亜衣子と再び逢えなくなって、十日ほど経った頃。慎吾は、中学、高校時代の部活仲間の渡部と、居酒屋で久しぶりの再会を果たしていた。
「いやー、ホント久しぶりだよな。お前、大学入ってからつきあい悪くなっちまったからなー」
「授業とバイトで忙しくなっちまったんだから、仕方ないだろ」
誘いにあまり乗れなくて悪いとは思っているが、こればかりは仕方がない。
「何だ、彼女でもできたのかと思ったけど、違うのかよ?」
一瞬亜衣子の笑顔が脳裏をよぎるが、懸命に思考の外に追い払う。
「彼女なんて…作ってる暇なんかねえよ」
中学からの気心の知れた仲なので、ついくだけた口調になる。
「えっ そうなのか? 高校卒業してから誰ともつきあってねえの? お前結構モテてたのに」
「モテてなんか…ねえよ」
どれだけ想いを寄せられたとしても、一番欲しい相手の心がこちらを向いていなければ、何の意味もない。言ってから、何となくヤケッぱちな気分になって、手元のジョッキをあおる。それを見ていた渡部の携帯が鳴り響き、「ちょっと悪い」と言いながら渡部が電話に出た。
「おう、俺。いま? 久しぶりに高坂と会って飲んでるとこだよ。そう、中学から一緒の。え? ちょっと待て、一応訊いてみるから」
携帯を脚の上に一時置いて、渡部がこちらに向き直ってくる。
「高坂、悪い。結花がさ、用事が思ったより早く終わったみたいで、これからこっちに合流していいかって言ってるんだけど……」
「結花」とは渡部が中学時代から付き合っている彼女の名前で、慎吾ともそれなりに面識のある相手だった。久しぶりに男同士で飲んでるところに合流させるのは悪いと思っているらしく、渡部の表情は申し訳なさを多分に含んでいるものだった。
「構わねえよ。知らない奴じゃないし、別にやましいことしてる訳でもないし」
本心からそう思うので快諾する。
「そうか? 悪いな。あ、結花? 高坂も構わないってよ。いま居るのは、駅前の『飲み道楽』っつー店なんだけど、わかるか?」
それから十五分ほどしてから、結花が店に姿を現した。昔からの面影を残してはいるが、以前よりずいぶんと綺麗になっていて……。亜衣子といい結花といい、女の子から成長を遂げた女性はこんなにも変わるものかと、いまさらながらに女性の可能性を見せつけられて心底驚いてしまう。
「高坂くん、久しぶりー。せっかく男同士で飲んでるとこ、邪魔しちゃってごめんねー」
茫然としている慎吾の前で、結花は渡部の隣に座り、少々申し訳なさそうな顔で声をかけてくる。
「いや、それはいいんだが……お前、ずいぶん感じが変わったなあ。そのへんで会ってたら、わかんなかったかも知れないぞ」
「いまはもう、校則とかで縛られてないからねー。そうなったら女の子は変わるわよー」
「…そうだな。笹野もだいぶ感じが変わってたしな」
その言葉を聞いたとたん、結花の瞳が複雑な光を宿したことに慎吾は気付くが、その真意までは読み取れない。
「……高坂くん、もしかしてと思うけど、高校卒業してから亜衣ちゃんと会ってなかったの?」
「え? 別に俺と笹野は友人ってほど親しい訳でもなかったし……偶然でもない限りとくに会う理由もないだろ」
そう答えると、結花は少々考え込んでしまった。まったく、訳がわからない。
「そういえば、笹野の弟の祐真だっけ? あいつ、お前の後追っかけて同じ大学に行ったんだって?」
渡部が訊いてきたので、反射的に答える。
「ああ、バイト先まで同じにしてきやがったよ。アパートは同じところで空きがなかったから、すぐ近所にしたみたいだけどな。んでそのアパートに行ったら、笹野が掃除や洗濯しててバッタリだよ」
「えっ それまで全然会ってなかったの?」
またしても、結花が訊いてくる。
「俺も忙しくて、あんまり実家に帰ってなかったしなあ。あっちはS女子大だろ、祐真のところにでも寄らない限り、そうそう会う機会もないよ」
「そうなんだ……」
結花はまたしても考え込んでしまう。いったい何だというのだろう?
「ところで高坂くんて、いま彼女とかいるの?」
「何だよ、突然」
「あー、こいつはいまだフリーだってよ。ひょっとして、彼女いない歴イコール年齢とか?」
少々からかう響きで言われたので、慎吾は何となく面白くなくて、ふいと横を向いて店員を呼びとめる。
「あ、すいません、生中ひとつ追加で」
「あ、ふたつでたのんます」
「じゃああたしはウーロンハイで」
ついでと言わんばかりに、渡部と結花も注文する。了解した店員が行ってしまってから、慎吾は再び口を開く。
「誰もがお前らみたいに早熟と思うなよ。まだハタチなんだから、別にいいだろうが」
「いやそれはいいんだけどさ……」
渡部の声を聞きながら、ジョッキの残りをあおった慎吾は、予想外の言葉を言われてとんでもなく驚いてしまった。
「だってお前、高校三年間ずっと笹野のことが好きだっただろ?」
何の気構えもしていなかったところに爆弾発言を投げかけられて、慎吾は思いきりむせてしまう。
「おま…っ いき、な…なに……っ」
ビールが気管に思いっきり入ってしまって、苦しくて仕方がない。おしぼりで口元や脚にこぼれてしまったビールを拭きながら、慎吾は懸命に呼吸を整える。彼女への想いなど誰にも語ったことはなかったのに、何故渡部が知っているのだ!?
