〔11〕





 そして日が変わって。いつも通りにオフィスに姿を現した凛子に、皆が驚愕の叫びを上げた。

「ど…どうしたんですか、凛子さん!?

「今日は髪上げないんですか?」

 愛理と紗雪が問うてくるのに、笑顔で応えながら。

「え、ええ。ちょっと、気分転換にね」

 恋愛体質で常に彼氏がいる麻美香だけは何か気付いたようだったが、何も言わなかったので凛子はホッとする。ここで真相をバラされでもしたら、また昨日の二の舞だからだ。明人と由風だけは真相を知っているので、離れた場所で人の悪い笑みを浮かべていて、凛子にはそれが腹立たしくて仕方がない。

 もうっ ふたりともわかってるくせに……とくに神崎くん、せっかく作ったけどあげるのやめようかしら。

 などとちらりと思うが、「素直になろう」と昨日決めたばかりの目標をさっそく覆すのも癪なので、懸命に我慢する。

 そして、昼休みになってすぐの時間。少し前に営業先から帰社していた明人が他の男性社員と社員食堂に行こうとするのを呼びとめて、そっとひとけのない場所に誘導する。

「どうしました? もしかして昼食のお誘いでしょうか?」

 嬉しそうに笑いながら問いかけてくる明人に心底居心地の悪い思いを味わいながら、背後に隠したものをそっと前に出してみせる。

「あ、の……こんなこと、迷惑かも知れないけど。作ってみたから…よかったら、そうホントによかったらでいいんだけど、食べてくれないかなって………」

 大きさの違うふたつの弁当箱の包みを見せながら、凛子は蚊の鳴くような声でささやく。とてもではないが、こんなこと大きな声で言えやしない! あまりに恥ずかしくて顔を上げられなかった凛子だったが、返事の声を聞く間もなく突然弁当ごと抱き締められて、思わず悲鳴を上げてしまう。近くを通りかかっていた人たちがこちらを一斉に向くのがまた恥ずかしくて仕方ない。

「マジですかマジですかマジですかっ!? 喜んでいただくに決まってるじゃないですかっ!!

 本気で嬉しそうに─────まるで小さな男の子のように感情をあらわにして抱きついてくる明人から、凛子は懸命に逃れようとするが、身体は成人男性の力からは逃れられない。

「わ、わかったから離して─────っ!!

 と悲鳴に近い声を上げるが、明人は止まらない。通行人たちは「あーあ、お熱いこって」などとひやかすだけで、誰も止めてはくれない。恐慌状態に陥った凛子を救ったのは、意外にも西尾だった。

「神崎さん神崎さん。そんなにもみくちゃにしたら、凛子さんもせっかくのお弁当もぐちゃぐちゃになっちゃいますよ」

 その言葉に、明人の動きがぴたりと止まる。おかげで凛子もようやく解放されて、思わず安堵する。

「あ……すみません、あまりに嬉し過ぎてつい」

「大丈夫ですか、凛子さん。せっかく作ったお弁当をぐちゃぐちゃにされちゃう悲しみはよくわかりますからね」

 それはどういう意味かと訊ねようとした凛子は、西尾が指し示した方向を見やって心底納得した。

「西尾ーっ 何やってんだよ、早く来なよーっ」

 西尾の愛用の弁当包みとよく似た包みを持った由風が、それをぶんぶん振り回して屋上へと続く階段を上ろうとしかけていたからだ。あまりに由風らしくて、凛子は西尾と共に思わず苦笑してしまう。

「西尾ーっ?」

「じゃ、僕はこれで」

「あ、ありがとうっ」

 慌てて礼を言った凛子に笑顔を見せて、西尾は由風と共に屋上へと消えていった。

「あのふたり……いつの間に、あんなに親しくなったのかしら」

 由風と西尾の関係になどまるっきり気付いていなかった凛子は、軽く目を見開いて驚いてしまう。由風も西尾も、これまでそんな素振りほとんど見せなかったのに……。

「まあ、よそのカップルのことはいまはどうでもいいじゃありませんか。僕らは僕らのことだけ考えていきましょう」

 にこにこにっこり。営業スマイルでは決してない、にやけたとしか表現のしようのない笑顔の明人に、反比例して恥ずかしさがうなぎ登りの凛子は、もう顔が上げられない。こんなやりとりを見せた後では、とてもではないが衆人環視の社内で共に昼食を食べるなんてできやしない。

