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──────「恋は遠い日の花火ではない」と言ったのは、誰だったか。





 七月上旬の午後。社用で郵便局へ行った帰りの鈴木凛子は、ふとコンビニの前で足を止める。そこでは、店員が透明なガラスに一枚のポスターを貼っているところだった。八月の半ばに市内で行われる、花火大会のポスターだった。

 ああ。今年もそんな時期がやってきたのね。

 そんなことを思っていたところで、背後から突然耳元でかけられた声に心底驚いてしまう。

「へえ、花火大会なんてやるんだ」

 それが、聞き慣れた相手の声でなかったら、危うく悲鳴を上げるところだった。振り返ると、さすがに暑いらしく脱いだ上着を鞄と一緒に小脇に抱えた男の姿が目に入った。

 神崎明人─────この春他県の支社から異動してきた営業担当の社員で、個人的には凛子の恋人といっていい相手だった。まくった袖の下から見える、引き締まった腕に凛子は思わずどきりとする。この腕に何度も抱き締められたのかと思うと、何だか急に意識してしまって、マトモに顔が見られない。

「も、もともとこちらの出身なんだから、あるのぐらいは知ってるでしょう?」

10年も離れていると、いろいろと忘れてることが多くてね。男一人だと、あんまりそういうのを意識したりしないしね」

 そこまで言ってから、明人はそれよりも、と続ける。

「制服のままで表に出てるのなんて珍しいな。何かあったの?」

「あ、社用でそこの郵便局までおつかいに行ってたのよ。ちょうど仕事も一段落してたし、他の皆は忙しそうだったし」

 そう答えると、明人は実に微笑ましいものを見る目で凛子を見てきたので、何となく居心地の悪さを感じて凛子は問いかける。

「な、なに?」

「んー? めんどくさいことを後輩に押しつけるんじゃなくて、自分でやっちゃう凛子のそういうところもすごい好きだなあと思って」

 にこにこにこ。嫌みのない笑顔で言う明人に、凛子は気恥ずかしくて仕方がない。

「先輩も後輩もないわ。手が空いてる者がやるのが一番合理的でしょう」

「うんうん」

 言いながら、明人がみずからの肩に手を回してきたので、凛子はぺしっとその手をはらう。

「制服を着てる時は、そういう軽はずみな行動はしないで。会社の恥になるでしょう」

「行き帰りの私服の時ならいいの?」

「そういう問題じゃありませんっ」

 顔を真っ赤にして答えると、明人はまるで気分を害した様子もなく、凛子の耳元に唇を寄せてくる。

「もう、また…っ」

「花火大会。今年は一緒に行こうか?」

 一瞬何を言われたのかわからなくて、きょとんとしてしまう。

「嫌?」

 続けて言われた言葉にハッとして、ほとんど無意識にぷるぷると首を横に振ってしまう。それを見た明人は、嬉しそうな顔をして、会社の方向へと足を向ける。

「よかった。じゃ、会社に戻ろうか」

 まだ赤い顔をしたまま、凛子はこくんと頷いて。それからゆっくりと、ふたり連れ立って歩きだした。




                      *     *




 次の週末、明人と約束していなかった凛子は、独り暮らしをしているマンションから隣の市にある実家へとやってきていた。

「まあまあ、いったいどうしたの? 最近は年末年始にしか帰ってこないような人が」

 母親が目を見開きながら大げさに言うのが耳に痛いが、とりあえずそのへんはスルーして話しかける。

「お母さん、確か何枚かお母さんの若い頃の浴衣や着物があったわよね。その中に、百合の柄の浴衣ってなかった?」

「確かあったと思うけど……しまってあるところはわかるでしょ? 自分で探してきなさいよ」

 やっぱりだ。凛子は自分の記憶力を褒めてやりたくなった。両親が主に使っている和室へと歩を進め、押し入れの襖を開いて中にあった桐ダンスの抽斗を引く。和服の類いはたいていここに仕舞ってあるはずだった。

