それから数日後の夜中。外から聞こえてきた少々大きな物音に、自室で眠っていた亜衣子は、ほとんど反射的に目を覚ましてベッドの上に起き上がる。何の音かと心配になるが、窓を開けて確認する勇気も出せない。やがて聞こえてくる数匹の猫の鳴き声に、思わずホッとして大きく安堵の息をつく。脳裏をよぎるのは、今朝────時間的にはもう昨日の朝か────に聞いた母の声。
『ほんとうにひとりで大丈夫?』
昨日から父と共に三泊四日の旅行にでかけた母は、ひとり残る亜衣子をとても心配していたが、自分ももう二十歳だしひとりでも大丈夫と亜衣子は豪語したのだけど。いまになって考えれば、いままでは両親がいない夜でも祐真が必ずそばにいた。けれど、その祐真もこの春から一人暮らしを始めていて、ほんとうに独りで夜を過ごすのは初めてだったのだということに、いまさらながらに気が付く。こんなに不安な気持ちになるものなら、玲美や佳苗、でなければ未唯菜にでも泊まりに来てもらえばよかったかと思う。
もう一度寝ようと思って横になるが、一度目を覚ましてしまうと今度は時計の音などが気になって、なかなか寝付けそうにない。両親や祐真がいる時にはまったく気にならなかった物音などが妙に気になるのは、何故なのだろう。結局その後はろくに眠れなくて、朝になってから、電話をしても問題のない時間になるのを待って、携帯のアドレス帳から祐真の携帯番号を呼び出して電話をかけていた。
「あ、祐真? 私。唐突で悪いんだけど、今晩と明日の晩、泊まりに行ってもいい…?」
とにかく独りで夜を過ごすのが嫌で、そんな言葉を口にしていた。その後、自分ともうひとりの運命が大きく変わることに、まるで気付かぬままで……。
必要な分の着替えや小物を少し大きめのバッグに詰めて、ガスなどのチェックと戸締りをしっかりしてから、亜衣子は家を出る。家庭教師のバイトが昨夜でよかったとつくづく思う。でなければ、二、三日も祐真のところに行ったっきりなんてできなかったろうから。両親にはメールで祐真のところに泊まると伝えてから、最寄り駅から電車に乗って、祐真のアパートに向かって歩き出す。自分の背後で、誰が何をしているのかなどまるで気付かぬままで。
呑気に夕飯は何を作ろうかと考えながら、祐真の部屋へと続く階段を上がり、合い鍵で玄関のドアを開けて中に入る。片手でバッグを下ろしながら、もう片手で後ろ手でドアを閉めようとしたその時、ガクンっと途中で止まったことに気付き、不審に思って振り返った亜衣子の瞳に映ったのは、どこかで見たことのある…けれど会った場所も名前も思い出せないような、同年代の男。その男がいま、何となく不安を覚えるような笑顔でこちらを見ていた。亜衣子の背筋を冷たいものが伝う。
「亜衣子ちゃん、また会えて嬉しいよ。前見かけた時は、他の友達も一緒だったから声かけられなかったけど」
他の友達…? もしかして、未唯菜のことだろうか。
「ど…どちらさまですか……?」
バッグを下ろしたもう片手も使ってドアノブを力いっぱい引っ張るが、ドアはびくともしない。
「やだなあ、もう忘れちゃったのかい? ちょっと前、一緒に飲み会したじゃん」
その言葉と先日の高坂の言葉とが相まって、亜衣子の記憶を刺激する。思い出した。あの時の合コンで、しつこく亜衣子に言い寄ってきた相手だ。あの時は祐真が助けてくれたけれど……いまその祐真は、バイトに行っていてこの場にはいない。
「亜衣子ちゃんの弟の部屋ってここだったのかあ。結構近いのに気付かなかったよ」
「か…帰ってくださいっ 人を呼びますよっ!」
ともすれば震えそうになる身体と心を叱咤して、できる限り厳しい声を出して相手に投げかける。けれど相手もしたたかなもので、まるで怯む様子もない。
「そんな冷たいこと言わないでさあ。こないだは邪魔が入ったけど、今日こそゆっくり話そうよ」
などと言いながら、男がみずからの手で押さえていたドアをあちら側に引いてきたので、亜衣子の身体が一瞬バランスを崩す。
「きゃ…っ!」
その隙に両の手首を掴まれてしまい、亜衣子の身体はそこから動けなくなってしまった。ぞわりと一瞬にして鳥肌が立つような不快感が全身を駆け巡る。高坂に触られた時には、そんな感覚一度も感じたことはなかったのに!