「お…表行かない? 神崎くん。ほら屋上は由風たちがいるし……」

 凛子の言わんとしていることを敏感に察知したのか、明人は笑顔のままでうなずいた。

「そうですね、お邪魔するのも悪いし、されたくもありませんしね」

 明人の提案で、社外の穴場だという小さな公園まで歩いていく。公園と呼ぶには小さ過ぎるし遊具も大してないしで、皆は昨夜凛子と由風が通ったほうを公園と呼び、こちらは広場と呼んでいるという。確かに中のベンチにはほとんど人の姿はなく、気兼ねなくくつろげそうなところだった。明人と違い、10年はいまの会社で仕事をしている凛子でさえ知らないようなところで、営業で社外を歩き回っている明人ならではのチョイスに思えた。

「さて。凛子さんの手料理は初めてだなあ。何を作ってくれたんですか?」

 ベンチに座り、飲み物を買ってきてから、意気揚々と包みを開けようとする明人にハッとする。

「あっ 夕べも遅かったし、ロクに考える時間もなかったしで、大したもの作れなかったのっ ただ、『どちらかというと洋食より和食のほうが好み』って言ってたから、和食にしたってだけでっっ」

「いただきます」

 凛子の言葉を聞いているのかいないのか、それだけ呟いて明人は問答無用で弁当にぱくつく。何を言われるかびくついている凛子とは対照的に、明人の表情が輝きだした。

「美味いっ! 由風さんがいつもご馳走してもらってるのを自慢してくるんで、もう夢にまで見てたぐらいだったんですよ。食べたくて食べたくて……こんなご飯を毎日食べられたら幸せだろうなあ」

「そ、そんな大したものじゃ……」

 恥ずかし過ぎてぶっきらぼうに答える凛子の前で、明人は少々残念そうな表情をして顔を覗き込んでくる。

「な、なに?」

「プロポーズのつもりだったんですが……通じませんでしたか」

 凛子の顔は、羞恥のせいでもはや噴火寸前だ。

「は、早く食べちゃいなさいっ 昼休みが終わっちゃうわよっっ」

 まさか白昼の公園でそんなことを言われるとは思っていなかったので、完全に油断していた。主導権はすっかり明人に握られていた。

「はーい。あ、仕事が終わったら、ドラッグストアに買い物に行きましょうか」

「ドラッグストア? まさか、胃薬が必要とか!?

「まっさかあ、そんなんじゃないですよ。凛子さんご愛用のシャンプーやリンス、基礎化粧品なんかを買いに行きたいだけです」

「わたしの?」

 まさか、凛子のことを好きなあまり同一化したくて、同じものを使おうとしているのだろうか…? あまりにもおぞましいものを想像しかけて、思わず食欲減退しそうになった凛子の考えに気付いたのか、それまでの余裕を振り捨てて明人があわてて両手を振った。

「ち、違うからっ 多分、想像してることと違うからっ」

 ほんとうに余裕がなくなると、明人は敬語が吹っ飛んでしまうらしい。少しずつわかってくる明人の内面に、凛子は何となく嬉しくなってくる。

「同じものを用意しとけば、凛子さんがいつでもうちに泊まっていけるだろってこと」

 いたずらっぽい笑顔を浮かべて言う明人の言葉に、凛子は今度こそ完全に噴火した……。




                     *      *




 その次の週末は、明人と映画を観たり街中をぶらついて過ごし、お茶と食事をして別れた。明人はもっと一緒に居たがったが、あちら側にどうしても外せない用事が入ってしまって夜もまだ早いうちに別れざるを得なかったのだ。その分の埋め合わせとして、翌週末のドライブをメールで提案してきたのは、その翌日のこと。何とマメな男か。

 くすくす笑いながらメールの返事を打ってから────もちろん「是」の返事だった────ふと思い出すことが凛子にはあった。それは、自分の昨日の服装のこと。街中に出るとのことだったので、あまりラフになり過ぎないようにカジュアルなものにしたのだが、何というか…街中で見かけた同年代と思しき女性たちに比べて、どうも堅苦しさが抜けないというか。彼女たちは大半が男性と連れだっているということもあって、かなり華やかな髪形や服装をしていた。髪形は、明人につけられた例のキスマークのこともあるから大して変えられないが、服装に関しては……明人は、顔立ちやスタイル共に水準以上のそれで、さらにいえば営業という外交的な職種のせいか私服姿もお洒落に入る部類だった。それと一緒に歩くのに、自分の何という野暮ったいことよ。これでは恋人同士というより、単なる友人同士か先輩後輩のようにしか見えないのではないかと、凛子は思った。

