陽気もだいぶ、初夏のそれを思わせるようになった頃の日曜の午後。
瀬里香と遼太郎は、祥太郎と共に瀬里香の車で────祥太郎は配達の途中なので、別の車であるが────美葉子の入院する病院へとやってきていた。店は当然営業中の時間ではあるが、美葉子自身のたっての願いでふたりは抜けてくることができたのだ。ちなみに祥太郎は用が済み次第また配達に戻ることになっている。
「ほんっとーっにごめんなさい。あたしがこんなことになっちゃったから、ふたりにはめいっぱい迷惑をかけちゃってるんですって? とくに瀬里香ちゃんなんて土日はヨロヨロしながら帰ってるって聞いたわ、ほんっとうにごめんなさい!!」
以前に比べて目に見えて大きくなってきたお腹を揺らし、美葉子が頭を下げる。本人は土下座せんばかりの勢いだったが、お腹が邪魔でうまくいかず、それどころかバランスを崩しかけているのを見て、瀬里香は慌ててそれを止める。
「そんなこといいんですよ、美葉子さんっ お願いですから、無茶な真似はしないでください〜っ!!」
「そうだよ、義姉さんっ 見てるこっちのほうがハラハラしちまうよーっ」
遼太郎の顔色も蒼白だ。それでも謝罪をやめようとしない美葉子を何とかベッドに戻し、瀬里香と遼太郎はやっと安堵のため息をつく。
「悪いなあ、どうしてもふたりに自分の口から謝らないと気が済まないって言うもんだからさあ」
ばつが悪そうに笑いながら、祥太郎が告げる。美葉子の入院以来、心労もあって少し痩せたようだが、現在は何とか立ち直っているようだ。
「ホントそうよ。このひとったら、あたしの寝てる横で魂が抜けたような顔して呆けててさ。そんな顔してそばにいるくらいなら、とっとと働いてこいってハッパかけてやっとなんだから、世話が焼けるわ」
お腹のせいで動くのは相変わらず大変そうだが、顔色はかなり良くなっている。やはり入院していると容態が安定するのだろう。瀬里香は内心でそっと胸を撫で下ろす。
「あ、そうだ。お前の好きなこれ買ってきたんだった」
ご機嫌取りのつもりか、祥太郎が着替えを入れてきた紙袋の中から、小さな包みを取り出して美葉子に手渡す。それを見た美葉子の表情が、先刻とは段違いに輝いた。
「きゃあああっ 『アリス』のチョコチップクッキーじゃないのーっ ちょうど今朝から食べたいと思ってたのよ、ショウちゃんありがとーっ!」
「ちょっとならお菓子も食べていいって先生に言われてるんだろ?」
「うん。これくらいなら大丈夫だけど、あんまり太ると出産の時に大変らしいのよね」
「あ、じゃあ俺飲み物買ってくるよ」
そう言って遼太郎が病室を出て行こうとするのに、祥太郎が続く。
「あ、俺も行くよ。妊婦が飲んでいい飲み物なんて、お前ろくにわかんないだろ?」
「そうだな、そうしてくれると助かる」
そんなことを話しながら二人が出て行くのを見送ってから、瀬里香はそっと美葉子に話しかける。
「さっすが祥太郎さん。美葉子さんのことよくわかってるんですね。長いおつきあいのなせるわざかな?」
そう言うと、美葉子は一瞬、驚いたような顔をして。
「…そう思う? でもね、あたしとショウちゃんって、出会ってまだ三年しか経ってないのよ?」
あまりに驚いてしまって、瀬里香は声一つ出せない。
「ふふ、驚いた? 大学の三年の時だったかな。昔からの女友達が、『彼氏の友達紹介するわよー』って言って連れてきたのが、
ショウちゃんだったの。初めは『軽い人だなー』とか思ってたんだけど、同じ作家が好きだったり、一緒に映画観てる時に素直に泣いちゃうの見たりしてたら、 何かもう『可愛いなあ』って。気付いたら、好きになっちゃってたの」
思い出すように遠いところを見るように話す美葉子は、ほんとうに幸せそうで。瀬里香は、まるで恋する少女を見ているような印象を受けた。
「だからね。恋愛の先輩からのアドバイス。好きになるのってね、時間なんか関係ないの。すべては感情のなせるわざなのよ。好きだと感じたら、もう突っ走っちゃえばいいの。理屈なんか、後からついてくるのよ」
