〔10〕
駅までの道すがらの公園の中で、先に口を開いたのは由風のほうだった。 「なに?」 「もう少し、男の純情をわかってやんなよ」 「なあに、それ」 「性格だけでなく、外見までモロ好みだったからロクに手も出せなくなるような気持ちぐらい、わかってやれって言ってんの」 「それ誰のこと?」 「神崎のことに決まってんじゃん」 中身だけでなく外見もって……そういえば、そんなことを昨夜言われたような記憶があるようなないような。 「あんな馬鹿みたいに純情な男、いまどき滅多にいないよ? あたしの知ってる別の男とは、雲泥の差だよ」 「えっ なあに、由風にもそんな男性がついに現れたの? ねえ、あたしの知ってるひと? ねえ、どんなひとなの?」 言わずと知れた西尾のことだが、西尾の本性を知らない凛子には、由風は死んでも話せない事柄のひとつだと思っていることさえ凛子は知らないので、嬉々として質問しまくる。 「だーっ あたしのことはいいんだよっ それよか、奴のことをちゃんと考えてやれって言ってんのっ あいつ余裕あるふりしてるけど、あれほとんどハッタリだよ。営業の手腕のひとつでもあるけどね。あんたに関しては、余裕なんかないんだよ。あんたを誰にも渡さないために、利用できるものは何でも利用するつもりでいるぐらいマジなんだよ」 いつも面白がる由風にしては珍しく明人を擁護するような言葉に、凛子は目を丸くする。 「ど…どうしちゃったの? 由風。いつもなら、おちょくりまくるくせに」 てっきり自分に同調してもらえると思っていたから、由風のこの変化には凛子はとてつもなく驚いた。一体いつの間に、こんなに明人寄りの考え方をするようになったのだろう? 「あんたがあんまりにも鈍いっつーか、考えないようにしてるみたいだからさ。まーだ前の男のこと引きずってんの? いい加減解放されたっていい頃じゃん」 「そ…そんなんじゃ……ないけど」 前の彼氏のことは、明人のおかげかもうすっかりひきずってはいない────それどころかいま由風に言われるまで忘れていたほどだ。だから、それが原因でもないのだけど。 「ならも少し前向きに考えてやれっての。もう、家族はおろか、会社の連中にもつきあってるってことになってんだろ? いまさら白紙に戻せると思ってんの? ガキの交際と訳が違うんだよ?」 それは確かに…そうだけど。学生の恋愛と違って、大人の恋愛は結婚などが絡む分、社会的な責任の重さも学生のそれとは段違いだ。 「だけど由風、何でそんなにムキになってるの? あっ まさか由風、神崎くんのこと…!」 「あほかーっ!!」 全部言い終える前に、すべてを察知したらしい由風に思いっきり怒鳴られた。 「ライバルがヘタレなまんまじゃ、仕事してたって張り合いがないんだっつの! あたしがぶっ倒したいのは、絶好調の時のあいつ!! 女のことでヘタレてる奴になんざ、いくら勝っても嬉しくないんだよ。わかる? その鍵を握ってんのがあんただってだけ。言っとくけど、あいつを絶好調に戻すためなら親友だって利用するよ、あたしは!!」 驚いたけれど、由風らしいあまりにも身も蓋もない言いように、「利用する」と堂々と言われたにも関わらず、凛子は思わず笑ってしまった。 「普通…思ってたって口には出さないわよ? 『親友』としては」 くすくすくす。もう、笑いが止まらない。 「言わなきゃ、あんたには通じないだろーが。だいたい十代の小娘じゃないんだから、意地張ってる時間なんざあたしらにはないんだよ。周りのことはおいといても、あんただって神崎のこと好きなんだろ? 前々からあたしとの緩衝剤かってでてたしな」 ──────好き? 私が? 神崎くんを? 頭が答えを導き出すより早く、身体が先に反応した。ほとんど無意識のうちに、頬がかーっと熱くなる。 「だーっ 中学生女子かよっ!!」 身体中がかゆくてたまらないといった感じに身をよじらせて、由風がのたうちまわる。 「自覚してんなら、とっとと仲直りしてこいよっ いつまでももめてられっと、オフィスが辛気くさくてたまんねーんだよっ」 「そ、そんなこと急に言われても…っ」 困ってしまって口ごもったところで、凛子からしてみれば妙案を思いつき、そのまま実行に移す。 「あ、あらっ? マナーモードにしてあった携帯が鳴ってるみたいっ やだ、妹からだわ、話が長引くかも知れないから、由風先に帰っててくれる?」 ほんとうは電話なんてかかっていなかったけれど。この時の凛子には、それしか思いつかなかったのだ。 「あ、うん、わかった。んじゃ、また明日ね」 言うだけ言って去っていく由風に笑顔で手を振って、凛子は手近なベンチに腰掛ける。オフィス街の中の公園のせいか、あたりにはもう誰もいない。 携帯を開いて、アドレス帳を呼び出す。