その後、サービスエリアなどを経由して最初に到着したのは、隣県のそこそこ大きい河原だった。木内によると、宿はこの県にあるそうだから、途中で寄ることにしたのだろう。天気もよいし、風も強くないし、先ほど皆が言っていたバーベキューをするにはちょうどいい気候だ。
ワゴン車のハッチバッグを開けて、皆がそれぞれ荷物を取り出し始めたので、唯も手伝おうと思って近付いたところ、一哉からかけられる声。
「あ、唯ちゃんはそこに入ってる折り畳み式の椅子を用意してくれるかな。人数分入ってるから」
「あ、はい」
言われるがままに椅子を取り出して、大崎や木内がてきぱきと用意しているコンロや網、鉄板を囲むように、適当な間隔を空けて並べる。こんなものかなと思って、次の作業に取り掛かるために振り返った唯は、気付かないうちに自分の真後ろにやってきていた一哉の姿を認めてぎょっとする。別に驚く理由もない気はするが、それでも自分より明らかに大きい男性────唯の身長の関係上、そんな男性の存在は他の女性にとってのそれより少ないので、そんな機会はそうそうなかったのだ────に接近されていたら驚いてしまうのも仕方のないことで。そして、驚きに支配されて次に言うべき言葉が出てこないうちに両肩に軽く手を置かれて、そのまま自分がいま用意したばかりの椅子の一つに座らされてしまう。
「え?」
思わず見上げた視界に飛び込んできたのは、何の含みもなさそうな一哉の笑顔。
「はい、これで唯ちゃんの仕事は終わり。後は、俺たちに任せて座ってて」
恐らくは、例の加藤をはじめとする多くの女性を一時的な思考停止に追いやったであろう魅力的な笑顔を向けられて、例にもれず数瞬ぼんやりとしてしまった唯であったが、すぐに言われた言葉の意味を理解して立ち上がりかける。
「なっ 何言ってるんですか、先輩っ 真央や木内くんもそうですけど、先輩方にみんなやらせて座ってるなんて、そんなえらそうな真似できる訳ないじゃないですかっ」
「いいんだよ、今回は唯ちゃんの慰労会なんだから。そもそも、俺がきちんと例の彼女のことに気付いて適切な対応をしていれば、唯ちゃんは何の被害も受けることはなかったんだし」
「でも…!」
あの時も言ったけれど、ちゃんとフラレているにも関わらず、まさか四年も彼女の中で想いが燻ぶっているなんて、誰にも予想はつかなかっただろう。だから、一哉自身のせいではないというのに。
「いいんだって。これは、俺の気持ちの問題でもあるんだ。自分のせいで、傷つかなくていい人を傷つけさせちゃったけじめをきっちりつけないと、俺の気が済まないんだ、だから」
そんな一哉の言葉を援護するように声をかけてきたのは、真央と共に野菜を切ったり肉と一緒に串に刺したりしていた藤子だった。
「そうよー、唯ちゃん。本人がそう言ってるんだから、今回は甘えちゃいなさいな。コレは『唯ちゃんをみんなで甘やかすツアー』なんだから」
「何ですか、それはっ」
「ゆーい? ここはおとなしく、いち兄の男としてのけじめをつけさせてやってよ。でないと、後でいじけて自棄酒とかして、めんどくさいことになりかねないんだから」
さすがに実の妹の真央の言葉は、他の誰のものよりも説得力がある。
「変なことバラすなよ、真央っ!」
その証拠に、先刻までの余裕とは裏腹に妙に慌てたように言い募る一哉の言動にも、妙に信憑性が増してきて……。
「へー、そうだったのか、大槻〜。真央ちゃん、他にも何か大槻のネタないの?」
楽しげに真央に問いかけるのは大崎。
「えっとですねー…」
「真央、それ以上バラしたら、お前の分の諸経費を出すって言ったの撤回するぞっ」
「う、それ言われると、弱いなあ」
「大槻、横暴ー」
「先輩それ、いくら妹相手でもパワハラですよー」
どさくさにまぎれて木内までのっている。