「は…放してっ 放してくださいっ!!」
「だってこうでもしないと逃げちゃうでしょ? 俺はただ話がしたいだけなのにさあ」
そもそも逃げようとする時点で脈などないに等しいというのに、どこまでしつこいのだ、この男は!? 力の限り抵抗して振り切ろうとするが、所詮女の力では男にかなうはずもなく、じりじりと距離を縮められていく。このまま抱き締められたりするなんて、冗談ではなかった。
いやだ。いやだ。いやだ。気持ち悪い。触られるだけでもこんなに気持ち悪いのに、それ以上のことをされるなんて絶対に嫌だ。誰か。誰か助けて。誰でもいいから!!
「やめて…っ 放してっ 誰か…っ!!」
「無駄だよ〜、こんな平日の真っ昼間、普通の社会人なら仕事に行ってるだろうし、でなくてもこのへんはうちの大学の奴が多いからね、そんな奴らはバイトや遊びで忙しいしさ」
完全に優位に立っていることからの余裕からか、男の言動の端々から優越感らしきものがにじみ出ていて、その事実がよけいに亜衣子の心に恐怖感を芽生えさせる。こんなにも全身の力を振り絞っているのに、男にはまるで通じないどころかじりじりと自分との距離を狭められているのが悔しくて、更に恐怖感を煽る。このまま捕えられてしまったら、自分は一体どうなってしまうのだろう? 絶望が心を染め上げていく。玉のような涙が、瞳にたまり始める。
「い、や…っ 誰か…誰か、助けてっ!!」
堪えきれずに亜衣子が叫んだその瞬間。男の肩に誰かの手がかかり、男が振り返る間もなくすさまじい勢いでその身体が引かれて、そのままドアの向こうの柵に激突する!
「─────え…?」
手を放された亜衣子が茫然とする目の前で、立ち上がろうとした男の上に誰かが馬乗りになり、その胸ぐらを掴んで力ずくで立たせた。突然現れた闖入者に、驚いたのは亜衣子だけではなかったようで、男も目を丸くして相手の顔を見やる。亜衣子からは、その広い背中しか見えなかったけれど、その背中には決して忘れることができないほど見覚えがあって…。
「こ…?」
「…何を……やってるんだ、貴様は」
亜衣子は初めて耳にする、怒りを抑えたような、低い低い声だった。
「こ…高坂っ!?」
「何をしてるんだと訊いているんだっ!!」
ガッ!と男の顔や腹部にめり込む拳。それは一発や二発ではなかった。
「あ…ぐあっ」
男のうめき声がもれる中、ようやく落ち着いたような高坂が動きを止めた。胸ぐらを掴んだ手が緩んだ隙に、男が高坂の前からほうほうの体で逃げ出していく。
「二度とこいつら姉弟に近づくなっ! 次は本気で潰すからなっ!!」
「ひいいっ!!」
情けない声を上げて男が階段を駆け下りていく音を聞きながら、亜衣子の身体は驚愕に支配されたまま、まだ動くことができなくて。それどころか脚から力が抜けていき、まともに立っていることさえできなくなって、へなへなとその場でへたり込んでしまった。乱れた呼吸を整えていた高坂が、やがて現状に気付いたらしく慌てたように振り返るのも見えているのに、言葉ひとつ発することができなくて……。
「─────笹野…? 大丈夫か……? 驚かせて悪かったな」
ほんとうに高坂なのか、自分の願望が見せている幻ではないのかと我が目を疑っていた亜衣子の前で、心配そうに自分の顔を覗き込んでくるその顔は、他の誰でもない高坂本人のもので…!
「こ…怖かった……!」
次の瞬間。何の迷いもなく、心に浮かんだ感情のまま、大粒の涙を流しながら高坂の胸に飛び込んでいた。高坂の身体が一瞬強張るのにも気付かないまま。亜衣子の勢いにおされた高坂がぺたりと尻餅をつくが、それでも高坂は亜衣子の身体をしっかりと抱きとめ、強く強く…抱き締めてく
れる。
「無事で……よかった──────」
安心しきったような高坂の声に、ようやくホッとすることができた亜衣子の瞳から、とめどなく涙があふれて。いつまでも、高坂の胸の中でその温もりの中に包まれていた…………。
* * *
とくん…とくんと、力強い心臓の音が聞こえる……。その音の規則正しさに、混乱しきっていた亜衣子の心も、少しずつ落ち着きを取り戻していく…………。
ずっと、このままでいられたらいいなと思ってから、亜衣子の脳裏に今日になってから起こった出来事が、まるで映画やドラマのダイジェストのようによぎっていく。
『─────笹野…? 大丈夫か……? 驚かせて悪かったな』
『無事で……よかった──────』
よみがえるのは、高坂の優しい声─────!!
