それからの話。
「お姉ちゃん、何か最近綺麗になったわねえ。もしかして、恋人でもできた?」
加藤家のダイニングキッチンで、おっとりとした性格の母が突然訊いてきたのは、六月の朝のこと。一家で居酒屋を経営しているとはいえ、「食事はできるだけ家族一緒に」という家訓の元、朝食の準備をしている真っ最中のことであった。
「えっ あっ ……うん」
顔を真っ赤にしながら、瀬里香は答える。昔から、この母には嘘がつけないのだ。
「やっぱり〜。ねえ、どんなひと? 今度家に連れていらっしゃいよ」
遼太郎と想いをやっと伝え合えたのは、先々週の五月末の話だというのに、やはり母親の勘とは侮れない。
「ぬわ〜に〜っ!? 瀬里香に男だと〜っ!? 石川のクソガキの誰かかっ いや、あそこの長男は確か結婚していて、もうじき子どもも生まれるはずだったな。じゃあ大学生だっていう次男かっ そういえば軟派なツラをしていたぞ、生意気なっ 次に会った時はシメてやる!!」
短気な性格ですぐ吠える父親────ひとしきり怒ればすぐにケロッとして、遺恨を残さないさっぱりとした気性の持ち主でもあるのだが────に、瀬里香は慌てて反論する。
「やめてよ、恭太郎さんは何も悪くないんだからっっ」
「瀬里香とつきあうような男〜? そいつ、ロリコンなんじゃねえの〜?」
「うるさい、航志(こうし)!」
けらけらと笑う弟にスリッパを投げつけてから、父親に向き直る。
「いまは、彼のほうに事情があって無理だから、来年の春に挨拶に来るって言ってたのよ。だから、もう少し先まで黙ってるつもりだったのに……」
「挨拶だと!? 嫁になんか、まだまだやらんぞーっ!!」
「そういう意味じゃないってば!」
父親に告げてから、瀬里香はふうと息をつく。
まさか…いまはまだ高校生だなんて、言えないものね────外見はどうあれ、遼太郎はあれでも十七歳の高校三年生なのだ。しかも弟と二学年しか違わないなんて、いま言えるはずもない。「せめて、ちゃんと大学生になって車の免許もとってから、きちんと挨拶に行きたいんだ。少しでも、大人に近付いてから」と遼太郎が真剣な顔で言うものだから、瀬里香に異論がある訳もない。
「そういえば……あそこって、もう一人息子さんがいたわよねえ〜。確かいま、高校三年生だったかしら?」
父親が洗面所に顔を洗いに行き、弟が着替えに自室に戻ったのを見届けてから、いま思い出したように母親が切り出したものだから、瀬里香の心臓が爆発せんばかりに鳴り出した。
「……え?」
「でも三年生だったら、来年には条例も関係なくなるし、何の問題もなくなるわよね〜。そう思わない?」
にこにこにっこり。どうしてこの母は、こんなに勘が鋭いのだろう。もはや何も言えなくなってしまった瀬里香を横目に、母親はトーストを焼く準備をする。
「じゃ、お母さんコーヒー淹れてくるから、お姉ちゃんパン焼いてね〜」
まったく。母親には、ほんとうにかなわない。
* * *
その後──────。
ふたりの交際開始についての発表は、あの晩先に帰った恭太郎によって大々的に為され、後でそれを知った当人たちは激しく居心地の悪い気分を味わった。誰よりも喜んだのが遼太郎の母親と義姉で、「願いは強く思えばいつか叶うのよーっ!!」と大騒ぎして、美葉子に至っては看護師に「興奮し過ぎ!」と叱られたことも追記しておく。
結衣奈と千沙も祝福してくれ、結衣奈はあくまでも普通にだったが、千沙に至っては恭太郎他仲間たちと「ふたりの子どもなら老け顔と童顔、どっちになると思う?」などと賭けを始めたため、それはさすがに怒ってやめさせたが。