「あー、うるさいうるさいっ とりあえず、今回の真央と唯ちゃん、鳴海さんに対する責任は俺にあるんだから、お前らに言われる筋合いはないっ あんまりとやかく言うと、真央といまも同居してる両親や弟に、『真央につきまとう悪い虫』とお前らのこと報告するぞ」
それはさすがに大崎も木内も嫌だったらしく、ぴたりと黙ってしまった。ここに来るまでの道中で気付いたことだが、どうやら二人とも、今日初めて会ったばかりの真央のことをいたく気に入ったらしいのだ。その様子があまりにも可笑しくて、唯は思わず吹きだして、そのまま涙が出そうなほどに笑い続けてしまった。皆が、驚いたようにこちらを見る。
「あ、ごめんなさい、笑ったりして。でも、あんまりにも可笑しくって止まらなくて……」
一哉だけでなく、大崎や木内にも悪いとわかっているのに、笑いはなかなか止まらない。そんな状態だったから、自分を見て一哉がようやくホッとしたような笑みを浮かべたことにも、まるっきり気付かなかった。何とか笑いがおさまってきた頃に、一哉からかけられる声。
「ところで唯ちゃん」
「はい?」
「さっきので『先輩』と呼んだの三回目ね。あと二回〜♪」
「えっ 二回目じゃないんですかっ!?」
「車の中で二回言っただろ、だからいまので三回目」
確かに言った…と思うけれど、普通はあれで一度とカウントされるのではないだろうか!?
「えっ だってあれは、全部まとめて一回にカウントされるものじゃ…!?」
「カウントする立場の俺が言うんだから、あれは二回。はい決定」
「えーっ!!」
「お嬢さま扱いが嫌だったら、頑張って名前で呼んでくれな〜♪」
「…!」
真央はともかく、藤子や大崎、そしてこれまで何も知らなかった木内の前で、「一哉」と呼べというのか!? 何という羞恥プレイなのだ、これは。
そんな風に、唯はひとりテンパっていたから。自分には聞こえないように、藤子が真央に話しかけていることにも気付けなかった。もちろん、その内容にも。
「ねえ真央ちゃん」
「はい?」
「大槻って、以前から唯ちゃんにはああなの?」
「ああ、といいますと?」
「強引…というか、自分のペースに巻き込むというか」
「ああ、あたしらが大学に行ってる頃は全然会ってなかったみたいですけどね、高校の頃はあんなんでしたよ。ああでもしないと、唯は他人に甘えるってことをしないから」
「確かにそういうところあるわね。いわゆる長女気質っていうの?」
「いち兄は双子の兄弟のかず兄がいるから、お互い適当にまかせたり息抜きしたりしてましたけどね、唯は多分他人への甘え方を知らないんだと思います。だから、いち兄があれくらいやってちょうどいいというか」
「なるほどね〜。会社での大槻とは全然違うから、びっくりしちゃったわ。会社じゃ、ホント爽やか好青年で通ってるから」
「いち兄が爽やか好青年〜? すっごい猫かぶってるんですねえっ あたしに対しては、わがまま、横暴し放題なのに」
「だ・れ・が・わがまま、横暴だって〜?」
ドスのきいた声で言いながら、真央たちの背後に立つのは一哉。けれど真央はまるで動じてはいない。
「いち兄」
「お前に対するアレは、兄としての教育的指導だ! 一斗にも訊いてみろ、あいつも同じこと言うから」 そこに声をかけるのは、大崎。
「教育的指導はいいから、こっちも手伝えよ、大槻。お前、飲食店の息子なんだろ? ならメシの支度とかは慣れてんじゃねえの?」
「どういう理屈だよ、それは。確かに大学時代は家で経営してる店でバイトしてたけど、ほとんどウェイターや皿洗いだよ。調理のほうは、弟が継ぐ気満々で手伝ってたからな」
そんなことを言いながらも、一哉は手際がいい。実家での経験もあるだろうが、何より就職してから一人暮らしをしていた経験がきいているのだろう。一哉がそちらに熱中しているうちに、そっと椅子から立ち上がって真央たちの手伝いに向かおうとした唯は、そんな思惑などしっかり見抜いていたらしい一哉の声に、思わずびくりと身をすくませてその場で固まってしまった。
