彼はこの年受験を控えた三年生で、冬休みに入る前から時折保健室を訪れては不安を吐露していた生徒だった。綾乃の印象としては、担任から聞いた話と合わせても実力は十分あると思うのに、その繊細さから自信を持ちきれずにいる状態だったので、気にかけている生徒の一人だった。 「どうぞ。いまお茶を淹れるからゆっくりしていって」 そう言いながら自分一人しかいなかった室内へと招き入れる。この後何が起こるかなどまったく予想もしないままで。 「本格的に寒くなってきたわね。風邪なんてひいてない?」 「それは気をつけてますから…」 そう言いながら口元からマスクを外した彼は、受験へのプレッシャーからか多少の緊張をはらんでいるように見えた。この時期は誰もがそうなるものだとわかっているから、綾乃はとくに気にしていなかったが、後で思えばそれは思っていたのとは違うものだったのだ。 「少し…日射しが眩しいので、カーテンを閉めてもいいですか? 少々寝不足なもので」 「どうぞ。でもこの時期になったらもう夜更かしはダメよ。いまさらじたばたしてももうどうしようもないんだから、とにかく体調管理を最優先にして……」 生徒に背を向けていた綾乃は、背後から急に拘束されて、驚きのあまり手にしていた茶筒から力が抜けてしまい、蓋を開けずにいた茶筒が床に落ちてそのままころころと転がっていく。 「え……」 その真意を正確に理解した瞬間、綾乃は即座に全身に力を込めた。けれどがっしりと綾乃の身体を抱き締めた彼の身体はびくともしない。彼はこんな時にこんな冗談を言うような人間ではないとよく知っているからこそ、綾乃も素早く対応しようとしたのだが、初めからそのつもりでいた男の力に女の身で抗えるはずもない。それでも身体に力を入れたまま拘束を解こうとしながらも、首をできるだけ動かさず視線を出入り口に走らせるが、まったく気付かないうちに引き戸の扉を中からロックされており、室外からやってくる誰かに期待することもできない。やはり彼は初めからそのつもりだったようだ。 「悪ふざけもいい加減になさい…」 そう告げる最中に綾乃の身体はベッドに勢いよく押し倒され、しょせん学校の備品である安物────といっても私立なので公立のそれよりは多少質のいいものではあるが─────のそれが軋んだ音を立てる。その隙に悲鳴を上げようとするが、彼の大きい手が綾乃の口を塞ぐほうが早かった。 だから、自分のためにこの身を差し出せと言うのか、冗談ではない! 「むーっ!」 力の限り抵抗を試みるが、さすがに高校卒業間近の若者の力にはかなわない。気がついた時には両手首を捕らえられ、片手で軽々と頭上のシーツの上に押さえつけられていた。口元はもう片手で塞がれたままだ。これでは声を出すこともかなわない。 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。 男の力が女の力を上回っていることなど、性別の上でも職業柄でもとうに承知している。けれど、こんなにも強引にこちらの意思を無視して蹂躙されそうになったことなどない。言葉さえも封じられたいま、綾乃に抵抗するすべなどないに等しい。いまはまだ冬休みで、生徒たちはもちろんのこと、教職員でさえ満足に揃ってはいないこの状況で、保健室を訪れる者などそういるはずもない。夕方も近く、部活動の生徒たちとてもう帰宅の途についているだろう時刻だ。 一瞬にして状況を察知した綾乃の内心を見抜いているのか、声を出すのをやめた綾乃の口を覆っていた手を外し、彼が笑う。 にやあと嫌な笑みを浮かべた男の手が綾乃の胸元に伸びる。服を掴むや否や、無理な力を加えられた生地が嫌な音を立てて引き裂かれた。 「!!」 丸見えになった下着を隠したいのに、手首を押さえる手はびくともしない。そんな綾乃を見て、彼はさらに笑みを深める。 「…自分が何をしているかわかっているの? れっきとした犯罪よ、これは」 双眸に怒りの炎を燃やし、厳しい声で告げるが相手は少しも動じた様子を見せない。 「わかっていますよ。