七月に入ってからすぐに、遼太郎の誕生日がやってきて晴れて十八になったのはいいが、やはりまだ高校生であるので、瀬里香とは節度のあるお付き合いを心がけていた。夏休みになってから、店の定休日に約束通り海へでかけて、ちゃんとその日のうちに帰るという健全コースでお祝いをした。ひとけのないところでキスぐらいは交わして、隙あらばそれ以上に進もうとする遼太郎を瀬里香がたしなめるという恒例?儀式もこなした。
そして、塾にも行っていなかった遼太郎の家庭教師役を、短大卒とはいえ成績は決して悪くなかった瀬里香に任せてはどうかという意見も遼太郎の両親から出されたが、「そんなことしたら、こいつが勉強になる訳ねえ!」という兄二人の反論にて却下された。二人とも、何かしら心当たりがあるのだろう。という訳で、家庭教師役は現役大学四年生の恭太郎が請け負うことになった。階下で働く瀬里香の元に、時折恭太郎によるものであろう愛の鞭の激しい音が聞こえてくるのは、実に心臓に悪い話である。
恭太郎といえば、ふたりが想いを伝え合ったあの晩、何ゆえあのような嘘をついたかというと、瀬里香に口づけている遼太郎の後ろ姿を偶然配達の帰り際に見かけ、その後のじれったさにキレてあのような暴挙に出たのだと。のちに本人がケロッとして語ったものである。
「だーって、瀬里香ちゃんがあんまり可哀想だったからさー、兄貴としていっちょハッパかけてやっかと思って」
言った瞬間、遼太郎の反撃に遭いかけたが、「元はといえばてめーの不甲斐なさが悪いんだろうが」と逆に遼太郎が祥太郎と恭太郎のダブル攻撃を食らうというオチがついてしまった。
八月に入ってからは、入院中の美葉子の陣痛が本格的に始まったおかげで、石川家は上へ下への大騒ぎとなり、またしても茫然としかけた祥太郎を石川夫人が一喝して病院に向かうという一幕もあったりした。この時ばかりは、さすがに遼太郎も受験勉強を中断して店を手伝うほど忙しくなってしまい、自動車教習所で仮免まで進んでいた遼太郎はみずから配達に行けないことに歯噛みする日々が続いた。病院に詰めていた夫人からの連絡で、無事女の子が生まれたとの一報が入った時には、店の関係者のみならず買い物に来ていた近所の方々までも巻き込んで、一大万歳三唱になったこともまたいい思い出である。
「……何か。春からこっち、すごい大騒ぎの連続だった気がする」
久しぶりの瀬里香とのデートの合間に、喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた遼太郎がぽつりと呟いた。
それもそうであろう。春先には瀬里香と出会い、互いの想いを育んできて、その後は受験や免許取得のために本格的に動き出し、夏には人生初の姪まで誕生したとあっては、遼太郎でなくても疲れるというものだ。
その後赤ん坊は「早夜子(さやこ)」と命名され、美葉子と一緒に退院してきてからは、いまやすっかり石川家のアイドルである。ちなみに一番デレデレなのは、「娘が欲しかった」と事あるごとに呟く石川氏と祥太郎の二人であったりした。「ずっと早夜子と一緒にいたいよ〜」と駄々をこねては、夫人と美葉子に一喝されてから逃げるように配達にでかけるという、溺愛ぶりだ。
「いろいろあったものね〜。それにしても、赤ちゃんて可愛いのね、あたし弟の時はあまり覚えてないから、すごく新鮮」
アイスティーを一口飲んでから呟く瀬里香に、遼太郎が少々いたずらっぽい光を瞳に宿して、問いかけてきた。
「何なら……俺たちも作ってみる?」
「お子ちゃまが生意気言ってんじゃないの」
あっさりかわした瀬里香の言葉に、別のテーブルの何人かの客やウェイトレスが驚愕の表情で振り向いたが、瀬里香はもういまさら気にしない。知り合いならまだともかく、見知らぬ相手にいちいち説明して回るつもりもないからだ。