「お姉ちゃん、帰ってきてるの?」

 そこにやってきたのは、妹の蘭子。昔から凛子に懐きまくっていただけあって、とても嬉しそうな笑顔の妹に、凛子の頬も自然に緩む。

「せっかくの週末なのに、神崎さんとデートしなくていいの〜?」

 可愛い笑顔がとたんにからかうような笑顔に変わったため、非常にやりにくいものを感じながら、蘭子の額をぺしっとたたく。

「お生憎さま。彼のほうは、今日は上司のおつきあいで接待ゴルフに行っているの」

「へえ、会社員も大変なのねー」

「あんたのほうこそ、婚約者さんとデートとか式の打ち合わせとかしないでいいの?」

 蘭子はこの秋結婚を控えているので、本来ならばとんでもなく忙しい時期ではないのだろうか。

「だって拓さんは週末こそが忙しいんだもの。お休みが合わないのって、こういう時は困っちゃうわよねー。だから、夕方まで暇なの」

 ぽすっと凛子の背中にみずからの背をくっつけて、蘭子は少々不満そうに呟く。

「あらあら。女の子がみんな羨ましがるようなケーキ屋さんの彼氏でも、現実的に考えると大変なのねー」

「で、お姉ちゃんは何してるの?」

「んー、百合の柄の浴衣を探してるの。確かあったと思ってお母さんに訊いてみたら、やっぱりあるって言うから」

 そこまで言ったところで蘭子は背を離して、凛子の鼻先にびしっと人差し指を突きつけてきた。

「わかったーっ! それ着て、今度の花火大会にでも神崎さんと行くんでしょーっ 前に、神崎さんの親戚のお宅でいっぱい百合の花をいただいたって言ってたものねっ」

 あまりに唐突な妹の言葉に、凛子は口から心臓が飛び出るかと思うぐらい驚いてしまった。我が妹ながら、何と鋭いのだ。ちなみに件の明人宅の本家からいただいた百合の花束は、いまはドライフラワーとなって凛子の一人暮らしの部屋に飾られている。

「ななななな、何を言い出すのよ、蘭子っ」

「ずばり大当たりねっ」

「すごーい、蘭子ちゃん、名探偵ねえ」

 そこに割って入ったのは、穏やかな女性の声。蘭子とほぼ同時にそちらを見ると、ふたりの兄嫁である薫がにこやかな笑みをたたえて、いつのまにかやってきていた。

「あ、お義姉さん、こんにちはー」

「はい、こんにちは。凛子ちゃん、花火大会に浴衣着ていくの? きっと神崎さんも喜ぶわよー」

 義姉にまで言われて、凛子の頬はますます紅潮するばかりだ。

「あ、お義母さんとも相談したんだけど、この際百合の柄の浴衣は凛子ちゃんにあげちゃおうかって」

「え…いいんですか? だって、お母さんのものならお義姉さんが受け継ぐのが筋でしょうに。私はちょっと貸してもらえればいいだけで……」

「ううん、いいのよー。私は実家の母がくれたのもあるし。何より、そんなぴったりなものがあるなら、凛子ちゃんが着たほうがいいに決まってるもの。あ、蘭子ちゃんも気に入ったのがあるなら持っていって。お嫁入り道具のひとつにしたらちょうどいいじゃない」

 その後は、母や義姉も加わって、女同士の話に花が咲いてしまった。後で聞いた話では、父親と兄は所在なさげに居間で甥姪の相手をするしかなかったとのことで、悪いと思いつつも凛子はついつい笑ってしまった。

 結局、蘭子と共に数枚ずつ浴衣と着物と帯を分けてもらって、凛子は夕飯を皆────と言っても式の打ち合わせがてら拓と食事にでかけてしまった蘭子を除くメンバーだが。凛子と同様に自他共に認めるシスコンの蘭子は、「次こそは絶対、一緒にご飯を食べてねっ」と何度も何度も念押しをしてからでかけていった────と食べてから帰途についた。

帰りの電車の中で、マナーモードにしていた携帯にメールが届いたのでそっと見てみると、上司や取引先の相手で疲れ切った明人からの「いま帰った」というメールだった。よほど疲れたらしく、普段の明人らしくなく気取ったところがまるでない文章に、凛子はほとんど無意識に口元に笑みを浮かべてしまう。あの明人のことだから、上司や取引先の前では表面上は完璧な接待をこなしたのだろうが、内心はもうヘトヘトだったのだろうなと、安易に想像がつく。同じ営業で、男性並の体力を誇る凛子の親友の由風が滅多にそういう場には連れていかれないのは、疲労の蓄積と共に本音を全開にする可能性が比例して高まっていくからだろうなということも。上司としても、ただでさえ気を遣う接待で、そんな危険な賭けに出る気にはなれなかったのだろう。