「ゆーいちゃん? 俺が見てない隙に手伝おうとしても無駄だからね? ちょっとでも労働したら、残り二回すっ飛ばして即執事モード発動するからよろしく♪」
「…!」
そこまで言われてしまったら、もう何もできない。一哉は意地悪だと思いながら、もう一度椅子に座り直す。
先輩ってば、何でそこまであたしを甘やかそうとするのよーっっ 加藤さんのことだって、もういいってぐらい謝ってもらったし、そもそも先輩が悪いんじゃないってさんざん言ったのにーっっ
まともな恋愛経験はゼロに等しい唯には、一哉の内心はまるでわからない。げに罪深きは、天然、もしくは純粋無垢というものか。
そうこうしているうちに、ようやくバーベキューの支度も整って、肉や野菜の焼けるいい匂いが漂ってきた。クーラーボックスを覗き込んでいた真央が、こちらを向いて問うてくる。
「ほら唯、いつまでもいじけてないで。飲み物は何がいい? もちろんオレンジジュースもあるし、お茶系とか炭酸とかコーヒー、紅茶もあるわよ」
「じゃ、とりあえず紅茶系もらえる?」
「はいな」
椅子に座ったままの唯に紅茶のペットボトルを持ってきた真央が、誰にも気付かれないほどの音量で、耳元でぽそりと囁く。
「いち兄のこと、悪く思わないでやってね? あれでも唯のこと、可愛くって仕方ないんだから」
「だからといって、これは甘やかし過ぎだと思うわ」
唯がつい恨みがましい口調になってしまったとしても、仕方のないことといえよう。
「あらま。ま、もうじきいいこともあるだろうから、それまで頑張って♪」
そう真央が言ったのは、てっきり一哉に他に恋人でもできて、妹のような存在の唯にここまで構っていられなくなるというような意味かと、唯は勝手に思っていたのだが。それは大きな間違いであったことを、そう遠くない未来に嫌というほど思い知らされることになると、この時の唯が知るはずもなかったのである……。
* * *
バーベキューを皆で堪能して、後片付けも済ませた後は────当然のことながら、唯は後片付けにも参加させてもらえなかった。ちなみにゴミは、宿に着いてから木内が伯父夫妻に処理を頼むとのことであった────適当にあちこちを観光して、宿へと向かった。
「そういえば、木内くんと同じ名字ってことは、お父さんの実家とかなの?」
「ピンポーン、いまはうちの親父の兄貴、つまり伯父さんが経営してるって訳」
「だから、普通ならとれないようなこんな短期間で予約がとれたってことかー」
「そんなに大きくない旅館だけど、露天風呂もあるし、ちゃんと源泉かけ流しで入浴剤なんて入れてないから、大丈夫!」
何年も前に世間を騒がせた事件のことを冗談めかして言われたので、車内が爆笑に包まれる。
「あとは観光できるとこは何があるの?」
「いろいろあるよー。ガラス工芸館とかいわゆるミュージアム系とか。ああ、小林さんのお母さんが見てきてって言ってたヤツか。そのへんなら老若問わず女性に人気あるかな。男性陣には秘宝館とか?」
「秘宝館って何?」
とたんにニヤリと下品な笑みを浮かべる木内に、唯が訊いた瞬間、真央と木内以外の三人がそれぞれ飲み物を吹き出したり身体のバランスを崩したりして、明らかに動揺する様子を見せた。さすがに大崎はハンドル操作を誤ったりはしなかったが、ブレーキを踏むタイミングが微妙にずれたりして車体が軽く揺れたことから、彼もまた動揺していることがわかる。ちなみに木内は信じられないものを見る目で唯を見ていたが、真央は「やっぱり」とでも言いたげな顔であった。
「えっ 何、私そんなに変なこと言った!?」
この歳までほんとうにそういうことに縁がなかった唯が、そのへんのことを何も知らなかったとしても、仕方のないことといえよう。
「そうよねー、唯はねー」
「えっ 何よ、真央っ」
