〔3〕





 放課後。

普通の教師ならとりあえず一息つける時間帯であるが、養護教諭である綾乃にとっては、ここからが第二ラウンドといっていい。

「せんせーっ!」

 ガラリと開けられる、保健室の戸。

「はい、怪我? それとも誰か倒れでもした?」

 椅子から立ち上がった綾乃に、先導で来たらしいジャージ姿の男子生徒が後ろを振り返る。少し離れたところから、聞こえてくる「わっせ、わっせ」という掛け声。

「俺たちじゃなくて…顧問のせんせーなんスけど」

 体格のいい男子生徒数人に人間御輿状態で運ばれてきたのは、朝と変わらぬジャージ姿の志郎。「またか」と半ば反射的に綾乃は思う。

「また、ですか? 風間先生」

「『もっと気合い入れてけーっ』って、ボールキープしてる俺らのとこに突っ込んできて…」

「はい、大体わかるから、全部言わなくてもいいわ。そこの椅子に下ろして、あなたたちは部活に戻りなさい」

「はーい、あとは頼んますー」

「せんせのお守りよろしく!」

 『お守り』とは、よく言ったものだ。指導への熱意があり余ってるのか知らないが、志郎はこうやって生徒に交じってプレーをしては、高確率で怪我をしてはこの保健室に生徒たちによって運ばれてくる。二十代も半ばに入ったことだし、いい加減落ち着いてもらいたいものだが。当のサッカー部のほうは、志郎が乱入しないで主将が仕切っている時のほうがスムーズに練習が進んでいるように見えるのは、決して綾乃の気のせいではないだろう。

「まったく…今日は、どこを怪我したんですか?」

 呆れた表情を隠しもせずに言ってやると、志郎が恐る恐るといった体で下のジャージの左側をたくし上げて、膝の部分を見せてくる。

「膝を擦りむくなんて、どこの小学生ですか、まったく…」

 その程度の傷は昔から日常茶飯事のようで、志郎の腕や脚には大なり小なり数え切れないほどの傷跡が残っている。まあ、腕や脚以外にもあることは、不本意にも昨日までの週末で存分に知ってしまった訳だけれど。

 志郎を椅子に座らせた状態で、綾乃は床に膝をついて傷を診る。この程度なら、絆創膏かでなければガーゼで十分だろう。そう思ったとたん、頭上から降ってくる声。

「あー、しまった」

「は? どうかしましたか?」

「首のあたりに跡つけまくっちまったら、こういう時に上から谷間を見下ろす楽しみがなくなっちまうな、なーんて」

「…っ!」

 そういえば、以前から屈み込んで志郎の脚のあたりを手当てしている時、ふと視線を感じて顔を上げると志郎が不自然な様子で顔をそむけることがよくあったけれど……あれは、そういうことだったのか!

「学内でセクハラはやめていただけます!?

「いまはもうセクハラじゃないでしょー、だって俺たちもう、れっきとしたこ…」

 志郎が全部言い終わる前に、ピンセットでつまんだ消毒液を含ませた綿で、傷口を思いきりこすってやる。本来なら傷口を洗うほうが先だろうが、幸か不幸かジャージの下であったおかげでほとんど汚れていなかったのだ。

「うぎゃおあえっ!!

「あらごめんなさい、しみました〜?」

 にっこりにこにこ。学内でそんなことを口走られてたまるものか。

「ひどいなあ、あや…」

「もう一度消毒しときます〜?」

「いえっ もう結構ですっっ」

 まったく。一度で懲りてほしいものだ。あれほど学校内ではいままで通り振る舞うことを約束したというのに。そんなことを思いながら、今度は穏やかに薬を塗って大きめの絆創膏を貼っているところで、保健室の外側から聞こえてくる話し声。