「べ、別にあたしはいま好きなひとなんて…!」
慌てふためいたように言う瀬里香に、美葉子は何もかもお見通しだとでも言わんばかりに微笑んで。
「いいのいいの。ホントに好きなひとができた時の予備知識だとでも思っておいて」
ほんとうに。この人にはかなわないなあと瀬里香は思う。理由なんて瀬里香自身にもわからないけど、ほんとうに心からそう思ったのだ。
そこに、祥太郎と遼太郎が戻ってきたので、その話はそこでおしまいになった。
それから、皆と当たり障りのない話をいくらかしてから、瀬里香と遼太郎は店に戻ることにした。祥太郎は時間が迫っているということで、先に行ってしまったので、ふたりでてくてくと廊下を歩きながら出入り口へと向かう。そこまで来てから、ふたりはようやく大粒の雨が降り出していることに気が付いた。
「…うそ。今日降るって言ってた!?」
「そういえば、にわか雨が降るかもって言ってたような…」
「やだあ。傘、車の中にならあるのに、もー。しょうがないなあ、あたしちょっと走っていって、車回して…」
瀬里香がそう言って走り出そうとした、まさにその瞬間。頭の上から何かがバサリと音を立ててかけられたので、驚いてしまった。よく見ると、それは遼太郎がたったいままで着ていた上着で、猫背気味になった遼太郎の頭の上から、隣に立つ瀬里香の頭にかけて覆われていた。
「え?」
「こっちのが早いって。一緒に走っていっちまおう」
瀬里香の返事より早く遼太郎が足を踏み出してしまったので、瀬里香はもうそれ以上何も言えずに遼太郎の言葉に従った。
そして、気付く。遼太郎は『走っていこう』と言ったにも関わらず、遼太郎の歩幅はいつも以上に小さめで、更にゆっくりだ。どこか不都合でもあるのかと訊きかけて、瀬里香は気付く。瀬里香の歩幅と速度に合わせてくれているのだ。おまけに、遼太郎のほうが身体がずっと大きいにも関わらず、瀬里香にかかっている上着の比率のほうが断然大きい。だから、遼太郎にとっては上着があろうがなかろうがたいして変わらないというのに。それでも遼太郎は何も言わず、瀬里香の足に合わせて、決して瀬里香を慌てさせないようにペースを保って、小走りで走ってくれているのだ。
それに気付いた瞬間、瀬里香の胸の奥がとてつもない暖かさに包まれた。
どうしよう。あたし、このひとが好きだ。何で気付かなかったんだろう。ホントはずっと前から……初めて会った時から好きだったのに─────違う。気付かないふりをしていただけだ。自分は成人で……このひとが未成年だから。ふたりの間にこんな大きな障害があるなんて思いたくなかったから。だから。
『好きになるのってね、時間なんか関係ないの。理屈なんか、後からついてくるのよ』
美葉子の言葉が心によみがえる。
「瀬里香さん? どうかした?」
黙ったままの瀬里香に気付いたのか、遼太郎が身を屈めて顔を覗き込んでくるのにハッとする。この胸の想いを、どう伝えたらいいのだろう。そう思った瞬間、先日の夢うつつの中での出来事が脳裏をよぎった。
「…ううん。何でもないわ」
何事もなかったかのように微笑んでみせる。
もしも─────あれが現実で、あの相手が遼太郎でなかったとしたら? 初めてのキスを遼太郎以外の相手に奪われたというだけでも悲しいのに、その事実を遼太郎本人に知られるなんて。そっちのほうが、瀬里香には恐ろしくてたまらなかったのだ。遼太郎のおかげでさほど濡れていないはずなのに、背中に冷水を浴びせかけられたような感覚さえ味わってしまう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
先刻までの胸の奥の暖かさは既に消え、胸の中ではいまや暴風雨が吹き荒れている。あの相手の正体を確かめるすべなど、瀬里香には思いつくことができない。いっそのこと、完全に夢であったらとさえ思い始めている。