カ行の欄までスクロールしてから、指を止めて。そこに登録されていたナンバーを見て、ため息をひとつ。出てほしい気持ちと出てほしくない気持ちとが相反する中、そっと指でボタンを操作する。コール五回ほどで、相手が出た。 『………はい』 不機嫌というより、意気消沈しきった声だった。 「あ、の…わたし。わかる──────?」 名乗る勇気は出なかった。 『って…凛子さん!?』 発信者を確認せずに電話に出たのか、驚愕丸出しの声。そのことに、凛子のほうが驚いてしまった。普段はあんなにも如才ない敏腕営業マンなのに? 『もうお宅に着いたんですかって、いやまだ早過ぎますよね。どうかしたんですか? 何か仕事での伝え忘れでも?』 個人的な用事で自分がかけてくるとは思ってもみなさそうな明人に、何となく申し訳ない気分になってしまう。 「あの……さっきはちょっと、自分でもひどかったと思って」 『え?』 「その…ごめんなさい。あたしカッときちゃって、あんなに酷いこと言うつもりなんてなかったの──────」 電話だと顔が見えないせいか、自分でも信じられないくらい素直に言葉が口をついて出てくる。普段の自分とは大違いだ。電話の向こうでは、一瞬の沈黙。呆れられているのだろうか? 凛子の全身が思わずすくむ。 『……僕のほうこそ…言葉で伝えればいいものを、焦って強引な手段に出ちゃって。反省していたところです』 穏やかな返事にホッとする。 『顔を見たら恥ずかしくて言えなくなっちゃうけど。僕は本気で、貴女が好きですから……それだけは、忘れないでほしいんです』 ホッとしたのも束の間、ぼんっ!と顔が紅潮する。 「そ、そんなこと……他に何人の女性に言っているの?」 ああダメだ。どうしても素直になりきれない。 『意地悪言わないでくださいよ。以前ならいざ知らず、貴女に出会ってからは他のひとなんて目に入ってないんですから』 先ほどよりさらに意気消沈した声。いまここで「嫌いだ」なんて言ったら、自殺でもしかねないのではないかと思うほどの声だった。 「だ、だって、中身だって外見だって、私ぐらいのひとなんて世の中にはごまんと…」 次の瞬間、携帯から聞こえてきた抑えたような低い声に、凛子はびくりと身を震わせた。 『───────怒るよ』 本気で怒っているような声だった。もしも面と向かって言われていたら、怖くなってもう何も考えられなくなってしまいそうなほどに……。 『まったく、何度言ったらわかってもらえるのかな。他の女なんかいらないって。外見も中身も全部合わさっての凛子だから好きなんだって』 初めて、ただの『凛子』と呼ばれた。けれど、そんなときめきをも上回るほどの怯えと自己嫌悪が全身を包む。鼻の奥がつんと痛くなって、携帯を持つ手が震え始める。 『今度「私なんて」とか言ったら、本気で怒るよ? 忘れないで』 「ご…ごめんなさ……」 それ以上は、言葉にならなかった。これ以上何と言ったらわからなくて、凛子は黙り込んでしまう。仕事での失敗だったらいくらでもフォローできるのに、こんな時にはどうしていいかわからないなんて…! 『………あー…ごめん』 携帯から響く、申し訳なさそうな声。どうして神崎が謝るのだ? 自分が悪いのに。 『貴女を卑下するような言葉にはどうしても敏感になっちゃって……。ごめん、怖がらせるつもりなんか微塵もなかったんだ。手に入れるのに手段は選ばないつもりだったけど、怯えさせるようなことだけは絶対しないって誓ってたのに』 そんなに大事に思われていたなんて、思ってもみなかった。 「ほ、ホントに悪いと思ってるなら」 『?』 「こ、今度、どこかに連れて行ってくれる? こないだみたいに必要に駆られてとかそんなんじゃなくて─────神崎くんが、行きたいと思っているところに」 精いっぱいの譲歩だった。だけど、これが凛子にできる精いっぱいの素直な感情表現で…………。その意図に気付いたらしい明人の、優しい笑い声が携帯から響き渡る。 『いいですよ。貴女を連れていきたいと思っていた、すべてのところにご案内します。最後にはもちろん、僕の部屋に…ね』 「ば、ばかっ」 『いま、どこに居るんですか? 何なら僕もいまからそこに……』 「こ、こないでいいからっっ」 顔の見えない電話越しだからこそ、いまこうして素直に話せているのだ。面と向かって顔を合わせてしまったら、自分がテンパってしまうだろうことを、凛子はよくわかっていた。 『あはは』 電話の向こうから聞こえてくるのは、ほんとうに楽しそうな明人の声。悔しいけれど、惚れた弱みというものはほんとうに存在するのかも知れないと、それなりの恋愛経験を経てきた女性とは思えないことを、凛子はいまさらながらに考えていた。 凛子と別れて公園を出たあたりで、由風は呟く。