〔13〕





 ピシッ バシッと、何かがひび割れるような音が大広間のあちこちから響き渡るのを、『彼』以外の者たちが何ごとかと言いたげな顔で辺りを見回す。それは、怒りのあまりに己が力を抑えきれない彼の、無意識のうちに放たれるそれが、付近の物にぶつかっている音であった。それほどに、いまの彼は憤怒に支配されていた。

 頭上に広げられた、魔導師たちの手による幕に映し出されていた戦いの図。自分の命によって戦っていた四人のうちのひとりが致命傷となり得そうな傷を負ったことで、やっと面白い展開になってきたと思ったところで、他の三人が戦いを放棄してそのひとりの治癒に走ってしまっただけでも怒りを覚えるには十分だったというのに、その上三流としかいいようのない安っぽい恋愛や友情劇を見せつけられ、更に自分の意に背く発言まで飛び出したとあれば……怒りを通り越して殺意すら覚えたとしても、無理はない。

 幼い頃から、「お前はこの世界の王になるのだ」と厳しく教育され、同じ年頃の子どもがするような遊びなど、ほとんどさせてはもらえなかった。もしも支えとなる双子の弟がいなければ、思春期にさしかかる頃にはとうに城を出奔していたかも知れない。それほどに、彼────アナディノスにとっては、この城での生活は窮屈、退屈極まりないものだったのだ。

 二十歳になる頃、父である前王が崩御し────王妃である母はその数年前に病が元で逝去していた────ようやく自分の思う通りに振る舞えると思ったのも束の間、今度は王としての責務が待っていて、後継者としての教育を受けている頃とは比べ物にならないほどの重圧と制限がのしかかる毎日に忙殺されて。この世の誰よりも強い力を持っているというのに、それを自由に使うこともできず────それどころか城からすらなかなか出ることもできず、出られたと思えばいまやすっかり臣下としてしか接してこない弟他、うっとうしい供がぞろぞろとついてきて、ちっとも好きなように動くこともできず……。

 ならば、城の中や付近でぐらい好きに振る舞って、何が悪い? 自分の自由を奪った奴らに、何故そこまで制限されなければならない!? それがアナディノスの行動理念であり、彼を突き動かすすべての衝動の原動力だった。その結果、誰が悲しもうが苦しもうが、自分の知ったことか。恨むなら、自分をまるで籠の鳥のように扱う連中を恨めばいい。本来ならどこにでも行くことができる力を持ちながら、どこにも行けずに閉じ込められている自分。それは何ともどかしいことか。この世でもっとも強い権力を持つと皆は言うが、そんなものなど彼にとっては枷以外の何物でもない。

 この世の誰よりも強い力を持ちながら、この世の誰よりも自由のない、まるで囚人のような存在。それが、自分だった。

「………………」

 そしていま、ささやかな────というには犠牲が大き過ぎるかも知れないが────愉しみを満喫しようとしていた矢先に、自分に逆らおうとしている存在がいる。「愛している」から何だというのだ? 「相手が悲しむ」から何だというのだ!? アナディノスの数少ない愉しみのひとつを、あっさりと水泡に帰そうとする連中が憎かった。アナディノス本人には、みずからの愉しみそのものが倫理から外れた酷いものだという自覚はない。それすらも気付けないほど、幼い頃からの苦行ともいえる日々は、彼の心を大きく歪めていたのだ。

「────四部族とも、彼らの言動は私に対する謀反ととって間違いないな?」

 怒りを隠そうともしない声で低く言い放った瞬間、それまでわずかに安堵したような表情で同じ幕を見上げていた四部族の長たちが、慌てたようにこちらを向いて弁明を始める。

「お待ちください、陛下! 彼らもしばらくの間共に過ごしてきた仲間ともいえる存在を失いかけて、とっさに感情を優先させてしまった結果で…!」

「そうです、あのような精神状態で口にした言葉に、深い意味など決してなく…!」

「陛下に逆らおうなどと、思っているはずがございません!」

「ですからどうか、この場は寛大なお心でご覧になっていただきたく……」

 口々に我が子たちを弁護する長たちの必死さが、また癪に障る。

「『感情を優先させた結果』? ならば、それこそが彼らの心の奥底にある本心ととってよいだろう。どれほど建前で隠していたとしても、とっさに出るそれこそが人間の本性だというからな」