 けれど、通勤や職務の時のそれならともかく、私服のセンスにはあまり自信がない。どうしたものかと考えて、凛子は恥を忍んである行動に出ることにした。

「─────申し訳ないんだけど。今週中のいつかの仕事帰りに、プライベート用の洋服を見立ててもらえない?」

 翌日の昼休み。給湯室でお茶を入れていた目当ての人物たちに向かって、凛子は頭を下げた。ちなみに明人は、営業先で共に昼食をとることになったとのことで、いまは会社にいない。

「わたしたちでいいんですか?」

 相手のひとり─────愛理が、もともと大きな瞳をこれ以上ないというほどに見開いて問うてくる。

「そんなこと言われたら、あたしたちで好きに選んじゃいますよ?」

 相手のひとり─────紗雪が、期待に満ちた眼差しで聞き返してくる。

「あなたたちしか、頼れる人がいないの」

 由風ももちろん信頼している一人だが、由風の場合プライベートでは「楽が一番!!」と言って憚らずあまり女性らしくない服しか着ないので、今回はあてにはできない。

「ホントにいいんですね!? じゃあはりきって選んじゃいますよ!?

 相手のひとり─────麻美香が、本気で楽しそうに双眸を輝かせる。

「よろしくお願いします」

 深々と頭を下げて伝えると、三人娘が歓喜の叫びを上げた。オフィスに残っていた他の社員が、何事かと給湯室を覗きに来るほどの歓声だった。

「それってやっぱり、神崎さんとのデート用ですよね!?

「やーん、嬉しーっ 凛子さんのコーディネートをできる日がくるなんてーっ!!

 愛理と紗雪が互いに両手の指をからませて、ぴょんぴょんと跳ねまくる。そんな中、麻美香だけは何も言わず、そそそ…と凛子の耳元に唇を寄せてぽそっとささやいた。

「プライベート用の髪の上げ方も後でお教えしますけど、神崎さんにもちゃんと言っておいたほうがいいですよ? あまり目立つ所に跡をつけないでほしいって」

 さすが恋愛に関しては、凛子と違って百戦錬磨の麻美香だ。凛子の髪を上げなくなった理由など、とっくの昔にお見通しだったということか。この時の麻美香は普段とは違い、他の二人とは一線を画して女の顔をしていた。凛子の顔が、一瞬にして赤く染まる。

「………ご意見、ありがたく参考にさせていただきます」

 もう、これしか言えなかった。

 それから二日ほどした日の終業後。明人が営業先から直帰の日を狙って、四人そろって会社を出る。由風はその場にいたが、三人娘から目的を聞くや否や、「ああ、あたしには縁のない話だね。あんたたちでいいの見つくろってやって」とだけ言って、ひらひらと手を振って去って行ってしまった。由風も、プライベート用では自分の意見は参考にはならないと、痛いほどわかっているのだろう。

 その後は、もう大騒ぎだった。三人娘にいろんな店に連れていかれ、ああでもないこうでもないといろんな服を試着させられ、凛子は完全に着せ替え人形状態だった。以前、明人にブティックに連れていかれたあの時とはまるで違う、あれ以上に怒涛の勢いだった。あまりにもたくさんの服を着せられてもう何が何やらわからなくなり、しまいにはただ言われるがままに着替えるだけだった。

この三人のバイタリティは、いったいどこから湧き出てくるのだろう? 自分と由風にも同じような年頃の頃があったはずだが、ことおしゃれに関してはここまでの情熱はなかった気がする。これが個人差というものかと、ぼんやりとした頭で考えるのが精いっぱいだった。

「うんっ やっぱりこれが一番いいんじゃないかしらっ!?

 ぜいぜいと肩で息をしながら、愛理が声を上げる。初めはあれやこれやと声をかけてきた店員たちも、三人のあまりのパワーに圧倒され、いまとなっては遠巻きに見守るだけだ。

「そうね、色もこれが一番似合うと思うっ」

 紗雪も似たような疲弊した様子だが、表情は満足げだ。

「やっぱり凛子さんて華やかな色が似合うと思ってましたー」

 麻美香も同様で、ほんとうに楽しそうだ。

「これなら、神崎さんも惚れ直すこと間違いなし!!

 と同時に右手の親指をサムズアップ。いったいどこまで気が合うのだ、この三人は?

