〔9〕





 年も明け、教職員は少しずつ学校で業務に入り始めた頃の夕方。保健室は、ある程度予想していた来客を迎えていた。

「先生。ちょっと、お話いいですか─────?」

 彼はこの年受験を控えた三年生で、冬休みに入る前から時折保健室を訪れては不安を吐露していた生徒だった。綾乃の印象としては、担任から聞いた話と合わせても実力は十分あると思うのに、その繊細さから自信を持ちきれずにいる状態だったので、気にかけている生徒の一人だった。

「どうぞ。いまお茶を淹れるからゆっくりしていって」

 そう言いながら自分一人しかいなかった室内へと招き入れる。この後何が起こるかなどまったく予想もしないままで。

「本格的に寒くなってきたわね。風邪なんてひいてない?」

「それは気をつけてますから

 そう言いながら口元からマスクを外した彼は、受験へのプレッシャーからか多少の緊張をはらんでいるように見えた。この時期は誰もがそうなるものだとわかっているから、綾乃はとくに気にしていなかったが、後で思えばそれは思っていたのとは違うものだったのだ。

「少し…日射しが眩しいので、カーテンを閉めてもいいですか? 少々寝不足なもので」

「どうぞ。でもこの時期になったらもう夜更かしはダメよ。いまさらじたばたしてももうどうしようもないんだから、とにかく体調管理を最優先にして……

 生徒に背を向けていた綾乃は、背後から急に拘束されて、驚きのあまり手にしていた茶筒から力が抜けてしまい、蓋を開けずにいた茶筒が床に落ちてそのままころころと転がっていく。

「え……

 抱きすくめられていると気付いたのは、その一瞬の後のこと。

「先生…俺、不安で仕方がないんです。だからどうか…少しの間だけでいいから忘れさせてください」

 その真意を正確に理解した瞬間、綾乃は即座に全身に力を込めた。けれどがっしりと綾乃の身体を抱き締めた彼の身体はびくともしない。彼はこんな時にこんな冗談を言うような人間ではないとよく知っているからこそ、綾乃も素早く対応しようとしたのだが、初めからそのつもりでいた男の力に女の身で抗えるはずもない。それでも身体に力を入れたまま拘束を解こうとしながらも、首をできるだけ動かさず視線を出入り口に走らせるが、まったく気付かないうちに引き戸の扉を中からロックされており、室外からやってくる誰かに期待することもできない。やはり彼は初めからそのつもりだったようだ。

「悪ふざけもいい加減になさい…」

 そう告げる最中に綾乃の身体はベッドに勢いよく押し倒され、しょせん学校の備品である安物────といっても私立なので公立のそれよりは多少質のいいものではあるが─────のそれが軋んだ音を立てる。その隙に悲鳴を上げようとするが、彼の大きい手が綾乃の口を塞ぐほうが早かった。

「先生、騒がないでくださいよ。痛い目にあわせるつもりなんかこれっぽっちもないんですから。ただ、一度だけでいいんです。ずっと憧れてた先生とそういうことができたら、僕は安心して眠れそうな気がするんです。だから」

 だから、自分のためにこの身を差し出せと言うのか、冗談ではない!

「むーっ!」

 力の限り抵抗を試みるが、さすがに高校卒業間近の若者の力にはかなわない。気がついた時には両手首を捕らえられ、片手で軽々と頭上のシーツの上に押さえつけられていた。口元はもう片手で塞がれたままだ。これでは声を出すこともかなわない。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 男の力が女の力を上回っていることなど、性別の上でも職業柄でもとうに承知している。けれど、こんなにも強引にこちらの意思を無視して蹂躙されそうになったことなどない。言葉さえも封じられたいま、綾乃に抵抗するすべなどないに等しい。いまはまだ冬休みで、生徒たちはもちろんのこと、教職員でさえ満足に揃ってはいないこの状況で、保健室を訪れる者などそういるはずもない。夕方も近く、部活動の生徒たちとてもう帰宅の途についているだろう時刻だ。

 一瞬にして状況を察知した綾乃の内心を見抜いているのか、声を出すのをやめた綾乃の口を覆っていた手を外し、彼が笑う。

「そうです、最初からそうやって静かにしてくれていれば、僕も必要以上に手荒な真似をしないで済んだんですよ」

 にやあと嫌な笑みを浮かべた男の手が綾乃の胸元に伸びる。服を掴むや否や、無理な力を加えられた生地が嫌な音を立てて引き裂かれた。

!!