瀬里香の心はいま、なすすべのない嵐に翻弄されきっていた。
* * *
「せーりかっ」
店に帰り着いた瀬里香は、唐突に声をかけられて驚いてしまった。友人の結衣奈が、予告なしに店に現れていたからだ。
「結衣奈ちゃん、どうしたの? 最近よく来てくれるね」
笑顔で応えると、結衣奈は一瞬返答に窮したような表情を見せてから、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「さ、最近ね、あたしもうちのお母さんも果実酒にハマっちゃってるの。ほら、あたしも瀬里香とおんなじで、千沙みたいにお酒強くないでしょ? お水とか炭酸で割って飲むとちょうどいいのよね」
共通の友人である千沙の酒豪っぷりを思い出し、瀬里香も笑う。遼太郎はその隣で、母親から投げてよこされたタオルで頭をがしがしと拭いている。車に乗ってから瀬里香もハンカチで懸命に拭いたのだが、予想以上の雨足だったせいで、まったくといっていいほどに間に合わなかったの
だ。
「ならおすすめがあるわよ。最近出た新商品なんだけどね」
「どんなの?」
普段通りに装うので精一杯で、瀬里香は気付けなかった。配達を終えて帰ってきていた恭太郎が、自分の様子を興味深げに見つめていたことに。ほんとうに、これっぽっちも気付くことができなかったのだ…………。
その日の帰り道。駐車場に向かう道すがら────石川リカーショップ脇の駐車場は、業務用の車の駐車が最優先なので、瀬里香の車は少し離れたところに別に借りている駐車場に駐車しているのだ────瀬里香は背後から声をかけられた。
「恭太郎さん」
「俺もあっちのほうに用があるんで、ついでに送ってくよ。もう暗くて、女の子一人じゃ危ないしさ」
「あ、ありがとうございます」
石川三兄弟中、もっとも社交的な性格をしている恭太郎は、時折他の二人とは比べ物にならないほどの気遣いを見せることがある。この時のそれも、その一環だと思っていたので、瀬里香は何も気にしないで好意に甘えることにした。その性格のおかげか、最近では結衣奈も千沙も、恭太郎とますます親密度を上げていると、もっぱらの評判である。
「瀬里香ちゃんさあ、最近前より可愛くなってきたよね。もしかして、恋でもしてる?」
世間話のノリで告げられた言葉にぎくりとしながら、それでも懸命に平静を装って笑顔で答える。
「いませんよお、そんなひとなんて。恭太郎さんこそモテるじゃないですか、彼女さんとかいないんですか?」
「彼女はいないけど……好きなコならいるかな」
「そのひとってば幸せ者ですねー、こんなに優しい恭太郎さんに好かれるなんて」
と、何の気なしに瀬里香は言ったのだけど。突然黙り込んだ恭太郎に、不思議に思って恭太郎の高い位置にある顔を下から見上げた。
「恭太郎さん?」
「──────瀬里香ちゃんのことだよって言ったら。どうする?」
「まーたまたー……」
「冗談なんかじゃないよ。冗談であんなことできやしないさ」
その言葉に、瀬里香の背中に一瞬冷や汗が伝う。何を……言っているのだ、この人は!?
「可愛かったなあ、瀬里香ちゃんの寝顔。眺めてたら我慢できなくなっちゃってさ。つい、ね」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘に決まってる。お願いだから。誰かいますぐ嘘だといって───────!!
瀬里香の目の前が真っ暗になり、いまにも倒れそうになってしまうほどに全身ががくがくと震え出したその瞬間。二人の後方の暗がりから、何者かの影が飛び出してきた!
「っ!!」
瀬里香が悲鳴を上げるより早く、恭太郎と同じくらいの背丈のその人物は目にも止まらぬ速さで恭太郎の胸ぐらを掴み、いまにも殴りかからんばかりの険しい表情を見せている。瀬里香は、その人のそんな怖い表情を、この時初めて見た。坂下に対していた時とは段違いの気迫や殺気を全身から立ち昇らせた、遼太郎だったのだ!