「ううん、いいのよ、唯ちゃんはずっとそのままでいてね」
いち早く立ち直った藤子がしみじみと言うのも、唯には意味がわからない。
「藤子先輩までっ どういう意味なんですかっ!? 木内くん、ネタ振った責任とって教えてよっ」
「いや、俺が言ったらセクハラになりかねないから」
「ええっ!?」
などと、唯はひとりパニくっていたから、運転席と助手席の間で交わされた会話には気付かなかった。
「…ウブだとは思ってたけど、ここまでとはね。そのうち、お前が手取り足取り教えてやれば?」
「……いまお前がハンドルさえ握ってなかったら、存分にいたぶってやったものを」
唯は、まだ何も知らない…………。
その後、一哉が別の話題を振って何とか唯の気をそらせることに成功し、和やかな雰囲気のまま車は宿に到着した。
「はいっ 旅館きうち、到着でございまーすっっ」
唯の記憶を直前のことに戻らせるのを避けるためか、木内が妙に高いテンションで言いながら車を降りて、フロントへと向かう。そこにいた年配女性の従業員と知り合いだったらしく、女性が破顔して声を上げた。
「あら、よっちゃんじゃないのっ 久しぶりねえっ」
「おばちゃん、元気そうで何より。伯父さんたちいる?」
「ちょっと待ってねー」
女性が内線電話らしきものをかけて数分後。それぞれ別の場所から、夫婦らしき男女が姿を現した。
「おー、佳孝きたかっ」
「いらっしゃい、そちらの方々が同じ会社の皆さん?」
「そー、左から先輩の大崎さん、大槻さん、鳴海さん、同期の小林さんと、それから小林さんのお友達で大槻先輩の妹さんの真央さん。皆さん、こっちがうちの伯父夫妻っス、よろしくお願いしまーす」
「ご紹介にあずかりました、大崎です、初めまして」
「初めまして、大槻です。このたびは妹も一緒にお世話になります」
「鳴海です、よろしくお願いします」
「小林です、木内くんにはいつもお世話になっております」
「大槻の妹の真央です、今回は便乗させてもらっちゃいましたー」
皆で順番に挨拶していくと、宿の経営者という木内の伯父夫妻の顔が、次第にほころんで。
「どうも、佳孝の伯父です。佳孝がいつもお世話になっています」
「あらあら皆さんご丁寧に……男性の方もご立派な体格な上に男前だし、女性の方々も美人さんばっかりで。よっちゃん、ご面倒をおかけしてるんじゃない?」
それに答えたのは、実際に木内を指導している一哉だった。
「いえ、木内くんはなかなか物覚えもいいし、人あたりもいいしで、将来有望ですよ」
「おやそうですか。なら佳孝、会社勤めなんてしないでうちの跡を継ぐか?」
「伯父さん、冗談やめてくれよ、ここにはちゃんと後継ぎの俺の従兄弟がいるだろー」
何だかずいぶん気さくな人たちだったので、唯はホッとした。やはり、初対面の人と会うので多少緊張していたようだ。
「ところで佳孝、お前の本命さんはこのお嬢さん方の中にいるのか?」
「えー、まだ本命ってほど親しい訳じゃないけど……」
と、木内が誰に視線を走らせたのか気付いた大崎が、非常にわざとらしく
「おーっと、手がすべったあっ!」
と言いながら手にしていたバッグを床に落としたので、木内の声は途中で立ち消えになってしまった。
「あら、私ったら。皆さん、お荷物持ったままなのに話し込んじゃって。すぐお部屋にご案内致しますわね、由紀さーん」
伯母という女性がそう言って、先ほどフロントにいた女性従業員を呼ぶ。その間に、伯父が皆にスリッパを勧めて、中へと促す。横目でさりげなく木内と大崎を見ると、二人とも挑戦的な目でお互いを見やっている。これは、真央をめぐる恋の鞘当てが始まるか!?と、友人の恋愛模様の行方にばかり注目していた唯は、自分をそっと見つめる存在がいることにまったく気付いていなかった。そしてその男性の肩を、同情的に軽く叩く女性がいたことも。
唯は何ひとつ、まるっきり気付いていなかった………………。
|