 丸見えになった下着を隠したいのに、手首を押さえる手はびくともしない。そんな綾乃を見て、彼はさらに笑みを深める。

「…自分が何をしているかわかっているの? れっきとした犯罪よ、これは」

 双眸に怒りの炎を燃やし、厳しい声で告げるが相手は少しも動じた様子を見せない。

「わかっていますよ。ただほんの少し、先生と夢のような時間を共にしたいだけです」

 こちらからすれば悪夢としかいいようのないことになりかけているのに、ふざけたことをぬかすものだと綾乃は思う。

「先生だってまだ若いのに特定の相手もいないって噂だし、たまには若い男と遊ぶのもまんざらでもないでしょう…?」

 また噂か! 以前にも噂や聞きかじりの事実から勝手な勘違いをした生徒に踊らされ、暴走した志郎に誤解されてえらい目にあったというのに。ああ思い出すだけでも腹が立つ。

 あの時の怒りに再び心を支配されかけた綾乃は、首筋に走ったおぞましい感触で我に返った。見ると、自分の首元から男が舌舐めずりをしながら顔を上げる姿が目に入った。首筋を舐められたのだと気付いた瞬間、全身に怖気が走る。

「先生の肌は、甘いですね」

「──────っ!」

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!

 志郎に舐められた時は、一度たりともそんな風に思ったことはなかったのに。そう思い返した瞬間、志郎と目の前の男との違いがわかった気がした。

「は…なしてっ 触らないで!」

 突然暴れ出した綾乃に驚いたのか、男の腕の力が緩んだ一瞬を綾乃は見逃さなかった。

「女をバカにするのも…いい加減にしなさいっ!!

 思いっきり足を振り上げて、その股間に蹴りを命中させる。完全には入らなかったものの多少のダメージは与えられたらしく、男が己の股間を咄嗟に手で押さえようとした隙に勢いよく起き上がり、出入り口へとまっすぐ走る。しかし、あと1、2センチというところでがくんと動きを止められてしまった。痛みを堪えて追ってきたらしい男の手に再び押さえ込まれてしまったからだ。

!!

そう簡単に…逃がすと思いますか?」

 こっちだってそう簡単にやられはしない。そう思いながら、必死に男の手から逃がれようともがく。あと少しなのに、諦めてたまるものか!

 そんな綾乃の祈りが通じたのか、近くの廊下を歩く誰かの足音が聞こえたのは次の瞬間のこと。

「!」

 近くにあった椅子を蹴り飛ばし、ドミノ倒しのように連鎖反応で他のものを倒して、派手な音を立てる。

「…染井先生? どうかなさいました?」

 聞こえてくるのは年輩の女性の声。綾乃に声を出させないように口元を押さえつけた男の手に力がより加わる。

「んーっ!」

「染井先生?」

 ここまできて諦めてなるものか。咄嗟に自由な方の腕で背後の男に肘打ちをお見舞いする。

「ぐっ」

 これにはさすがに男も怯んだようで、綾乃の全身が一瞬解放される。

「──────助けてっ!!

 誰でもいいから、お願いだから。

 けれどそれだけ叫んで鍵を開ける前に、またしても男に拘束される。男のほうもここで見つかれば身の破滅だ、その力はこれまでの比ではなく強い。

「染井先生っ!? どうしたんですか、何かあったんですか!?

 お願い、早く誰か人を呼んできて。

 そう願う綾乃の耳に届いたのは、信じられない声。

「どうかしたんですか?」

「あっ 風間先生、染井先生に何かあったらしいの、だけど中から鍵がかかっていて!」

「! 綾乃さん!?

 言うが早いか力ずくで戸を開けようとする激しい音。背後の男が狼狽する気配が伝わってくる。やがて大きくなっていく戸を開けようとする音。

!!

 騒ぎに気付いて駆けつけてきた他の者たちの声も入り乱れ、やがて体当たりで破壊されて室内に倒れてくる扉。中に入り込んできた複数の目に晒される、服を引き裂かれ押さえ込まれている綾乃の姿とその加害者の姿──────!!

「て…めえええっ!!

 烈火の如く怒りをはらんだ志郎の怒号に、背後の男が悲鳴を上げて綾乃の身体から手を離した。綾乃の脚から力が抜けてへたり込むのと、志郎の拳が男の顔面にめり込むのはほぼ同時のことだった。手早くジャージの上衣を脱ぎ捨てた志郎が、小声で「着てて」と言いながらそれを寄越してくれる。とりあえずそれで胸元を覆ったところで、背後から聞こえてくる声。

「てめえ綾乃さんに何をしたっ 言ってみろ!」

 その間にも志郎の容赦のない拳は男の顔面や腹部に叩きつけられ、男が苦悶の声を上げる。

「ダメです風間先生、それ以上はっ!」

「落ち着いてくださいっ!!