「!!」
自分は…いったい何をやってしまったのだ? いくら怖かったとはいえ…いくら、危ないところを誰でもない高坂に救ってもらったからとはいえ、何の躊躇もなく高坂の胸に飛び込んでしまうなんて!
「あ……」
「ん? どうした?」
頭上から聞こえてくるのは、やはり優しい高坂の声。
「ご…ごめんなさいっ いくら非常事態だったからって、こんなことしていいなんて理由にはならないわよねっ し、シャツもぐちゃぐちゃにしちゃって……ごめんなさい、いま祐真の服を出すから、代わりにそれ着て、そのシャツ洗わせてっっ」
自分でも何をどう言っていいのかわからず、頭に浮かぶままにまくしたてる。高坂の胸から身を起こした自分の顔は、もう真っ赤で涙と鼻水でえらいことになっていると思う。だから、鼻から口元にかけてを両手のひらで隠しながら、俯いたままゆっくりと高坂の身体から離れる。とてもではないが、高坂の顔を見られない。
「ちょ、ちょっと待ってて…っ」
慌てて洗面所に走っていって、まず鼻を拭いてから水で顔を洗う。それから祐真のタンス代わりのカラーボックスから、たたんでしまってあったTシャツを取り出す。祐真より、高坂のほうが微妙に背が高いが、服のサイズはそんなに変わらないと聞いたことがある。だから祐真のもので問題はないと思いながら、念のため比較的大きめのシャツを取り出して、玄関先に戻った。
「と、とにかく上がって、ああごめんなさい、そんなところに座らせちゃって、ジーンズも汚れちゃったでしょ、どうしよう…っ」
「笹野…大丈夫だから、少し落ち着け」
苦笑混じりの高坂の声にハッとする。いくらテンパっていたとはいえ、先刻までとは違う意味で混乱していた自分に、ようやく気付いたのだ。恥ずかしくて顔が上げられなくなってしまった亜衣子の前で、高坂は自分の尻をはたいて埃を落としながら立ち上がって。俯いてしまった亜衣子の頭を、ぽんぽんと優しくたたく。
「笹野が無事でさえあれば、俺はそれで満足なんだから。気にするな」
その言葉を聞いた瞬間、亜衣子はいま自分が言うべき言葉を思い出した。
「あっ あのっ た、助けてくれて……ありがとう──────」
ほんとうに、心から感謝しているのに、恥ずかし過ぎて高坂の目を見て言うことができない。ちゃんと目を見てお礼を言うべきなのはわかっているけれど、「痴漢やあんな目に遭うのは、自分自身に隙があるからだ」と昔聞いたこともあって、何となく引け目を感じてしまうのだ。
「わ…私がもっとしっかりしていたら、あんな人につけ込まれたりもしなかったはずなのに……」
すると高坂は、何も言わずに靴を脱いで中に上がりながら、亜衣子の頭をもう一度軽くたたいた。
「そんなのは関係ないさ。しっかりしてようがしてまいが、つけ込む奴はつけ込むし、つけ込まない奴はつけ込まないよ」
だから気にすることはない。
そう続ける高坂に驚いて、思わず顔を上げると
「これ、借りていいんだろ?」
と言いながら、亜衣子の手の中にあったシャツを取って、亜衣子がこくこくと頷くのを見てから唐突に自分が着ているシャツを脱ぎ出したので、亜衣子は思わず小さな悲鳴を上げて回れ右をしてしまった。
「…あっ ご、ごめ…! 俺んち、女はおふくろしかいなかったから、ついいつもの癖で…」
「だ、大丈夫……祐真やお父さんで見慣れてるのに、私ったら…」
何とか平静を取り戻しながら振り返って、何ごともなかったかのように笑ってみせる。
「じゃあ洗っちゃうから、そっちのシャツ貸して。この天気なら、いまから洗って干しても今日中には乾くから」
既に代わりのシャツを着ていた高坂の手からシャツを受け取って、洗濯機へと向かう。
あー、びっくりした。高坂くんてば、いきなり脱ぐんだもの。いくら祐真のを見慣れてるからって、祐真と高坂くんは────全然違うもの…………。
ものごころがつく前から一緒にいた弟と、想い人とではまるで違って当然だ。祐真の他の洗濯物と一緒に入れて、洗濯機を回し始めて。そのまま冷蔵庫を開けて、中のものを確認しながら麦茶を取り出して、二つのグラスに注いで部屋へと戻る。
「とりあえず、こんなものしかないけど…どうぞ」