「ばーっか、言わなくても見てりゃわかるっての。お前自分じゃ隠してるつもりだったろうけど、結構バレバレだったんだぜ? 祐真の忘れた弁当届けてやるために、わざわざ決まった時間に道場出てったりしてさ。さりげなくやってるつもりだったんだろうけど、みんな知ってたぜ。気付いてなかったの、笹野本人だけじゃねえの?」
日直だって、お前らがずれたりしたらクラスのみんなでさりげなく「用事できちったから交代してくれ」って事前に調整してたってのに、こいつら全然気付いてねえって、みんな陰で嘆いてたんだぜ?
そう続ける渡部に、高坂慎吾一生の不覚と。あまりにも信じられないことばかり告げられて、慎吾は心の底から驚いてしまった。あんなに懸命に隠していたのに、何故ここまで皆にバレているのだ!?
「なー、こいつ自分がどんだけわかりやすいのか、わかってなかっただろ?」
「ホント。あんなにちょくちょく視線向けられてて、亜衣ちゃんも何で気付かないんだろうって思ってたけど……どっちもどっちだったって訳ね」
渡部と結花がわざとらしくため息をつく。
「笹野もなあ……あいつも何であんなに鈍いんだ?」
「亜衣ちゃんの場合は、単に自分に自信がないせいだと思うけど…高坂くんの場合は、生真面目過ぎ? あ、これは亜衣ちゃんもか」
「あー、確かにふたりとも上に馬鹿がつくほど真面目だよなー、見てて堅苦しくなるくらい」
目の前でわざとらしく自分の噂話をされることほど、腹立たしいことはない。先刻よりますます面白くなくなって、慎吾は思わず怒りを抑えた低い声を絞り出す。
「…おい。いい加減にしとかないと、キレるぞ、俺も」
「あー、悪い悪い。それはともかくさあ、お前のことだからいまも笹野のことが好きなんだろ?」
渡部の言葉に、意識するより先に顔が紅潮してしまう。まさか、こんなにストレートに訊かれるとは思ってもみなかったのだ。
「な…何言ってんだよっ」
「もうさ。ここまで来ちまったら告白しちまえよ。お前のことだから、そうでもしないと次に行こうなんて考えられないだろ? だったら男らしく、告白してスッキリしちまえよ。もしかしたらってこともあるし、笹野だってお前のこと好きかも知れないだろ?」
笹野が俺を好き? そんなこと、あるはずがないだろう。せいぜい「弟の頼りになる先輩」ぐらいにしか思われてないに決まってる。
「お前は相変わらずポジティブだな」
「そういうお前は、相変わらずネガティブだな」
ほんとうに、渡部は自分と正反対だなと思う。だからこそ、こんなに長くつきあっていられたのかも知れないが。
渡部の言葉は何故か耳に残って。慎吾の心の奥底に、しっかりと刻み込まれたのである…………。
* * *
それから数日後。講義は午前中は終わったので、午後は祐真と共にめいっぱいバイトを入れて、慎吾は労働に励んでいた。
「高坂くん、外のゴミ箱そろそろ片付けてきてくれるかな?」
「あ、はい」
店長に言われて、表に出る。外はもうずいぶん暑くなっていて、もうすっかり夏だなと思わせる陽気になってきていた。慣れた手つきでゴミ箱の中身を片付け始めると、背後に人の気配を感じた。案の定、店のドアに向かっているようだったので、条件反射で振り返って「いらっしゃいませ!」と告げる。驚いたようにこちらを見る相手の顔を見て、慎吾も同じように固まってしまった。
「……笹野?」
逢いたくて逢いたくて……ときどき夢にまで見てしまう相手が、目前に立っていた。
「…高坂くん……あ、久しぶり」
「あ、ああ…」
やはり先日のことを気にしているのか、亜衣子はどことなく気まずそうだ。渡部や祐真のように、相手をリラックスさせられない自分の器が小さい気がして、自己嫌悪に陥ってしまった慎吾の思考を打ち切ったのは、信じられないぐらい明るい少女の声だった。
「あれ? この人何だか見覚えがある…あーっ 祐真くんが慕ってた、剣道部の先輩さんですよねっ!?」
誰だ!? 亜衣子と一緒にいるということは彼女の知り合いに違いないが、祐真や自分のことまで知っているとなると……。
「あ…高坂くん覚えはない? うちの部の後輩で、祐真のクラスメートだった藤原未唯菜ちゃん」
亜衣子の言葉に、慎吾もようやく思い出した。そうだ。祐真が入学してからは、亜衣子や結花と一緒に練習を見に来ていたこともある少女だ。祐真と親しげだったことから、他の連中が祐真にしきりに「彼女か!?」と訊いていたことを覚えている。祐真いわく、「同じクラスの親しい友人」だそうだが。まあ、練習の後祐真は亜衣子と一緒に帰っていたから、ほんとうに彼女ではなかったのだろうとは思ったが。もっとも、自分と亜衣子が卒業してからのことは知らないけれど。
「あ、ああ…そういえば、見覚えがあるな。祐真なら中でレジをやってるから、行ってみな」
「うん、ありがとう」
そこで亜衣子がようやく控えめな笑顔を見せてくれたので、ホッとする。やっぱり、亜衣子には笑っていてほしいと慎吾は思った。
中で、店長も加わって何やら話しているのを見て、「頼むから店長、よけいなことは言わないでくれ」と心から祈る。ハッキリ聞いたことはないが、店長はほとんど完全に慎吾の想いに気付いているに違いない。気になって仕方なくて、いつもより手早くゴミの処理を終えて、店の裏手のゴミ置き場へと急ぐ。鍵つきの置き場へとゴミをしまってから、裏口から中に入って手を洗って急いで店内へと戻ると、どことなく赤い顔をしているように見える亜衣子がレジから離れていくのが見えた。いったい、店長は何を言ったのだ?