 もはや、長たちが何を言っても、彼らを許すつもりなどアナディノスにはなかった。平常ならば、誰よりも先に彼を諌めるリオディウスの声が聞こえないことにも気付かないほど、アナディノスの心は怒りのみに支配されていた。自身の貴重な愉しみを邪魔されたという、冷静に考えれば彼の我儘以外の何物でもない理由、ただそれだけに。

 立ち上がり、力を駆使すべく片腕を上げる。その場にいる者は、それが彼の力を発動させる前兆だと知っているがために、悲痛な響きを宿す低い声や甲高い悲鳴のような声を上げていたが、そんなことは彼の知ったことではない。いますべきことは、これからみずからに反旗を翻そうとするに違いない、不敬罪という名の罪を背負った罪人たちを断罪すること、ただそれだけだ。

 背後から不意に呼ばれたのは、その時だった。

「アディ」

「リオか」

 その心を怒り一色に染め上げていたから、気付かなかった。それまで沈黙を守っていたリオディウスが呼んだそれが、幼い頃から毎日聞いていた、けれど自分が即位したその時から決して呼ばれなくなった、かつて両親や弟だけが呼んでいた愛称であるということに。そしてそれをリオディウスが呼んだということは、彼の心情にどれほどの変化をもたらしたが故の結果だということなのか。アナディノスは、気付かなかった…………。

「何だ…」

 言いたいことがあるなら早く言え。

 言外にそう告げながら、振り返ったアナディノスの胸に、予想もしていなかった衝撃が走ったのは次の刹那。

「───────」

 痛みも苦しみも、感じなかった。何が起こったのか理解できぬまま、アナディノスはみずからの胸を貫いた剣を…ただ茫然と見下ろして。それから、ゆっくりと顔を上げ……そして、見た。まるで鏡を見ているかのように、自分自身そのものの姿と見まがうほどの、相手の姿を。青い二対の双眸が、ぶつかり合う。

「─────先に…冥府で待っていてくれ」

 迷いなど少しも見えなかった相手の瞳が、一瞬何と形容していいのかわからぬ感情の色に染まって……アナディノスは、頭では何が起こったのか即座に理解していた。けれど心は……不思議と、怒りも憎しみもわいてこなかった。目の前の相手は自分ではあり得ないことを、誰よりもわかっていたのに。すい…と手を伸ばして、相手の頬に触れる。それだけで、相手の心がすべて流れ込んでくる気がした。

 ああ。自分は、他の誰でもないお前にこんなことをさせてしまうほど、お前の心を追い詰めていたのだな。

 そう思い、相手に対してせめて微笑んでやろうとしたその瞬間、気管から逆流してきた血液が喉を詰まらせ、言葉すら発せなくなる。そのとたん、歪む相手の顔。彼のそんな顔など、見たくないのに…………。

 先に逝って…待っているよ。誰よりも愛しい……我が半身よ。

 声もなく呟いた思いが、相手に伝わったのかはさだかではない。けれど、たとえ伝わっていなくても、アナディノスはそれで満足だった。血に染まった唇の端をわずかに上げて、ゆっくりと背中から倒れていった。それと共に剣が胸から少しずつ抜けていって…倒れ込んだ床に敷かれた絨毯に、みずからの血で鮮やかな色の血だまりができていくのを、アナディノスは薄れゆく意識の中で見つめていた。

「─────いまこの瞬間、我、リオディウスは反乱を起こし、王位を簒奪することを宣言する! 異議のある者はいますぐかかってくるがよい、我は誰の挑戦でも受けよう!!