「……何だよ。勝手に立ち聞きしといて、更にはこのお兄さまに手を上げるってか?」
対する恭太郎は、そんな遼太郎を目の当たりにしてもまったくといっていいほどに動じることなく、先刻までの余裕綽々の態度のまま、相対している。遼太郎の本気など、まるで歯牙にもかけぬ勢いだ。
瀬里香はあまりの驚愕に口元を手で覆っていたが、すぐに我に返って遼太郎に声をかける。
「りょ、遼太郎くん、いったいどうしたの!? 乱暴はやめて!」
「瀬里香さんは黙ってて」
想像以上の迫力に満ちた声で言い切られて、瀬里香はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「ばーか。女の子怖がらせてんじゃねーよ。だからお前はまだまだガキだっていうんだよ」
胸ぐらを掴まれたままの恭太郎が放った足払いに、遼太郎は予想もしていなかったのかあっさりとひっかかり、豪快にバランスを崩した。
「う、わ…!」
遼太郎が地面に倒れ伏す寸前、恭太郎の腕がそれを支え、今度は遼太郎が胸ぐらを掴まれる形で再び二人は対峙する。
「何だよ。俺が瀬里香ちゃんにキスしたってのがそんなに悔しかったのか?」
「!」
絶対に言われたくなかった言葉を口に出され、瀬里香の瞳から大粒の涙がこぼれかける。
「嘘だ!!」
「何が嘘なんだよ。何でお前にそれが嘘だなんて言い切れるんだよ?」
「だ、だってあの時のあれは…!」
「『あれ』は何だよ?」
恭太郎は先ほどとまったく変わることなく余裕綽々のままだが、今度は遼太郎のほうが明らかに狼狽の様子を見せ始めている。先刻までの殺気や気迫はどこへやらだ。
「はっきり言えよ。あの時瀬里香ちゃんにキスしたのは、実は自分でしたってよ!」
言うと同時に、恭太郎の右ストレートが遼太郎の頬に決まった。遼太郎が勢いよく尻餅をつくのを見た瞬間、瀬里香の体はほとんど無意識に走り出していた。遼太郎に向かって!
「遼太郎くん! 大丈夫!?」
遼太郎は悪戯がバレた時の子どものように、ばつが悪そうな表情をしたまま決して瀬里香と目を合わせようとしない。それを見た瀬里香は、恭太郎の告げた言葉が正真正銘の真実であると、何の根拠もなく確信した。
「ったく、素直に言えばいいのによ、下手に硬派気取ってカッコつけてっからややこしいことになるんだよ。瀬里香ちゃんの気持ち、考えたことあんのか、てめーは」
恭太郎の言葉に悔しそうに唇を噛むが、遼太郎は何も答えない。そんな遼太郎を見つめながら、瀬里香は頭の中を必死に整理していた。
あの時自分にキスしたのは……遼太郎? 夢や幻なんかでなく? ほんとうに? 全然…素知らぬ顔をしていたのに?
「──────遼太郎くん。立って」
「え」
「いいから立って。それから、一緒に来て」
有無を言わせぬ迫力で言い切って、遼太郎の手を取って立たせ、ぐんぐんと引っ張って駐車場へと歩いていく。もちろん、自分の車に向かってだ。恭太郎のほうを一度も振り返ることも、一言の言葉さえかけることもなく、だ。
だから、残された恭太郎の元にその後誰が現れたかなど、瀬里香には知る由もない。
「……誰が素直じゃないんですか?」
しばらく前に買い物を済ませて帰ったはずの結衣奈だった。
「あれ、やだな、結衣奈ちゃん見てたの?」
照れくさそうに恭太郎が呟く。
「我ながら、青臭いお兄ちゃんしちゃったよー」
たははーと笑いながら恭太郎は言うが、結衣奈は笑わない。それどころか、夜目にもわかるほどにどんどん顔を赤くしていきながら、消え入りそうな声で囁いた。
「…………先輩が誰を好きでも。あたしは、恭太郎先輩のことが、好き、ですから────────」
全身全霊の勇気を奮い立たせての言葉だろうそれに、恭太郎は一瞬驚いたような顔を見せて。それから、ゆっくりと結衣奈の頭を優しく優しく撫でた。
「ありがとう、ね」
その後のふたりについては、また別の機会に書くこととして。
ところ変わって、こちらは瀬里香と遼太郎。瀬里香の運転する軽自動車に乗って、道路を走っているところだった。
「せ、瀬里香さん? どこまで行くんだ?」
遼太郎が遠慮がちに訊いてくるが、瀬里香は答えない。目的地まであと少しだったから、着けば嫌でもわかるはずだった。
瀬里香が車を停めたのは、近所の草野球のグラウンド。普通のグラウンドのように照明器具が充実している訳でもないそこが、夜になると人っ子ひとりいなくなる場所だということは、近所の者なら誰でも知っていることだったからだ。