「あ、高坂くんご苦労さまー」
「店長、笹野に何か言ったんですか?」
性急に問いかけると、店長はひょうひょうとした態度で答える。
「ん? 別に、ただ高坂くんが『お姉さんはいいお嫁さんになりそうだ』って言ってたって言っただけだよ」
「ホントにそれだけですか?」
「ホントだよ〜」
「先輩、マジで店長はそれしか言ってないっスよ。そんなに慌てちゃって、どうしたんスか?」
祐真にまで怪訝な顔で見られてしまっては、それ以上何も訊けそうにない。
「……いや。何でもない」
引き下がりはしたが、どうもイマイチ納得がいかない。そんなことぐらいで、あんなに真っ赤になるものだろうか。考えに没頭しかけたところで、どやどやと客が連続して入ってきたので、それどころではなくなって高坂はバイトに集中することにした。店長と交代してレジに入るが、タイミング悪く客がたてこんでしまって、祐真と共に懸命にレジを打っても間に合わないくらい並んでしまったので、亜衣子の姿を確認するどころではなかった。なので、背の高い男性客の会計を済ませて相手が去ったとたんに亜衣子が姿を現した時は、内心ではめちゃくちゃ驚いてしまっているのに顔に出さないようにするので精一杯で、何か話しかけるどころではなかった。ほんとうは、祐真のように友達としてでも和やかに、ひとことふたことでもいいから話がしたいのに。
「三百二十七円のお買い上げになります」
「あ、はい」
ただの客と店員として事務的にしか会話ができない自分の不器用さを呪いながら、彼女の手から小銭を受け取る。一瞬触れた彼女の細い指先に、胸が大きく高鳴った。まるで全身が心臓になってしまったかのように鼓動がヤケに大きく聞こえて、自分の喉から出ているはずの声すら遠いところから聞こえるような気がする。
「三円のお返しになります」
レシートと共にお釣りを渡す際に、再び慎吾の指先が亜衣子の手のひらに触れる。それだけで、慎吾はいまにも手が震え出しそうな思いだった。いままで、亜衣子の手すらろくに触ったことがことがなかったのだから、当然のことだが。
「お仕事お疲れさま。無理しないでね」
ささやかな微笑みと共に告げられた言葉に、胸が温かくなる。
ああ、やっぱり俺はこいつのことが好きなんだ。他の誰に同じことを言われても、こんなにも暖かな満たされた気分には決してなりはしないのだから。
ちらと祐真のほうを見ると、ちょうどもうひとりの彼女の会計の最中だったようで、祐真は手を動かしながらひとことふたこと未唯菜に何か告げている。
「六十八円のお返しになります、ありがとうございましたー」
「じゃ祐真くん、後で電話するね」
未唯菜がそう言うと、祐真は笑顔で頷いた。ふたりは高校時代同じクラスで、仲もよかったらしいから携帯の番号やメルアドをお互い知っていてもおかしくはないのだが……それでも、自分と亜衣子とのあまりの違いに、つい羨ましくなってしまう。
俺にも祐真ぐらい社交性があったら……いまごろきっと、笹野と友人関係くらいは築けていたかも知れないのにな。
ほんとうに、自分の不器用さが恨めしい。祐真や未唯菜のようにとまでは言わないが、もう少し社交的になれていたら、いまごろ違う未来が拓けていたかも知れないのに……。
「いらっしゃいませ!」
そんなことを思いながら、新たに入ってきた客に向けて声を張り上げる。振り返った時には、亜衣子は未唯菜と共に祐真に小さく手を振っていて、自分へは笑顔で軽く会釈して、出入り口の自動ドアから出ていってしまった。慎吾の手のひらと指先に、ささやかな温もりを残して……。みずからの手のひらを見つめて、思わず幸せに浸っていた自分を、祐真が無言のままで見つめていたことにも気付かぬままで…………。
|