凛子の携帯が着信していなかったことなんて、こちらは百も承知のことだった。大方、戻って面と向かって話す勇気が出せなくて、電話で話そうと思い由風から離れようとしたのだろう。 「どっちが素直じゃないんですか?」 暗がりから聞こえた声に、思わずぎくりと身をこわばらせる。いくら豪胆を自負する由風でも、油断している時に瞬時に確認不可能の人物から声をかけられたら、さすがに驚いてしまう。 「…んだ、あんたかよ」 声の主をみとめて、由風はホッとため息をつく。 「つか尾けてたのかよ、趣味の悪い」 いったいいつから、とは訊かなかった。声の主─────西尾がどれだけぬかりのない相手か、由風はよく知っていたから。 「個人的にはそれほど親しくないとはいえ、オフィスではよくしてもらっている方々の事情ですしね、僕も気になってしまいまして」 「それはともかく、誰が素直じゃないって?」 「由風さんが、ですよ。ホントは親友が心配なくせして、あんな言い方しかできないんですから」 巧みに隠していたつもりの本心の奥のさらに本心を言いあてられて、由風はカッとなる。 「てんめえ……それ他の誰かに言ってみろ、どうなるかわかってるんだろうな」 みなぎる殺気は本気。 「わかってますよ、絶対に口外しません。凛子さんを手酷くフッた相手がどうなったか、よーく知ってますからね」 そんなことまで知っていたか。ほんとうにぬかりのない奴だと由風は思う。 凛子から別れたという話を聞いた直後────凛子は恨み事を言うタイプではないので、ほんとうに自分が悪かったと思っているらしく淡々とだったが────由風は怒りが抑えられず、凛子には内緒でその男を呼び出して少々おハナシさせていただいたのも、いまではいい思い出だ。諸々の事情で段こそとってはいないが、いろいろな格闘技をかじったこともあったので、実は腕には多少覚えがある。 ちなみに由風はその男のフルネームが何という名で、どこに勤めているとかもちろん住まいや電話番号もまるで知らなかったが、凛子が携帯のメモリーから消せないでいることは知っていたので、凛子が携帯を置いて席を外した隙に名前と番号をメモっておいて、その後公衆電話から素知らぬ顔で電話をかけて呼び出したのだ。適当な店で会った女だとうそぶいて、猫なで声で誘いをかけたら警戒心の欠片もなくほいほいやってきたのには、もう失笑しか出てこなかった。 「ポイントは、顔には絶対手を出さないことな。身体なんか、どうせ脱がなきゃわかんないんだからさ、とくに制服に着替える必要もない男はね。もう凛子の前で脱ぐこともないんだろうし、ちーっと力が入り過ぎちったかもだけどさ」 今朝、仕事のために社外に出たとたんに、明人に凛子の前の男の消息を知っているかと剣呑な表情で訊かれ、意味ありげに含み笑いを浮かべて「あんたが手を下す必要はないよ」とだけ答えたことを思い出す。そこから何かを感じ取ったのか、明人は毒気を抜かれた表情に瞬時に変わり、それ以上何も言わなかった。 凛子を大切に思っているのは、何も明人だけではない。由風にとっても、大切な親友なのだ。滅多に表に出したりできないけれど。もちろん、口止め────といっても「他人に言っても構わないよ? 女にボコられて泣きつくほどプライドがないんなら、の話だけどさ」と愉しそうに笑いながら告げただけだが────も忘れてはいない。 彼との間に何が起こったのか、凛子は決して話そうとはしなかったけれど、強引に聞きだそうとする由風のしつこさに負けて、「絶対誰にも言わないで」「彼には絶対手を出さないで」という前置きの元、ぽつりぽつりと話し始めたのだ。もちろん由風が彼の素性をよく知らないことも凛子は知っていただろうけど、由風がその気になればいくらでもつきとめられるだろうことを知っているからだろう。しかし、約束の前半は守れたものの、後半については由風の忍耐の許容範囲を完全に超えてしまったので、凛子に悪いと思いつつもやってしまった。まあ、凛子が知ることもないであろうことも、由風には計算済みのことだったのだが。 怒りも喉元を過ぎればけろりとするのも、由風の特徴だ。 「はいはい。今日はもう遅くなっちゃったから、明日のお弁当でもいいですか?」 「肉は絶対入れてよ。営業は体力勝負なんだからさ」 「特製スタミナ弁当を作って差し上げますよ」 何だかんだいって、こちらもそれなりにうまくやっているようであった………。 |
2012.12.30up
何だかんだで、丸く収まった模様です。けれど連中も中学生ではないので、
いつまでもこんなところでは止まっていないでしょうけれど。
まあそれは、またそのうちにいうことで。
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