「ちぇー。やっぱり高校卒業しないとダメかあ」
遼太郎も気にしていない様子だ。
こうして時々ふたりででかけていると、どちらかの友人や知り合いにバッタリ出会ったりすることもあるが、とりあえず紹介する
と例外なく驚かれるので、ふたりでなくても慣れるというものだ─────時折「年齢的にマズくない?」と問われることもあるが、それについては「清いお付き合いですから」と返すようにしている。
「あ、しまった!」
喫茶店を出て数メートル歩いたところで、みずからの手を見た遼太郎が慌てたように呟いた。
「どうしたの?」
「俺さっきCD買ったじゃん、いまの店に忘れてきちゃったよ。急いで取ってくるから、このへんで待っててくれる?」
瀬里香が頷くのを見届けてから、遼太郎は大急ぎで雑踏の中に消えていく。
遼太郎の買ったCDとは、長兄の祥太郎に頼まれた一品で、「赤ちゃんに聴かせるためのCD」というものだそうだ。まだ目もよく見えてないであろう早夜子のために、聴かせてやりたいのだという。いまからあの溺愛ぶりでは、将来早夜子が嫁ぐことにでもなったらどれほどの騒ぎになることやらと、瀬里香と遼太郎、そして美葉子はこっそり話していたりする。
そんなことを考えながら俯き気味にベンチに軽く腰掛けていたので、近付いてきた影にもう遼太郎が戻ってきたのかと思い、ふと顔を上げる。が、そこにいたのは、期待に反してまるで知らない学生風の男二人だった。
「……?」
「ねえねえ、君可愛いねえ、よかったら俺たちと遊ばない?」
何だ、ナンパか。昔から、いかにも年下っぽい相手に声をかけられるのには慣れている。
「悪いけど、連れを待ってるから」
取り付く島もなく答えるが、意外にも相手も食いついてくる。
「じゃあ、二対二でちょうどいいじゃん!」
どうやら連れも女だと思い込んでいるらしい。
「連れは女の子じゃないわよ、だからお呼びじゃないの!」
「まーたまたー」
ああ、苛々する。こんな時、千沙がいてくれたらうまくかわしてくれるだろうにと瀬里香は過去に思いを馳せる。活発な千沙は物事をハッキリ言うだけでなく、こういう連中をうまくあしらうのにも長けているのだ。これが控えめな結衣奈と二人きりであった場合は、断るのにさんざん苦労したっけなあと瀬里香はそっと思う。
「嘘じゃないってば、ホントに彼氏を待ってるんだから…」
苛立ちを隠すことなく言いかけたところで、低い声が割って入った。
「瀬里香? どうかしたのか?」
忘れ物を首尾よく取ってきた遼太郎だった。意識しているのか、普段は多少残っている少年ぽさを完全に消して、まるで本物の大人の男性のようだった。
「遼太郎さん! よかった、この人たちしつこくて困ってたの」
言いながら立ち上がり、素早く遼太郎の腕に両腕を絡めると、とても勝ち目はないと思ったのか、少年たちは何も言えずにすごすごと立ち去って行ってしまった。それを完全に見送ってから、瀬里香と遼太郎は互いに顔を見合わせて、どちらからともなくクスッと笑う。
「『遼太郎さん』だって。初めて言われた、すごい新鮮」
周囲の人間は皆年上ばかりで、大抵『くん』付けだからだろう。
「遼太郎くんこそ。呼び捨て、初めてじゃない」
「あ、嫌だった?」
わずかに心細そうな表情をして、遼太郎が訊いてくる。
「ううん。いつになったら『さん』付けやめてくれるのかなーって、ひそかに思ってたのよね」
それは、真実。親しい人間は呼び捨てか『ちゃん』付けだったので、誰でもない遼太郎に『さん』付けされるのは、いまだ距離を感じて嫌だったのだ、実は。