「失礼します、うちの部員が指を切ってしまったので、手当てをお願いします」

 家庭部の顧問をしている遥子だった。その隣には、彼女に肩に手を置かれた女子生徒。エプロンと三角巾をしているところから見て、今日は調理の実習だったのだろう。

「はい、こちらにどうぞ。包丁で切ってしまったの?」

「はい、大したことはないと思ったんですけど、血が止まらなくて」

 遥子と違い、普通に接してくれる女生徒にホッとしながら後ろを振り返ると、いままで座っていた椅子から慌ててどく志郎の姿が目に入った。

「俺のほうは終わったんで、ここに座ったらいいよ」

「ありがとうございます、風間先生」

 女生徒と共に礼を述べた次の瞬間、背後から聞こえてくる軽視の響きを隠そうともしない声。

「あら、風間先生、またお怪我なさったんですの? 教師としても顧問としても、ちょっと落ち着きが足りないのではありませんこと?」

「!」

 これにはさすがの綾乃もムッときた。当の志郎は「面目ない」と言いながら苦笑いを浮かべてみずからの後頭部をかいているが、いくら後輩にあたる相手だからといって、言っていいことと悪いことが────まあこの場合言われても仕方のないことだと綾乃も思うが、言い方というものがあるだろう!

 むかむかする気持ちを懸命にこらえ、生徒には何の罪もないのだからと、冷静かつ丁寧に手当てを続ける。あんな指導者の元で、よくもまあこんなまっすぐな生徒になったものだ。それだけ、遥子よりも生徒のほうが大人なのだろうと思って、何とか溜飲を下げることにする。そんな時だった。

「失礼します。染井先生、いらっしゃいますか」

 ノックの音と共に入ってきたのは、誰でもない遥子の想い人である嘉月だった。とたんに遥子の表情が、志郎に向けていたものとは段違いの、フェロモン全開の媚びるような笑みに変わった。

「あら島谷先生、どうなさったんですの?」

「あ、いえ…顧問の峰岸先生の代わりに剣道部の稽古を見ていたんですが、なかなか筋のいい生徒がいて小手を避けきれなくて軽く擦りむいてしまったので、絆創膏でもいただければと…」

 あんなにもあからさまな遥子の変わり身を目の当たりにしながらも、丁寧に答える嘉月の律義さには頭が下がる思いだ。もし綾乃が嘉月の立場だったなら、たとえ先輩であろうと素っ気なく対応してやりたいところだったに違いない。

「あら、でしたら染井先生はお忙しいようですし、私が代わりにお貼りしますわ」

 ああもう、鬱陶しいことこの上ない。遥子が心配すべきなのは、嘉月よりよっぽどひどい怪我をした自分の生徒のほうだろうが!

「いえ、穂村先生のお手を煩わせるほどではありません」

「そんな、ご遠慮なさらず…」

 あまりに目にあまるので、綾乃が一言言ってやろうと思ったその時、またしても戸の向こうから賑やかな人声が聞こえてきた。

「せんせー、急患っスー」

 三年生の、黒田真也(くろだしんや)という名の生徒だった。その後ろから、両脇から長い髪の女生徒二人に支えられたショートカットの少女が連れられてきた。三年生はもう部活も引退したはずだというのに、彼女一人だけジャージを羽織っている。自主トレでもしていたのだろうか?

「黒田が抱えてきてやれば、あんなか弱い女の子たちが大変な思いをしないで済んだんじゃないのか?」

 志郎の指摘はもっともである。まだ十七、八歳の少年とはいえ、あのような平均的な細さの少女一人なら十分抱えられたに違いない。が、真也は少々困ったような苦笑いを浮かべて、綾乃や志郎くらいにしか聞こえないような音量の声で答える。

「あー…俺がそれやると、すっげー怖いヤツがいるんスよ。気絶とかしちゃうような緊急事態なら、とっととそうしちまったんですけどね」

 真也の言葉に、少女たちのほうを見た綾乃は、心の底から納得してしまった。連れてこられてきた少女────佐々木小夏(ささきこなつ)という名の、体操部所属の少女である────を支えていた少女の一人は、いまどき珍しくストレートの黒髪を綺麗に切り揃えた和風の美少女、早田圭(そうだけい)であったから。真也とは周囲でも公認の恋人同士で、更に言うととてつもないヤキモチ焼きという、学校内でも有名な少女であったから。それでは仕方がないなと誰もが思わざるを得ない。