 家に帰ったら、浴衣のことには触れないように気をつけながら、「お疲れさま」の電話をしてあげようかなと思いながら、凛子は乗り換えの駅に着いた電車のドアからホームに降り立った。




                      *     *




 それから三日ほど経った日の、昼休み。後輩の三人娘と外で昼食をとってきた凛子は、ふと通りかかった呉服屋の前で足を止めてしまった。視線の先にあったのは、店員らしき女性が男性型のマネキン人形に着せていた一着の浴衣。色といい柄といい、何となく心惹かれるものがあって、つい目をとめてしまったのだ。

「りーんこさんっ 何見てるんですかあ?」

 背後から、ひょいっと顔を出して凛子の顔を覗き込んでくるのは愛理。

「な、何でもないわよっ」

 慌てて答えるが、もう遅い。

「呉服屋さん? ああ、もう浴衣の季節なんですねえ」

 何も気付いていなさそうに紗雪が言うのに、ホッとしたのも束の間。

「あのマネキンの着てるヤツですか? 神崎さんに似合いそうですね」

 鋭い言葉を投げかけてくるのは、やはり麻美香だった。

「え、もしかして神崎さんにプレゼントですかっ!?

「あ、そういえば、来月花火大会がありますよねえっ もしかして、ふたりで浴衣着て行っちゃったりするんですかっ!? 凛子さん、他人に着せるのもできるって言ってましたもんねえっ」

「善は急げで、さっそく見てきましょうよっ すみませーん、そのマネキンの浴衣見せてもらっていいですか〜」

 先日コーディネートしてもらって以来、三人娘はすっかり凛子のマネージャー状態だ。凛子が何か答えるより先に、彼女の背中をどんどん押して、恋愛には消極的な凛子を前に進ませる。助かることも多いのだが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。

「いらっしゃいませ、どなたか男性の方にプレゼントですか?」

「はいっ」

「歳は確か32だったか33だったか…ですよね、凛子さん?」

「え、ええ」

「身長は〜…175はありますよね?」

177って言ってたかしら。体重は…60から70kgの間ぐらい……だったかな」

「では、中肉中背という感じですね」

 店員がにこやかに声をかけてきて、マネキンに着せている途中だった浴衣を見せてくる。藍というのか紺というのか、青味がかった色の浴衣だった。部分部分に縦のストライプ状に黒や茶色系のラインが入っており、全体には様々な幾何学模様の入った、華やかな女性用とは違い男性らしい渋さをたたえた浴衣で……これを明人が着たら、どんなに似合うだろうかと思えるような代物だった。

「いかがです? お相手の方にはお似合いになりそうですか?」

 にこにこにこ。満面の笑顔の店員が訊いてくるのに、ほとんど無意識に「はい…」と答えていた。

「ねえ凛子さん、買っちゃいません? 神崎さん、絶対似合いそうですよー」

「ほんと。あたし浴衣の相場なんて知らないけど、お値段もそんなに高くないと思いますよー」

「そうなんですよー、これお手頃価格でご提供してるものなんですよ。いまの若い方にも着てもらおうというコンセプトで作られたものなので」

「買っちゃいましょうよ、凛子さん。神崎さん、きっと喜びますよー」

「ついでに凛子さんのも選んじゃったらどうです? 女性用のもいっぱいありますよー。わたしも買っちゃおうかしら」

「あ、私のはもう実家から持って来てあるから」

 ついつられて、ぽろりと口をついて出てしまった。三人娘の動きが一瞬止まる。

「きゃーっ すっかり準備万端なんじゃないですかーっっ」

 「口は災いの元」ということわざを、深く噛みしめた凛子だった…………。


「か…買っちゃった…………」

 あの後、三人娘にガードされながら────主に明人や同じ営業部の誰かに見られないようにだ。人づてにでも明人に知られたら、どんなことになるか…火を見るより明らかだったから────更衣室のロッカーに呉服屋の紙袋をしまったり、会社を出て帰路についたりして、気を遣い過ぎた凛子は家に帰りつく頃にはヘトヘトになってしまっていた。

 三人娘の言うとおり、着付けを習ったこともあるから確かに自分のも他人のも着付けることはできるが、まさかこんなところでそれを披露することになるとは思わなかった。確かに、購入した浴衣は明人にさぞ似合うだろうと思えるものだったが、店員のセールストークも見事なものだったという他ない。もし自分が補佐ではなく営業担当だったとしたら、是非参考にしたいところだと考えてから、自分が現実から逃避している事実に気付き、恥ずかしさに床に突っ伏してしまう。