 戸を破るのに手伝ってくれたらしい嘉月や大輔が止めようとするが、志郎の怒りは凄まじく、男性二人がかりでも止まりそうにない。相手の男は恐怖からか既に戦意も逃走の意思もないのは明らかだ。このままでは、志郎が人を殺してしまうかも知れないと思った綾乃は、考えるより先に震える脚を叱咤して立ち上がり、その足を前に進めた。

「ダメ…それ以上はダメっ!!

 後先のことなど何も考えずに志郎の背後から身体の前面に両腕を伸ばす。志郎の身体がびくりと反応した気がした。

「私は大丈夫だから……もう、やめて、志郎くん───────

 周辺の人間が目を見開いて驚くのも構わずに、その名を呼んで、力の限り志郎の身体に縋りつく。綾乃の声が届いたのか、志郎の振り上げた拳がゆっくり下がっていくのを見届けた綾乃の脚から再び力が抜けていく。それに驚いたらしい志郎が慌てて振り返って倒れかけた綾乃の身体を支えてくれる。そしてジャージを手離していて破れた服が露わになったままの胸元を見て、またギョッとしたような顔をして

「あ、あれ、ジャージは!? あっ 佐々木先生、そこに落ちてるジャージ取ってくださいっ でも細い目でごまかしきくからってこっそり綾乃さんの胸元は見ちゃダメですよっ!?

「はいはい、見ませんよってどさくさにまぎれて人が気にしてる目のことをよくもまあボロクソに言ってくれますね」

「あ、いやー、その」

 よかった、と思う。志郎が来てくれて。綾乃の言葉で止まってくれて。ほんとうによかったと思う。

「はい綾乃さん、こっちに腕を通して」

「あ、待って、この白衣は脱いでしまったほうがいいから…

 白衣を脱いでからジャージを羽織り、首元まできっちりファスナーを上げたところでかけられる声。

「…染井先生も大丈夫そうでしたら、理事長や校長、『彼』のご両親もお呼びして、きちんと話し合いの場を設けたいと思うのですが ……

 気を失っているようでほとんど動かない『彼』─────言わずと知れた、今回の加害者のことだ────を苦々しい目で見ながら嘉月が言った。学園上層部の一族に属する彼にとっては、卒業間近の自校の生徒がこんな不祥事を起こしたという事実は、立場的にも一人の男としても許せない出来事なのだろう。

「─────わかりました。私もその場に参加して証言致しましょう」

 その言葉に慌てふためく志郎を前に、綾乃は毅然とした態度で前を向いた。




                  *      *




 それから二時間後。例の彼の両親、と当人、その場に居合わせた面子や志郎、更に綾乃本人と理事長、校長も呼び出され、さすがに他の部屋ではこの人数はきついということで、会議室に集まっていた。両親に挟まれるように椅子に座る彼は青ざめた表情で俯いている。だがそれは、彼の両親も同じことだった。


「このたびは…

 口火を切ったのは彼の父親だった。椅子から立ち上がり、机の反対側にいた綾乃の側に来てから、その場で腕を掴んで連れてきていた息子の頭を押さえつけて床に僅かな躊躇いすらなく土下座をしてみせた。

「私たちの愚息がとんでもないご迷惑をおかけして、ほんとうに申し訳ありませんでした!!

 それに続くように母親も二人の後ろで同じように頭を下げる。先ほどまで目元にたまっていた涙が、床にポロリとこぼれた。

「いくら受験前で不安定だったからと言って、お若い女性、それもさんざんお世話になっていた先生に一生消えない傷を負わせるような真似をできることなら、この馬鹿者をこの手で葬ってから切腹して償いたいところです……!」

 その厳粛そうな男性はほんとうにそう思っているのだろう。固い声の中に嘘偽りを言っているような響きはまったく感じられない。それがわかったからこそ綾乃は隣に座る志郎の後ろで立ち上がり、声をかける。

「いえ…どうかお顔を上げてください。幸いにも未遂で済みましたし、被害もせいぜい上半身の服だけですし」

「いえっ お若い未婚の女性にそんなことをしただけでも許されないことですっ どれほど恐ろしい思いをさせてしまったのかと考えるとっ」

 同じ女性だからか母親が涙ながらに訴える。

「とにかく、どうぞお座りになってください。でないとお話を始められません」

「染井先生の言われるとおりです。どうか一度席にお戻りになって落ち着いてください」

 校長の言葉に我に返ったのか、二人は息子を伴って席に戻る。

「とにかくお茶をお飲みになって落ち着いてください」

 最初に保健室に駆けつけてくれた年輩の女性教諭が茶を運んできてくれたので、皆で茶を飲んで一息つくこととなった。先刻までともすれば身体が震えそうだったけれど、温かいお茶を飲んでほうと息をつくと、目に見えて緊張が解けていく気がする。

「綾乃さん

 隣で小声で声をかけてくる志郎にそっと微笑んでみせる。

「あー…それでですな。被害者当人である染井先生としては、どういう処遇をお望みに? 場合によっては警察に被害届を、ということもこちらでは考えておりますが」

 被害届という言葉を耳にした瞬間、彼の身体がびくりと大きく震えた。冷静になったとたん、みずからの犯しかけた罪の重さをいまさらながらに実感したのだろう。それを横目で見てから、綾乃は校長と理事長をまっすぐ見据えて口を開いた。

「……私としましては、今回の件はこの場から外へは漏らさないでいただきたいと思っております」

「綾乃さんっ!?