ただほんの少し、先生と夢のような時間を共にしたいだけです」 また噂か! 以前にも噂や聞きかじりの事実から勝手な勘違いをした生徒に踊らされ、暴走した志郎に誤解されてえらい目にあったというのに。ああ思い出すだけでも腹が立つ。 あの時の怒りに再び心を支配されかけた綾乃は、首筋に走ったおぞましい感触で我に返った。見ると、自分の首元から男が舌舐めずりをしながら顔を上げる姿が目に入った。首筋を舐められたのだと気付いた瞬間、全身に怖気が走る。 「先生の肌は、甘いですね」 「──────っ!」 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 志郎に舐められた時は、一度たりともそんな風に思ったことはなかったのに。そう思い返した瞬間、志郎と目の前の男との違いがわかった気がした。 「は…なしてっ 触らないで!」 突然暴れ出した綾乃に驚いたのか、男の腕の力が緩んだ一瞬を綾乃は見逃さなかった。 「女をバカにするのも…いい加減にしなさいっ!!」 思いっきり足を振り上げて、その股間に蹴りを命中させる。完全には入らなかったものの多少のダメージは与えられたらしく、男が己の股間を咄嗟に手で押さえようとした隙に勢いよく起き上がり、出入り口へとまっすぐ走る。しかし、あと1、2センチというところでがくんと動きを止められてしまった。痛みを堪えて追ってきたらしい男の手に再び押さえ込まれてしまったからだ。 「!!」 「…そう簡単に…逃がすと思いますか?」 こっちだってそう簡単にやられはしない。そう思いながら、必死に男の手から逃がれようともがく。あと少しなのに、諦めてたまるものか! そんな綾乃の祈りが通じたのか、近くの廊下を歩く誰かの足音が聞こえたのは次の瞬間のこと。 「!」 近くにあった椅子を蹴り飛ばし、ドミノ倒しのように連鎖反応で他のものを倒して、派手な音を立てる。 「…染井先生? どうかなさいました?」 聞こえてくるのは年輩の女性の声。綾乃に声を出させないように口元を押さえつけた男の手に力がより加わる。 「んーっ!」 「染井先生?」 ここまできて諦めてなるものか。咄嗟に自由な方の腕で背後の男に肘打ちをお見舞いする。 「ぐっ」 これにはさすがに男も怯んだようで、綾乃の全身が一瞬解放される。 「──────助けてっ!!」 誰でもいいから、お願いだから。 けれどそれだけ叫んで鍵を開ける前に、またしても男に拘束される。男のほうもここで見つかれば身の破滅だ、その力はこれまでの比ではなく強い。 「染井先生っ!? どうしたんですか、何かあったんですか!?」 お願い、早く誰か人を呼んできて。 そう願う綾乃の耳に届いたのは、信じられない声。 「どうかしたんですか?」 「あっ 風間先生、染井先生に何かあったらしいの、だけど中から鍵がかかっていて!」 騒ぎに気付いて駆けつけてきた他の者たちの声も入り乱れ、やがて体当たりで破壊されて室内に倒れてくる扉。中に入り込んできた複数の目に晒される、服を引き裂かれ押さえ込まれている綾乃の姿とその加害者の姿──────!! 「て…めえええっ!!」 「てめえ綾乃さんに何をしたっ 言ってみろ!」 「ダメです風間先生、それ以上はっ!」 「落ち着いてくださいっ!!」 戸を破るのに手伝ってくれたらしい嘉月や大輔が止めようとするが、志郎の怒りは凄まじく、男性二人がかりでも止まりそうにない。相手の男は恐怖からか既に戦意も逃走の意思もないのは明らかだ。このままでは、志郎が人を殺してしまうかも知れないと思った綾乃は、考えるより先に震える脚を叱咤して立ち上がり、その足を前に進めた。 「ダメ…それ以上はダメっ!!」 後先のことなど何も考えずに志郎の背後から身体の前面に両腕を伸ばす。志郎の身体がびくりと反応した気がした。 周辺の人間が目を見開いて驚くのも構わずに、その名を呼んで、力の限り志郎の身体に縋りつく。綾乃の声が届いたのか、志郎の振り上げた拳がゆっくり下がっていくのを見届けた綾乃の脚から再び力が抜けていく。それに驚いたらしい志郎が慌てて振り返って倒れかけた綾乃の身体を支えてくれる。