「降りて」
普段とはまるで違う低く固い声で告げると、逆らう気力もなくしたのか遼太郎は無言で続いて降りてくる。ベンチの前のコンクリートの上で、近くの街灯の頼りない灯りの中、先刻とはまったく逆に、険しい表情をした瀬里香と不安げな表情を浮かべた遼太郎とが真正面から向き合う。
「あ、あの…瀬里香さん」
「……ほんとうなの?」
「え?」
「恭太郎さんが言ったこと。ゴールデンウイークの最終日のあの時、寝てたあたしにキスしたのって。ほんとうに遼太郎くんだったの?」
まっすぐに目を見つめて問うてくる瀬里香に、もうごまかしはきかないと察したのか、遼太郎は観念したように「うん」と呟きながら頷いた。それを聞いた次の瞬間、瀬里香の左手が遼太郎の右頬に向かって閃いた! スパアアアン!と小気味のいい音を立てた後、遼太郎が再び尻餅をついた。今度は瀬里香も駆け寄らない。
「いてて……」
「さっきのこともあるし、今度は違うほうの頬に、それも利き手じゃない左手でやったんだから、それくらい我慢してよね」
右頬をおさえながら立ち上がった遼太郎は、まるで子どもが親の機嫌をうかがうかのように、恐る恐る瀬里香の顔を下から覗き込んでくる。
「瀬里香さん……怒ってる…?」
「怒ってるわよ」
即答すると同時に、遼太郎が大きな身体をびくりと震わせた。
「言っとくけど、キスしたことに対してじゃないわよっ!? あたしが怒ってるのは、何も言ってくれなかったことに対してなんだからねっ!!」
「え…」
「好きなら『好き』ってさっさと言ってくれてたら、あたしだってあんな遠回りしなくて済んだかも知れないのに! 遼太郎くんだったらいいのになって、てゆーか遼太郎くんじゃなかったらどうしようって、あんなに不安にならなくて済んだのにっ 恭太郎さんだったのかと思った瞬間、
あんなに死んでしまいたい気分にならないで済んだかも知れないのにっ!」
恭太郎が聞いたら、それこそ泣き出しそうなセリフだ。けれどいまの瀬里香には、そこまで気が回らない。言っているうちに感極まってきて、トレードマークのどんぐりまなこから大粒の涙が幾粒もこぼれては、地面に落ちて染みていく。
「そうよ、全部遼太郎くんが何にも言わないのが悪いのよっ ばかばかばかっ」
もう、自分が何を言っているのか、瀬里香自身にもわかっていない。流れ続ける涙を隠すことなく、両手で作った拳を遼太郎の広い胸に何度も何度も打ちつける。
「ばか…!」
何度目かに打ちつけかけた拳を、遼太郎の手がやんわりと受け止めて。そしてそのまま、瀬里香の身体をみずからの胸に抱き締めてきた。
「──────ごめん。ホント、ごめん。勝手に自信なくして、勝手に瀬里香さんに受け容れてもらえないと思い込んでて、何も言えなかったんだ。なのに、兄貴と一緒に歩いてるの見たらいてもたってもいられなくなって後つけて……サイテーだよな、俺」
遼太郎の胸に顔をうずめていた瀬里香からは見えなかったが、深い自嘲を含んだ声だった。遼太郎の、本心からの言葉だったのだろう。
「だって俺、外見からしてこんなだし。兄貴どもと違って、女の子と接したことなんてろくすっぽないし。こんな俺を好きになってもらえるなんて、夢にも思ってなかったし。なのに、限界まで頑張って眠っちゃってる瀬里香さん見てたら我慢できなくなっちまって、つい……。瀬里香さんが知ったら傷付くだろうってわかってたのに、止められなくて。よけいに何も言えなくなって………バカみたいだろ」
「馬鹿よ。ホント馬鹿」
間髪入れずに答えた瀬里香の呟きに、遼太郎の心臓の音が大きく跳ねた気がした。
「遼太郎くんを好きにならない女がどこにいるっていうのよ。気は優しくて力持ちで、自分のことより相手のことばっかり考えて……それ言ったら、あたしなんかこんなチビで見た目からしてお子ちゃまで、いままで好きになったひとにだって全然女として見てもらえなかったのに、好きになってもらえる自信なんて………」
言っているうちに過去を思い出して、どんどん自嘲気味になっていった瀬里香の言葉を遮るように、遼太郎が身体を離して。瀬里香の目を、真正面から見つめてきた。
「自分のこと、そんな風に言うなよ。そんな瀬里香さんだから、俺は好きになったんだぞ。瀬里香さんは、可愛いよ。いままで会ったどんな相手より──────俺にとっては、最高に魅力的だよ」
こんな……自分が?