「なら……これからはできるだけ、もっと親しげに呼ぶようにする。けど、いきなりは無理だし『ちゃん』づけは何かやだから、『セリ』でもいいかな?」
「うん、いいよ。『セリ』って呼んでくれる人はいないから、何か『特別』って感じでいいな」
嬉しく感じる気持ちのままに微笑んでみせると、遼太郎も同じように微笑んだ。
「なら俺のことも『リョウ』って呼んでよ。家族や友達はみんなそう呼ぶし」
「うん、努力する」
ほのぼのぼのぼの。ふたりの事情などまるっきり知らないはずの通行人でさえ、思わず顔をほころばせてしまうほどの癒しパワーを自分たちが発していることを、ふたりはまるで知る由もない。
* * *
それから。
遼太郎は受験勉強に完全に本腰を入れ始め、店に出ることもほとんどなくなった。例外は、瀬里香が仕事を終えて帰る時で、その時は駐車場までふたりで歩いて、瀬里香の車の中でお互いにパワーを充電する、というのがふたりのささやかな楽しみであった。
クリスマスは、ふたりきりで食事だけをしてプレゼント交換というまるで学生のようなものであったが、遼太郎の受験直前のバレンタインには、石川三兄弟の身体のサイズをすべて知り尽くしているという石川夫人の協力の元、瀬里香はチョコレートとは別に手編みのセーターを贈ったりして、遼太郎はそれを着て本命の受験に挑むというラブラブぶりであった。結果は努力の甲斐があって当然というか、現役合格という見事な結果で終わった。
そして三月のホワイトデーと瀬里香の誕生日には────偶然ではあるが、瀬里香の誕生日はホワイトデーの三日後だったりしたのだ────には、遼太郎がいままで貯めていたバイト代────社会人の祥太郎はもちろん正社員であるが、まだ学生の恭太郎と遼太郎は石川リカーショップのアルバイトという扱いであったので、小遣いの代わりに労働の報酬としてちゃんとバイト代をいただいていたのだ────で買ったというネックレスと、美葉子の協力の元、薬指のサイズに合わせた指輪が瀬里香には贈られた。
遼太郎が高校を卒業した後のふたりの仲の進展ぶりについては、これ以上は言わぬが花というものだろう。
最後に、恭太郎と結衣奈についても少し綴っておくことにする。
遼太郎が高校を卒業すると同時に大学を卒業して、兄同様石川リカーショップへの正式な就職が決まっていた恭太郎と結衣奈の関係は、結衣奈の告白の後もとくに変化がなかったが、現在恭太郎の友人と自分の同級生、更にサークルの後輩という三人に熱烈なアプローチを受けているという千沙同様、それなりにもてていた結衣奈への異性からの意思表示も恭太郎への遠慮からか─────ふたりとも結衣奈の想いを誰かに口にすることはなかったが、千沙をはじめとする勘のいい面々にはバレバレだったようで恭太郎の卒業時にはすっかりなくなった。
人あたりはよいが、内心はなかなか他人に悟らせることがないと評判の恭太郎のせいで、結衣奈以外の周囲の人間が相当やきもきさせられていたが────結衣奈当人は、「たとえ想いが届かなかったとしても、自分が好きならそれでいい」というスタンスであったからだ────恭太郎の卒業式という最高のロケーションの中、「自分の目が届かなくなる中で、ひとり残していくのは不安極まりないから」と前置きしつつ結衣奈の想いを受け容れるという、まるで映画のような一幕を演じ、仲間たちの盛大な祝福を受けまくったと、瀬里香と遼太郎はのちに千沙から熱く語られた。
───────そうして。石川リカーショップの定休日である本日、よく晴れた気持ちのよい天気の中、瀬里香と遼太郎のドライブは始まるのである。
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