 凛とした、みずからと寸分も違わぬ双子の弟の声を聞きながら────それすらもだんだん遠ざかっていき、その姿さえも霧の中に消えていくように少しずつ見えなくなっていったけれど────アナディノスは深い眠りの中に、静かに意識を沈めていった………………。




              *     *




 いったい何が起こったのか。セレスティナにはわからなかった。気を抜けば、いますぐにでも深淵に沈み込んでいきそうな意識を、己が手から伝わってくるギィサリオンの手の温もりで懸命につなぎとめ、決死の思いでギィサリオンへみずからの本心を伝えようとしていたその時、宙空から例の銅鑼の音が鳴り響いて────アナディノスの性格から考えるに、いまこの場で鳴り響くはずのない音で。朦朧としかけているみずからの意識が聞かせた、幻聴かと思ったほどだ────驚きに目をみはり、口々に疑問を投げかける三人の姿を見る限り、それは現実であるようで……。

「セレスティナ!!

 恐らくは魔導師に転移してもらったのであろう父や兄たちが姿を現すのを、やはり驚きの眼差しで見つめる。続いて、ギィサリオンやサラスティア、ジィレインの家族たちも姿を見せて…四人とも、驚きのために何も言えなくなってしまった。

「アナディノス陛下が崩御された。新王リオディウス陛下の命により、この戦いはこれで終わりだ。治癒のため、然るべき施設に収容する」

 王が崩御…? あれほどに生気に満ちていた王に、いったい何があったというのか。そして、いくら王の次に王位継承権を持つ者といっても、リオディウスの即位が早過ぎる気がするのは……自分の気のせいか。他の三人も同じことを思っているのか、怪訝そうな顔をしているのが視界に飛び込んできた。その後すぐに、父や兄たちに担架へと丁重に移されてしまったので、それ以上はわからなくなってしまったが。

 それよりも、ギィサリオンと握り合っていた手を離されたことが何よりも辛かった。

「ギィ……」

「セレスティナ、動くんじゃない! すぐにリオディウス陛下が手配した医療班の元に連れていく、だからそれまで頑張るんだ!」

 切羽詰まったような兄の声を聞きながら、セレスティナはゆっくりと意識を手放した……。




                   *     *




 重傷者用に設えられた部屋に意識を失ったセレスティナが運ばれて行った後、比較的軽症だった残りの三人も、それぞれ別に治療を受けたが、これまでの戦闘中に各々についている精霊たちが治癒を施してくれていたおかげで、全員簡単な治療だけであっさり解放された。ただひとり、命に関わる重傷を負ったセレスティナを除いて。

 治癒を専門とする魔導師や医師、薬師たちしか入れない部屋の前で、用意された椅子に腰を下ろして、ギィサリオンはうなだれながら祈りを捧げる。創造神・ティリアに対して。

 頼むから。代わりに自分の何を捧げてもいいから。セレスティナを、連れて行かないでほしい。ようやく想いを伝えられたというのに、そんな結末はあまりにも悲し過ぎる。

「…………」

 そんなギィサリオンの肩に、そっと触れる存在があった。他の誰でもないジィレインだった。

「…大丈夫だよ、ティナちゃんは。やっとお前の本心が知れたんだ。自分の気持ちを伝える前に、逝っちまう訳なんかねえよ」

「そうよ。パッと見儚げに見えるかも知れないけど、ティナのしぶとさを知らないでしょ。口ゲンカだろうが、戦闘訓練だろうが、こっちが『勘弁してくれ』って訴えるまで、絶対に退かない頑固者なんだから」

 褒めてるのか貶しているのかわからない言葉だったが、少なくともギィサリオンを励まそうという意図は酌みとれたから。わずかに口角を上げて、ふたりに応えてみせる。

「……ありがとう」

 それにしても、と思う。あんなに誰よりも生に執着していそうだったアナディノスが、家族の者たちに告げられたように────「詳しいことは落ち着いてから」と言って、家族はそれ以上のことは教えてはくれなかったが────あっさりと死ぬとは思えなかった。近くを通る者たちの言葉の端々に、「反乱」「王位簒奪」という穏やかとは言い難い言葉が飛び交っていることから、ある程度の予想はつくが、あの穏やかなリオディウスがそんなことをするとはとても思えなくて、ギィサリオンのみならず他のふたりも混乱を禁じ得ないようだった。