「あ、ありがとう」
「もう少ししたら、簡単なもので悪いけどお昼作るから、よかったら食べていって」
それから、はたと気付く。
「高坂くんは…今日は何時まで時間大丈夫なの? 何か用事とかあるんじゃないの?」
もしも、用事があるのに自分のせいで足止めをしている状態なのだとしたら、申し訳なくて仕方がないからだ。そんな亜衣子の心配に、高坂はまるで平気な顔をして答える。
「ああ、俺は今日は大丈夫だよ、とくに何も予定はない。むしろ暇してたぐらいだから、祐真に笹野の相手しててくんないかって頼まれたぐらいだし」
「え…っ」
祐真がわざわざ、自分のために高坂に頼んだというのか!? いくら親しい先輩後輩の間柄とはいえ、少々図々し過ぎるのではないか!? そんなことを思ったのが顔に出てしまったのか、高坂が慌ててフォローするように弁明する。
「あ、祐真を責めないでやってくれな。あいつなりに姉貴を心配してのことなんだから。昨夜も独りで心細い思いをしたってのに、今日もこっちで独りじゃ意味ないだろうからって」
「祐真ったら、そんなことまで話したの!?」
頬が、かーっと熱くなる。
「でも結果的にはよかったよ。まさか、あんなバカヤローが出てくるとは夢にも思ってなかったから」
その言葉に、先刻の出来事を思い出して、亜衣子の全身がぶるりと震える。言われてみれば、そうだ。祐真がもし高坂に頼んでくれてなかったら、誰も助けに来ることもなく、いまごろ亜衣子はどうなっていたことか…! 二度と高坂の前に出られない状態になっていたかも知れない。今更ながらにその可能性に気付いて、亜衣子の全身がまるで氷風呂にでも浸かったかのように一気に冷え切る。
「…同じ大学の奴だからって訳でもないけど、男がみんなあんな奴ばっかりなんて……できれば思わないでくれ。大半の奴は、ちゃんと常識と礼儀をわきまえてるから。あんな奴は、それこそ滅多にいるもんでもないから」
同じ男性として、苦々しく思っているのだろう、高坂の表情は苦渋に満ちている。立場は違えど、亜衣子にもその気持ちはわかった。あまり褒められたことでもないと思うが、亜衣子にも一緒にされたくないなと思ってしまう同性が時々いたりするから。
「大丈夫よ。男の人がみんながみんな、あんな人だとは思ってないから」
何気ない口調でそう答えると、高坂がはじかれたように顔を上げた。
「女の人だって、いい人もいれば悪い人もいるし。一部がそうだからって、一概に全員がそうだなんて思わないわ。同じ男の人でも…高坂くんみたいに、いい人だってたくさんいるの知ってるし」
さすがに最後のほうは恥ずかしくて俯き気味になって言ってしまったが、言いたいことはちゃんと高坂に伝わったらしく、一瞬驚いたような表情を浮かべた高坂のそれがすぐに優しい微笑みに変わったことが、ちらりと上目遣いで見た亜衣子にはわかって、ますます顔を上げられなくなってしまった。
そこに聞こえてくる、洗濯が終了したことを告げる、洗濯機の電子音。それを幸いに、高坂の顔を見ないままに立ち上がる。
「あ、洗濯機止まったわね、干してくる」
歩きだした亜衣子の背にかけられる、高坂の優しい声。
「ありがとう─────」
「…っ」
恥ずかしくて返事もできないまま、洗濯機の蓋を開けて中の洗濯物を取り出す。
「…ちょ、ちょっと待っててね。これ干したらお昼作り始めるから」
「何か手伝おうか?」
「大丈夫、ほんとうに簡単なのしか作らないから。材料も大したものないし」
言いながらハンガーにシャツを干し始める。
「今度、料理教えてくれないか? 俺ホントに簡単なのしか作れないから、いい加減飽きてきちまって」
「私でよければ」
こうして、同じ部屋で寛いで家事なんてやっていると、何だか夫婦にでもなったような錯覚を覚えて、自分の図々しさに内心で苦笑しながらも嬉しく思う気持ちを止められない。ほんとうにそうなれたなら、どんなにいいか……。高坂が気を利かせてテーブルを拭いてくれたり、食器を出してくれたり、食べ終わった後の片付けをしてくれたりしたから、よけいにそう思ってしまうのかも知れない。