 そして、もう一人─────。やはり長い黒髪を女の子らしくまとめた、清楚な美少女────津川美月(つがわみつき)という名の少女がそこにいた。ショートカットで健康的で、一見少年のようにも見えるが、他の生徒より発育がよろしく大人に負けないほどの色香を感じさせる小夏も加えて、三人揃って有名な少女たちなのだ。

 もっとも美月の場合、有名なのはそれだけが理由ではないのだけど。先に語った通り、この学園を作った二つの資産家の片方の当主の孫娘が、彼女なのである。だから彼女は、嘉月と同じく学園長を父に持つ存在ということになる。

「痛むのは足首? じゃあこちらのベッドに腰掛けたほうがいいわね」

「大変そうだな、手を貸そう」

 そう言って、美月の手から小夏を支えるのを代わったのは、一番近くにいた嘉月だった。

「あ…ありがとうございます……」

 美月はそう言って俯いてしまって、表情は見えなくなってしまった。けれど、綾乃は知っていた。美月が、秘かに嘉月を慕っているということを。美月本人からはっきり相手の名を聞いたことはないが、美月が話した断片やその他から入ってきた情報とを照らし合わせると、そうとしか思えないのだ。そして嘉月も、綾乃の目から見ても美月を憎からず思っているだろうことが見て取れる。

 そうなると、恐ろしいのは遥子の反応というもので…。

「穂村先生、こちらの子の手当ては終わりました。新たな怪我人も来てしまったので、申し訳ありませんけどお引き取り願えますか」

 できるだけ穏やかに言ったのだが、遥子は般若面にならないのが不思議なくらいの刺々しい空気をまとって、「わかりました。お世話になりました」と告げた。自分の連れてきた生徒と共に、そのままおとなしくこの場から去ってくれればと願っていたのだが、女の勘というべきか何というか、やはり美月にはただならぬ敵意を抱いているらしい。あまり強くではなかったが、とんっと軽く音を立てて美月の肩にみずからのそれを当てるのを、綾乃は確かに見た。ぶつからずにすれ違うには十分なスペースがあったというのに、だ。

「あらごめんなさい」

 とても本気でそう思っているとは思えない口ぶりというおまけ付きだ。あれでは、美月のような性格の少女では完全に委縮してしまうだろう。案の定、どうしていいのかわからないと言いたげな、苦悩に彩られた表情を見せている美月に、綾乃は小さくため息をついた。

「うひゃ〜、女っておっかねー」

 同じようにそれを見ていたらしい真也が小さく呟くのに、志郎は無言で頷いている。嘉月は気付いているのかいないのか、感情の読みとれない様子だ。

 まったく。まだ高校生の女の子に嫉妬して八つ当たりするなんて、大人げのなさも極致よね。

 そう思いつつため息をついて、小夏が座らせられたベッドへと向かう。

「あなたたち三年生はもう部活は引退したのよね、自主トレでもしていたの?」

 確か小夏は県内の体育大学の推薦をもらったと聞いた気がするが────小夏本人でなく、小夏の保護者と言ってもいい相手からの情報だが。

「そうなんです、身体を鈍らせちゃいけないと思って、久しぶりに部活に参加させてもらったら、しくじっちゃって」

 やっぱり人間、運動をサボっちゃいけませんよねーと小夏はあっけらかんと笑う。

「見た感じはとくに異常なさそうだけど…あ、津川さん、あなた前に保健委員やってたから絆創膏のある場所知ってるわよね。私ちょっとこっちを診てるから、島谷先生の手首に貼ってあげて。必要があるようだったら消毒もね」

「えっ!?