 そうして。セレスティナが生命の危機を脱し、意識は戻らないまでももう心配は要らないと魔導師や医師の太鼓判をおされてから、彼女を除くギィサリオンたち三人は、リオディウスの元へと呼び出されることとなった。

 久しぶりに招き入れられた王城の広間は、どことなく雰囲気が変わっていて────どこがどうとは言えないのだが、明らかにどこかが違っていることだけがわかる。それが、アナディノスの血が染みついた絨毯や調度品が替えられたりなくなっていることまでは、さすがに予想が付かなかったが────主が変わるとこんなにも周囲の雰囲気も変わるのかと、ギィサリオンに思わせた。

 そしてやはり久しぶりに顔を合わせたリオディウスは、以前より明らかにやつれていて……実の兄を手にかけたというその心痛はどれほどのものかと、ギィサリオンの心にも影を落とした。

「─────我が兄の我儘のために、危険な目に遭わせてしまって…ほんとうに、済まなかった…………」

 既に王弟という立場ではなく王になったその人が、開口一番そう言って頭を深々と下げようとするのを、ギィサリオンはもちろんのこと、ジィレインやサラスティアまで止めようとする。悪いのはあくまでアナディノスであって、リオディウスは彼にできる限りの努力をしてくれたことを、皆知っているから。

「いまはまだ動くことのできないセレスティナにも……いずれ、詫びにまいろうと思う」

 その誠実さが、たとえ兄である王を弑逆し、王位を簒奪した者であっても誰一人として異議を唱えなかった一因だろうと、ギィサリオンは思う。その決断がなければ、自分たち四人はきっと生きてこの国に戻ってこられなかっただろうと痛いほどに実感しているから。リオディウスには、いくら感謝しても足りない。

「いえ…陛下には、あのままでは全員助からなかったであろう状況を救っていただき、感謝の念に絶えません」

「…兄を止められなかった私にも責任があったからな……いまでは、王といえば聞こえはいいが、結局はただの謀反人だからな、私は」

 リオディウスの表情にも口調にも、自嘲の念らしきものがにじみ出ている。国が平和になり、これから先どれほど名君と褒め称えられたとしても、この人の心は決して救われることはないのだろうと……思わせる姿だった。

「とにかく、そなたたちにはこれから最高の待遇を約束する。何か望みがあるのなら、いつでも言うといい。できる限りのことはしよう」

 一国の王がするには最高のものといえるであろう約束をされて、三人は王城を後にした。リオディウスの心遣いを嬉しく思う反面、彼の癒されることはないであろう心を慮りながら。

 ギィサリオンは、その後は自宅に戻らず、水の一族の長の元を訪ねていた。ぶしつけとは思うが、せめてセレスティナが目を覚ます時にはそばにいたくて。断られることを覚悟して控えめに申し出たところ、あの時────セレスティナにみずからの胸の内を伝えた時のことだ────王城の広間にて他の長と共にすべてを見ていたという水の一族の長────セレスティナの父親は、むしろ歓迎せんばかりの勢いでギィサリオンをもてなしてくれた。彼女の母や兄姉たちも同様だ。あの時は必死だったとはいえ、愛の告白を自分の身内を含む皆に見られて恥ずかしくない訳がない。それでも、セレスティナが療養している部屋に何の障害もなく通され、そこで彼女の目覚めをずっと待っていられるようにとりはからわれたことは、正直に言って嬉しいことであったが。


 そうして。幾度かの夜と昼を越えた後、ギィサリオンの愛しいひとはついに目を覚ました…………。




    




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2012.5.16up

誰よりも哀しい決断を下したのは、他の誰でもないリオディウスでした……。
次回、最終回です。

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