午後は、高坂がレンタルビデオ店で借りてきたという映画のDVDを観たり、料理のレシピをいくつか教えたりして、ふたりでのんびりと過ごした。そんな風に過ごしていると、午前中にこの部屋に来た時の騒動など忘れてしまえそうで、亜衣子はとても安心していたのだけど。
「祐真は夕飯は家で食べるって話なのよね。高坂くんも一緒に食べていけるでしょ? 材料もろくにないし、私ちょっと買い物に行ってくるわ」
そう言って、亜衣子は自分の小さいバッグを手に取ろうとしたのだけど、高坂も立ち上がったのでちょっと驚いてしまう。
「どうしたの?」
「荷物持ちも兼ねて、俺も行く。アイツにまた会わないとも限らないし、でなくてもこのへんはうちの大学の連中も結構うろついてるし、いくら明るいといってももう時間も夕方だしひとりじゃ心配だ。着替えるから、ちょっと待ってて」
そう言って、高坂が窓の外に干してあった自分のシャツを取りに行ったので、亜衣子は慌てて背中を向けた。背後から終わった旨を告げられてから、残りの洗濯物を取り込んで、それから再びバッグを手に高坂と共に祐真の部屋を後にする。
「高坂くんは、何が食べたい?」
「んーと…やっぱり和食がいいかなあ」
「お肉よりはお魚のほうがいいかしら」
「そうだなあ、前は肉じゃがを作ってもらったから、今度は焼き魚か煮魚とかがいいな」
そんな会話をしながらスーパーへと向かい、買い物を済ませて店を出る。亜衣子も持つと言ったのだけど、「いいからいいから」と高坂に荷物を全部持たれてしまって、何となく申し訳ない気分になってしまった。
普段あまり来ないスーパーだから────ここを訪れるのは祐真の食事を作る時だけなのだ────店の中も周囲も見慣れなくて
何だか新鮮さを感じてしまって、つい辺りを見回しながら歩を進めていた亜衣子の視線の反対側から、突然低音の大きな笑い声が聞こえてきて、知らず知らずのうちに身が硬くなる。恐る恐るそちらを見ると、亜衣子から数メートル離れたところで、地面に直に座り込んで談笑している男子高校生数人の姿。高校生といっても、亜衣子よりずいぶん背丈も体つきも大きくて、高坂や祐真とそれほど変わりがない。それを見た瞬間、忘れられたと思っていた午前中の出来事が脳裏によみがえって。それに伴って恐怖と絶望も一瞬にして心によみがえって、亜衣子の身体が小刻みに震え始める。
「……!」
どうしていいかわからなくなってしまった亜衣子の肩に、唐突に回される誰かの温かい手。驚きのあまり一瞬びくりと身を震わせるが、顔を上げるとその手の先では高坂の優しい双眸がこちらを見つめていて、ほんとうにさりげなく男子学生たちの反対側へと亜衣子の身体を誘導して、
自身の身体がまるで亜衣子の盾になるようにしてくれた。
「!」
高坂は何も言わないけれど、その穏やかな瞳と肩を支えてくれている手の力強さから、優しさと思いやりが伝わってくるような気がして、やがて亜衣子の身体の震えも止まった。先刻の男子学生たちの間から、ひやかしのように口笛が響くが、高坂は手を離そうともせず亜衣子の歩調に合わせて歩き続ける。ちらりと下から見上げた高坂の顔は心なしか赤くなっているように見えて、手から伝わってくるのはずっと触れていたいほどの優しい温もりで……嬉しく思う心のままに、ほとんど無意識に口元に笑みを浮かべて、そっと高坂の肩に頭を寄せようとした、まさにその瞬間!
「…………何か。俺がいないうちに、すっかり仲良くなっちまったみたいだなー」
バイト帰りらしい祐真の、驚きを隠そうともしない声が背後から聞こえてきて、亜衣子の心臓が────恐らくは高坂のそれも────いまにも止まらんばかりに飛び上がった!!
「ゆ、祐真っ」
「ち、違うの、これはっ」
「あー、はいはい、今更言い訳しないでもいーっスよー。別に反対なんかしないし、むしろ賛成? な気分なんだから。あー、未唯菜ちゃんにも後で報告しとかないとなー」
「だから、違うんだってば!」
「頼むから、俺たちの話を聞けーっ!!」
焦りまくったふたりの声が、ようやく薄暗くなり始めた空に響いた……。
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