「あ、ありがとう、三人とも。あなたたちがいなかったら、私どうしていいか全然わからなかったわ」

「いいんですよ、お礼なんてー」

「そうですよー。凛子さんをコーディネートしまくれるなんて、滅多にできない経験なんですから」

「これで、由風さんもいじれたら……」

「あー、わかるわかるーっ」

「凛子さんとは全然タイプ違うから、そっちもやり甲斐ありそうよねっ」

「うんうん、由風さんならすっごいセクシーなの似合いそうっ」

 その時由風が別の場所でくしゃみをしたかはさだかではない。

「ほんとうに……ありがとう──────」

 三人には、ほんとうに感謝をしきれない。

「いいんですってば。凛子さんはあたしたちの大事な先輩なんですから」

「凛子さんが幸せになってくれたなら、あたしたちはそれでもう満足なんです」

「だから、自信持って神崎さんの胸に飛び込んでくださいね」

 油断をしていたところに明人の名前を出されて、凛子の頬が真っ赤に染まる。

「やーん可愛いー、凛子さんたらーっっ」

 もう大騒ぎである。そこに一切を見守っていた店員たちまで満面の笑顔で一斉に拍手を始めたものだから、凛子はもう羞恥の臨界点を突破してしまった。大急ぎで試着室のカーテンを閉めて元の服に着替えて、会計を済ませて三人を連れて店を出る。背後では、笑顔の店員たちの派手なお見送りが続いていて、何事かと付近の通行人まで注目しているとあっては、急いでこの場を離れることしかできない。そもそも凛子は華やかなことの主役になることに慣れていないのだ。

「と、とにかく。お世話になったことだし、お茶でもおごりたいんだけど、どうかしら? ホントはお食事でもおごりたいところなんだけど、人数が人数だし、ちょっとキツくて」

「じゃあわたし、ファ○タがいいですーっ」

「ならあたし、ぺ○シーっ 新しい味、まだ飲んでないんですー」

「わたしはキム○クがCМやってるミルクティーがいいなあ」

「もうっ どこまで欲がないの、あなたたちは!?

 こんな可愛い後輩たちを持てて、自分は幸せだなと凛子はしみじみ思った………。




                    *      *




 そして約束の土曜日。

 明人に指定された通り、朝の約束の時間までに支度をして自宅マンションの前で待つ。ちなみに今日は、眼鏡はやめておいた。愛理たち三人が、「絶対にコンタクトにしたほうがよい」と力説したからだ。コンタクトは久しぶりなので、いつでも交換できるように眼鏡はケースに入れてバッグの中に入ってはいるが、素顔のままだと────もちろんちゃんと化粧はしているが────何だか気恥ずかしい。まあ羞恥の度合いで言えば、三人娘に選んでもらっていま着用している例の服のほうが断然上なのだが。

 そんな凛子の前で、十分に減速をしたシルバーのフェアレディZが停車する。事前に明人に聞いていた通りの車種だ。ナンバーが他県ナンバーなのは、正式に配属されてから買ったものだからなのだろう。

「おはようございます。さすが凛子さん、時間通りです、ね………」

 運転席から降りてきた明人の語尾が途切れたのには訳がある。凛子の格好が、普段とまったく違うものだったからだ。愛理たち三人が選んだのは、薄紅色のワンピース。肩のあたりがほとんど紐状だったので、さすがに薄手の丈の短い上着を羽織ってはいるが。さらに足元にはアンクレットとミュールと、普段の凛子からは想像もつかないであろう格好であったからだ。胸元にはもちろん、明人に贈ってもらったネックレスがかかっている。

「凛子、さん──────?」

 その上コンタクトにしているため顔の印象もやわらかくなり、服のことも含めて自信をなくしているのがありありと見てとれるほど頼りなさげな風情だったのだ。これでは明人でなくとも、驚くというものだ。

「あ、の…愛理や紗雪、麻美香たちに選んでもらって買ってみたんだけど……やっぱり変? 似合ってなかった?」

 選んでいる時にさんざん「似合う」と言われてはいたが、明人のあまりの反応のなさに不安が一気に増してしまう。やっぱりやめておけばよかったかと、凛子が心の底から後悔しかけた、その瞬間。

「は…反則ですよ……そんな、この場で押し倒したくなるような可愛い姿で待ちうけるなんて」

 車の屋根に両腕を乗せて、真っ赤になった顔の口元をおさえる明人が、そこにいた。

「あの三人には、後で思いっきりお礼をしないといけないな」

 呟きながら、ゆっくりと足を踏みだして。優雅な素振りで助手席のドアを開けてみせる。

「さ、どうぞ。むさ苦しいところですが」

 そんな丁重な扱いなどこれまで受けたことがなかったので、もともといっぱいいっぱいだった凛子はさらに混乱しながら、「そ、それじゃ失礼します」などと言いながら助手席に乗り込む。静かにドアを閉め、反対側に回って運転席に乗り込んだ明人は、すぐに発進するかと思いきや、ハンドルに上半身を軽く乗せて深いため息をついた。腕に隠れて、横からでは明人がどんな表情をしているのかわからない。