 隣で志郎が驚きに満ちた叫びを上げる。

「まさか俺が傷害の罪に問われるからかも知れないからっスか!? そんなこと気にしないでいいんスよ、綾乃さんを守るためなら俺はどうなったって…

「そうです、すべてうちの愚息が招いたこと、殴られても当然のことをしたのですから遠慮なさらず届けを…っ」

 反対側からも続く声に、綾乃はゆっくり首を横に振る。

「いいえ。そういうことではなく、これは私がよく考えて決めたことです。結局は無事に済んだことですし、一時の気の迷いのせいで若者の可能性の芽を摘むようなことはしたくないんです。これで反省して心を入れ替えてくれるならよし、それでも変われなくて誰かに迷惑をかけるような人間になってしまったら ……その時は仕方ないと思いますが」

─────いえっ いえっ 二度と…誰かを傷つけるような真似は…っ しません、もう二度とっ 僕は…どうかしていたんですっ!!

 絞り出すような声で言ってから、彼は机に突っ伏して大声で泣き出した。

「これまでの一年間、私はずっと彼の相談を受けていました。だから、彼がほんとうはどういう人間かわかっているつもりです。それから、受験へのプレッシャーがどれほどのものかもよく知っているつもりです。だから」

「う、むう

 校長や理事長は難しい顔をして黙り込んでしまった。彼らにとっては綾乃の言いたいことも倫理的な問題としてもよくわかっているからこそ、判断に悩むのだろう。

「……ほんとうに…それでよろしいんですか …?」

 問うてきたのは嘉月。同僚教師としての言葉というより、学園上層部一族の人間としての言葉だろう。

「…はい」

 虚勢も偽りもない、本心からの言葉で答えを返す。

「─────わかりました」

 ため息─────といっても安堵のそれに近いものをこぼし、嘉月は理事長と校長を振り返る。

「……染井先生ご自身がそうおっしゃるのなら…………

 そうして、話し合いはお開きとなり、彼は両親と共に何度も謝罪の言葉を繰り返して帰っていった。後には、校長と理事長、嘉月と大輔に年輩の女教師、そして綾乃と志郎が残される。

「それはそうと染井先生」

 おかわりの茶を受け取ったところでかけられる校長の声。

「はい?」

「風間先生とのご関係をうかがってもよろしいでしょうか?」

 次の瞬間、隣で茶をすすっていた志郎が吹き出した。

「あちっ あちっ」

「志郎くん、大丈夫っ!?

 志郎にハンカチを渡しながら、咄嗟に出た自分の言葉にハッとする。そういえば、志郎もそうだが自分自身も保健室で志郎を止めるために嘉月や大輔の前でプライベートの時のように名前で呼んでしまっていたことを思い出す。

「え〜と…それは」

 しどろもどろになりながら説明しようとしたところで、それを制するように綾乃の前で軽く手を上げた志郎が、真剣な表情で立ち上がった。

「……そのことに関しては、私のほうから説明させていただきます。皆さまもうお気付きになられているでしょうが、私、風間志郎はここにいる染井綾乃さんと結婚を前提としたおつきあいをさせていただいております」

 綾乃は顔がカーッと紅潮していくのを自覚した。改めて言われると、めちゃくちゃ恥ずかしい。人生初の経験だからだろうか。それとも志郎がいつになく凛々しく見えるからだろうか。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる気がする。

「やはり…!」

「まあ…! 大変なことがあったけどおめでたいわ、お式はいつ頃に?」

「それはまだ…何しろお互いの家族にも挨拶していない段階でして」

 たはは…と志郎が笑う。

「いや、これはめでたい。染井先生はご結婚後もこのお仕事をお続けに?」

「あ、できればそうさせていただきたいと思っております」

 完全に祝福ムードに塗り替えられたこの場で、二人の男たちが何を考えているのか。志郎も綾乃も、この時はまったく気付いてはいなかった──────




      





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2018.3.3up

雨降って地固まる。
トラブルの末についに公表されたふたりの関係。
二人の男はいま、いったい何を思う……?



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