ってトランクを開ける。「見てごらん」と指で示されてそちらを見た凛子は、あまりの驚きに言葉を失ってしまった。トランクの中に所狭しと入っていたのは、あちらに着いた時に見た色とりどりの百合の花だったからだ。もちろんあの畑のように大量にではなく、薄い無地の紙に包まれたささやかな花束であったが、それでも花屋で買ったらいったいいくらぐらいするのかと思えるほどの量だった。 「これ……!?」 「サプライズのお返し。伯母が、『プレゼントしてやれ』ってさ」 「……っ!!」 皆の思いやりが嬉しくてあたたかくて─────目頭が熱くなる。その瞬間、凛子の心は決まった。 「ありがとう─────すごく嬉しいわ」 「さて、凛子には持てないだろ? 部屋まで持っていってあげるよ」 そう言って花束を持ち上げようとする明人の腕を手で制して、凛子は決意を秘めた瞳でゆっくりと明人を見上げる。 「ちょっと待って。このまま、10分だけ待っててくれる? すぐ戻ってくるから」 「あ、じゃあこのままここにいたら邪魔になるから、そこのコンビニにいるよ。そっちに来てくれるかな?」 迷いのない様子でこくりと頷いて、明人と一度別れてからみずからの部屋へと早足で向かう。頭の中で、まるで仕事の時のように必要な物を素早くピックアップしながら、一秒も無駄にしない。そして部屋に入ると同時にそれらを引っ張り出し────しまってある場所も出す順番も頭の中でシミュレーション済みで、わずかな時間さえも無駄にはしなかった────少し大きめのバッグに素早く詰めていく。入れ方など半分はどうでもいい。ちゃんと忘れずすべて持っていければいいのだ。それを詰め終わってから、家中の窓のカーテンを閉め────何しろ女の独り暮らしなのだ、防犯には気をつけねばならない────ハンドバッグと先ほどのバッグを手に、家のドアを閉める。 コンビニに着くと、明人は駐車場でエンジンのかかっていない車に乗ったまま、そこで買ったものらしいペットボトル飲料を飲みながら、運転席と助手席の窓を全開にして待っていた。凛子に気付くと笑顔で片手を上げるが、その手の中にある荷物を見て驚いた顔をする。その視線に気付きながらも、凛子は何も言わずに助手席にもう一度乗り込む。 「ど…どうしたんだ?」 明人の疑問ももっともだった。けれど凛子はそれには答えず、まるで仕事の時のようにきっぱりはっきり言ってのけた。 「もうひとつだけ、連れて行ってほしいところがあるの」 「それは構わないけど」 言いながら明人は車のエンジンをかけ、全開だった窓を閉める。 「いったいどこに……」 「──────貴方の部屋」 そう告げたとたん、明人の動きが止まる。 「………本気─────?」 そこまでしか勇気が続かず、後は無言でこくりと頷くだけだ。 「連れていったら最後、今晩はもう帰らせることはできないけど?」 覚悟の上だ。顔を真っ赤にしながらも、それでも力強くこくんと頷く。 「ほんとうに……いいの─────?」 そこまでが限界だった。 「お願いだから! これ以上……もう訊かないで……………」 一度俯いてしまったら、もう顔が上げられない。髪が下りてきて顔を隠してくれたことにホッとしたのも束の間、明人のまっすぐな視線を横顔に感じて、もうそちらを向けなくなってしまう。 「………わかった」 幸い明人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと車を発進させてくれた。こんなに恥ずかしい思いをしたのは、いつ以来だろう? 車窓の外に流れる風景を眺めながら、凛子はぼんやりと考える。頭のどこかから、ほんとうによかったのか、雰囲気や状況に流されているのではないかと問いかけてくる自分もいたが、すぐに内心で首を横に振る。 そんなんじゃない。彼の人となりを知って、彼の想いを知って─────ようやく過去から解き放たれたクリアな視界で改めて周りを見て。その上で、彼というひとを好きだと思った。だから、もっと近付きたいと思った。心だけじゃなく、全身で。身体だけじゃなく、心で──────。 「…………」 けれど、そんなことを明確に口に出せるほど、凛子はまだ強くなれていなくて。こんな方法をとることしかできなかった。そんな自分がもどかしくて、けれど伝えたくて、どうしていいか考えたあげく、窓ガラスに映る彼の体勢を確認してから、かすかに震える右手で信号待ちの間に彼がハンドルに添えるようにしていた左手にそっと触れる。窓ガラスの中の彼は一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど、すぐに嬉しそうな微笑みに変わってこちらを向いた。そんな様子を見てしまったら、凛子は更に恥ずかしくなってしまって、ますますそちらを向けなくなってしまった…………。 |
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2013.1.21up
皆の優しさに包まれて、凛子もついに自分の想いを自覚したようです。
次回、R-18シーンに突入?
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