「あの……神崎、くん…?」

「まいったなあ」

 ようやく明人が顔を上げて、こちらを向くや否や凛子の全身を上から下までなめるように見回す。それだけで、凛子はもう恥ずかしくて仕方がない。

「あ…あんまり見ないで……こんな格好滅多にしないから、は、恥ずかしくて」

「これじゃ、最初の予定を変更して、ホテルに直行したくなっちゃいますよ」

 予想外の言葉に、凛子の顔が一気に紅潮する。

「ば、ばかっ 朝っぱらから何言ってるのっ とにかく早く車出して、いつまでもここにいても近所迷惑だからっっ」

 休日の朝とはいえ、ここは天下の往来、ついでにマンション前だ。あまり長居していると迷惑にしかならないことは、住人である凛子には痛いほどにわかっている。さらにいうと、近所の人に見られる前に────でなくても、以前の木村夫人の例もある────早々に立ち去りたいのだ。普段の格好ならまだしも、こんな全然違う格好で、しかも男連れでなんて、どんな噂を立てられるかわかったものではない。

「え、ホテルに直行でいいんですか?」

 実に楽しそうに告げる明人の左肩を、「もうっ」と軽くたたくと、明人はようやく車を発進してくれた。もちろんホテル街などではなく、普通の大通りに向かってだ。

「いやあ、まさかこっちがサプライズを仕掛けられているとは思いませんでしたよ。……でも。自分で選んで着せるのももちろん楽しいけど、こういうのもいいなあ。すごく予想外でしたよ」

 羞恥のあまり、そちらを向けずに窓の外の風景ばかりを見ていた凛子は、素っ気なく「そ、そう?」とだけ答える。赤信号で車が停まった直後、突然頬を指で触られて驚いてそちらを向くと、満面の笑顔の明人が目に飛び込んできた。思わず下を向いた凛子の耳に、明人はそっと唇を寄せて。

「言い忘れてた。すごく、似合ってる。めちゃくちゃ綺麗だ」

「あ、ありがとう───────」

 もう、恥ずかしさで死んでしまうのではないかと凛子は思った。いままで生きてきて、こんなに恥ずかしいセリフを言われたことはなかった。

 その後、他愛のない話をしながら車は高速に乗って。小一時間ほど走ったところで、インターを降りて普通の道へと戻る。

「ねえ、そういえば行き先を聞いてないけど。どこへ行くつもりなの?」

「いいとこですよ…とと、社外なんだし、敬語はなしでもいいかな?」

 凛子が頷くと、明人はふと気付いたように付け足した。

「そうだ、そちらも社外では名字呼びはやめてくれないかな」

「って…ええ!?

「やっぱり特別な相手には名前で呼ばれたいものでしょ?」

 凛子や由風の場合、社内でも名前で呼ばれてはいるが、確かにその通りである。特別な相手には名前で呼ばれたい。それが、好きなひとならなおさら…だ。

「わ…かりました。あ…明人、さん──────?」

 ためらいがちにその名を呼ぶと、明人が満足げに微笑んだ。何だかくすぐったくて仕方がない。まるで十代の頃の初恋の時のようだ。そんなことを言ったら、とたんに明人が嫉妬しそうなので、絶対に口にはできないけれど。

 車はやがて大きな道をそれて、少しずつ狭い道─────よく慣れた地元の人が通るような道だ─────をあちこち通ったり曲がったりしている。明人の車にもカーナビはついてはいるが、今日はそれを活用している様子はまったくない。いったいどこに向かおうとしているのだ? もう一度目的地を訊いてみるが、「もう少しもう少し」と言うばかりで、答えてはくれない。いい加減焦れてきたところで、車は減速を始めて、ようやく完全に停車した。

「着いたよ」

 そう告げる明人に促され、そっと車を降りる。辺りを見回すが、どう見ても普通の住宅街の中のようで────そのわりにあまり新しそうな家が見当たらなく、かなり年季の入っている家ばかりに見えるのは凛子の気のせいなのだろうか────とても観光地か何かのようには見えない。内心で首を傾げていた凛子に、明人が「見てごらん」と言ってある方向を指さした。そちらを向いた凛子の視界に飛び込んで来たものは。

 眼下一面に広がる、色とりどりの百合の花の群れ───────!!



    






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2013.12.31up

お花の農家さんについてはあまり詳しくはないので
おかしいところがあってもツッコマないでください、お願いします…。
三人娘のシーンは書いててとっても楽しゅうございました♪

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