 慌てふためいた美月の声に、かぶさる嘉月の声。

「い、いえ、私は自分で貼れますので…っ」

「片手で手首にうまく貼れますかっての。津川さん、お願いね」

「は、はいっ」

 綾乃は振り返らなかったが、背後で美月が言われた通りに動く気配がしたので、ホッとする。あんな女狐に嫌な思いをさせられたのだ、それぐらいの役得を与えてあげてもバチはあたらないだろう。美月のことは彼女が一年生の頃からよく知っているが、学園上層部の関係者という欲目を差し引いても、応援したくなる控えめで可愛らしい少女なのだ。

 そして綾乃自身は、小夏の診察に専念する。

「こうしたら痛い?」

「痛いです〜」

「こうは?」

「それはそうでもないかな」

 よかった、骨には異常はなさそうだ。

「多分、ただの捻挫だと思うんだけど…湿布貼っておくから、もし痛みがいつまでも続いたり腫れてきだしたりしたら、すぐに病院に行くこと。わかった?」

「はい」

 小夏が素直に返事をした直後、響き渡るノックの音。

「染井先生、佐々木ですが妹がこちらに連れてこられたと聞きまして……」

 落ち着きを宿した、低い男性の声。

「ああ、ちょうどよかった。どうぞお入りください、いま手当てが終わったところです」

 綾乃が答えたとたん、開けられる戸。スーツ姿の細身の男性がそこには立っていた。身長は平均より少し高めで、身体つきは細めではあるがそれなりに気をつけているらしく、均整のとれた体躯の男性だ。切れ長の目はやや細めで、二重でぱっちりとした瞳の小夏とはあまり似ていないが、れっきとした彼女の兄の佐々木大輔(ささきだいすけ)という名の人物だった、志郎や嘉月と同じく、この学園の高等部で数学教師を務めている独身男性で、年齢は確か二十八歳ほどだっただろうか。

「おや、千客万来ですね、今日は。…小夏、足をどうかしたって? 大丈夫か?」

 まっすぐに小夏の元へやってきて問いかける。数学教師だからか普段は冷静で理知的で、妹相手といえど学内では決して公私混同をしない彼だが、よほど妹のことが心配だったのだろう。何となく微笑ましいものを感じて、綾乃は口元に笑みを浮かべる。

「大丈夫よ、湿布してもらったら痛みも少しずつ引いてきたし。ちょっと捻っただけだから」

「でもその脚では歩くのは辛いだろう。もう少し待ってられるか? 車に乗せてってやるから。やりかけの仕事を片付けてきてからになってしまうが」

「うん大丈夫〜。あ、そうだ、あたし部室に着替えとか荷物置きっ放しだー」

「あ、小夏ちゃん、私が持ってくるわよ」

 そこにかけられる美月の声。

「そう? 何か色々とごめんね、ありがとうー。あ、おにい、美月と圭と黒田がここまで連れてきてくれたの、みんなありがとねー、こんなに付き合わせちゃって」

「あ、いや、他の二人はともかく、俺はほとんど何もしてねーよ」

「そんなことないよー」

「そうだな、受験生なのについててくれただけでもありがたいよ。ほんとうにありがとうな、三人とも」

「どう致しまして」

 美月と圭、そして恐縮しまくっている真也に大輔が礼を言っている間に、すいと出入り口のほうに向かって歩き始める嘉月の姿があった。

「私のほうも、手当てが済みましたので戻ります。どうもお世話になりました。ありがとうな、津川」

「い、いえ、私は大したことしてませんのでっっ」

 顔を真っ赤にして答える美月があまりに可愛らしくて、つい笑みがこぼれそうになる綾乃の横で、やはり微笑ましいものを見るかのように目を細める大輔の姿。彼も、ふたりの様子から何かを感じ取っているのだろうか?

 それから小夏以外の皆が一斉に出ていってしまったので────志郎と嘉月は再び部活の指導、大輔は残りの仕事を片付けに、美月、圭、真也は小夏と自分たちの荷物を取りに行ってくるためとそのまま帰宅組に別れるために、だ────保健室はあっという間に元の静けさを取り戻していった……。





    





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2014.1.27up

恐らく主要キャラはほぼ出せたことと思います。
綾乃と志郎、美月と嘉月はこれからどうなっていくのか。
そして遥子の嫉妬の炎はどこまで燃え盛るのか(汗)


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