信じられなくて思わず目を見開いた瀬里香の頬に、遼太郎がそっと大きな手で触れてくる。
「──────もう一度…いや、仕切り直しで、キス…してもいいかな?」
もう。どうしてそういうことを、わざわざ訊いてくるのだろう。
「そういう時は、不言実行でいいのよ。そんなこと訊いてくるほうが野暮なの!」
頬をふくらませて答えると、遼太郎は今度は何も言わずにゆっくりと顔を近付けてくる。そっと目を閉じると、温かな唇が重ねられる。今度は夢うつつなんかじゃない。紛れもない、現実───────。
唇が離れた途端、どちらからともなくクスクスと笑い出してしまう。
「よかった。今度こそほんとうに、好きなひととキスできた。初めては絶対、好きなひととじゃないと嫌だったんだもん」
「ホントに? 初めてだったの? いままで誰ともしたことなかったの?」
「もうっ あたしのこと、いったいどういう目で見てたのよ、遼太郎くん以外のひととしたことなんてないに決まっているでしょっ!?」
今度は怒ったように言ってやると、遼太郎は一瞬のうちに破顔してみせて、ほんとうにほんとうに嬉しそうな歓声を上げながら瀬里香を抱き締めてきた。
「やったあ、今度こそホントにホントに俺だけのもんだあっ! もう絶対誰にも渡さないぞおっ!!」
こんな年相応の態度をとる遼太郎を、瀬里香は初めて見た気がした。
「俺だけのものだよね?」
「うん」
「俺以外の男になんか、触れさせたりなんかしないよね?」
「うん」
「恭太郎にだって、触らせちゃだめだかんね?」
ここまでくると、もう堪えきれなくなって、瀬里香は思いっきり吹き出してしまった。
「何で笑うの!」
「だって、遼太郎くん、独占欲強過ぎー」
「だって、瀬里香さんのことが大好きなんだから、しょーがないじゃん。それとも瀬里香さんは、そこまで俺のこと想ってくれてない?」
まるで拗ねたように言う遼太郎が可愛い過ぎて、その額をぴん…と指ではじく。
「馬鹿ね。好きに決まってるでしょ。口で言わなきゃわかんないの?」
言うと同時に顔を近付けて。今度は自分からキスをする。
「瀬里香さん、積極的過ぎー」
浮かれまくって更に身体に手を伸ばしてくる遼太郎の手の甲を、瀬里香はぺちんとたたいて止めさせる。
「はい、いまはここまでー」
「えー、何でー。やっぱホテルとかじゃないと…ダメ?」
唇を尖らせて言う遼太郎の額を、今度は力を込めてデコピンしてから、瀬里香は真剣な顔で真実を告げてやる。
「あのね、よく聞いてね? あたしはハタチで、こっちは問題ないの。だけど遼太郎くんはまだ十七歳でしょ? 十八歳になって高校卒業してからじゃないと、そういうことしたらあたしがおまわりさんに捕まっちゃうの」
「えー、何だよそれーっ 合意の上なら問題ないんじゃねーのー?」
「条例でそう決まってるんだから、ダメなのっ だから、いまはこれだけで我慢して…ね?」
子どもを諭すように言いながら、もう一度ゆっくりとキスをする。ほんとうはキスもダメなのかも知れないけど、とりあえずそのへんは目をつぶることにして。両腕を遼太郎の首にまわして力いっぱい抱き締めると、ほのかに雨の匂いがした。
「ふふっ 雨の匂いがする」
「瀬里香さんはシャンプーの匂い? いい匂いがする………」
またその気になってしまいそうな顔の遼太郎をさりげなくかわして、瀬里香は車へとゆっくり歩き出す。
「今度休みが合ったら……そうね、遼太郎くんの学校が夏休みにでもなったら、どこかにドライブに行こうか。配達のついでなんかじゃなくて、普通のデートがしたいな」
振り返りながら言うと、遼太郎も今度は健全に笑いながら。
「そうだね。あ、俺さ、十八になったら免許取りに行くことになってるんだ。一応大学にも行けって言われてるんだけど、免許あれば配達にも単独で行けるからって人使いの荒い親父が」
「そうなの? それはいいことね、いまの時代、何でもやっといて損はないと思うわよ」
「瀬里香さんと配達行けなくなるのは残念だけど、こうなっちまったからには、瀬里香さんを押し倒さないように自分を抑える自信、俺ないしなー」
「もう、馬鹿ー」
クスクスと笑いながら、ふたりで車に乗り込む。
そうね。今度は、ふたりで海にでも行きたいね。車の窓も全部開け放って、好きな音楽なんかかけながら。ふたりで一緒に、風を感じて──────────。
|