確かに、着付けはできる。けれど、それを明人本人に告げてやらせてもらうには、どうにも抵抗がある。嫌がられるとかそういう可能性からではなく、その逆で、どれだけ大はしゃぎさせることになるかと思うと、恥ずかしくて仕方がないのだ。どちらかというと、華やかなところからは離れて謙虚に控えめに生きてきた凛子にとって、逆にそういうところでばかり生きてきた明人は未知の存在で、誰の前でも構わず堂々と楽しむその性格は羨ましいと思うと同時に敬遠したいものだったのだ、いままでは。

 けれど、好きになってしまったものは仕方がない─────。

いつ言おうかと悩んでいるうちに、あっという間に日は過ぎて。気がついたら、花火大会は三日後に迫ってしまっていた。




                       *     *




 最近、恋人の凛子の様子がおかしいように思う。一緒にいる時でも、時々上の空になって何かを考えているようだったり、かと思えば夢見る少女のようにうっとりとしたような表情を浮かべてみたり、その後突然頬をほんのりと染めてみたりと、まるで百面相だ。

「何かあったのかい? 最近、何か変だよ」

 そう問いかけてみても、明らかに挙動不審な様子で「何でもない」としか返ってこなくて。何だか心配になって、凛子を姉のように慕う三人娘に訊いてみても、意味深な笑みで「知りませーん」としか答えないし、彼女の親友の由風に訊いてみても大して興味もなさそうに「勝手にやってろよ」としか答えない。皆が知っているようなのに自分だけがわからなくて混乱するしかない明人に、ただひとり西尾だけが同情的な表情で「まあ、もう少ししたらわかりますから、それまでの辛抱ですよ」とだけ告げてきて、ますます混乱するしかなかったりするのだが。

「で、花火大会の日なんだけど。土曜日だよね、待ち合わせとかどうする?」

 ほんとうは二日連続であって、日曜日にも開催されるのだけど、花火だけ見てハイさよならなんてするつもりはまったくなかったので、あえて土曜日に約束をとりつけたのだ。そんなことを思いながら問いかけた明人の前で、凛子はぴくりと肩を震わせて、それまで別の方向を向いていた顔に明らかに作った笑顔を乗せてこちらを向いて、平常の様子で答えてきた。

「えっと…悪いんだけど、ちょっと用があるから、午後になってからうちに来てくれる? その…よかったら、でいいんだけど」

 普段から凛子は、世のわがままな女性のように、やってもらって当然、という言動は絶対にとらない。その凛子がそう言うのだから、よほどそうしてほしい理由があるのだろうなと思い、すぐに了承の意を示す。すると、凛子の表情がみるみるうちに安堵の表情に変わったので、ああやっぱり可愛いなあと思う。ここが人前でなかったら、そのまま押し倒したいくらいの可愛さだ。凛子が喜ぶのなら、どんなことでもやってあげたいと思うのに、その生真面目な性格ゆえか、凛子は滅多にささいな望み以外を口にしようとはしない。そこが、明人にとって物足りない部分だったり、した。

 もっともっと、わがままを言ってくれていいのに──────。

 それはともかく、可愛い恋人の望みをかなえるため、明人は土曜日の昼下がりに車で自宅を出て、凛子のマンションに向かう。慣れた様子で駐車場の来客用スペースに車を駐めて、いまではすっかり慣れたマンション内を進み、目的の部屋へ。凛子の部屋のベッドはシングルなので泊まったことこそないものの、何度も迎えに来たり共に過ごしたりした部屋だ。互いに見覚えのある住人もいるほどである。

 慣れた調子でチャイムを鳴らすと、すぐに中から返事が返ってきた。いつもの凛子らしくなく、どことなく自信のなさげな声だ。「鍵は開いてるから入って」という声に従って、「お邪魔しまーす」と言いながら扉を開けると。そこにいたのは、予想もしていなかった装いの彼女─────



  





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2013.3.9up

季節感がまったくありませんが、
凛子と神崎のちょっとした夏のひとときです。
そして、とりあえずサプライズは成功のようです。
後は、明人の理性がどこまでもつか(笑)

背景素材「空に咲く花」さま