そしてジャージを手離していて破れた服が露わになったままの胸元を見て、またギョッとしたような顔をして 「あ、あれ、ジャージは!? あっ 佐々木先生、そこに落ちてるジャージ取ってくださいっ でも細い目でごまかしきくからってこっそり綾乃さんの胸元は見ちゃダメですよっ!?」 「はいはい、見ませんよってどさくさにまぎれて人が気にしてる目のことをよくもまあボロクソに言ってくれますね」 「あ、いやー、その」 よかった、と思う。志郎が来てくれて。綾乃の言葉で止まってくれて。ほんとうによかったと思う。 「はい綾乃さん、こっちに腕を通して」 「あ、待って、この白衣は脱いでしまったほうがいいから…」 白衣を脱いでからジャージを羽織り、首元まできっちりファスナーを上げたところでかけられる声。 「…染井先生も大丈夫そうでしたら、理事長や校長、『彼』のご両親もお呼びして、きちんと話し合いの場を設けたいと思うのですが ……」 気を失っているようでほとんど動かない『彼』─────言わずと知れた、今回の加害者のことだ────を苦々しい目で見ながら嘉月が言った。学園上層部の一族に属する彼にとっては、卒業間近の自校の生徒がこんな不祥事を起こしたという事実は、立場的にも一人の男としても許せない出来事なのだろう。 「─────わかりました。私もその場に参加して証言致しましょう」 その言葉に慌てふためく志郎を前に、綾乃は毅然とした態度で前を向いた。 それに続くように母親も二人の後ろで同じように頭を下げる。先ほどまで目元にたまっていた涙が、床にポロリとこぼれた。 「いくら受験前で不安定だったからと言って、お若い女性、それもさんざんお世話になっていた先生に一生消えない傷を負わせるような真似をできることなら、この馬鹿者をこの手で葬ってから切腹して償いたいところです……!」 「綾乃さん…」 反対側からも続く声に、綾乃はゆっくり首を横に振る。 「いいえ。そういうことではなく、これは私がよく考えて決めたことです。結局は無事に済んだことですし、一時の気の迷いのせいで若者の可能性の芽を摘むようなことはしたくないんです。これで反省して心を入れ替えてくれるならよし、それでも変われなくて誰かに迷惑をかけるような人間になってしまったら ……その時は仕方ないと思いますが」 「─────いえっ いえっ 二度と…誰かを傷つけるような真似は…っ しません、もう二度とっ 僕は…どうかしていたんですっ!!」 「…はい」 「─────わかりました」 「それはそうと染井先生」 「あちっ あちっ」 「え〜と…それは」 しどろもどろになりながら説明しようとしたところで、それを制するように綾乃の前で軽く手を上げた志郎が、真剣な表情で立ち上がった。 「……そのことに関しては、私のほうから説明させていただきます。皆さまもうお気付きになられているでしょうが、私、風間志郎はここにいる染井綾乃さんと結婚を前提としたおつきあいをさせていただいております」 綾乃は顔がカーッと紅潮していくのを自覚した。改めて言われると、めちゃくちゃ恥ずかしい。人生初の経験だからだろうか。それとも志郎がいつになく凛々しく見えるからだろうか。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる気がする。 「やはり…!」 「まあ…! 大変なことがあったけどおめでたいわ、お式はいつ頃に?」 「それはまだ…何しろお互いの家族にも挨拶していない段階でして」 たはは…と志郎が笑う。 「あ、できればそうさせていただきたいと思っております」 完全に祝福ムードに塗り替えられたこの場で、二人の男たちが何を考えているのか。志郎も綾乃も、この時はまったく気付いてはいなかった──────。 |
2018.3.3up
雨降って地固まる。
トラブルの末についに公表されたふたりの関係。
二人の男はいま、いったい何を思う……?
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